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来し方5
しおりを挟む「え!逸くんお酒ダメなの?」
「そうなんです、酒癖悪くて。おとなしくお茶飲んどきます」
そうだった、と敬吾は思った。
ただでさえ内心どう思っているかと危惧しているのに、加えてひとりだけ素面かーー。
当たり障りない逸の笑顔が妙に恐ろしくて冷や冷やしている。
貰い物のワインの他に買い込んできたビールやチューハイ、つまみのたぐいを袋から出しながら敬吾は無言だった。
「ワイングラスなんかないですけど……」
「いいよぉ普通のコップで。つーか逸くんなんか手慣れてるね」
篠崎の言葉に敬吾が一人固まる。
「ああほら前に敬吾さんが風邪でダウンしたじゃないですか。あの時何回か来たんですよ」
「そういえばそんなことあったねー」
逸のなめらかな嘘と呑気な篠崎の声がやたらちくちくと聞こえる。
篠崎のことだから本当に信じているだろうが、他の誰だったとしても騙しおおせるであろうその空言の見事さが、有り難くもあるがとても怖い。
もしかしたらとうっすら思っていたものがここに来て確信に変わった。
逸はああ見えて意外と腹に一物含んでいるしただ善良なだけの男ではないーー
それは、こうして好青年の仮面を完璧に被っている時こそそうだ。
篠崎とともにキッチンからリビングに来た逸と目が合い、にこりと笑いかけられて敬吾の顔は引きつった。
敬吾がもたついているうち、狭いテーブルの上でつまみはコンパクトにまとめ、最初の一杯を注いでくれた幸に小さく礼を言いながら敬吾は思う。
飲まずにやっていられるか、と。
「ーーうお、うまいっすねこれ………」
「でしょでしょ、そんな高いもんじゃないらしいんだけどさー、なんか佐藤さん界隈で話題なんだって」
「ほんとだおいしいー」
口々に感想を言い合う面々を冷めた気持ちで眺めながら、逸は妙にぱさつく舌触りのチーズをかじっていた。
何をしているのだろう、自分は。
本当ならば今頃はーーー
(敬吾さんとふたりきりのはずだったのにな……)
自分の右手に座っている敬吾の横顔をちらりと眺め、ワインを気に入った様子の表情を見て何やら気分が淀んだ。
(……楽しいんだ)
自らも一緒になって酒が飲めるわけでもなく、逸は今度はナッツをつまむ。
「逸くん、ちょっとくらい飲まない?つまんないでしょー」
「え、あ?すみません、楽しいですよ」
「そう?軽いワインだよー」
気を使ったか篠崎が瓶を向けてみるも、逸は申し訳なさそうに笑う。
敬吾にはそれが妙に悲しげに見えた。
「やー、ほんとタチ悪いらしいんですよ俺」
「そんなに?何するの」
「超暴れる………らしいです」
「覚えてないんだ!?」
「もー全っ然」
「そりゃタチ悪いかもなあ。でも敬吾くんいるし大丈夫じゃない?」
「うぇぅ!!!?」
急に水を向けられ、敬吾がむせる。
それを横目にこともなげに幸が言った。
「敬吾さんじゃ無理ですよ」
「そーすね、無理です」
幸に輪をかけてごく当然のように逸に続けられ、敬吾は空気と一緒に咳を飲み込んでしまった。
(どういう意味なんだよ…………)
「ダメかー。逸くんて身長どれくらいあるの」
「183……?くらい?ですかねー」
「くらいって」
「まだ伸びてるっぽいです」
「うそぉ!!?」
「高校んとき買った靴が最近入んなくなってて」
「うわー」
逸は当たり障りなく会話を続け、過不足なく場を盛り上げるなどして笑顔も絶やさなかった。
それがやはり、恐ろしいわ申し訳ないわで敬吾はやや酒に逃げ気味である。
そして、普段飲みつけないワインは回るのが早かった。
(楽しそー……)
手酌で烏龍茶を注ぎながら、逸はぼんやりと考えていた。
素面の時点で明るいたちの篠崎と幸はいつもより楽しげだな、程度だが、敬吾はすっかり酔っ払ってしまっている。
そもそもが酒に強いというわけでもないのに妙にピッチが早かったから、当然と言えば当然か。
その通りの三人は、もはや逸が文字通り勝手知ったる勝手場から氷やら調味料やらつまみの追加やら持ってきたところで気にも留めなかった。
その程度には、出来上がっている。
別段仲間外れにされているわけではないがなんとなく会話の輪から外れたタイミングで、ふと糸が切れるように素に戻ってしまう。
(これ一体どーゆー流れで解散になるんだ………)
逸自身が下戸なこともあって、わざわざ家で飲むという経験自体が少ない。
これが全員敬吾の同期で大学生だとか言うのであれば、このまま泊まるなどという絶望的な展開も有り得るには有り得るが。
(それはないよなあ)
静かにコップを置いた右手をこたつ布団にもぐらせて、逸はいたずらにその手を敬吾の膝の上に置いた。
敬吾の止まった表情が、ぱちぱちと瞼だけを瞬かせる。
半ば呆れ、半ば意地の悪い気持ちでその手を少々深く滑り込ませると、敬吾の眉根が目に見えて寄った。
半開きの口が引き攣り始める。
怒らせるのは本意ではない。
さっさと右手を引っ込めて逸はテーブルを見回した。
「つまみ足りてますか?俺何か買ってきましょうか」
せいぜい明るく聞こえるよう切り出すと、幸が目を覚ましたように大きく瞬きする。
「いや逸くんそれは悪いーー……あ、ってかもうこんな時間ですよ店長!お暇しないと!」
「うわほんとだ、ごめんね!こんな遅くまで」
「いえいえ」
急展開にあっけにとられる逸をよそに、幸と篠崎はぱたぱたと帰り支度を始め敬吾も得心が行ったように送り出し始める。
(あれ、もしかして俺やっちゃったか?)
