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第3章 運命の始まり
[1] 私は誰?
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怖い──。
彼女が最初に感じたのは、そんな感情だった。
視界を奪われている分、匂いや音、空気に敏感になり、より恐怖が増幅されていく。
「目が覚めたか?」
突然の低い声に、びくりと肩を揺らした。
別に声を張った訳でも、怒鳴り散らしてきた訳でもない。
なのに、その声だけで切り付けられたような冷たさと痛みを覚える。こんなに感情のわからない声を聞いたことがない。
とっさに答えられずにいると、靴音が室内に響き、部屋の中を満たしはじめた熱気が押し寄せてきた。
声の冷たさとは真逆な熱に、身の危険を覚えた。
もちろん、人を縛って目隠しをする相手だ。危険じゃないはずがない。
きっと体も大きくて、顔だって恐ろしいに決まって──。
男の顔を想像していると匂いが強くなり、耳元を何かが掠めていく。
男らしくて、清潔で、それでいて甘い。
あまりにも不思議な香りだった。
今度は逆方向に耳元を掠めていき、匂いと男の熱が離れていく。
不思議と寂しさを感じた。
直後、視界を奪っていた布が、はらりと落ちる。
外してもらえるなんて思ってはおらず、眩しさへの準備をしていなかったせいで、明るさが目を直撃した。咄嗟に目を閉じ、顔を背けたけれど、瞼の裏に感じる明るさは強い。
慣れるまでには、かなりの時間が必要になるだろうと思っていると──。
動く気配と暗くなる感覚に、男が太陽光か室内灯を遮ってくれたのが分かった。
<ありがとう>
そんな言葉が浮かんだが、今の状況に置いている張本人に向ける言葉ではないと考え直し、開こうとした口を閉じて、代わりにゆっくりと目を開けた。
何度か瞬きをして室内の明るさに慣らし、目の前にいるであろう男へと焦点を合わせ──息をのんだ。
恐ろしい容姿だろうと思っていたのに、男は全くの正反対だった。
焦げ茶色と薄茶、さらに黒い筋が絶妙に混じる髪と淡褐色の瞳。
肌は濃すぎず、程よく日に焼けていて、がっしりとした体型だが、大きすぎてスタイルが悪いってこともない。
──完璧。
そんな言葉が思い浮かんだ。
「おい」
声をかけられて、自分が彼を見つめていることに遅れて気がついた。
悔しいことに、声まで素敵だ。
「自分の今の状況が分かっているのか?」
高圧的な言い方と、腕組をして上から見下ろす態度にふつふつと怒りが芽生えてくる。
「この状況を理解できないような子供に見える?」
下から睨みつけてやると、男は何が面白いのか、にやりと笑った。
「ずいぶんと気が強いんだな」
「こんな風に拘束されて、雑に扱われていて、噛み付かない女がいると思う?」
「さあ? 女を縛った事なんてはじめてだからな。逆に聞くが、怖くないのか?」
その言葉をじっくり考えてみた。
最初は本能的な恐怖を感じていたが、今の彼は──。
手にナイフや銃を持っている訳でも、脅してくる訳でもない。恐怖は微塵にも感じていなかった。
唯一、強く感じているのは、苛立ちと怒り。
今はその感情しかないのかというほど、頭の中と目の前を真っ赤に染め上げている。
「怖くなんかない。ただ、これにムカついてるだけ」
噛み付くように言いながら、頭を振って縛られている両手を示した
「これって、必要? 私のことなんて簡単に倒せちゃいそうな筋肉を持ってるのに」
「本気で言ってんのか?」
「ええ。私は平均的な身長と力の女だけど、あなたは……どう見たって殺しのプロか軍人って感じだもん」
自分では不思議な事を言った覚えはないのに、男は驚いた顔をしてから、くっきり眉間にシワを寄せてから口を開いた。
「まだ名前を聞いていなかったな」
変な話だと思った。
