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孤立<後>
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日は来た時より西側に大きく傾いていました。話し合いを進める大人たちは、皆かじかむ寒さに震えています。誰もがこんな所で孤立するとは思っていなかったので、大した道具も持ち合わせていませんでした。しかし、イザナは彼らが持ってきた物の中に、一つの雪かき用スコップを発見しました。それを借りてきて、雪かきを始めました。
「なにしてるのさ」
レキは不思議そうに尋ねました。
(なにもないけど、雪ならある)
紙とペンは貸し出し中のため、雪に文字を書きました。
「雪だるまでも作るつもり?」
(かまくら)
「かまくら? ……かまくら! あぁ、なるほど! 雪風をしのぐ場所を作ろうってことか」
レキの言葉を聞きつけた暇な大人たちがやってきました。
「それなら、私たちに任せろ」
屈強な男たち(剣士もいれば研究職の人もいます)を引き連れたクロスキが、腕を組んで言いました。会議に夢中のトウヤンたちを除いても、手の空いた大人は12人います。イザナ、サン、レキ、スエンを入れて16人。これくらいの人数がいれば、一基と言わずに何基も作れるでしょう。
「作ったことあるの?」
「当たり前だろ? 雪国の男たる者、かまくらの一つ朝飯前よ。なぁ?」
マッケンロウが後ろの男たちに問い掛けると、「おぉ!」と声が返ってきました。
「よっし! イザナ、こんなに手伝ってくれるってさ!」レキは大喜びで言ってから「でも、スコップは一つしかない」と弱気になりました。
「橋の残骸を使うさ」
ここは、マッケンロウとクロスキの研究職コンビが本領を発揮しました。まずはマッケンロウが簡単な設計図を雪の上に描いて、役割分担を決めました。「雪の踏み固め役」には力自慢の2人。「雪かき役」は4人。「雪運び役」は4人。踏み固め役の補助やその他役割の援助に向かう「お助け役」6人。大人と比べて力のないイザナたちは、お助け役でした。
「日が暮れる前に3基は作るぞ! みんな、頑張ってくれ」
マッケンロウは元気に呼び掛けました。役割ごとに作業が始まるころ、会議チームが連絡用の文を完成させました。
「スエン、お願いします」
カンザから文の付いた矢を受け取ったスエンは、緊張しながらうなずきました。彼女は崖の前に立つと、100メートル以上先にある木の壁を見つめました。目の前に広がる漆黒の闇に負けそうになったのか、スエンは唇をかみしめました。
「大丈夫」
サンが彼女のそばで優しく言いました。
「道場の的と一緒ですよ」
「そうね」
スエンは一呼吸すると足踏みし、弓をかけて弦をゆっくりと強く引きました。彼女の手が弓から離れた時、矢は光のごとく宙を切り裂いていました。早すぎて、みんな矢がどこにいったのか確認するのに手間取りました。
「当たった!」レキが叫びました。「壁に刺さってる!」
かまくらを作っていた人も、見守っていた人も、その言葉でワッと飛び上がりました。
「ほら、向こうの剣士が気付いて確認してるよ」
レキの言う通り、向こう側の剣士が矢文を壁から取り、手紙を確認している様子が見受けられました。剣士は手を振って合図をしてくれました。
「すごいよ! スエン、君のおかげで手紙が届いた!」
「この距離を的確に打てるなんて、すごいです!」
レキとサンは口々に言いました。イザナもうれしかったのですが、なにより彼女の腕には心底驚きました。希望が一つ見えた瞬間でした。30分としないうちに、向こうから矢文で返事が来ました。こう書かれていました。
