星物語

秋長 豊

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第6章 過酷な試練

32、炎の目

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 それから数週間後、トロベム屋敷で恐ろしい事件が起きた。エシルバがいつものように大皿の料理をトングで取り分けていると、使節団で飼われている老犬バイセルがいつになくバウ! バウ! と威嚇するように吠え続けるのでうるさかった。

「バイセル! バイセル! 静かにしないとお隣の部屋に連れていっちゃいますよぉ!」
 スピーゴがなんとか落ち着かせようとするも、バイセルは鳴きやまなかった。

「おい、ウリーン」リフが声を掛けた。「ポリンチェロは?」
「おい、だなんて下品な呼び方はやめて」

 リフは今にも沸騰しそうな顔になった。
「じゃあなんて言えばいいんだよ」

「普通に名前で呼べばいいのよ」
「もう一度聞くけど、ポリンチェロ知らない?」

「さっきまで部屋にいたと思うけど?」時計を見てから「仕方ないわね、呼んでくるわ」と答えた。

「今日は随分とほえるなぁ。窓の外になんかいるのか?」リフが顔をしかめた。
「さぁ」エシルバはトマトの上にのっているプルプルしたゼリーをはじきながら言った。
リフがふと窓ガラスに目を移したときだった。

「なんだ、あれ?」

 リフが声を上げた。窓ガラスに一通の手紙がペタリと張り付いている。遠目で見ただけなのにエシルバは気味悪さを感じた。窓辺の席に座っていたエレクンが手紙を取った。

「こんなところに手紙だ。宛名は――」エレクンは言った。「エシルバ|スー」

 その言葉に黙々と手を動かしていたシィーダーが動きを止めた。一番驚いたのはエシルバだった。

「変な手紙だ。こんな所に張り付けるなんて……誰かのいたずらか?」
 ダントがカヒィにささやいた。エシルバは聞かないふりをしてエレクンから手紙を受け取り、自分の席に座って封を切った。中にはクシャクシャにされた一枚の紙があった。「なんて書いてあるの?」リフが隣で手紙を見ようと首を伸ばしてきた。

 手紙にはこんな文字が書かれていた。

   鍵の持ち主よ
   闇の使者に従わなければ
   娘の命はないと思え

「脅迫文だ!」

 カヒィが雷鳴のように叫んだ。エレクンがすぐに立ち上がって手紙を拝借した。短い文面に目を通したところでフッと顔を上げた。ナジーンが手紙のあった場所をウロウロし始め、やがてあるものに視線を落とした。

「髪の毛が落ちている」ナジーンは恐ろしく静かな口調で言った。

 シィーダーが窓を開けてそれを確認した。
「これは人の髪の毛だ」
 シィーダーは一つに結わえられていたと思われる髪を見て言った。カヒィが口を手で覆い、危うく叫びそうになるのをこらえていた。ジグがものすごい勢いでシィーダーに近づき髪の毛をまじまじと見つめた。

「あの子の髪だ」
 エシルバとリフは顔を引きつらせた。あの子ってまさか……

「手紙にはなんと書かれてあるのです?」ジグが言った。
「鍵の持ち主よ、闇の使者に従わなければ、娘の命はないと思え」

 エレクンは冷静に読み上げ、その横でジグが顔を真っ青にさせて女性棟の方へ走り出した。

「手紙を失敬」
 シィーダーは手紙をのぞき「なるほど」と言った。「どうやらこの文字は本人が書いたようだな」

「そのようだ、シィーダー」ルバーグは言った。

「一体なぜ、このようなことを? しかもエシルバ|スー宛てに」ナジーンが言った。

「犯人はジリー軍だ。ブユの石板を探しているんだ」
 エシルバが前に出てエレクンを直視しながら言った。

「その石板のことをどこで聞いた」シィーダーが眉をひそめた。

「ナジーンから聞きました。僕が……この鍵を持っているから。きっと犯人はこの鍵を利用すればブユの石板のありかを探しだせると考えているんです」
 エシルバはとっさに言った。

「君を利用して、か」顔がゆがんだ。「根拠があるのかを知りたいところだ」シィーダーは険しい顔で見た。

 ドタバタ上の方で走り回るような音が聞こえ、やがてジグと特別監視官のアムレイ、ジオノワーセンが下りて来た。遅れて動揺したウリーンが飛び出した。「彼女、どこにもいないわよ」