名前も知らない相手を誘拐して、監禁するものなのかと。
「一体、何が目的なの?」
「…………いいから、名前は?」
「はいはい。質問は禁止って訳ね。いいわよ。名前を教えるくらいどうってこと……」
言ってはみたものの、いざ自分の名前を言おうとしても出てこない。
自分の名前なんて、思い出そうと努力しなくてもでてくるものだ。
なのに、喉でつかえたかのように出てこない。
突然、恐怖がはい上がってくる。
『一体、私は誰?』
自分に対する問いかけは、心には空虚に響く。
「私……の……名前は……」
誰かに名前を呼ばれている場面を思い出そうと、頭の中にある記憶のロッカーへと意識を集中して向かう。
自分だけが知るその場所で、次々と小さな記憶の棚を開けるイメージをするが、全てぼやけていたり、空っぽだったりする。
名前どころか、自分だと思える記憶すらないことに気がついた。
「おい。大丈夫か?」
偉そうな呼びかけに黙っててと言いたかったが、声をかけられると同時に古くて音声の悪いラジオから聞いているような音が聞こえてきた。
『……りさ。君の名前は……』
ノイズが入り混じって聞き取りづらいが、徐々に理解できるようになってくる。
「私の名前は……」
その声は愛を囁くみたいに甘いが、奥に潜む何かは不快にも思う。心のどこかでは、聞きたくないと感じていた。
『君の名前は……ありさだよ』
もっと記憶の欠片を少しでも集めたくて集中するが、拒絶反応が起きた。見よう見ようとすればするほど、まるでナイフを突き刺されているみたいな痛みが頭を襲う。
あまりにも強い反応に耐えきれず、彼女の中にある防衛本能が働きはじめた。
意識が遠退いていき、最後には何も考えられない。
ただ、彼女が意識を失う瞬間、一つだけ欠片を見つけた。
『君の名前は……から、ありさだよ』
頭の中で再生される映像の中には、一人の男が出てくるが、よく顔が見えない。なによりも、今は直視したくない。
少しだけ過ぎた記憶の中にあった光景は、滴るほどの血で真っ赤に染まっていたのだ。
彼女が最初に感じたのは、そんな感情だった。
視界を奪われている分、匂いや音、空気に敏感になり、より恐怖が増幅されていく。
「目が覚めたか?」
突然の低い声に、びくりと肩を揺らした。
別に声を張った訳でも、怒鳴り散らしてきた訳でもない。
なのに、その声だけで切り付けられたような冷たさと痛みを覚える。こんなに感情のわからない声を聞いたことがない。
とっさに答えられずにいると、靴音が室内に響き、部屋の中を満たしはじめた熱気が押し寄せてきた。
声の冷たさとは真逆な熱に、身の危険を覚えた。
もちろん、人を縛って目隠しをする相手だ。危険じゃないはずがない。
きっと体も大きくて、顔だって恐ろしいに決まって──。
男の顔を想像していると匂いが強くなり、耳元を何かが掠めていく。
男らしくて、清潔で、それでいて甘い。
あまりにも不思議な香りだった。
今度は逆方向に耳元を掠めていき、匂いと男の熱が離れていく。
不思議と寂しさを感じた。
直後、視界を奪っていた布が、はらりと落ちる。
外してもらえるなんて思ってはおらず、眩しさへの準備をしていなかったせいで、明るさが目を直撃した。咄嗟に目を閉じ、顔を背けたけれど、瞼の裏に感じる明るさは強い。
慣れるまでには、かなりの時間が必要になるだろうと思っていると──。
動く気配と暗くなる感覚に、男が太陽光か室内灯を遮ってくれたのが分かった。
<ありがとう>
そんな言葉が浮かんだが、今の状況に置いている張本人に向ける言葉ではないと考え直し、開こうとした口を閉じて、代わりにゆっくりと目を開けた。
何度か瞬きをして室内の明るさに慣らし、目の前にいるであろう男へと焦点を合わせ──息をのんだ。
恐ろしい容姿だろうと思っていたのに、男は全くの正反対だった。
焦げ茶色と薄茶、さらに黒い筋が絶妙に混じる髪と淡褐色の瞳。
