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三話 執事採用のための試験

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 土曜日は、少し早めにミックス呪酒のマスターのもとを尋ねることにした。

今にも降り出しそうな曇り空であったが、なんとか雨は降らずに持ちこたえていた。夜は極採食の眩しいネオンと、酔っ払い達の喧騒で溢れかえる東門街であるが、まだ朝の八時過ぎである現在は、空の曇天に包まれて眠っているように静かであった。

 スナック“ミックス呪酒”の煌びやかなネオン看板もまた、午前の今は電気が流れておらず、周囲の静けさに同調して眠っていた。

「失礼します」

 乳白色のすりガラスがついた木製の扉を開け、店内へと足を踏み入れた。とても静かで室内照明もついておらず薄暗いためか、普段の胡散臭い場所とは異なって見える。

「あら、早いわね」

 店のカウンターの奥から、和洋中が入り混じった服装のマスターが現れた。

「今日はよろしくお願いします」

 深々ときれいに礼をする僕を見て、マスターは少し驚いたようにまじまじと見つめてきた。

「その恰好してたら、本当に執事みたいだわ。かっこいいじゃない」

 今日の為に、髪はジェルでしっかりと整え、きっちりとアイロンをかけた白のシャツに、ウェストコート、黒のジャケットを羽織り、首元には黒のクロスタイを巻いている。靴もピカピカに磨き、外見はまぁ一端の執事らしくは見えているだろう。

「ありがとうございます。少し早いですが、余裕を持って到着したいと思うので、早めにここを出てもよろしいでしょうか」

 マスターは僕の提案に対し、「まぁそれでもいいわよ」と言った。

「でも、あんたかなり緊張してるわね。そりゃ社会人デビューで、憧れの執事になれるチャンスなのだから、気負う気持ちもわかるけど、社会の先輩としてアドバイスするなら、もっと気楽に構えて置くべきよ」
「そうですかね」

「執事たるもの、常に余裕を持った気品のある立ち振る舞いが大事でしょ? だったら、もっと気を楽に、悠然とした態度でいないとね」
「なるほど、勉強になります」

「軽く一杯やってから面接に行くくらいで丁度いいのよ」

 マスターはそう言って酒を勧めてきたが、さすがにそれは遠慮した。

「雨降りそうだし、タクシー呼んでおいてくれる?」
「もちろん。もう手配してあります」

 わざわざ休日に道案内をかってでてくれたマスターを、北野坂まで歩かせるわけにはいかない。タクシーはチップを払って、既に店前で待ってもらっている。

「おっ、執事っぽいじゃない。っじゃあ、さっそく行きましょうか」

 タクシーに乗り込み、マスターの指示のもとタクシーは北野坂へと向かっていった。

 北野坂には、明治大正にかけて多くの外国人が来航し、外国人居留地となった地区である。西洋建築が多く建設され、今もなお美しい豪邸が数多く立ち並んでいる。

 北野坂には、今までも何度か来たことはあるが、それは観光地となっている風見鶏の館の付近だ。そこから路地を入ると、実際に人が住んでいる西洋建築が多く並んでいた。

「この辺なら、確かに執事を雇っている家もありそうですね」
「まぁ、ここらに住む連中も、結構変わり者が多いけどね。もしどうしても執事として雇ってもらえるところがなかったら、私が雇ってあげてもいいわよ」

 マスターは、突然そんな思いがけない提案をしてきた。変わり者っていったら、あんたもだろうと突っ込みたい気持ちが喉まで出かかったが、それを何とか飲み込んだ。そして確かにマスターはとても親切な人だが、彼を主人として仕えるというイメージは、申し訳ないが全く想像できなかった。

「そうですね……、ありがとうございます」

 あやふやな返事を返し、車窓の景色に目をやった。

 タクシーはどんどん裏路地へと入っていき、北野坂からさらに北へと六甲山の麓に向かって登っていった。山荘が並ぶ険しい山道に入り、ぐねぐねと曲がる山道を進んで行く。道は一応は舗装されているものの、周囲は全くといっていいほど人の気配がしなくなっていた。

「もうすぐつくわよ」

 本当にこんな所にあるのだろうか、と不安そうな僕の心中を察したのか、マスターはそう教えてくれた。

 鬱蒼と生い茂る杉林を抜けると、花崗岩でできた岩肌を露わにした切り立った断崖の上に、怪異城と呼称される、旧ゴッドフリーク邸……現在のドラクリヤ邸は存在していた。

「あれが……ドラクリヤ邸……」

 断崖の上にそびえ立つドラクリヤ邸は、確かに怪異城と呼ばれるのにふさわしい、まがまがしいオーラを醸しだすゴシック建築の屋敷だった。

 タクシーを降りて外の空気を吸うと、湿気を多めに含んだ森の深い香りが肺に広がった。本来それは、自然の心地よいリラックス効果を含むもののはずだが、ほんの少し瘴気を含んでいるようなくぐもった空気であった。

