視聴の払霧師

秋長 豊

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68、影踏み

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 5分間の練習が終わり、也草が汗を拭いながらオリバスの箱から出てきた。モニターから見る限り、ちっとも疲れている様子はなかったのに、実際はかなり体力を消耗するらしい、彼の額には汗がにじんでいた。

「也草くん! お疲れ様」

 具視より先に聴具がにっこり言った。

「あ、あぁ」

 也草は休憩用のベンチに座って聴具に差し出されたタオルで汗を拭った。

「今見た通り、壁から壁への移動を繰り返すことで移動の強化を図る。短距離な分、1回当たりの移動による体への負担は平時の倍。最初は制限時間を設けないで、壁面への単発移動を練習した方がいい。慣れてきたら、さっき俺がしていたように環境と時間を決めてやれ」

 3人はオリバスの箱内部に再び入り、向き合った。

「守護影を影にしまえ」

(しまえ?)

 具視は一瞬何を言っているのか分からずポカンとした。

「守護影が影領域の外に出ている時は移動ができない」

 そんな決まりがあったなんて知らなかった。

「でも、そうやって……」
「影を踏めばいい」

 也草は聴具の前に立った。

「初歩的な影技の一つ、影踏み。自分の影を踏み込むことで強制的に守護影を呼び出したり、影領域に戻したりできる。波江聴具、悪いが少々手荒に戻すことになる。自分で戻ってもらっても構わないが、今は具視の練習のために付き合ってくれ」

「うん。分かった、いいよ」

 也草はうなずくと、自分の影をダンと1回強く踏みつけた。1秒にも満たない速さで具視たちの前に黒い影が出現し、獣の形になった。也草の守護影であるオオカミだ。驚く間もなく、也草はもう一度影を踏みつけ、オオカミはあっという間に姿を消して見えなくなった。

「今のが影技の影踏み、強制出現と強制帰属。やってみろ」

「はい」

 具視は少し緊張した。なんだろう、ただ影を踏んでいるように見えたが、本当にそれだけで影踏みができるのだろうか。具視は1回自分の影を踏んだ。

 ダン!

(あれ?)

 聴具は目の前にいる。

(なんで消えないんだ?)

「影踏みの成功率は”意識”が鍵だ。本人に戻すつもりも出すつもりもなければ、守護影はそれに応えない」

「明確な答えがないんですね」

 どうやら数学のようにはいかないらしい。

 その後も何回か影踏みを試みたが、何度影を踏んでも聴具は戻らなかった。結局時間ばかり食うので聴具は自主的に影領域へ戻り、オリバスの箱内部での練習に戻った。

「まずは移動して壁に着地できるところからだな。受け身が取れなければ話にならん」

 壁にぶつかって鼻血を出した記憶がよみがえる。

「いきなりは無理ですよ」

「最初から完璧にやれとは言ってない」

 ということで、也草先生指導の下具視の移動練習が始まった。

 ――が、想像してほしい。たった1回移動を経験しただけの男が、2回目には壁の激突を回避できるなんて、不可能に近いということを。

 意識を集中させ、移動したい壁面を見つめる。

(赤印が出るのを待つんだ)

 守護影との意思疎通が取れた時に出る、赤色の印。具視はじっと長い時を耐えて赤印が出るのを待った。数秒後、視界の一部に赤色の点がポツンと浮かび上がった。最初に見た時と同じ――

(今だ!)
 具視は踏み出した。

 フッと体が宙に舞う感覚。

 ゴツン! と頭を打った。

(あれ?)

 具視は壁に全身を打ち付けキュルキュルずり下がっていた。

(痛く……ない)

 受け身を取りそこなったのは確かだが、体の痛みはなかった。驚いて壁に触れてみると、ムニッと指が深く沈み込んだ。どうやらオリバス内部の壁は緩衝効果のある素材で造られているようで、それがなければ鼻血を出していたところだ。

「速さに慣れてきたら、最初に足で着地し、後から両手をつき衝撃を緩和するイメージしろ」

(慣れるまで全身で受け止めるしかないと?)

 もはや感覚で覚えていくしかなさそうだ。まったく、移動というのは桁外れに難しい。あんな苦もなく壁を行き来する也草も、最初のころは壁に激突していたのだろうか? そう考えたところで聴具が出てきた。

「……大丈夫? 具視」

「はい、なんとか。柔らかい壁のおかげで助かりました」

「難しいんだね、移動って」

「……はい」

 具視は肩を下げて言った。

「とにかく回数をこなせ」

 この時ばかりは也草の言葉が鬼のように聞こえた。 
 午後1時まで、みっちり移動の練習を続けた。百発百中、ことごとく壁に激突するという目も当てられないような現状。それでも也草は具視を見捨てることなく、アドバイスして手本まで見せてくれた。
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