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冷たい。
触れた唇からひかりの体温を感じ取った俺は、ひかりの体を挟むようにソファの背にかけていた両手をそのままひかりの背中に回していた。
「ひかり、湯冷めしただろ」
俺はひかりの冷たい耳に自分の熱い息がかかるようにわざと口を近づけた。
「え、そんなことないよ。元々、冷え性だから、って、大ちゃん!?」
「何?」
まだ素直に目を閉じているひかりを横目に確かめ、俺はひかりの耳にそっと唇で触れた。
「ちょ、何って、なにして」
「ひかりの耳冷たいから、温めてる」
俺はそのままひかりの冷たい小さな耳に息を吹きかけてやる。
「!ちょ、くすぐった、」
ひかりが小さく揺れるように笑う。
「でも、あったかいだろ?」
「それは、そうだけど、そうじゃなくて、」
小さなひかりの声が俺の耳元で聞こえる。
俺はひかりを両腕で抱きしめる。
ひかりの冷えた耳が俺の頬に当たる。
それが、俺には気持ちよかった。
ひかりが俺の体温を受け取り、少しずつ熱を持ち始める。
そして、俺の熱はひかりの心地よい冷たさに少しずつ引いていく。
抱きしめれば抱きしめるほど、それはお互いに心地よくて、どこまでも一つに溶け合える気がした。
ひかりがそっと俺の背中に手を回した、その時、
トゥ、トゥルルルル……トゥルルルル
その静かな空気を破るように電話が鳴った。
「!」
「!」
そして、その音に俺もひかりも閉じていた目を開いた。
先ほどまでの静かな緩やかな世界がまるで夢であったかのように、その音は強く、乱暴に鳴り響いていた。
トゥルルルル……トゥルルルル
俺とひかりはお互いに目を見開き、一瞬、視線を通わせると、同時に笑った。
「……ふふ、ふは、」
「……は、ははは、」
多分、俺たちは一瞬だけ繋がってしまったのだと思う。
電話が鳴る、ほんの一瞬前。
俺とひかりは、きっと、同じ思いを抱いた。
それは繋がった瞬間に、一瞬にして解けてしまったけれど。
だから、もうそれを確かめることはできないのだけれど。
でも、確かに繋がった気がしたんだ。
トゥルルルル……トゥルルルル
「大ちゃん、電話でないと」
「あ、うん」
繋がったことをお互いに感じたのに、それを確かめられなかったことに、俺は少しだけ残念に思ったけれど、同時に少しだけホッとしてもいた。
それは、きっと、ひかりも同じだったのだろう。
だから、俺たちは、笑った。
笑うしかできなかった。
繋がった瞬間の嬉しさよりも、恥ずかしさの方が俺たちには残っていたから。
そのことに気づかないように、蓋をするように、俺たちは笑ったのだ。
「北海道からお土産送ったから、受け取っておいてって」
「智子さん?」
「そう」
受話器を置いた俺は壁の時計に目を向ける。
ひかりも俺の視線につられるように時計を見上げた。
「もう12時になるね」
「電話かかってきたの、11時前だった気がするけど」
「大ちゃん、ほとんど、「うん」とか「あぁ」とかしか言ってなかったのにね」
「母さん、一人でずっと喋ってたからな」
「きっと、おじさんも翔太くんも先に寝ちゃったんだろうね」
ひかりが膝の上に開いていた雑誌を閉じ、テーブルに置いた。
「大ちゃん、明日も練習?」
ソファから立ち上がると、両腕を高く突き出すようにひかりが伸びをする。
「いや、明日は休み最後だから、練習はなし」
俺は軽く肩を回しながら、天井を見上げる。
「え、そうなの?」
ひかりが声を弾ませる。
その声に、俺は思わずひかりに視線を向ける。
「そうだけど……」
ひかりはいつの間にか俺の目の前までやってきていて、俺の顔をまっすぐ見上げている。
「大ちゃん!」
「……何?」
「デート!デートしよう!」
「!」
ひかりがまっすぐに俺を見上げて言った。
こんなにも素直に「楽しみ」とか「嬉しい」とか伝わってきてしまうような表情を見たことがあっただろうか。
なんだよ、コレ。
今までで一番じゃないかと思うくらい、ひかりは最高に可愛い笑顔をしていた。
幸い、先約だった安田との予定はキャンセルになっている。
それでも、一応、俺は渋ってみせる。
「ひかり、荷物が」
「大丈夫だよ。不在票入るだろうし」
キラキラとした視線に、俺は抵抗を諦めた。
なんか、ちょっと、悔しい。
「どこ、行きたいの?」
俺はニヤつきそうになる顔を片手で押さえながら、どうにか声を低くする。
「水族館!」
「……ふ、ふはっ、ははは」
「え、何?なんで笑うの?」
ひかりの即答に、あまりに目を輝かせた表情に、楽しみを隠しきれずに弾んでしまっている声に、俺はどうしようもなくやられてしまった。
「ちょ、なんで、そんなに笑うのー?」
ひかりがちょっと怒ったように拗ねて見せたが、俺の笑い声は収まらなかった。
ひかりがどうしようもなく可愛くて、どうしようもなく愛おしくて、俺はお腹が痛くなるまで笑っていた。
——その日、俺は懐かしい夢を見た。
あれは中学三年生の夏だった。
夏なのに、いや、夏だからこそエアコンの風が行き渡り、涼しい静かな空気に包まれていた。
