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初めての香りがする男

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定時になり、新田さんと一緒にビルを出て駐車場に行き、車に乗るまでわたしはそわそわしっぱなしだった。
それまでもお茶くみやコピーをしながらも気が気ではなかったのだけれど。

そんなわたしの社内での変化に、新田さんは気がついていたらしい。
車を発車させながら、尋ねてきた。

「どうかしたのか? 昨日は社内でずっと笑顔だったのに、今日の午後から顔引きつってたぞ」

なんて細かいところまで見てくれているんだろう。
ちょっとジンとしてしまいながら、いやそんな場合ではないとわたしは気を取り直す。

「成宮さんて、何者なんですか?」

「成宮さん? 成宮さんがどうかしたのか?」

「お昼に食堂での新田さんとの会話を少し聞かれたらしくて、どうして旦那なのに敬語なのかって聞かれました。会社では公私混同を避けるためだって答えたら、ランチは一緒してるのに?って」

運転しながらも、新田さんは神妙に聞いてくれているようだ。
わたしは更に、助手席から身を乗り出す。

「仲良しオーラが出てないって言われちゃいましたよ。そういうの、あの人分かる人なんですよ。どうしましょう」

わたしはかなり焦っていたのに、新田さんはいつもの無表情のままだ。
ハンドルを切りながら、口を開く。

「今日はスーパーに寄るんだったな」

「はい、毎日カレーってわけにはいかないですから……ってそうじゃなくて!」

まったく危機感のない新田さんに、いら立ちすら覚えてしまう。
こんなことで実は結婚なんてしていない赤の他人なのだとばれたら、すべてが水の泡なのに。
新田さんがどうして結婚しているフリなんてしなくちゃならないのかとか、そういう新田さんの事情は知らないけれど。わたしのほうは、いま宿無しになったら困るのだ。

「どうするんですか、ばれちゃったら。赤の他人なんだってばれちゃったら。成宮さん、他言はしないって言ってたけど、あの人チャラそうな感じだしどこまで本気かわかりませんよ」

なおも言いつのるわたしをよそに新田さんは車をキッと止め、

「ああもう、うるさい」

そう言って顔を近づけてきたかと思うと、一瞬後には唇を重ねられていた。
当然ながら、わたしの頭の中は真っ白になってしまう。
固まったままのわたしの唇をゆっくりと味わい、新田さんは唇を離す。それでもまだ、顔が近い。

「よし、黙ったな」

満足そうに言う、新田さん。

「だっ……黙らせるためにキスとか、」

「嫌だったらもう黙れ」

「だって、成宮さんのことは──」

「仲良しオーラか」

「そ、そう、そうです! それです!」

「だったらいまから“仲良く”なるか」

わたしの頭は、またまた白紙に戻ってしまう。
いったい新田さんは、堅い人間なのかそうでないのか。
どんなつもりで、そんなことを言うのか。
金魚のように口をパクパクさせているわたしを面白そうに口角を上げて見下ろす、新田さん。

「安心しろ。俺がついてる」

それって漠然としすぎていて全然安心できない気がするんですけどっ。
そう言おうとしたけれど、またキスされそうだったので心の中に叫ぶだけにとどめた。

それからスーパーに着くまでのあいだ、新田さんもわたしも無言。
まったく居心地が悪いったらない。

わたしのほうは、さっきのキスが忘れられなくて、というのもある。
ものすごくびっくりしたけれど、どうしてイヤじゃなかったのだろう。やっぱり上原先輩に似ているから?

「着いたぞ」

ひとり悶々とするわたしをよそに、新田さんはさっさと車を降りる。
見ると、空が藍色に変化を遂げはじめるこの時刻に、大きなスーパーがかなりの賑わいを見せている。
急いで、わたしも車を降りた。
とりあえず平静を装おう。わたしだけ動揺しているだなんてばれたら、なんだか悔しいし。

一緒にスーパーに入り、グラタンの材料を選ぶ。
なにグラタンにしようかまだ悩んでいるので、一応パスタグラタンの材料であるハムとコーンと玉ねぎ、スパゲティとチーズ。あとは普通のグラタン用にマカロニとブロッコリー、海老を籠の中にポイポイ入れた。
明日の夕食のぶんもなにか考えようかな、といろいろ見て回っていると、野菜コーナーのところで声をかけられた。