状況は分かりました。今、救助隊と警察の方が話し合っているところです。計画が決まり次第、こちらから情報を送りますが、まずは日が暮れる前に輸送用のロープを張りましょう。こちらから一度、縄をつけた矢を放ちます。なわ伝いにくいを送りますので、くいを安定した所に打ち付けてください。こちらにもくいを打ち、なわを張って物資を相互に送れるようにしましょう。
追伸 矢文とは名案ですね。
しばらくすると、書面通り、縄のついた矢が氷の壁に当たり落ちました。縄伝いにきたくいを地面に打ち付け、向こう側の打ったくいとつなげました。じっと様子をうかがっていると、向こう岸から大きなかごが回ってきました。2点のくいを支点に1本のなわを継ぎ目なく張っているので、同じ方向に引けばつるした物を動かせるといった具合です。最初のかごには人数分の食料が詰まっていました。
「食料が届いた! 水もある」
トウヤンの一言でみんな安心しました。
そんなふうにしてロープ間のやりとりが進み、外套、手袋、スコップ、燃料油、布、工具、鍋、鉄板……といった必要なものが続々と届けられました。
かまくら作りにはほとんど全員が参加し、一気に作業速度が上がりました。こうして直径4・5メートル、高さ3メートル、厚さ60センチほどの巨大なかまくらが三基完成しました。中にはちゃんと座る場所も、物を置ける場所もあり、1基につき大人8人は余裕で入ることができました。職人が作ったような出来栄えに、みんなが拍手をしました。
いよいよ日が暮れる前、イザナは各かまくらに用意していた木片を台に並べ、火を付けて回りました。みんなイザナが簡単に火を付けるのを見て、感激したようでした。イザナは最後にトウヤン、サメヤラニ、ルット、レキ、サン、スエンが待つかまくらに戻り、火をともしました。
「不思議ですね。雪の中にいるのにポカポカする」
サンはチカチカ燃える火を見つめながら言いました。
「雪の中は密閉性が高いから、暖かい空気が上に昇っては下に降りるという循環が起こっているんだ。だから暖かい」
レキはさらりと言いました。
「やぁ、みんな元気かい」
火の前でまどろんでいるところに、マッケンロウが大荷物を抱えてやってきました。
「さっき向こうが送ってくれた物だ。毛布も道具も食べ物もある。ここに置いておく」
「文はきたか?」
トウヤンは尋ねました。
「そのことだが、トウヤン。向こうの作戦決行は明け方になるそうだ。さっき連絡がきた」
「どうするつもりだ」
「臨時の巨大な橋をかけるらしい。今制作中だそうだ」
「橋を?」
「そうだ。簡単に説明しよう」
マッケンロウはカップを台の上に置き、箸を1本持って言いました。「箸をはしごだと思ってくれればいい。いいか? 左側の淵が私たちのいる壁側で、右側の淵が向こう岸側だ。箸をこうやって単純に谷間をまたぐようにしてかける。単純だろ? あとは強度の問題だな。またあの地震が起こればたまったもんじゃない」
「あぁ、子どもでもよーく分かりやすい説明だよ」とレキ。「棒持って綱渡りするわけにはいかないもんね」
「これが一番確実で安全な渡り方だ。あとは、あまりいい知らせではないんだが、さっき第2と第3の橋も崩れかけていると聞いた。つまり、他に方法はない」
「分かった、最善を尽くしましょう」ルットは言いました。
経験したことのない夜が訪れました。谷間を駆け抜けていく風が不気味にびゅうびゅう吹き荒び、日中よりも雪が降っています。夕食は鍋でふかしたジャガイモに水でした。トウヤンたちはたびたび他のメンバーと話すためにかまくらを出て行きましたが、イザナたちはかまくらの中でじっとしていました。
イザナは隣でうとうとするレキたちをぼんやりながめながら、とにかく無事に朝を迎えられることを願いました。まさか大地震が起こって壁の前で寝泊まりすることになろうとは、想像もしていないことでした。そして、今でも切っ先を壁に押し当てた時のことを思い出すのでした。