人々のざわめきの中を優しく突き抜けるように搭乗を知らせるアナウンスが辺りに響き渡る。
「ねぇ、大ちゃん。あの飛行機、白イルカみたい。それで、あっちはクジラに見える」
ひかりがガラス越しに見える飛行機を指差しながら、後ろに並んだ俺を振り返る。風を受けた制服のスカートの裾がふわりと広がる。
「アレなんて、顔に吸い付かれているようにしか見えないし」
搭乗口から飛行機のドアへと伸びる通路を指差して、ひかりが笑った。
「ひかり、はしゃぎ過ぎ……」
俺が小さくため息を漏らしても、ひかりの興奮は収まらない。
「大ちゃん、私、わかった」
ひかりは先ほどよりも声を弾ませて、俺を見上げた。
「どうして、あんなに大きくて重い飛行機が空を飛べるのか……」
そこまで言うと、ひかりは進み始めた列に向き直り、俺に背中を向けた。
「え、続きは?」
拍子抜けした俺を肩越しに振り返ったひかりは、人差し指を下唇に当て、大きな瞳で俺の表情を確かめると、小さく笑った。
「さて、なぜでしょう?」
ひかりは、いたずらっ子の様な、ちょっといじわるで、それでいて憎めない、俺が一番弱い、最高に憎たらしくて、最高に可愛い表情を見せた。
俺の心臓がビクンっと跳ねる。
「後ろ詰まるから、行けよ」
俺はひかりから顔を背け、ひかりの肩を手で押した。
「大ちゃん、今さぁ……」
ひかりが俺の手をすり抜け、俺の後ろに回り込むと、反対に俺の背中を両手で押してきた。
「なんだよ」
俺はひかりに背中を押されるがままに進みながら、ひかりを振り返る。
「なんでもありませんよーだ」
ひかりが俺から視線を外して、口を尖らせる。
「うわ、むかつくな、その言い方」
「さ、早く行こう」
ひかりはパンっと両手で俺の背中を叩くと、今度は俺の右腕を掴み、走り出した。
「ちょ、ひかり、」
「だから、空を、泳ぐの、飛行機は」
俺はひかりに引っぱられるまま、俺たちと同じ制服で溢れる搭乗口へと伸びる列に並んだ。
「泳ぐ、か……」
俺は自分が呟く声を耳で拾うようにして目を覚ました。
あれは確か、修学旅行の時だ。
これから飛行機に乗って、みんなで沖縄に行く。
学校ではない場所で、学校のみんなといる。
それも泊りがけ。夜通し一緒にいられる。
こんな楽しい行事なかなかない。
そんないつもとはまるで違う日常の始まりに浮き足立っていて、ざわついていて、騒がしい空気に包まれていた。
そして、俺は何よりも、そんな非日常な世界にひかりと一緒にいられることにふわふわと胸がざわついていた。
ひかりもいつもよりよく笑っていて、いつもより少しおしゃべりだった。
このふわふわとした心地よさと不安感の間の心地を二人で手を繋いで歩き出す。
ここから先は楽しいことしかない。
それ以外はいらない。
それくらい乱暴な期待が僕らを包んでいた。
とても、しあわせな時間だった。
——泳ぐ。
——泳いでいる。
「飛ぶ」と、どう違うんだっけ……?
ピンポーン。
小さく点けていたテレビの音をかき消すように、まっすぐに軽やかな音が響いた。
俺は齧っていた食パンを皿に置く。
「あ、アレかな?」
向かいでひかりがスープの器を手に取る。
「多分。ちょっと出るわ」
俺は椅子から立ち上がると、インターフォンの画面を確かめる。
緑色の帽子を被ったお兄さんが画面に映る。
「宅配でーす」
「はーい」
「なんだろうね。やっぱ蟹かなー?メロンもいいなぁ」
玄関へと向かう俺の背中にひかりの弾んだ声が届いたが、俺は少しだけ首をかしげていた。
北海道からのお土産にしては、小さな荷物だったような?
インターフォンの画面の中でお兄さんは片手に小さな包みを持っていた。
それは、蟹やメロンが入っているとは到底思えない大きさだった。
「藤倉さんですね?こちらにサインかハンコお願いします」
ドアを開けると、先ほど画面に映っていたお兄さんが明るい声で受け取り票を差し出してきた。
朝の強い日差しがドアの隙間から入り込む。
俺は少しだけ目を細めつつ、差し出されたボールペンでサインをする。
「では、こちらお渡ししますね。」
俺は差し出された包みを受け取り、「ご苦労様です」とお兄さんを朝の日差しの中へと見送った。
ドアを閉め、改めて手元の包みを確かめる。
「……安田?」
「なんだったー???」
「うわっ!」
いつの間にかひかりが俺のすぐ後ろに立っていた。
突然近くで聞こえた声に驚いた俺は、あっさりとひかりに荷物を奪われていた。
「あ、それ、お土産じゃなかったから、」
「またまたー。独り占めはダメなんだから」
取り返そうとする俺の手をかいくぐり、ひかりは送付状を確かめずに荷物を開ける。
「思ったより小さいけど、なんだろうー?」
「いや、だから、違うから、返せよ」
「なんだろうね?なんだろうね?」
ひかりはステップでも踏むように、軽やかに俺をかわしてリビングに戻っていく。
「ちょ、待てって」
ひかりを追いかけながら、俺は必死で頭を回す。
荷物の差出人は安田だった。
安田から荷物が届くなんて聞いていないし、初めてのことだ。
安田から届きそうなものって一体なんだ?
