また、猫になれたなら

秋長 豊

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1、猫になった!?

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 うっすらと開いた目の先でカーテンが風に揺れていた。そばにあったスマートフォンを見て、あと15分は寝られると思い枕にうずくまる。

 ドン、ドン。

 母の足音。1階の台所でガスをつけたところだ。それから水道管を流れる水の音。皿がテーブルにつく音。情景が思い浮かぶほど鮮明に音が伝わる。

 空雄(そらお)はむくりと起き、気付いた。視界に入った髪が白い。

 変な声が出た。まさか、一瞬にして白髪の老人になったのだろうか。眠っている間に、実は70年以上もたっていたとか。あらぬ妄想に取りつかれながら鏡を探そうと立ち上がった時、今度は尻から白いしっぽが見えた。

 猫なんて飼ってないし、保護した記憶もない。それに、妙にでかすぎやしないだろうか。これじゃあライオンかトラくらいの大きさだ。空雄は何げなくしっぽを握った。

 眠気が覚める。体の一部とでも訴え掛ける感覚。バッと起きてベッドの下に転げ落ちた。今度は弾みでしっぽを尻に敷き、激痛が走る。

 もう踏んだり蹴ったりで、空雄ははいずりながら鏡をのぞいた。いつものさえない顔があると思いきや、髪の毛は1本残らずまつげまで白い。鼻はつんと高くなり、目は左が黄色、右が水色になっていた。頰にはひげこそ生えていないが、人間の耳はなくなり、猫の耳が生えている。手と足の爪は鋭く伸び、手のひらはゴムみたいに弾力があった。

「うそだろ。俺、猫になったのか? いや待て、落ち着け、落ち着くんだ。そんなこと、ありえないだろ」 

 空雄はカーテンの隙間から外をのぞき、この状況が夢であることを願った。外には通学路を歩く生徒たちの姿が見える。こんなあほみたいな状況で、学校に行けるわけがない!

「小春。お兄ちゃん起こしてきて」

「えー」

「お願い。遅刻しちゃうから」

 いつもなら聞こえない母と妹の会話がはっきり聞こえた。まずい、この部屋に来る! 妹が階段を面倒くさそうに上がってくる音を聞きながら、空雄は頭を抱えた。小春のことだ。きっとこの姿を見て、近所まで響く声で叫ぶだろう。

「お兄ちゃん! いつまで寝てるの?」

 小春はドアを開けた。

「遅刻しちゃ――」

 誰もいない部屋を見て小春は口をつぐんだ。部屋の中をうろうろした後、不思議そうな顔をして戻って行った。その一部始終を、空雄はクローゼットの中からのぞいていた。胸をなでおろしたのも束の間、今度は母を引き連れてくる足音が聞こえた。空雄は忍び足で窓を開け、通学路から人が引いた隙に屋根へ出た。

「ほら、いないでしょ?」

「おかしいわね。どこ行っちゃったのかしら」

「トイレと洗面所にもいなかったよ」

 2人の会話に耳を立てながら、空雄は心の中で”どうしよう”と連呼していた。自分でさえ状況の整理がつかないのだ。話す道筋なんて思いつくわけがない。

 いずれ学校を無断で休めば家にも連絡がいく。とにかく、今は人目が多い通勤通学時間が過ぎるのを待って、妹が家を出た隙に母へ話そう。

 空雄は2人がいなくなった後部屋に戻り、パーカー姿に着替えた。目立つ髪色と耳を隠すにはピッタリのアイテムだ。しっぽは思いのほか敏感だったので出しっぱだが、家の中だから構わない。まずはスマホで情報収集。とりあえず「猫人間」というワードで検索してみたが、それらしきものはヒットしなかった。

 30分後。2階に上がってくる人の気配はない。今の空雄は人間離れした聴覚を持っていた。理由は分からないが、この三角形の耳がアンテナの役割を果たしているに違いない。居間の音を鮮明に拾えるくらいだ。誰が2階に上がって来ようとも、この耳をごまかせる人間などいないはずだ。

 慢心したせいか、背後の物音に気付くのが遅れた。振り返ろうとした時、フードが何者かの手により勢いよく外された。驚かそうとしたのか、小春が「わぁっ!」と無邪気に声を立てる。が、空雄の姿を見た瞬間……

「「ぎゃあああああああ!」」

 家中に2人の叫び声が響いた。

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