肌は濃すぎず、程よく日に焼けていて、がっしりとした体型だが、大きすぎてスタイルが悪いってこともない。
──完璧。
そんな言葉が思い浮かんだ。
「おい」
声をかけられて、自分が彼を見つめていることに遅れて気がついた。
悔しいことに、声まで素敵だ。
「自分の今の状況が分かっているのか?」
高圧的な言い方と、腕組をして上から見下ろす態度にふつふつと怒りが芽生えてくる。
「この状況を理解できないような子供に見える?」
下から睨みつけてやると、男は何が面白いのか、にやりと笑った。
「ずいぶんと気が強いんだな」
「こんな風に拘束されて、雑に扱われていて、噛み付かない女がいると思う?」
「さあ? 女を縛った事なんてはじめてだからな。逆に聞くが、怖くないのか?」
その言葉をじっくり考えてみた。
最初は本能的な恐怖を感じていたが、今の彼は──。
手にナイフや銃を持っている訳でも、脅してくる訳でもない。恐怖は微塵にも感じていなかった。
唯一、強く感じているのは、苛立ちと怒り。
今はその感情しかないのかというほど、頭の中と目の前を真っ赤に染め上げている。
「怖くなんかない。ただ、これにムカついてるだけ」
噛み付くように言いながら、頭を振って縛られている両手を示した
「これって、必要? 私のことなんて簡単に倒せちゃいそうな筋肉を持ってるのに」
「本気で言ってんのか?」
「ええ。私は平均的な身長と力の女だけど、あなたは……どう見たって殺しのプロか軍人って感じだもん」
自分では不思議な事を言った覚えはないのに、男は驚いた顔をしてから、くっきり眉間にシワを寄せてから口を開いた。
「まだ名前を聞いていなかったな」
変な話だと思った。
名前も知らない相手を誘拐して、監禁するものなのかと。
「一体、何が目的なの?」
「…………いいから、名前は?」
「はいはい。質問は禁止って訳ね。いいわよ。名前を教えるくらいどうってこと……」
言ってはみたものの、いざ自分の名前を言おうとしても出てこない。
自分の名前なんて、思い出そうと努力しなくてもでてくるものだ。
なのに、喉でつかえたかのように出てこない。
突然、恐怖がはい上がってくる。
『一体、私は誰?』
自分に対する問いかけは、心には空虚に響く。
「私……の……名前は……」
誰かに名前を呼ばれている場面を思い出そうと、頭の中にある記憶のロッカーへと意識を集中して向かう。
自分だけが知るその場所で、次々と小さな記憶の棚を開けるイメージをするが、全てぼやけていたり、空っぽだったりする。
名前どころか、自分だと思える記憶すらないことに気がついた。
「おい。大丈夫か?」
偉そうな呼びかけに黙っててと言いたかったが、声をかけられると同時に古くて音声の悪いラジオから聞いているような音が聞こえてきた。
『……りさ。君の名前は……』
ノイズが入り混じって聞き取りづらいが、徐々に理解できるようになってくる。
「私の名前は……」
その声は愛を囁くみたいに甘いが、奥に潜む何かは不快にも思う。心のどこかでは、聞きたくないと感じていた。
『君の名前は……ありさだよ』
もっと記憶の欠片を少しでも集めたくて集中するが、拒絶反応が起きた。見よう見ようとすればするほど、まるでナイフを突き刺されているみたいな痛みが頭を襲う。
あまりにも強い反応に耐えきれず、彼女の中にある防衛本能が働きはじめた。
意識が遠退いていき、最後には何も考えられない。
ただ、彼女が意識を失う瞬間、一つだけ欠片を見つけた。
『君の名前は……から、ありさだよ』
頭の中で再生される映像の中には、一人の男が出てくるが、よく顔が見えない。なによりも、今は直視したくない。
少しだけ過ぎた記憶の中にあった光景は、滴るほどの血で真っ赤に染まっていたのだ。
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