今日は本来なら宿題を一緒にやるはずだったわけで。
まさか、宿題送ってきた?
「あれ、ずいぶん厳重に包装されてるなぁ。」
いや、それにしては軽いし大きさも小さいよなぁ。
宿題ではないとしたら?
「!」
俺の脳裏に安田の不気味な笑顔が浮かんだ。
あいつ、手土産持っていくって……!
「ひかり!いい加減に、」
ひかりの後ろから手を伸ばした俺は、思わずその手を止めた。
あんなにはしゃいでいたひかりがいつの間にか無言で動きを止めている。
ひかりの手元には、朝の爽やかな空気にはおよそ似つかわしくない文字が並んでいる。
「……」
何を言えば良いのかわからなくなった俺は恐る恐るひかりの顔を覗き込む。
ひかりはじっと静かに自分の手元を見つめている。
その表情からは何も読み取れない。
無表情……それが逆に怖い。
「サイテー」と罵ってくれたなら、「大ちゃんのバカ!」と怒ってくれたなら、俺だって言い返せるのに。
なんで、こんな時に限って何も言わないんだよ。
「……ひかり、言っておくけど、それ、俺のじゃないからな」
沈黙に耐えかねた俺はひかりの手元からモノを引き取ろうと、再び手を伸ばす。
しかし、あれほど動かなかったひかりが、俺が手を伸ばした途端に体を翻し、俺を正面から見上げてきた。
「……」
じっと、まっすぐ俺の瞳を覗き込むひかり。
「……なんだよ」
そのまっすぐな視線に俺の声はちょっとこわばる。
「大ちゃん」
ひかりが小さく俺の名前を呼んだ。
その瞳がほんの一瞬だけ揺れた気がした。
「ひかり……?」
けれど、それはほんの一瞬で、ひかりはいつの間にか、あの、いつもの、完璧な笑顔を作っていた。
「大ちゃん。今日のデート、楽しみにしてるね」
そう言って笑うと、ひかりは手に持っていたモノを俺の手に載せた。
「早くご飯食べて、出発しよう!」
そして、動けずにいる俺の横をすり抜けて、食卓に戻っていく。
俺は自分の手に残ったモノに視線を落とし、大きくため息をつくと同時に肩を落とした。
ったく、安田の奴、なんてものを……。
さすがにこのまま置いておくわけにはいかないので、俺はひかりが散らかした梱包材で手に持っていたモノを包み、届いた時の状態になんとか戻した。
明日、絶対、安田に返してやる。
「シロイルカ観たいなぁ。大きいぬいぐるみあるかなぁ?」
ひかりの弾むような大きな独り言が俺の肩をさらに深く落とさせた。
小遣い足りるかなぁ……
「ひかり?」
ソフトクリームを両手に持った俺が戻ると、ひかりはぴったりと壁に張り付いていた。
水族館の外の壁には小さな窓がいくつかあり、そこから中の水槽が覗けるようになっている。
ひかりの横には小学校低学年くらいの男の子が二人並んでいる。
「ひかり!」
「!」
俺の声にひかりが振り返る。
そして、横に並ぶ男の子たちの存在に気づき、慌てて場所を譲った。
「ほんと、好きだよな」
俺からソフトクリームを受け取ったひかりが俺の目を覗き込むようにじっと見上げている。
「な、なんだよ」
そのまっすぐな視線に、俺は少しだけ身構える。
「なんでもないよー」
くるりと俺に背を向けると、ひかりは日陰になっているベンチを目指して歩き始めた。
日差しがジリジリと皮膚に突き刺さる。
気温はどんどん上がっていて、ソフトクリームも早く食べないと溶けてしまいそうだった。室内で食べられるところを探したのだが、ひかりが外にしようと言って聞かなかった。
ひかりは大きな木のそばにあるベンチに腰掛けると、被っていた麦わら帽子を膝に置いた。
海からの風が緩やかに木の葉を揺らし、ひかりの汗で湿った前髪を撫でていく。
真っ白なソフトクリームの先を頬張ると、ひかりが笑って振り返った。
「美味しい!ありがとう、大ちゃん」
「どういたしまして」
俺はそっとひかりから視線を逸らし、自分のソフトクリームを舌で舐めながら、ひかりの隣に腰掛けた。
俺とひかりの触れそうで触れない隙間を潮の香りを含んだ風が吹き抜ける。
舌の先に冷たく柔らかいソフトクリームの感触。
口の中に広がるソフトクリームの強い甘み。
強い日差しが木洩れ陽となって、俺とひかりに降り注ぐ。
水族館に向かう人の声が遠くに聞こえる。
ひかりがソフトクリームに夢中になっているのを横目で確かめた俺は、木の葉の隙間の空を見上げながら、ひかりに話しかける。
「ひかりさ、」
俺の声にひかりが顔をこちらに向けた。
俺は空を見上げたまま続ける。
「何かあった?」
風が木の葉を揺らし、木洩れ陽が揺れる。
葉のざわめきが真上から降り注ぐ。
俺はそっと、ひかりに顔を向けた。
「昨日、泣いてたから」
俺の言葉にひかりは一瞬目を大きく見開いたが、すぐに笑顔を作ってみせた。