翌朝、冬眠から覚めたクマのように外へ出ました。天気は曇りです。なにやら向こう岸が騒がしいので見てみると、木の壁の一部がポッカリと取り払われ、100メートル以上もある巨大な橋がかけられようとしていました。自分たちが寝ている間に、寝ずの作業を続けてくれていたという証拠です。
橋がゆっくりと壁側の岸に下ろされたのは、お昼になってからでした。救助隊の隊員たちが1人やってくると足場をしっかり固定し、数人ずつ移動を開始しました。全員の移動が終わったのは午後3時ころでした。そういえば、スエンはどこに行ったのだろう? と見回してみると、迎えに来ていた父親のそばにいました。親のいないイザナは少しだけうらやましく思いましたが、そのすぐ横でにらんでくるサヒロを見た途端にげっそりしました。
誰かが谷に落ちてもおかしくない、そんな状況を乗り越えられたのは一人一人の力でした。だからなのか、生還した人たちはみんなお互いの肩を抱き合って祝福しました。けれどもその中で1人だけ、別のことを考えている様子のカンザがいました。イザナにはその理由が分かりませんでしたが、およそあの壁の奇妙な現象について考えているのだろうと思いました。
あんなにひどい夜を経験したものですから、協会に戻ると全てが安心できました。谷の風を感じることもありませんし、すぐ隣で壁の恐怖におびえることもありません。壁の一件があって以降、もう誰も氷の壁をどうこうしようと言う者はいませんでした。三つある橋のうち、一つが壊滅、残りの二つも崩れかけとくれば、そうすぐに動くことはできないからです。100メートルの谷間は人間にとって、いかに障害なのかを思い知らされた瞬間でした。
それから1カ月もの間、イザナたちは協会でおとなしく過ごしていました。安全な室内で稽古をしたり、ご飯を食べたり、普段していたなにげないことが実は最も幸せだったのだと痛感させられました。それに、きっとみんな、もうあの壁には関わりたくないと思っているはずです。別に解かさなくても死にやしない壁を、解かそうとして死にかけたわけですから。
スエンは久々にネコのユリオスと再会しました。まだ一緒に部屋には長時間いられないようですが、それでも彼女にとってはここ最近の苦労を癒やす出来事に違いありませんでした。イザナにとって癒やされることと言えば、しばらくの間は、あの氷の壁に関わらなくてもいいということでした。そもそも、あんな巨大な壁を解かそうとするなんて無茶な話なのです。そうだ、これは手に負えないことなんだ、イザナはそう思うことにしました。
「なぁ、あの橋が再建するまでに、どれくらいかかると思う?」
レキは尋ねました。
(さぁ)
「働きアリになれば半年もかからないですよ」
「半年も?」
「当たり前ですよ。あの谷に安全な橋をかけるのは、とても大変なことなんです。お金もかかれば時間もかかる」サンは声色を変えました。「さぁ、ユリオス。こっちですよぉ!」
4人はレキの部屋でユリオスの相手をしていました。スエンの愛ネコが無事に帰ってからというもの、サンの溺愛っぷりは驚くほどでした。ユリオスの目はもうすっかり元通りで、凶暴化することもなく平穏そのものでした。
レキもネコじゃらしを揺らしましたが無視されました。
「橋を作るのにも手間がかかるんです。設計する人、材料を頼む人、それを運ぶ人、加工する人、組み立てる人……」
「分かった分かった」
最後まで聞く気のないレキはゴロンと横になりました。
「ちょっと! 話はまだ途中ですよ。じゃあ、あなたに分かりやすく教えてあげましょう。私たちだって、かまくらを作るのに役割分担したでしょう? あれと同じです」
説教くさい言い方ではありましたが、イザナは彼の例えに納得していました。
「つまり、私たちがあの壁と向き合うのはまだまだ先ってことです」
「そういえば今朝、お父さまが協会幹部の人と橋の建設について話し合っていたわ。町の職員も来ていたから、まさに設計の計画を練っている最中ということね」