不機嫌な顔は隠していたつもりだが、と内心逸は焦る。
が、敬吾の言葉で逸も腑に落ちた。
「終電間に合いますか?」
「大丈夫だと思うけどー、さっちゃんダッシュだ!」
「ダメですよ!間に合わなかったら店長の奢りでタクシー乗せてくださいよ?」
酔っ払っていてもしっかり者の敬吾が釘を刺すと、篠崎が笑う。
「わかってるよぉ。敬吾くんこれ残ったの一本飲んでね」
「え、いいんですか」
「うん!逸くんも突然ごめんねー、おやすみー」
「おやすみなさーい」
去る時も嵐のように、幸と篠崎は帰って行った。
後には見送った姿勢のままの逸と敬吾が残される。
先程までは楽しげに酔っ払っていた敬吾もさすがに少々気まずげだ。
しかし、気を張る相手がいなくなったことで酔いも急に回ってきた。
「ゃ、やー……嵐みてえだったなー……」
「そうですね」
やっと芝居から開放された逸が疲れたように応えると、敬吾の表情は更に固くなる。
それは分かっているものの解してあげようという気にもいまいちなれず、逸はリビングの方を振り返った。
「ーーさて。片付けちゃいますね」
「え、あ、いーよ……休んでろって、俺やるから」
「?やりますよ。敬吾さんべろべろじゃないですか、座ってて下さい」
「いや悪いよ……あ、飲み直すか!?ふたりで!」
「下戸だっつってんでしょ」
「そうでした」
「はい水飲んでいっぱい」
差し出された水をおとなしく受け取り、敬吾は困ったように黙りこくってとりあえずはそれを飲む。
なんだか苦いような味がする。
その間に手際よく一気に皿を運んできて、逸はシンクに向かった。
自然、敬吾に背を向けるような形になる。
またちびちびと水を舐めながらそれを見ていると、その背中はやはり怒っているように見える。
ひしひしと伝わってくるようで、それは当然だとも思うのだが、酔っ払っているせいかどうも現実味がない。
もしかしたら夢なのかもしれない。
自分はまだ実家にいて、こんな妙な夢を見ているーー。
そこにがちゃりと大きな音がし、敬吾はびくりと肩を揺らした。
「あ、すみません」
小さく逸が謝る。
その声がやはり無表情で、そのせいなのか急に現に引き戻されたからか敬吾の心臓は強く打っていた。
「な、なあ……岩井やっぱいいよ、悪いし……」
「別に悪くないですよ、このままほっといたら明日使う皿もないでしょ」
ーーそういえば自分の部屋には、夕飯がほっとかれているのだった。
「い……いいよ、どーにでもなるって。明日俺やるから、な。」
自分でもなぜそうしたのか分からなかったが、敬吾は逸の背中に抱きつきながらそう言った。
至近距離になった逸の体が、その瞬間に硬直する。
機嫌取りにでも、目くらましにでも、なんでもいいからなってくれれば。
逸が濃く発散しているこの苛立ちが少しでも薄くなれば。
そう思ったが、これだけ近寄ってもやはり酔いが邪魔して正しくそれを受け取ることは出来なかった。
敬吾が思っているよりきっと逸は不機嫌で、それを敬吾も分かっていて、しかしそんなことは初めてだからどうしていいのか分からない。
「な……なんかお前、怒ってる?よな?」
結局バカ正直に聞くしかなかった。
「怒ってませんよ。敬吾さんがご機嫌だからそう見えるだけです」
「や、やっぱ怒ってるじゃんか、だからもー、それ俺やるから明日。もー寝よう?」
開きっ放しだった蛇口を閉じ、水は切れたが冷えたままの手で逸は自分の腰に回っている敬吾の手を掴んだ。
酒で火照っている手にはそれがあまりに冷たくて敬吾が驚く。
そうして腕を緩ませて振り向いた逸の顔はやはり険しかった。
「ーー夜遊んでくれるって言ったでしょう」
「ーーーーあ、………」
ひやりとしたような敬吾の顔に、逸が眉根を寄せる。
それをなんとかしたくて敬吾は無理に笑った。
「や、あのでもほら俺酔っぱらいだし、」
「気遣ってあげられる彼氏じゃなくて申し訳ないですけど」
断じるように逸が言い、今度は悲しくも聞こえるような声音で続ける。
「そういうのは据え膳って言うんです」
「ーーーーー」
掴まれたままの手を持ち上げられ貴族か何かのように、その割には不機嫌そうに指の甲に口づけられる。
敬吾が呆気にとられているうち、さらに不機嫌そうな瞳で逸は掬うように敬吾を見た。