「何もないよ!……あ、そういえば怖い夢でも見たかなぁ?」
けれど、その笑顔はちっとも完璧じゃなかった。
ちょっと触れたら壊れてしまいそうな、今にも泣き出しそうな、そんな笑顔だった。
俺の胸は一気に締め付けられる。
どうして、何も言ってくれないのか。
どうして、無理に笑うのか。
どうして、一人で泣いていたのか。
どうして——
「……そっか」
言いたいことはいっぱいあるのに、俺の口から出てきたのは、それだけだった。
これ以上何かを言ってしまったら、きっとひかりのこの笑顔は簡単に崩れてしまうのだろう。俺は目の前で崩れまいと必死なひかりに、何も言えなかった。
——昨日、このデートが決まった後、俺たちは緩やかに訪れた眠気に従って、お互いの部屋へと向かった。
お互いの部屋の前で、一瞬立ち止まると、俺はドアノブに手をかけながら、ひかりを振り返った。
「じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
ひかりも部屋のドアノブを掴んで、俺に小さく笑った。
俺はそのまま自分の部屋のドアを開け、部屋の中に足を踏み入れた。
「大ちゃん!」
ひかりも同じように部屋に入って行くのだろうと思っていた俺は、突然のひかりの声に驚き、体ごと振り返る。
ひかりはドアを開けていなかった。
ドアノブに手をかけたまま、立ち止まり、俺を見つめている。
「どうか、したか?」
俺は振り返った体勢のまま、ひかりを見つめる。
「あ、なんか、怖い夢、見そうだなって、思って」
ひかりが俺の視線から逃げるように俯く。
「……ガキかよ」
俺はその場から動かずに、小さく笑ってやる。
「大ちゃんには言われたくない」
ひかりは顔を上げると、怒ったように頬を膨らませた。
「おい、どういう意味だよ」
「そのまんまの意味ですよーだ。おやすみっ!」
ひかりはそう言うと、ドアノブを回し、部屋に入っていった。
勢いよく閉じられたドアの音が廊下に響き渡る。
「……勘弁してくれよなぁ」
俺は小さくため息をつくと、今度こそ自分の部屋に入り、静かにドアを閉めた。
懐かしい夢を見て夜中に目を覚ました俺は、トイレから出たところで、下からうっすらと音が聞こえることに気がついた。
時刻は午前2時を回ったところだった。
「ひかり?」
こんな夜中に何をやっているのだろうと、俺はゆっくりと階段を下りる。
リビングから小さな明かりが漏れている。
近づくと音が鮮明になっていく。
テレビかな?
ひかりのやつ、ホントに怖い夢でも見て、眠れなくなったのか?
「ひかり?何して、」
リビングの扉を開けると、その明るさに一瞬、目が眩む。
そっと目を開けると、ソファに座ったまま、ひかりが眠っていた。
「まったく」
ひかりを起こそうと近づくと、テレビから懐かしい声が聞こえた。
「大地、こっち向いて」
「ひかり、こっち、こっち」
テレビの中には、車のおもちゃを手にしてちっともこちらを向かない男の子とこちらに向かって嬉しそうに手を振る女の子が手を繋いで並んでいた。
「これって」
ひかりを振り返ると、ひかりの膝の上には重そうなアルバムが開かれている。
シロイルカのぬいぐるみを大事そうに抱える女の子。
眠ってしまった女の子をじっと見つめる男の子。
「すごーい!」
「わぁ!」
弾んだ声がテレビから聞こえる。
二頭のイルカが同時にジャンプをし、上から釣られたボールにタッチした。
歓声と拍手が聞こえる。
「ひかり、風邪引くよ」
膝の上のアルバムをそっと抜き取った俺は、ひかりの肩に手をかけた。
「……うん……大ちゃん」
ひかりが小さな声を出したが、目は閉じられたままだった。
「ひかり、起きないと」
ひかりを起こそうと、顔を覗き込んだ俺は、そのまま動きを止めた。
ひかりの閉じられた瞼から涙が滲んでいた。
「……」
急いで自分の部屋に戻った俺は、ベッドの上に丸まっていたタオルケットを掴み、リビングへと引き返す。
映像は消えていたので、俺はリモコンでテレビの電源を落とした。
アルバムを抜き取られたからか、ひかりの体は自然にソファに横たわっていた。
ソファの上で少しだけ背中を丸めたひかりに、そっとタオルケットを掛けてやる。
「……大ちゃん、」
名前を呼ばれた気がして、ひかりの顔を覗いたが、先ほどと変わらず瞼は閉じられたままだった。けれど、先ほど見えた涙の跡はもうどこにもなかった。
部屋に戻ろうかとも思ったが、ソファの上で丸まっているひかりの小ささに、消えてしまった涙の跡に、俺は立ち去ることができなかった。
俺はソファに寄りかかるように床に座ると、小さく一定のリズムを刻みながら揺れるひかりの背中に手を伸ばした。
手のひらからひかりの呼吸が伝わってくる。
俺はそっとその背中を撫でてやる。