スエンはユリオスを優しくなでながら言いました。そのことで思い出したのですが、トウヤンやサメヤラニたちも朝から騒がしく廊下を歩いていた気がします。イザナたちは蚊帳の外という感じがしましたが、難しい橋の会議にでたところでろくな会話ができないのは目に見えていました。
「なにしてるのさ」
レキは不思議そうに尋ねました。
(なにもないけど、雪ならある)
紙とペンは貸し出し中のため、雪に文字を書きました。
「雪だるまでも作るつもり?」
(かまくら)
「かまくら? ……かまくら! あぁ、なるほど! 雪風をしのぐ場所を作ろうってことか」
レキの言葉を聞きつけた暇な大人たちがやってきました。
「それなら、私たちに任せろ」
屈強な男たち(剣士もいれば研究職の人もいます)を引き連れたクロスキが、腕を組んで言いました。会議に夢中のトウヤンたちを除いても、手の空いた大人は12人います。イザナ、サン、レキ、スエンを入れて16人。これくらいの人数がいれば、一基と言わずに何基も作れるでしょう。
「作ったことあるの?」
「当たり前だろ? 雪国の男たる者、かまくらの一つ朝飯前よ。なぁ?」
マッケンロウが後ろの男たちに問い掛けると、「おぉ!」と声が返ってきました。
「よっし! イザナ、こんなに手伝ってくれるってさ!」レキは大喜びで言ってから「でも、スコップは一つしかない」と弱気になりました。
「橋の残骸を使うさ」
ここは、マッケンロウとクロスキの研究職コンビが本領を発揮しました。まずはマッケンロウが簡単な設計図を雪の上に描いて、役割分担を決めました。「雪の踏み固め役」には力自慢の2人。「雪かき役」は4人。「雪運び役」は4人。踏み固め役の補助やその他役割の援助に向かう「お助け役」6人。大人と比べて力のないイザナたちは、お助け役でした。
「日が暮れる前に3基は作るぞ! みんな、頑張ってくれ」
マッケンロウは元気に呼び掛けました。役割ごとに作業が始まるころ、会議チームが連絡用の文を完成させました。
「スエン、お願いします」
カンザから文の付いた矢を受け取ったスエンは、緊張しながらうなずきました。彼女は崖の前に立つと、100メートル以上先にある木の壁を見つめました。目の前に広がる漆黒の闇に負けそうになったのか、スエンは唇をかみしめました。
「大丈夫」
サンが彼女のそばで優しく言いました。
「道場の的と一緒ですよ」
「そうね」
スエンは一呼吸すると足踏みし、弓をかけて弦をゆっくりと強く引きました。彼女の手が弓から離れた時、矢は光のごとく宙を切り裂いていました。早すぎて、みんな矢がどこにいったのか確認するのに手間取りました。
「当たった!」レキが叫びました。「壁に刺さってる!」
かまくらを作っていた人も、見守っていた人も、その言葉でワッと飛び上がりました。
「ほら、向こうの剣士が気付いて確認してるよ」
レキの言う通り、向こう側の剣士が矢文を壁から取り、手紙を確認している様子が見受けられました。剣士は手を振って合図をしてくれました。
「すごいよ! スエン、君のおかげで手紙が届いた!」
「この距離を的確に打てるなんて、すごいです!」
レキとサンは口々に言いました。イザナもうれしかったのですが、なにより彼女の腕には心底驚きました。希望が一つ見えた瞬間でした。30分としないうちに、向こうから矢文で返事が来ました。こう書かれていました。
状況は分かりました。今、救助隊と警察の方が話し合っているところです。計画が決まり次第、こちらから情報を送りますが、まずは日が暮れる前に輸送用のロープを張りましょう。こちらから一度、縄をつけた矢を放ちます。なわ伝いにくいを送りますので、くいを安定した所に打ち付けてください。こちらにもくいを打ち、なわを張って物資を相互に送れるようにしましょう。
追伸 矢文とは名案ですね。