「古代ブユ人は石板を人目に触れないように、大樹堂のどこかに隠したそうです。しかも、簡単には見つからないように、ブユと精通した人間でしか通れないように罠を仕掛けた。つまり、ブユに与えられたこの鍵を持った僕になら、ブユの石板がある場所まで行けると犯人は考えているに違いない」

「手紙の文面を見れば、犯人の目的は、君をなにかに誘導させようとさせていることは一目瞭然。しかし、コレの一体どこに、ブユの石板という文字が書かれてあるんだ。よーく見たまえ。少し、話が飛躍しすぎではないか」シィーダーはキッパリと言った。

「でも……」エシルバはこれ以上シィーダーに歯向かえる気がしなかった。

「落ち着くんだ」エレクンがこの場にいる全員に呼び掛けた。「恐らくあの髪の毛はポリンチェロのものだ。手紙と一緒に落ちていたということは、事件に巻き込まれた可能性が極めて高い。彼女を最後に見かけたのはいつだ」

「今日の昼ごろまでは一緒でした。それ以降は」エシルバは言葉を詰まらせた。

「ポリンチェロは用事があると言って屯所に残ったんです。俺はいつも通り内務を終えて彼女より先にここへ戻りました。夕食の時間になってポリンチェロが一向に来ないので、ウリーンが呼びに行って、それで……」リフは沈んだ声で説明した。

「分かった。とにかく今晩は一カ所に集まりなさい。私はオウネイにこの件を報告する。アムレイ、ジオノワーセン、警戒を怠るな。この手紙は私が預かっておく。ナジーンは念のため対ジリー軍防衛課にこのことを知らせるのだ。シィーダーは屯所付近の見回りに、ジグはルバーグと共に委員会に知らせに行け。その他の人員はこの場で待機するように」
 エレクンの一声でひとまずパニック状態にはならなかったが、団内は急に慌ただしくなった。

 恐ろしいことが起こってしまった。
 エシルバ、リフ、カヒィの3人は部屋の隅で身を固めていた。

「あの手紙、本当にポリンチェロが書いたのか?」
 バイセルを抱き締めながらカヒィが言った。

「書かされたのかもしれない。つまり、犯人の言うことを聞かなければならない状況だったってことだよ」リフが言った。
「このままじゃまずいよ、彼女が危ない」エシルバは声をひそめて言った。

 あの不気味な手紙とポリンチェロの髪の毛が頭から離れない。エシルバは一緒に堂下町へ行った帰りの列車の中で、悪夢から目覚めた自分に優しくほほ笑み掛ける彼女の顔を思い出した。あんなに優しい女の子がたった今、どこかで一人おびえて助けを待っているなんて。

「あんなジグの顔、見たことなかった」リフは思わず言った。
「君の言うとおりだ、リフ。あの手紙、ジリー軍の一味が送りつけたんだよ」エシルバが言った。「僕のせいだ。彼女を助けないと」

「でも、どうやって」リフは唇をかんだ。

「分からないよ!」
 エシルバはイライラした。

「鍵の持ち主よ、闇の使者に従わなければ、娘の命はないと思え」カヒィがつぶやいた。
「鍵の持ち主って、君のことだろう?」とリフ。
「闇の使者がなんなのかよく分からない」エシルバはうなった。

「ジリー軍なのは分かったけど、誰なのかが問題だ。俺たちの知っている人間か?」

 リフの言葉に2人は沈黙した。

 その日、エシルバたちはリビングで不安な夜を過ごした。リフは不安を紛らわせようと眠りにつく最後までポリンチェロとは関係のないテレビ番組の話やレエダーモの話をブツブツしゃべっていた。

 エシルバはただその話にウン、ウンと相づちを打って聞いていたが、頭の中は誘拐事件のことでいっぱいだった。そのことを頭の中から追い出す方が難しいと思った。リフは話し疲れたのか昆虫の種類を話している途中で眠ってしまった。

 意識が薄れて行く中、誰かのすすり泣くような声が聞こえた。

「カヒィ?」

 薄暗い空間に呼び掛けると、かすれた声が返ってきた。振り返ると毛布にくるまったカヒィがシクシク泣いていた。エシルバはそっと毛布をめくり、涙にぬれたカヒィの顔を見た。いつも前向きで頼りになるカヒィがこんなふうに泣いている姿なんてみたことがなかった。