そういえば、さっき見た写真の俺もこうしていたな。
ひかりの呼吸に合わせるように背中を撫でていた俺は、いつの間にか意識を手放していた。
翌朝、目を覚ました俺はキッチンに立っているひかりに「おはよう、大ちゃん。ところで、なんでそんなところで寝てるの?」と小さく笑われた。体にかけられていたタオルケットを剥がしながら、俺も「なんでだろうな?」と笑ってみせた。
——強い日差しが寝不足気味のまぶたに突き刺さる。
湿気を含んだ熱い空気が息苦しい。
触れられない指先でコーンの先を口に押し込む。
「ごちそうさまでした!よし、イルカショー観に行こう!」
ソフトクリームを食べ終えたひかりはベンチから立ち上がると、まっすぐに俺に手を差し出してきた。
その白く細い腕に木漏れ日が揺れる。
「よし、行くか」
俺は俺よりも小さなひかりの手を優しく握った。
触れた唇からひかりの体温を感じ取った俺は、ひかりの体を挟むようにソファの背にかけていた両手をそのままひかりの背中に回していた。
「ひかり、湯冷めしただろ」
俺はひかりの冷たい耳に自分の熱い息がかかるようにわざと口を近づけた。
「え、そんなことないよ。元々、冷え性だから、って、大ちゃん!?」
「何?」
まだ素直に目を閉じているひかりを横目に確かめ、俺はひかりの耳にそっと唇で触れた。
「ちょ、何って、なにして」
「ひかりの耳冷たいから、温めてる」
俺はそのままひかりの冷たい小さな耳に息を吹きかけてやる。
「!ちょ、くすぐった、」
ひかりが小さく揺れるように笑う。
「でも、あったかいだろ?」
「それは、そうだけど、そうじゃなくて、」
小さなひかりの声が俺の耳元で聞こえる。
俺はひかりを両腕で抱きしめる。
ひかりの冷えた耳が俺の頬に当たる。
それが、俺には気持ちよかった。
ひかりが俺の体温を受け取り、少しずつ熱を持ち始める。
そして、俺の熱はひかりの心地よい冷たさに少しずつ引いていく。
抱きしめれば抱きしめるほど、それはお互いに心地よくて、どこまでも一つに溶け合える気がした。
ひかりがそっと俺の背中に手を回した、その時、
トゥ、トゥルルルル……トゥルルルル
その静かな空気を破るように電話が鳴った。
「!」
「!」
そして、その音に俺もひかりも閉じていた目を開いた。
先ほどまでの静かな緩やかな世界がまるで夢であったかのように、その音は強く、乱暴に鳴り響いていた。
トゥルルルル……トゥルルルル
俺とひかりはお互いに目を見開き、一瞬、視線を通わせると、同時に笑った。
「……ふふ、ふは、」
「……は、ははは、」
多分、俺たちは一瞬だけ繋がってしまったのだと思う。
電話が鳴る、ほんの一瞬前。
俺とひかりは、きっと、同じ思いを抱いた。
それは繋がった瞬間に、一瞬にして解けてしまったけれど。
だから、もうそれを確かめることはできないのだけれど。
でも、確かに繋がった気がしたんだ。
トゥルルルル……トゥルルルル
「大ちゃん、電話でないと」
「あ、うん」
繋がったことをお互いに感じたのに、それを確かめられなかったことに、俺は少しだけ残念に思ったけれど、同時に少しだけホッとしてもいた。
それは、きっと、ひかりも同じだったのだろう。
だから、俺たちは、笑った。
笑うしかできなかった。
繋がった瞬間の嬉しさよりも、恥ずかしさの方が俺たちには残っていたから。
そのことに気づかないように、蓋をするように、俺たちは笑ったのだ。
「北海道からお土産送ったから、受け取っておいてって」
「智子さん?」
「そう」
受話器を置いた俺は壁の時計に目を向ける。
ひかりも俺の視線につられるように時計を見上げた。
「もう12時になるね」
「電話かかってきたの、11時前だった気がするけど」
「大ちゃん、ほとんど、「うん」とか「あぁ」とかしか言ってなかったのにね」
「母さん、一人でずっと喋ってたからな」
「きっと、おじさんも翔太くんも先に寝ちゃったんだろうね」
ひかりが膝の上に開いていた雑誌を閉じ、テーブルに置いた。
「大ちゃん、明日も練習?」
ソファから立ち上がると、両腕を高く突き出すようにひかりが伸びをする。
「いや、明日は休み最後だから、練習はなし」
俺は軽く肩を回しながら、天井を見上げる。
「え、そうなの?」
ひかりが声を弾ませる。
その声に、俺は思わずひかりに視線を向ける。
「そうだけど……」
ひかりはいつの間にか俺の目の前までやってきていて、俺の顔をまっすぐ見上げている。
「大ちゃん!」
「……何?」
「デート!デートしよう!」
「!」
ひかりがまっすぐに俺を見上げて言った。
こんなにも素直に「楽しみ」とか「嬉しい」とか伝わってきてしまうような表情を見たことがあっただろうか。