敬吾が気圧される。
「ほんっともうなんなんですか目ぇうるうるさせてほっぺ真っ赤にして。おねだりまで出来るようになっちゃって、それでどうしたいんですか?ほんとに寝かせてくれると思ってんですか?」
「え、え、っえ?」
「ほんとちゃんと自覚しなさいよ、誘ってるようにしか見えませんからそれ。そのくせ自分は淡白なんだもんな、分かってんですか?俺がどんだけ我慢してたか」
「や、あの……、!」
指の隙間に舌が這った。
敬吾が思わず手を引くが、酔っ払いの力は弱い。
「知らないでしょ。俺がどんだけ敬吾さんのこと思い出してたか、何回敬吾さんで抜いたか」
「ちょ…………っ」
「そりゃ敬吾さんはそんなもん知らねーしそれより寝たいってくらいですから。どうだっていいんだろうけど」
言うだけ言って手を離すと、逸は唇で敬吾の反論を封じた。
強く酒が香ってきて、それだけでも酔ってしまいそうだ。
敬吾が藻掻いて一人で立っていられなくなるまでそうして蹂躙してから、逸は敬吾を解放した。
へたり込む敬吾を座らせてやってからリビングへと戻る。
「…………?」
敬吾がぽかんとそれを見ていると、戻ってきた逸は篠崎が置いていったワインのミニボトルを手にしていた。
「そんなにうまかったんですか?これ」
「え?あ、ああ……飲みやすいって言うか」
「ふうん」
つまらなそうに言っておきながら、逸はすぐにその栓を開ける。
そのまま一口瓶を煽った。
「え、おい」
敬吾が言うと同時に逸が強く顔をしかめ、その顔が急に近づく。
そして、後頭部を鷲掴みにされた敬吾が呻いた。
とろとろと生ぬるいワインを流し込まれ、唇が離れると逸は咽る。
敬吾はあっけに取られたまま口元を拭っている。
(口移しかよ………!!)
「まっっずいじゃないですか!!」
「あー、そう……か……?」
「すっぱ、しぶっ………」
そうは言うものの。
仇でも見るように小さな瓶を見つめ、逸はまたそれを更に豪快に煽り、ビールのCMのような音を立てて今度こそはそれを飲み干した。
ーー逸の瞳が目に見えて濁る。
ボトルが床に乱暴に置かれる固い音がし、気が気でなかった敬吾がはっと我に返って立ち上がり逸の顔を覗き込んだ。
「ーーい、一気かよ大丈夫かお前……、」
慌てて声をかけるも、聞こえないのか無視しているのか逸は返事をしない。
不愉快そうに口元を拭っている。
「あー、……まっず…………」
そう落とされた声とひたりと敬吾を見据える視線があまりに禍々しく、敬吾が肩を竦ませた。
その肩を逸が掴み、すぐ後ろの壁に押し付ける。
驚く間もなく唇を塞がれ、敬吾が漏らした呻きは小さな悲鳴のように聞こえた。
不躾に割り入ってくる舌は熱く、ただただ乱暴に敬吾の咥内を掻き乱す。
間近に聞こえる逸の呼吸にも理性が感じられず、髪を梳き頭を掴む手もまるで肉食獣が獲物に爪を立てるような様だった。
声も呼吸も奪われるようで、敬吾は徐々に恐怖がこみ上げてくるのを感じていた。
じわじわと溺れ、水面が遠のいて目の前が暗くなっていくような。
結果的に膝が砕けてしまったことが、前にも後ろにも逃げられない敬吾を救った。
逸に腕を捕まれなんとか体を支えながら、敬吾が必死に呼吸をする。
吸っても吸っても、酸素が足りないように錯覚した。
「ちょ………っと、待て、苦し……い」
それも事実だが、なにより逸から目を背けたい。
敬吾が壁に体をもたれると、逸がそれを背後から抱き込んだ。
「…………!」
敬吾がびくりと引き攣る。
逸の唇が触れた首筋にチクリと小さな痛みが走り、悲痛に眉を顰めた。
ーー今の逸に触れられるのは、底知れない闇にでも踏み込むようで、異常な程に恐ろしい。
そう素直に表現しないとはいえ逸のことは好きなのだ。
犬のような性格は可愛らしいと思うし触れられれば心臓が高鳴る。
まさか自分が経験するとは欠片も思っていなかった男同士の行為にすら快感を見出すのは、それが逸だからだ。
手の平はいつでも温かくて優しく、撫でられると無条件で安心する。
ーーその逸の手に、僅かな嫌悪感すら感じてしまうほど。
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