視聴の払霧師

秋長 豊

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9、晴れた霧

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 彼の左肩は今もなお煙を上げたままだ。しかも、首にまで蒸発が進もうとしている。平気そうなふりをしているが、体中から滝のようにあふれる汗、真っ青になった顔、浅い呼吸を見れば分かる。痛みに耐えているだけなのだと。

「あなたは……?」

 具視は力のない声で言った。

「俺はもう、駄目だ」

 今まで冷徹な顔をしていた男は初めて笑った。

「霧を吸い過ぎた」

 具視はギュッと唇をかみしめた。

「誰も生き残ってやしない、そう思った時、お前の叫び声が聞こえたんだ。でも、これじゃ……あんまりだよな。全員死んでさ、お前だけ生き残って。まだ10歳かそこらだろ。つらいよな。もっと、楽しい思い、してたかったよな……ごめんな」

 男は壁側まで歩いていくと、寄りかかってガクリと膝を折った。

「おいで」

 具視はうなずいて彼の懐に身を寄せた。男は残された右手で震える具視を引き寄せ、刀で霧を払った。

「米沢流、橋本南薺が主。俺の名前は藤原也信(やしん)だ」

 具視は体が溶けていく音を聞いていた。

「お前、名前は?」

「波江具視」

「そうか」

 具視は静かにうなずいた。

「具視、お前を死なせない。だから、この命尽きるまで、この霧が晴れるまで、俺はお前のそばにいると誓おう。ここから離れるな。なにがあっても大丈夫だ」

 男はしっかり柄を握り、前を向いた。

 つらい時間だった。ただ、無力な体を死にかけた男の体に預ける。また、いつ紫奇霧人が襲い掛かってくるかも分からない。男はずっと具視のそばから離れなかった。やがて遠くの霧が明るくなり、徐々に景色が見えるようになった。

「也信さん」

 怖くなって名前を呼んだ。

 ふと顔を上げると、蒸発は彼の右顔半分にまで及んでいた。

「……っ!」

 也信は霧の晴れた空を見上げていた。

「具視……」

 こんな状態にもかかわらず也信は言葉を発した。也信は自分の胸にある赤色の宝石がついたバッジを取った。

「也草(やぐさ)に渡してくれ。弟だ」

 具視は冷めきった彼の手ごとバッジを包み込んだ。

「もう、そばにいてやれない。あいつ、友達いないんだ。兄だけが友達じゃあこれから先、さみしいだろ? だからいい友達が、見つかるといいな。大丈夫、也草にならできるか。あいつは心を開かないだけだ。心を開けば必ず……」

 具視は彼の手を強く握った。

「友達になります」

 閉じかけた目の奥に光が宿った。

「ほんと?」

「本当です」

「俺の弟はわがままだぞ」

 具視は目を腫らしながらうなずいた。

「僕も……弟ですから」

 也信はつらそうにしながらほほ笑んだ。

 コツ、と具視の頭に也信の顎がのった。

「ありがと」


 顔が――消えていた。


 具視は、顔のない也信の体を強く抱き締めた。涙は際限なくこぼれ落ちた。

 明るさを増す陽光が2人を照らした。死んだ者は返事をしない。そんなことは分かっている。顔のない、也信の体。消えかかった右手につかまれたままの刀。霧を払ってくれていた光は完全に消えていた。

 具視は薄まった周囲の霧を見て、憎悪と悲しみに震え飛び出した。体にまとわりつく霧を手で振り払い、どこまでも走り続けた。

「あんなのは人間の死に方じゃない!」

 具視は息を切らしてアスファルトの上に膝をつき、拳を何度もたたきつけた。

「うああぁああぁぁぁ!」

 骨が折れ、血がにじむ。

 一体、なにをしていたんだ。

 みんなが苦しんで死んでいく中。

 寝ていただけじゃないか。

 母さんも、父さんも。

 聴具(さとも)も――
 
 也信さんも。

「返せ……」

 具視はボロボロになった声で言った。

「父さんと、母さんを返してくれ……聴具を返してくれ!」

 具視は叫び続けた。心の中にとめどなく流れる後悔の言葉を口にし、張り裂けんばかりに。霧は完全に消え去り、太陽だけが具視を照らしていた。
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