「こんな顔、見るなよ」
 カヒィは恥ずかしそうに前髪で目元を隠した。

「あぁ、白状するよ。ここに入って一度も泣かないと決めたんだ。でも無理だった。こんなことが起こるなんて、すごくショックだったんだ」

「うん」
 エシルバは静かに言った。

 カヒィの両手には小さなペンダントが握られていた。
「それ、大切なものなんだね」

「母さんがくれたんだ」

「そこに写っているのは君の家族?」

 カヒィはうれしそうな顔をして見せてくれた。ペンダントの中には幸せな一家の集合写真が納められていた。父と母、それに兄らしき男の子が一緒に写っていた。

「本当は怖い。アバロンのことを知ってから、あれほど大好きだった星空も見るのをやめた。なんだか空を見ていると、真っ赤なアバロンが落っこちてくるんじゃないかって、今にも恐ろしくなるんだ。でも、うれしかった。アバロンを阻止できるかもしれない、そんな可能性を持った君が使節団に入ってくるって聞いて。君に会えたことが僕の希望だった」

「カヒィ、うれしいけど……僕はみんなが言うほどの人間じゃない」
 エシルバは視線をぼんやりと下に移して言った。

「僕らがどんなに一生懸命になってもがいても、どうにもならないんだったらしょうがない。でも、それまでは頑張るよ。だからエシルバ、お願いだ。君の力にならせてくれ。僕はジグやシィーダーみたいに立派な大人になれるか分からないけど、君を守れる盾くらいにはなる」

 カヒィは目元を拭い、気張った笑みを見せた。エシルバは急に彼がいとおしくなってギュッと抱き締めていた。「ありがとう」

 こんな状況なのに、心の中がじんわりと温かくなるのを感じていた。そうだ、怖いのはみんな同じなんだ。母親の墓前で運命を呪って絶望した自分がいたように、多くの人間が恐怖と闘っている。

『この先、必ず手を差し伸べてくれる人が現れる。そして、お前自身も他人を助けられるようになる』

 アソワール叔父さんがお別れのときに話してくれた言葉。その意味が今になって分かったような気がした。ただ、蛙里での平凡な思い出をゆっくり振り返るほどの余裕はなかった。ゆらめく赤い光が窓越しにエシルバたちを照らしたからだ。

「外だ!」アムレイの緊迫した声がリビングに響く。

 ジオノワーセンが外へ駆け出し、眠りについていた団員は一斉に飛び起きた。外に出るなと忠告を受けたエシルバたちはやけに明るい外の景色を見て腰を抜かすかと思った。芝生の上をものすごい勢いの炎がはうようにして広がっていたのだ。

「真ん中になにか見える」しばらくして目がさえるようになったカヒィはとりみだして叫んだ。「ポリンチェロ?」

 全員が一瞬固まり、誰かが様子をうかがいに向かった。炎の隙間から真っ黒に焦げた何かが見えたのだ。

「静まれ!」エレクンが部屋に入ってきた。「誰も外に出るな!」

 その途端、エシルバは夢中でリフとカヒィの手を引っ張って階段を駆け上っていた。

「あんなの常軌を逸している!」
 リフは息を切らしながら3階の渡り廊下でわめいた。

「落ち着いて聞いて。あれは絶対にポリンチェロじゃない」
「大丈夫だ、落ち着こう」
 カヒィはひどく混乱しながらも深呼吸して言った。

「落ち着けるかよ!」

「これはきっと、ジリー軍が仕組んだ罠なんだ」エシルバは言った。

「カヒィ、エシルバ、君たちも見ただろう? 黒こげになった彼女を!」

「あれは人形だよ! 見えたんだ。カヒィが勘違いしただけだよ」

「人形?」リフは眉をひそめた。

 間に気まずい空気が流れ、少し落ち着いたところでエシルバは窓を開けた。

「なんだあれ」リフはそこに見えた光景にぼうぜんとしていた。

 炎は大きな弧を描いていた。

「目だ」
 エシルバはつぶやいた。

「あぁ、目だ……」
 リフは力のない声で言った。

 3人には、巨大な目の形をした炎の線がはっきりと見えていた。1階からは見えなかったが、ここからならはっきりとその全貌が見えた。トロベム屋敷前の芝生は何かの儀式に利用されたかのように不気味だった。数分後、消防車が火消し活動を開始して炎の目はすぐに鎮火した。

 しばらくなにも言えない3人は3階の壁にもたれかかって放心状態だった。

「俺、あのマークがなんなのか知ってる」やがてポツリとリフが言った。「ジリー軍の呪いのマークだよ。あのマークをつけられた人間は正気でいられなくなるんだ」
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