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29、払霧師になるということ
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沈黙が流れた。
「一言じゃ……言い表せません」
具視は少し笑顔になって言った。
「強いて言うなら、人のためです」
「人のため?」
「はい」
具視ははっきり答えた。
「人のためになる仕事は払霧師以外にもある。払霧師でなきゃいけない理由はなんだ」
吉田は目をそらさずに言った。
「3年前、家族を霧で失いました。俺にはこのくらいの同い年の姉がいて、その日は10歳の誕生日を祝うパーティーを家で開いていました。父と母も、そばで笑っていてくれて。幸せでした。でもそれが、突然……」
具視は言葉を詰まらせた。
「もう、全てが終わったと思いました。俺の人生はそこで終わったのだと。だけど、この通り続いていて……。でもそれは、ある人がいてくれたおかげなんです。その人の行動が俺の命を救い、言葉が――心を生かしたんです。也草さんだって、龍太郎さんだって、助けてくれる。
俺は、俺を助けてくれた人のために生きたいんです。大切に思ってくれる人のために、強くなりたい。だから、与えられたこの機会を、無駄にはしたくないんです。橋本さんが払霧師になれと言ってくれた時、うれしかった。もう、誰にも期待されていないと思っていたから。
彼は、俺を”化け物”とも”かわいそう”とも言いませんでした。だから、俺は彼を信じます。もう、0・1%の幸運を、不運だなんて思うだけの自分ではいたくありません。最強の払霧師になって、人を助ける。それが、俺の成し遂げるべき使命。全身全霊、人のために生きる。そのために、俺はここに来たんです」
吉田はろうそくの火に照らされた顔を縦にゆっくり振った。
「そうかい」
とだけ言った。
「若いのに、立派な志だね。お前さんが言っていた命の恩人とは、藤原也信のことだろ」
具視は思ってもみない言葉に目を丸めた。
「ご存じなんですか?」
「知っているもなにも、今でも覚えているよ。彼が守護影審査を受けに来た日のことを。私も審査をやって随分と長いからね。今の払霧師は、皆ここを巣立っていった卒業生たちだ。もちろん、その多くは戦いで敗れ死んでいった。也信もその一人になってしまった」
返す言葉が見当たらず、具視はしばらく床に視線を注いでいた。
「どんな人、だったんですか。也信さんは」
そう、伏し目がちに尋ねた。
「いい子だった」
吉田は目を三日月形にした。
「物分かりのいい、それでいて弟思いのお兄さんだった。責任感が人一倍強くてね。弟の也草はそんな也信の後ろにいつも隠れていた。あの子は少し恥ずかしがり屋でね。ここに来た当初はまだあどけなかったが、2人とも立派な男になったよ」
責任感が強くて、弟思い。確かにその通りだ。自分の体が溶けているのにもかかわらず、高層マンションから落下する具視を助けた払霧師としての責任感。最期まで弟のことを気にかけていた兄としての姿。そんな彼も、かつては守護影審査に通い、吉田を前に未来を語っていたはずだ。そのことを考えるだけで、具視は目の奥が熱くなった。
「彼が助けた子が、こうして守護影審査に来た。私は、その事実だけで胸がいっぱいだ」
きっと、この吉田という人は、たくさんの払霧師たちを世に送り出してきた。でも、それはきっと頼もしくもつらいものであっただろう。祖母が言っていた言葉が今も鮮烈に頭の中に残っている。
”払霧師になるというのは戦争に行くことと同じくらい、壮絶で過酷な人生を背負うということなんだよ”
払霧師だって人間だ。
父と母がいて、きょうだいや恋人がいる人もいる。最初は一般人だ。それを、吉田は審査を通して守護影を目覚めさせ、払霧師の水先案内人となる。きっとそれは、大切なわが子を戦場へと送り届けるようなものだ。
それでも、皆覚悟を持っている。
吉田は見送る覚悟を。
払霧師は、命を懸けて戦う覚悟を。
具視は後者だ。
「それでは始めよう」
吉田は容器に入った血を皿の上に注ぐと、具視から延びる影に一滴一滴落とし始めた。
影に垂れた血は目に見えない匂いとなって、ゆっくり、ゆっくり影の世界へ染み込んでいく。ちょうど、波風も立たない穏やかな水面にバケツ一杯の血を流し、徐々に赤く染め、匂いが広がっていくように。
