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86 人類は太古の昔から、帰りが遅いと心配してくれる人を必要としている

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 帰って早々、クラースさんは仕事仕事の怒涛の日々を送っていた。

 彼が作った化粧品。お値段以上の効果があると街で評判になり、それが領主の奥様の耳に入り、さらにそれが王都にいる貴族の間で話題になり。

 ポッと出の魔術薬店など、普段は貴族に見向きされることなどない。しかし知る人ぞ知る、というところに高貴な人が欲しがりがちな特別感、玄人好み感を刺激した。

 もっと高価で品質の良い、魔術製化粧品は色々存在するらしい。しかし貴族にだって階級がある。金にシビアだが平民より贅沢ができる、下位貴族たちが特に興味を示したのだ。

「おかえりなさい。遅かったですね。帰ってもまだいなかったから、このメモ見るまで落ち着きませんでしたよ」
「ただいまあ。ジルくん、オレ疲れたよー。……明日は予定通りお休みする。絶対に!」

「休みましょう。大変ですね、商品作り。また在庫を買い占められたんですか」
「そうだよー。有り難いことではあるからさ、嬉しいんだけどこんなのずっとは続かないから。新しいものは続々出るし、今だけのことのために生産体制を拡大するつもりはない。オレひとりでやってんだから数量限定を貫き通す。絶対に!」

 絶対に、って二回言ったぞと思いながら、帰って早々俺に抱きついてくる彼をしっかり両手で受け止めた。

 髪の乱れはそのままで、顔色もあまり良くはない。外の気温は暖かいので空腹だからだろうと思うが、目蓋も少し伏せている。

 以前働いていた工房でも、失敗した部下の尻拭いに奔走し続け今のように疲れた姿を見たことがある。そのときは俺に寄りかかってくれたらいいのに、部屋まで運んであげるのにと、あり得ない妄想を膨らませては期待して、それが現実にならなかったことに勝手に失望していたものだ。

 すがるように俺の肩に頭を預けて、甘えるように手を回して身体と身体の隙間を少しでも埋めようとしてくる彼。これが今の現実。

 少しでも何かあれば期待して、失望していた。その気分も長くは続かず、また会えば気持ちが盛り上がりもっと一緒にいたいと想うことに夢中になる。あのときのことを今考えると、もっと上手くやれよ俺、とは思う。

 でもきっと、元から妙な余裕を醸し出しているように見える俺が、さらに余裕を重ねて老成したかのような奴になれば、彼は構ってやろうと思えなかったかもしれない。それは後輩として可愛げがなさそうだ。

「お風呂入りましょう。食事は出てく前に作り置いたのが沢山あるんで、すぐ食べられますよ」
「一緒に入ろー。着替え持ってくるー」

「あ、もう置いてあります。母さんがくれたやつ」
「あの白雲綿で仕立てたやつね。肌触り良くて気に入ってると。ありがとねー」

 クラースさんは出会ったころから一緒に、とよく誘ってくれる人だった。でも俺が必ず付き合うことを期待したり、断ることで文句を言ったり、妙な空気にするような人ではないこともよく知っていた。俺が必ずついて行くから、その必要すらなかったのかもしれないが。

 彼がほんの僅かでも寂しさを感じているかもしれないなんて、一度も考えたことがなかった。そんな素振りがなかったから。今考えると自分のことで精一杯であろう俺に、負荷をかけるようなことをする発想自体なかっただろう。

 俺がくだらない悩みを吐露しても、馬鹿にせず最後まで聞いてくれ、酔っぱらいながらも悩まないための提案を彼は至極真面目にしてくれた。

 その内容は人に左右されない大人の考え方である。彼は正しい。しかしどこか当の本人は、受け入れてもらうこと、寂しさを癒やすこと自体を捨てたようにも見えていた。

「いけ! 水魔術! 悪徳債権者を撲滅せよ!」
「目に入る! ただ水飛ばしてるだけじゃないですか。あーあ、バスタブから溢れちゃった」

「また満杯にしてみない? あれ面白かった。滝みたいで」
「滝って実際見たことあります? 俺、山の方って行ったことない」

「山一周してたら上から見えたんだ。虹がかかって綺麗だったよー」
「遊びのレベルが相変わらず高いですよね。大量の水が落ちるとこかあ」

 大人だよなあ、心に落ち着きがない俺とは違う、と最初は思っていたが、いざ懐に入れてもらうと案外遊び心を持っているし、さっきみたいに甘えてくれるときもある。

 しかし初対面から感じていた安定感は健在なので、俺が甘えることが多いのだが。俺がブツクサ言い出すといつも宥めてくれるというか。なんというか。

「美味しかったー。ごちそうさま。洗い物はオレがやるよ」
「いいですよ、絶対俺より疲れてるから。先に歯磨きして寝てください」

「おー、ありがとね。オレの部屋来るでしょ? 来ない?」
「行くに決まってんじゃないですか。お菓子つまんでないで早く洗面所行ってください」

『笑顔こわーい』と、余計な一言をほおり投げ、パタパタと足音を鳴らしながら彼は退出していった。なぜ考えていることがいつもこう、あっさりバレてしまうのだ。最近できてなかったから正直楽しみで仕方ないのは事実だが。