なんだよ、コレ。
今までで一番じゃないかと思うくらい、ひかりは最高に可愛い笑顔をしていた。
幸い、先約だった安田との予定はキャンセルになっている。
それでも、一応、俺は渋ってみせる。
「ひかり、荷物が」
「大丈夫だよ。不在票入るだろうし」
キラキラとした視線に、俺は抵抗を諦めた。
なんか、ちょっと、悔しい。
「どこ、行きたいの?」
俺はニヤつきそうになる顔を片手で押さえながら、どうにか声を低くする。
「水族館!」
「……ふ、ふはっ、ははは」
「え、何?なんで笑うの?」
ひかりの即答に、あまりに目を輝かせた表情に、楽しみを隠しきれずに弾んでしまっている声に、俺はどうしようもなくやられてしまった。
「ちょ、なんで、そんなに笑うのー?」
ひかりがちょっと怒ったように拗ねて見せたが、俺の笑い声は収まらなかった。
ひかりがどうしようもなく可愛くて、どうしようもなく愛おしくて、俺はお腹が痛くなるまで笑っていた。
——その日、俺は懐かしい夢を見た。
あれは中学三年生の夏だった。
夏なのに、いや、夏だからこそエアコンの風が行き渡り、涼しい静かな空気に包まれていた。
人々のざわめきの中を優しく突き抜けるように搭乗を知らせるアナウンスが辺りに響き渡る。
「ねぇ、大ちゃん。あの飛行機、白イルカみたい。それで、あっちはクジラに見える」
ひかりがガラス越しに見える飛行機を指差しながら、後ろに並んだ俺を振り返る。風を受けた制服のスカートの裾がふわりと広がる。
「アレなんて、顔に吸い付かれているようにしか見えないし」
搭乗口から飛行機のドアへと伸びる通路を指差して、ひかりが笑った。
「ひかり、はしゃぎ過ぎ……」
俺が小さくため息を漏らしても、ひかりの興奮は収まらない。
「大ちゃん、私、わかった」
ひかりは先ほどよりも声を弾ませて、俺を見上げた。
「どうして、あんなに大きくて重い飛行機が空を飛べるのか……」
そこまで言うと、ひかりは進み始めた列に向き直り、俺に背中を向けた。
「え、続きは?」
拍子抜けした俺を肩越しに振り返ったひかりは、人差し指を下唇に当て、大きな瞳で俺の表情を確かめると、小さく笑った。
「さて、なぜでしょう?」
ひかりは、いたずらっ子の様な、ちょっといじわるで、それでいて憎めない、俺が一番弱い、最高に憎たらしくて、最高に可愛い表情を見せた。
俺の心臓がビクンっと跳ねる。
「後ろ詰まるから、行けよ」
俺はひかりから顔を背け、ひかりの肩を手で押した。
「大ちゃん、今さぁ……」
ひかりが俺の手をすり抜け、俺の後ろに回り込むと、反対に俺の背中を両手で押してきた。
「なんだよ」
俺はひかりに背中を押されるがままに進みながら、ひかりを振り返る。
「なんでもありませんよーだ」
ひかりが俺から視線を外して、口を尖らせる。
「うわ、むかつくな、その言い方」
「さ、早く行こう」
ひかりはパンっと両手で俺の背中を叩くと、今度は俺の右腕を掴み、走り出した。
「ちょ、ひかり、」
「だから、空を、泳ぐの、飛行機は」
俺はひかりに引っぱられるまま、俺たちと同じ制服で溢れる搭乗口へと伸びる列に並んだ。
「泳ぐ、か……」
俺は自分が呟く声を耳で拾うようにして目を覚ました。
あれは確か、修学旅行の時だ。
これから飛行機に乗って、みんなで沖縄に行く。
学校ではない場所で、学校のみんなといる。
それも泊りがけ。夜通し一緒にいられる。
こんな楽しい行事なかなかない。
そんないつもとはまるで違う日常の始まりに浮き足立っていて、ざわついていて、騒がしい空気に包まれていた。
そして、俺は何よりも、そんな非日常な世界にひかりと一緒にいられることにふわふわと胸がざわついていた。
ひかりもいつもよりよく笑っていて、いつもより少しおしゃべりだった。
このふわふわとした心地よさと不安感の間の心地を二人で手を繋いで歩き出す。
ここから先は楽しいことしかない。
それ以外はいらない。
それくらい乱暴な期待が僕らを包んでいた。
とても、しあわせな時間だった。
——泳ぐ。
——泳いでいる。
「飛ぶ」と、どう違うんだっけ……?
ピンポーン。
小さく点けていたテレビの音をかき消すように、まっすぐに軽やかな音が響いた。
俺は齧っていた食パンを皿に置く。
「あ、アレかな?」
向かいでひかりがスープの器を手に取る。
「多分。ちょっと出るわ」
俺は椅子から立ち上がると、インターフォンの画面を確かめる。
緑色の帽子を被ったお兄さんが画面に映る。
「宅配でーす」
「はーい」
「なんだろうね。やっぱ蟹かなー?メロンもいいなぁ」
玄関へと向かう俺の背中にひかりの弾んだ声が届いたが、俺は少しだけ首をかしげていた。
北海道からのお土産にしては、小さな荷物だったような?