しばらくすると、書面通り、縄のついた矢が氷の壁に当たり落ちました。縄伝いにきたくいを地面に打ち付け、向こう側の打ったくいとつなげました。じっと様子をうかがっていると、向こう岸から大きなかごが回ってきました。2点のくいを支点に1本のなわを継ぎ目なく張っているので、同じ方向に引けばつるした物を動かせるといった具合です。最初のかごには人数分の食料が詰まっていました。
「食料が届いた! 水もある」
トウヤンの一言でみんな安心しました。
そんなふうにしてロープ間のやりとりが進み、外套、手袋、スコップ、燃料油、布、工具、鍋、鉄板……といった必要なものが続々と届けられました。
かまくら作りにはほとんど全員が参加し、一気に作業速度が上がりました。こうして直径4・5メートル、高さ3メートル、厚さ60センチほどの巨大なかまくらが三基完成しました。中にはちゃんと座る場所も、物を置ける場所もあり、1基につき大人8人は余裕で入ることができました。職人が作ったような出来栄えに、みんなが拍手をしました。
いよいよ日が暮れる前、イザナは各かまくらに用意していた木片を台に並べ、火を付けて回りました。みんなイザナが簡単に火を付けるのを見て、感激したようでした。イザナは最後にトウヤン、サメヤラニ、ルット、レキ、サン、スエンが待つかまくらに戻り、火をともしました。
「不思議ですね。雪の中にいるのにポカポカする」
サンはチカチカ燃える火を見つめながら言いました。
「雪の中は密閉性が高いから、暖かい空気が上に昇っては下に降りるという循環が起こっているんだ。だから暖かい」
レキはさらりと言いました。
「やぁ、みんな元気かい」
火の前でまどろんでいるところに、マッケンロウが大荷物を抱えてやってきました。
「さっき向こうが送ってくれた物だ。毛布も道具も食べ物もある。ここに置いておく」
「文はきたか?」
トウヤンは尋ねました。
「そのことだが、トウヤン。向こうの作戦決行は明け方になるそうだ。さっき連絡がきた」
「どうするつもりだ」
「臨時の巨大な橋をかけるらしい。今制作中だそうだ」
「橋を?」
「そうだ。簡単に説明しよう」
マッケンロウはカップを台の上に置き、箸を1本持って言いました。「箸をはしごだと思ってくれればいい。いいか? 左側の淵が私たちのいる壁側で、右側の淵が向こう岸側だ。箸をこうやって単純に谷間をまたぐようにしてかける。単純だろ? あとは強度の問題だな。またあの地震が起こればたまったもんじゃない」
「あぁ、子どもでもよーく分かりやすい説明だよ」とレキ。「棒持って綱渡りするわけにはいかないもんね」
「これが一番確実で安全な渡り方だ。あとは、あまりいい知らせではないんだが、さっき第2と第3の橋も崩れかけていると聞いた。つまり、他に方法はない」
「分かった、最善を尽くしましょう」ルットは言いました。
経験したことのない夜が訪れました。谷間を駆け抜けていく風が不気味にびゅうびゅう吹き荒び、日中よりも雪が降っています。夕食は鍋でふかしたジャガイモに水でした。トウヤンたちはたびたび他のメンバーと話すためにかまくらを出て行きましたが、イザナたちはかまくらの中でじっとしていました。
イザナは隣でうとうとするレキたちをぼんやりながめながら、とにかく無事に朝を迎えられることを願いました。まさか大地震が起こって壁の前で寝泊まりすることになろうとは、想像もしていないことでした。そして、今でも切っ先を壁に押し当てた時のことを思い出すのでした。
翌朝、冬眠から覚めたクマのように外へ出ました。天気は曇りです。なにやら向こう岸が騒がしいので見てみると、木の壁の一部がポッカリと取り払われ、100メートル以上もある巨大な橋がかけられようとしていました。自分たちが寝ている間に、寝ずの作業を続けてくれていたという証拠です。