「ほんとによく会いますねぇ、新田さんご夫妻」

その声にギクリとして顔を上げると、成宮さんが腰までの髪の美人さんと一緒に立っていた。

「手まで繋いじゃって、見せつけてくれますね」

成宮さんの言葉に、ハッと気づく。
いつのまにか新田さん、籠を持ってないほうのわたしの手を握っている。
もしかしてさっきの「いまから仲良くするか」という言葉、本気なんだろうか。
新田さんは営業用スマイルと思われる笑顔を浮かべ、成宮さんに言った。

「新婚ですからね。会社で仲良くできないぶん、プライベートではいつもこんな感じですよ」

新田さんに握られた手が、熱くなってくる。
いや、手だけじゃなくて身体も顔も熱い。
成宮さんはクスクス笑った。

「それにしちゃ璃乃ちゃん、慣れてないみたいですけど。璃乃ちゃん、顔真っ赤」

「璃乃は純情なんですよ。ところでそちらは彼女さんですか?」

「ああ……まあ、そんな感じかな」

ほっ。新田さん、うまく切り返してくれた。
成宮さんの、たぶん年上と思われる彼女さんはにっこり微笑んで成宮さんと腕を組む。

「こんにちはー! あ、こんばんはかな? ミホっていいます! 今日はミキのところでお食事なんですよー!」

「あ、ミキっていうのは俺の名前ね。未来の希望って書いて、未希」

成宮さんはそう言って、「ああそうだ」と悪戯っぽく瞳を輝かせる。

「今日は彼女が鍋したいって言ってるんですけど、ふたりじゃあれかなって思ってたんで、新田さんもどうですか? 結婚祝いも兼ねてプチパーティーっていう感じで」

この人、いったいなにを言い出すんだろう。
新田さんがちらりと、わたしを見下ろす。
新田さん、断ってくれますよね? 成宮さんのことだから、絶対危険ですから! 偽夫婦だってばれちゃいますから!
そんな思いを込めて新田さんを見返すと、新田さんは成宮さんに視線を移した。

「申し訳ないですけど、今夜は……」

「なにかまずいことでもあるんですか?」

にこにこと新田さんの言葉を遮る成宮さん。
この顔、絶対なにか企んでそう。嘘を暴こうとか思っていそう。若干被害妄想気味かもしれないけれど。
すると新田さんもまた挑戦的な笑みを浮かべて、わたしの手をぎゅっといっそう強く握りしめてきた。

「別に、まずいことなんてないですよ。じゃあ、お言葉に甘えることにします」

新田さんっ!? なに挑戦受けた感じになってるんですかっ!?
まるで子供同士みたいに、新田さんと成宮さんは視線を飛ばし合っている。
表面上は笑顔なだけに、恐いことこの上ない。

「じゃあ、荷物置いたらうちにきてください。待ってますから」

成宮さんはそう言って、ミホさんとじゃれ合いながらレジのほうへと向かう。

「……仲良しオーラって、ああいうことを言うんだろうな」

ふっとまた無表情に戻りながら、つぶやく新田さん。
わたしはほぼ、涙目だった。

「そうですよ。なのになんであんな挑戦受けちゃったんですか、新田さん! 嘘がばれたらどうするんですか!」

「なんとなく、あいつは危険な香りがする」

「だからわたしがあれだけ言ってたじゃないですか! 成宮さんはそういうの分かる人なんですってば!」

「いや、そういう意味だけじゃなくて──」

「どういう意味なんですかっ」

新田さんは握ったままのわたしの手を、今度は恋人つなぎにしてくる。
指が絡まったのを感じて、不覚にもドキッとしてしまった。

「あいつは危険な気がする。だからいまのうちに、おまえは俺のものだって見せつけとかないといけない気がする」

さっぱり意味がわからない。
だけど、わたしの心は「おまえは俺のものだ」という新田さんの言葉のほうに浮かれてしまう。
そんな場合じゃないのに、新田さんの些細なその言葉にドキドキしてしまう。
新田さんの言う「おまえは俺のもの」は、あくまで契約上での妻のことだとわかっているのに。

雅史とも、恋人つなぎってやったことなんてなかった。
キスまではしていたけれど、それ以上のことなんてなかった。

成宮さんが危険な香りのする男なら、新田さんはわたしにとって
初めての香りがする男、だ。
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