 近くで見ると、ドラクリヤ邸はより一層その禍々しさを放っていた。

 大きな黒い鉄格子の門の先には、鮮やかな緑の芝が見える。しかし、その鮮やかな緑と対照的に、ドラクリヤ邸は薄暗い鬱屈とした屋敷であった。

 今の空と同じく、雨が降り出しそうな灰色の壁に、星も月も無い暗夜のような真っ黒な屋根、その先端は鋭くとんがっており、ケルン大聖堂にも似たゴシック建築である。

「なんか、アダムスファミリーとかが住んでそうな屋敷よね」

 マスターはそんな失礼にあたる言葉を口にしたが、心中では僕も同じような事を考えていた。クリムゾンピークに出てきた幽霊屋敷とまではいかないが、それに近いおどろおどろしい雰囲気だ。

「マスターはこの後、どうしますか?」
「私はここまでで帰るとするわ。下手に屋敷内に足を踏み入れて、幽霊に呪われたり、城に幽閉されたりなんかしちゃったら困るもの」

 マスターは、わざとらしく怖がらせるようなことを口にした。

「そうですか。今日は本当にありがとうございました」
「いいのよ。また面接どうだったかとか、色々おしえてね」

 そう言って、マスターはタクシーに乗り込んだ。帰りの代金を支払うと言ったが、「若いんだから気にしなくていいの」と断られ、マスターを乗せたタクシーは森の中へと消えていった。タクシーが完全に見えなくなってしまうと、急にとても心細い心地がしてきた。子どもの頃に、親とはぐれて迷子になってしまった時に似た感覚である。

 僕は心を落ち着かせようと、大きく深く深呼吸した。身体を流れる血流の音に意識を集中させ、深呼吸を繰り返していると、気休めながらも気分は穏やかになる感じがした。それと同時に、雨の降る前の香りが立ち込めてきているのに気が付いた。雨が降り出す前に、屋敷に入らせてもらった方がよさそうだ。

 鉄格子の門を見渡したが、インターホンらしきものが見当たらない。門には鍵はかかっていなかったため、門を開けて敷地内へと足を踏み入れた。庭には今にも動き出しそうなガーゴイルの黒い置物が並んでいた。苔の生した石畳の上を歩き、赤く塗装された大きな玄関扉の真ん前に立つ。怪異城を真下から見上げると、まるで巨大な化け物がちっぽけな自分を飲み込もうとしているようにも思えた。

 玄関扉には、目を閉じたライオンの顔を模したドアノッカーがついており、ライオンの口に咥えられているリングをボンボンボンと三度ドアに打ち鳴らした。

「何ようですかな?」

 突然、雄々しい声がどこからか聞こえてきた。インターホンのスピーカーでも付いていたのだろうかと見渡しても、それらしき物は見当たらない。きょろきょろとしていると、ドアノッカーのライオンと目が合った。獲物を狙うような鋭い目つきで、じっとこちらを睨んでいた。

「訪問販売ならお引き取りお願いしたいのですが」

 ドアノッカーのライオンが口を開けて喋ったことに思わずぎょっとした。口に咥えているリングを落とさないように、訝し気な表情でこちらを見ている。

「あっ、あの……。執事の求人を見てきた者です」

 目を見開いて驚きながらも、かろうじて冷静さを装い言った。

「おぉ! そうでしたか。それでは中へお入りください」

 ドアノッカーのライオンがそう言うと、重そうな玄関扉はゆっくりとその口を開いた。電力で動く自動ドアなのかと思ったが、開き方がそれらしくない。喋るライオンのドアノッカーといい、魔法の扉という言葉がぴったりの玄関だ。呆気に取られてしまったものの、怪異城の魔にあてられたのか、不思議と怖いという気持ちは起こらなかった。

 屋敷の中に足を踏み入れた瞬間、思わず鳥肌が立つほどに気温が一気に下がった気がした。こわごわと顔をあげて周囲を見渡すと、まさにイギリス映画の中へ入り込んでしまったような、英国式の邸宅内が明らかになった。

「すごい……お屋敷だ」

 玄関を入った先は、広々したエントランス空間となっており、中央に大きな階段が伸びて二階へと続いていた。それとは別に左右にも螺旋状になった階段がついており、それぞれ二階の別棟へと続いているようだ。

 全体的に薄暗く、開け放たれた空間であるのに何とも言えない閉塞感を感じる。床も壁も一面が大理石で建造されており、よくわからない彫像や、古いグランドピアノ等も置いてあった。

「お待ちしておりました」

 突然、女性の声が聞こえてきた。慌てて声のする方向に目をやると、左側の螺旋階段の傍にメイド服姿の女性が立っていた。二十台前半から中盤くらいの女性に見えるが、白髪のせいで大人びて見える。シックな紺色のワンピースに、肩まわりにふりるが施された白のエプロンをつけている。