 帰ってきたときからすでに眠そうだったクラースさんは、一度吐精してすぐに眠ってしまった。俺が起きている方なのは珍しい。

 最初は『お願い』が多かった。灯り消してとか。暗すぎるとか。終わったあとうっとりした顔をして『上手かった』と言われたときは優越感が一瞬頭をもたげたが、そんなはずはないのにと戸惑ったりもした。

 魔術的にも何か理由はあるらしいのだが、『それ言っちゃダメなやつ。故事があるから。オレだけの秘密だよ。死ぬ前なら多分言えるから、オレより長生きするんだよ』と、優しい声で諭された。




 呪術を知り、それを使うようになってからは知っていたはずの世界が変わった。数多くはないが、クラースさんのように街にいる人から気さくに声をかけられるようになっていた。

 まだ慣れないので、俺に話しかけていると気が付かないことがよくある。それでも根気良く声をかけてくる人と、何の用だろうと思いながら話している間に気づく。これは単なるナンパだと。

 定番である『天使』という単語はさすがに誰も使ってこないのだが、『どこの所属だ』とか『帝王』とかはよく言われる。……これは本当に褒めてるつもりなのだろうか? やっぱり何かの勧誘では?

 クラースさんがいなかったら、俺はそれにどう反応して、どう返していたのだろう。適当に恋人を作って、それなりに満足のゆく暮らしをしていたのだろうか。わからない。

 まるで想像ができないのだ。彼を想うあまりに呪力とやらを暴発させたともいえる現象を起こし、彼がいたから間接的にばあちゃんと出会えたし、彼と永く過ごすために力の扱い方を会得してきたから。

 やっぱりちょっと自分で自分が恐ろしい、と思いながらも口の端が勝手に上がる。ずっと眠らせていた才が現れ出て今日までの間、彼の存在が介入しなかったことなど一度もなかったからだ。

 贅沢をしたいわけじゃない。彼に不自由をさせたくないから。それを叶えようと奔走する間に、彼の心の全てが欲しいと俺は明確に思い始めた。

「さっさと告白すりゃ良かった。早くこういうことしたかったし」
「ん~~……、ねむい……ジルくん……」

「もう寝てるでしょ。おやすみなさい」
「んん……、おやす………………」

 お湯で絞ったタオルで全身を清拭する。ぬめり気のある体液が飛んだ腹を優しく拭いてやると、気持ち良さそうに上下している
 滑らかな肌がよく見える。曇り空の目は目蓋に隠され、彼の視界はいま静かな真夜中だろう。

 さっさと告白とはいっても、この人をもし逃したら終わりだとも思っていた。今じゃない、その時じゃない、とじりじり気持ちを煮詰めている間に、彼からサクッと告白をされてしまった。

 やっとこういうことができる権利を会得した、と有頂天だった。顔に出ていたかどうかは定かではないが。

 実際一緒のベッドに入ってみると、頭を何度も殴られるような快感に襲われ続け、達成感や幸福感は確かにあったがそれを圧倒する勢いだった。

 早く射精したいわけじゃないのだ。それはきっと誰とだって出来る。俺は彼と寝たいからこうしている。幸い好きになってくれ、しかも上手いのだと思ってくれたクラースさんは、予想より早い段階で俺に慣れてくれた。そう思う。

 俺を見てくれ。目を閉じないで。どこが気持ち良いのだ。恥ずかしいことはない、誰も見ていないし聞いてもいない。俺だけにそれを教えてくれ。顔が見たいし、あなたの気持ちを知りたいのだ。俺だけが。

 洗脳と言われりゃそうかもしれない。俺は彼の本音を聞くことだけに集中した。いつしか聞いた呪力の秘密。これを使ってどうこうすれば、という考えは気がついたら煙のように消えていた。

 考えたところで忘れてしまう。興奮しきった頭では。見えない心に手を入れて、傷んでいるところはないか、触ると喜ぶところはどこだと毎回探し回ることに躍起になってしまうから。

 こんなに淫乱じゃなかったはず、と彼は言った。それは二人の功績と言えるだろう。肉体と精神を抱く権利を互いに得たことで、強く繋がる私道のような一本線が出来たのだ。

 ここからどこに行けるだろう。点を打ち、想像線を引き、そこ向かって人生を編んでゆく。ひとりでやるのは大変だ。点を見失しなえば、編み方を忘れてしまえば無情にもそれは進まない。過ぎてゆく時間に置き去りにされるだけ。

 でも大丈夫だ。俺がそばにいるのだ。点を見失ってしまっても、編み方を忘れてしまったとしても、ああじゃないかこうじゃないかと言い合って、二人分の力を合わせて進めば良い。


「もうひとりで行かせない。俺がいるからな」


 淡い橙色の灯りの中、健やかな寝息が聞こえる。湯を使い、食べて運動して、色艶の戻った彼の頬に指を滑らせながら、今はひとりで言葉を紡いだ。


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