影の世界では、獅子がいびきをかいていた。やがて染みわたってきた血の匂いが嗅覚を刺激していく。呼吸の中に吸い込まれていく。
「一言じゃ……言い表せません」
具視は少し笑顔になって言った。
「強いて言うなら、人のためです」
「人のため?」
「はい」
具視ははっきり答えた。
「人のためになる仕事は払霧師以外にもある。払霧師でなきゃいけない理由はなんだ」
吉田は目をそらさずに言った。
「3年前、家族を霧で失いました。俺にはこのくらいの同い年の姉がいて、その日は10歳の誕生日を祝うパーティーを家で開いていました。父と母も、そばで笑っていてくれて。幸せでした。でもそれが、突然……」
具視は言葉を詰まらせた。
「もう、全てが終わったと思いました。俺の人生はそこで終わったのだと。だけど、この通り続いていて……。でもそれは、ある人がいてくれたおかげなんです。その人の行動が俺の命を救い、言葉が――心を生かしたんです。也草さんだって、龍太郎さんだって、助けてくれる。
俺は、俺を助けてくれた人のために生きたいんです。大切に思ってくれる人のために、強くなりたい。だから、与えられたこの機会を、無駄にはしたくないんです。橋本さんが払霧師になれと言ってくれた時、うれしかった。もう、誰にも期待されていないと思っていたから。
彼は、俺を”化け物”とも”かわいそう”とも言いませんでした。だから、俺は彼を信じます。もう、0・1%の幸運を、不運だなんて思うだけの自分ではいたくありません。最強の払霧師になって、人を助ける。それが、俺の成し遂げるべき使命。全身全霊、人のために生きる。そのために、俺はここに来たんです」
吉田はろうそくの火に照らされた顔を縦にゆっくり振った。
「そうかい」
とだけ言った。
「若いのに、立派な志だね。お前さんが言っていた命の恩人とは、藤原也信のことだろ」
具視は思ってもみない言葉に目を丸めた。
「ご存じなんですか?」
「知っているもなにも、今でも覚えているよ。彼が守護影審査を受けに来た日のことを。私も審査をやって随分と長いからね。今の払霧師は、皆ここを巣立っていった卒業生たちだ。もちろん、その多くは戦いで敗れ死んでいった。也信もその一人になってしまった」
返す言葉が見当たらず、具視はしばらく床に視線を注いでいた。
「どんな人、だったんですか。也信さんは」
そう、伏し目がちに尋ねた。
「いい子だった」
吉田は目を三日月形にした。
「物分かりのいい、それでいて弟思いのお兄さんだった。責任感が人一倍強くてね。弟の也草はそんな也信の後ろにいつも隠れていた。あの子は少し恥ずかしがり屋でね。ここに来た当初はまだあどけなかったが、2人とも立派な男になったよ」
責任感が強くて、弟思い。確かにその通りだ。自分の体が溶けているのにもかかわらず、高層マンションから落下する具視を助けた払霧師としての責任感。最期まで弟のことを気にかけていた兄としての姿。そんな彼も、かつては守護影審査に通い、吉田を前に未来を語っていたはずだ。そのことを考えるだけで、具視は目の奥が熱くなった。
「彼が助けた子が、こうして守護影審査に来た。私は、その事実だけで胸がいっぱいだ」
きっと、この吉田という人は、たくさんの払霧師たちを世に送り出してきた。でも、それはきっと頼もしくもつらいものであっただろう。祖母が言っていた言葉が今も鮮烈に頭の中に残っている。
”払霧師になるというのは戦争に行くことと同じくらい、壮絶で過酷な人生を背負うということなんだよ”
払霧師だって人間だ。
父と母がいて、きょうだいや恋人がいる人もいる。最初は一般人だ。それを、吉田は審査を通して守護影を目覚めさせ、払霧師の水先案内人となる。きっとそれは、大切なわが子を戦場へと送り届けるようなものだ。
それでも、皆覚悟を持っている。
吉田は見送る覚悟を。
払霧師は、命を懸けて戦う覚悟を。
具視は後者だ。
「それでは始めよう」
吉田は容器に入った血を皿の上に注ぐと、具視から延びる影に一滴一滴落とし始めた。
影に垂れた血は目に見えない匂いとなって、ゆっくり、ゆっくり影の世界へ染み込んでいく。ちょうど、波風も立たない穏やかな水面にバケツ一杯の血を流し、徐々に赤く染め、匂いが広がっていくように。
影の世界では、獅子がいびきをかいていた。やがて染みわたってきた血の匂いが嗅覚を刺激していく。呼吸の中に吸い込まれていく。
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