橋がゆっくりと壁側の岸に下ろされたのは、お昼になってからでした。救助隊の隊員たちが1人やってくると足場をしっかり固定し、数人ずつ移動を開始しました。全員の移動が終わったのは午後3時ころでした。そういえば、スエンはどこに行ったのだろう? と見回してみると、迎えに来ていた父親のそばにいました。親のいないイザナは少しだけうらやましく思いましたが、そのすぐ横でにらんでくるサヒロを見た途端にげっそりしました。
誰かが谷に落ちてもおかしくない、そんな状況を乗り越えられたのは一人一人の力でした。だからなのか、生還した人たちはみんなお互いの肩を抱き合って祝福しました。けれどもその中で1人だけ、別のことを考えている様子のカンザがいました。イザナにはその理由が分かりませんでしたが、およそあの壁の奇妙な現象について考えているのだろうと思いました。
あんなにひどい夜を経験したものですから、協会に戻ると全てが安心できました。谷の風を感じることもありませんし、すぐ隣で壁の恐怖におびえることもありません。壁の一件があって以降、もう誰も氷の壁をどうこうしようと言う者はいませんでした。三つある橋のうち、一つが壊滅、残りの二つも崩れかけとくれば、そうすぐに動くことはできないからです。100メートルの谷間は人間にとって、いかに障害なのかを思い知らされた瞬間でした。
それから1カ月もの間、イザナたちは協会でおとなしく過ごしていました。安全な室内で稽古をしたり、ご飯を食べたり、普段していたなにげないことが実は最も幸せだったのだと痛感させられました。それに、きっとみんな、もうあの壁には関わりたくないと思っているはずです。別に解かさなくても死にやしない壁を、解かそうとして死にかけたわけですから。
スエンは久々にネコのユリオスと再会しました。まだ一緒に部屋には長時間いられないようですが、それでも彼女にとってはここ最近の苦労を癒やす出来事に違いありませんでした。イザナにとって癒やされることと言えば、しばらくの間は、あの氷の壁に関わらなくてもいいということでした。そもそも、あんな巨大な壁を解かそうとするなんて無茶な話なのです。そうだ、これは手に負えないことなんだ、イザナはそう思うことにしました。
「なぁ、あの橋が再建するまでに、どれくらいかかると思う?」
レキは尋ねました。
(さぁ)
「働きアリになれば半年もかからないですよ」
「半年も?」
「当たり前ですよ。あの谷に安全な橋をかけるのは、とても大変なことなんです。お金もかかれば時間もかかる」サンは声色を変えました。「さぁ、ユリオス。こっちですよぉ!」
4人はレキの部屋でユリオスの相手をしていました。スエンの愛ネコが無事に帰ってからというもの、サンの溺愛っぷりは驚くほどでした。ユリオスの目はもうすっかり元通りで、凶暴化することもなく平穏そのものでした。
レキもネコじゃらしを揺らしましたが無視されました。
「橋を作るのにも手間がかかるんです。設計する人、材料を頼む人、それを運ぶ人、加工する人、組み立てる人……」
「分かった分かった」
最後まで聞く気のないレキはゴロンと横になりました。
「ちょっと! 話はまだ途中ですよ。じゃあ、あなたに分かりやすく教えてあげましょう。私たちだって、かまくらを作るのに役割分担したでしょう? あれと同じです」
説教くさい言い方ではありましたが、イザナは彼の例えに納得していました。
「つまり、私たちがあの壁と向き合うのはまだまだ先ってことです」
「そういえば今朝、お父さまが協会幹部の人と橋の建設について話し合っていたわ。町の職員も来ていたから、まさに設計の計画を練っている最中ということね」
スエンはユリオスを優しくなでながら言いました。そのことで思い出したのですが、トウヤンやサメヤラニたちも朝から騒がしく廊下を歩いていた気がします。イザナたちは蚊帳の外という感じがしましたが、難しい橋の会議にでたところでろくな会話ができないのは目に見えていました。
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