インターフォンの画面の中でお兄さんは片手に小さな包みを持っていた。
それは、蟹やメロンが入っているとは到底思えない大きさだった。
「藤倉さんですね?こちらにサインかハンコお願いします」
ドアを開けると、先ほど画面に映っていたお兄さんが明るい声で受け取り票を差し出してきた。
朝の強い日差しがドアの隙間から入り込む。
俺は少しだけ目を細めつつ、差し出されたボールペンでサインをする。
「では、こちらお渡ししますね。」
俺は差し出された包みを受け取り、「ご苦労様です」とお兄さんを朝の日差しの中へと見送った。
ドアを閉め、改めて手元の包みを確かめる。
「……安田?」
「なんだったー???」
「うわっ!」
いつの間にかひかりが俺のすぐ後ろに立っていた。
突然近くで聞こえた声に驚いた俺は、あっさりとひかりに荷物を奪われていた。
「あ、それ、お土産じゃなかったから、」
「またまたー。独り占めはダメなんだから」
取り返そうとする俺の手をかいくぐり、ひかりは送付状を確かめずに荷物を開ける。
「思ったより小さいけど、なんだろうー?」
「いや、だから、違うから、返せよ」
「なんだろうね?なんだろうね?」
ひかりはステップでも踏むように、軽やかに俺をかわしてリビングに戻っていく。
「ちょ、待てって」
ひかりを追いかけながら、俺は必死で頭を回す。
荷物の差出人は安田だった。
安田から荷物が届くなんて聞いていないし、初めてのことだ。
安田から届きそうなものって一体なんだ?
今日は本来なら宿題を一緒にやるはずだったわけで。
まさか、宿題送ってきた?
「あれ、ずいぶん厳重に包装されてるなぁ。」
いや、それにしては軽いし大きさも小さいよなぁ。
宿題ではないとしたら?
「!」
俺の脳裏に安田の不気味な笑顔が浮かんだ。
あいつ、手土産持っていくって……!
「ひかり!いい加減に、」
ひかりの後ろから手を伸ばした俺は、思わずその手を止めた。
あんなにはしゃいでいたひかりがいつの間にか無言で動きを止めている。
ひかりの手元には、朝の爽やかな空気にはおよそ似つかわしくない文字が並んでいる。
「……」
何を言えば良いのかわからなくなった俺は恐る恐るひかりの顔を覗き込む。
ひかりはじっと静かに自分の手元を見つめている。
その表情からは何も読み取れない。
無表情……それが逆に怖い。
「サイテー」と罵ってくれたなら、「大ちゃんのバカ!」と怒ってくれたなら、俺だって言い返せるのに。
なんで、こんな時に限って何も言わないんだよ。
「……ひかり、言っておくけど、それ、俺のじゃないからな」
沈黙に耐えかねた俺はひかりの手元からモノを引き取ろうと、再び手を伸ばす。
しかし、あれほど動かなかったひかりが、俺が手を伸ばした途端に体を翻し、俺を正面から見上げてきた。
「……」
じっと、まっすぐ俺の瞳を覗き込むひかり。
「……なんだよ」
そのまっすぐな視線に俺の声はちょっとこわばる。
「大ちゃん」
ひかりが小さく俺の名前を呼んだ。
その瞳がほんの一瞬だけ揺れた気がした。
「ひかり……?」
けれど、それはほんの一瞬で、ひかりはいつの間にか、あの、いつもの、完璧な笑顔を作っていた。
「大ちゃん。今日のデート、楽しみにしてるね」
そう言って笑うと、ひかりは手に持っていたモノを俺の手に載せた。
「早くご飯食べて、出発しよう!」
そして、動けずにいる俺の横をすり抜けて、食卓に戻っていく。
俺は自分の手に残ったモノに視線を落とし、大きくため息をつくと同時に肩を落とした。
ったく、安田の奴、なんてものを……。
さすがにこのまま置いておくわけにはいかないので、俺はひかりが散らかした梱包材で手に持っていたモノを包み、届いた時の状態になんとか戻した。
明日、絶対、安田に返してやる。
「シロイルカ観たいなぁ。大きいぬいぐるみあるかなぁ?」
ひかりの弾むような大きな独り言が俺の肩をさらに深く落とさせた。
小遣い足りるかなぁ……
「ひかり?」
ソフトクリームを両手に持った俺が戻ると、ひかりはぴったりと壁に張り付いていた。
水族館の外の壁には小さな窓がいくつかあり、そこから中の水槽が覗けるようになっている。
ひかりの横には小学校低学年くらいの男の子が二人並んでいる。
「ひかり!」
「!」
俺の声にひかりが振り返る。
そして、横に並ぶ男の子たちの存在に気づき、慌てて場所を譲った。
「ほんと、好きだよな」
俺からソフトクリームを受け取ったひかりが俺の目を覗き込むようにじっと見上げている。
「な、なんだよ」
そのまっすぐな視線に、俺は少しだけ身構える。
「なんでもないよー」
くるりと俺に背を向けると、ひかりは日陰になっているベンチを目指して歩き始めた。
日差しがジリジリと皮膚に突き刺さる。
気温はどんどん上がっていて、ソフトクリームも早く食べないと溶けてしまいそうだった。室内で食べられるところを探したのだが、ひかりが外にしようと言って聞かなかった。