「執事希望の方ですね?」

 そのメイド姿の女性は、あまり関心がなさそうにそう尋ねた。

「はい、そうです」
「私はドラクリヤ邸に仕えるメイドのシルフィと申します。どうぞよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」

 よろしくというわりに、そのシルフィという女性は表情が一切なく、冷たい視線をしていた。私の後についてくるようにと言われ、彼女に従って中央階段を上っていった。彼女が立ち止まるまで、お互い何も話さす事はなかった。何か話題を振ろうと思ったが、こちらも緊張しており、取り止めて話す話題も思いつかなかった。

「こちらが当ドラクリヤ邸の主人である、ヴラド伯爵のお部屋です」
「ヴラド伯爵……」

 メイドのシルフィさんが扉にノックをすると、中から「はーい、どうぞ」と渋い低音の男性の声が聞こえてきた。

「どうぞ、お入りください」

 シルフィさんが扉を開けてくれ、少し強張った頬を無理に笑顔にかえてから、僕はヴラド伯爵と面会を果たした。

 室内へ入ると、五十代くらいの男性が、ソファにゆったりと腰かけて英字新聞を読んでいた。白に近い明るいブロンドの髪を、オールバックにして固めている。先ほど日本語で返事をしていたが、顔は明らかに英国人である。僕が部屋に入ってきた事に気が付くと、彼はテーブルの上に読みかけの新聞を置き、こちらにちらっと目をやった。

「はじめまして。執事の求人を見て参りました。今日はお時間を取って頂きありがとうございます」

 日本語か英語のどちらで話しかけるか迷ったが、結局日本語でそう言って深々と礼をすると、「とりあえず座りなさい」と日本語で促された。全くカタコトではない、流暢な日本語だった。

「わざわざ足を運んでもらってすまないな。私はこの屋敷の主人のヴラド・ドラクリヤだ。とりあえず、正式に執事として仕えるまでは、ヴラド伯爵と呼んでもらえばいい」

 ヴラド伯爵はそう言って、机の上のコーヒーを一口飲んだ。

「わかりました。私の名前は……」とまで言いかけたところで、ヴラド伯爵に遮られた。

「あぁ、君の名前は言わなくてもいいよ」
「えっ?」

 完全に呆気に取られた。もしかして、執事として雇うつもりはないから、名を名乗る必用もないということだろうか。不安が立ち込めたが、その不安はすぐに解消された。

「私の家では、執事の事をセバスと呼ぶことにしている。だからここで働くつもりがあるなら、君はこれからセバスと名乗りなさい」
「……っはい。かしこまりました」

「求人を見て来たそうだね。ミックス呪酒のマスターから連絡がきたよ」
「はい。求人を見て、マスターなら何かしらの情報を持っているかと思いまして」

「そうだな。あの男は胡散臭い情報なら、何でも持ってるようだからな」

 ヴラド伯爵はコーヒーを飲み干すと、高級そうなティーカップをテーブルの上に戻した。

「執事の仕事といっても、既にメイドのシルフィと、厨房には料理長の男がいるんだ。なので、衣食住の世話はついでくらいの気持ちでいてくれればいい」

「なるほど、では庶務事務的な資産管理などが主な仕事になるのでしょうか。」
「いや、それも顧問の人間を雇っているので、特にはする必要はないよ。」

 それを聞いて少し戸惑った。住み込みと聞いていたのだが、それでは何だか手持無沙汰になりそうだ。

「君には、ともかく我が家族の要望に応えるという仕事を受け持ってもらいたい」
「ご家族のご要望ですか?」

「あぁ、家には妻と4人の子供たちがいる。彼らと私の要望に応えるのが君の仕事だ。執事らしい仕事だと思うが、何か不都合なことはあるかね?」

「いえ、むしろ有り難いです。私もそう言った、主人の要望に忠義を尽くして全うする仕事に憧れて、執事を目指しておりましたので」

「そうか、では採用するにあたって、一つ要望を叶えてほしい」
「はぁ……。どのようなご要望でしょうか」

「君はお酒を飲むかね?」
「まぁ嗜む程度ではありますが」

「酒はなくても困るものではないが、あれば人生は少し豊かになるものだ。コーヒーもそうだし、私は吸わないが煙草もきっとそう言ったものだろう。嗜好品と呼ばれるものは全て概ねそんなものだ」

 なるほど、確かにないとどうなるわけでもないが、嗜好品がない世界というのは、少し寂しい気持ちがする。

「私からの要望としては、神戸界隈で幻の銘酒とされる“蒼龍雷切”を手に入れてきてほしい。」

 それが、執事として採用されるための試験であり、またご主人様からの最初のご要望だった。
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