ひかりは大きな木のそばにあるベンチに腰掛けると、被っていた麦わら帽子を膝に置いた。
海からの風が緩やかに木の葉を揺らし、ひかりの汗で湿った前髪を撫でていく。
真っ白なソフトクリームの先を頬張ると、ひかりが笑って振り返った。
「美味しい!ありがとう、大ちゃん」
「どういたしまして」
俺はそっとひかりから視線を逸らし、自分のソフトクリームを舌で舐めながら、ひかりの隣に腰掛けた。
俺とひかりの触れそうで触れない隙間を潮の香りを含んだ風が吹き抜ける。
舌の先に冷たく柔らかいソフトクリームの感触。
口の中に広がるソフトクリームの強い甘み。
強い日差しが木洩れ陽となって、俺とひかりに降り注ぐ。
水族館に向かう人の声が遠くに聞こえる。
ひかりがソフトクリームに夢中になっているのを横目で確かめた俺は、木の葉の隙間の空を見上げながら、ひかりに話しかける。
「ひかりさ、」
俺の声にひかりが顔をこちらに向けた。
俺は空を見上げたまま続ける。
「何かあった?」
風が木の葉を揺らし、木洩れ陽が揺れる。
葉のざわめきが真上から降り注ぐ。
俺はそっと、ひかりに顔を向けた。
「昨日、泣いてたから」
俺の言葉にひかりは一瞬目を大きく見開いたが、すぐに笑顔を作ってみせた。
「何もないよ!……あ、そういえば怖い夢でも見たかなぁ?」
けれど、その笑顔はちっとも完璧じゃなかった。
ちょっと触れたら壊れてしまいそうな、今にも泣き出しそうな、そんな笑顔だった。
俺の胸は一気に締め付けられる。
どうして、何も言ってくれないのか。
どうして、無理に笑うのか。
どうして、一人で泣いていたのか。
どうして——
「……そっか」
言いたいことはいっぱいあるのに、俺の口から出てきたのは、それだけだった。
これ以上何かを言ってしまったら、きっとひかりのこの笑顔は簡単に崩れてしまうのだろう。俺は目の前で崩れまいと必死なひかりに、何も言えなかった。
——昨日、このデートが決まった後、俺たちは緩やかに訪れた眠気に従って、お互いの部屋へと向かった。
お互いの部屋の前で、一瞬立ち止まると、俺はドアノブに手をかけながら、ひかりを振り返った。
「じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
ひかりも部屋のドアノブを掴んで、俺に小さく笑った。
俺はそのまま自分の部屋のドアを開け、部屋の中に足を踏み入れた。
「大ちゃん!」
ひかりも同じように部屋に入って行くのだろうと思っていた俺は、突然のひかりの声に驚き、体ごと振り返る。
ひかりはドアを開けていなかった。
ドアノブに手をかけたまま、立ち止まり、俺を見つめている。
「どうか、したか?」
俺は振り返った体勢のまま、ひかりを見つめる。
「あ、なんか、怖い夢、見そうだなって、思って」
ひかりが俺の視線から逃げるように俯く。
「……ガキかよ」
俺はその場から動かずに、小さく笑ってやる。
「大ちゃんには言われたくない」
ひかりは顔を上げると、怒ったように頬を膨らませた。
「おい、どういう意味だよ」
「そのまんまの意味ですよーだ。おやすみっ!」
ひかりはそう言うと、ドアノブを回し、部屋に入っていった。
勢いよく閉じられたドアの音が廊下に響き渡る。
「……勘弁してくれよなぁ」
俺は小さくため息をつくと、今度こそ自分の部屋に入り、静かにドアを閉めた。
懐かしい夢を見て夜中に目を覚ました俺は、トイレから出たところで、下からうっすらと音が聞こえることに気がついた。
時刻は午前2時を回ったところだった。
「ひかり?」
こんな夜中に何をやっているのだろうと、俺はゆっくりと階段を下りる。
リビングから小さな明かりが漏れている。
近づくと音が鮮明になっていく。
テレビかな?
ひかりのやつ、ホントに怖い夢でも見て、眠れなくなったのか?
「ひかり?何して、」
リビングの扉を開けると、その明るさに一瞬、目が眩む。
そっと目を開けると、ソファに座ったまま、ひかりが眠っていた。
「まったく」
ひかりを起こそうと近づくと、テレビから懐かしい声が聞こえた。
「大地、こっち向いて」
「ひかり、こっち、こっち」
テレビの中には、車のおもちゃを手にしてちっともこちらを向かない男の子とこちらに向かって嬉しそうに手を振る女の子が手を繋いで並んでいた。
「これって」
ひかりを振り返ると、ひかりの膝の上には重そうなアルバムが開かれている。
シロイルカのぬいぐるみを大事そうに抱える女の子。
眠ってしまった女の子をじっと見つめる男の子。
「すごーい!」
「わぁ!」
弾んだ声がテレビから聞こえる。
二頭のイルカが同時にジャンプをし、上から釣られたボールにタッチした。
歓声と拍手が聞こえる。
「ひかり、風邪引くよ」
膝の上のアルバムをそっと抜き取った俺は、ひかりの肩に手をかけた。
「……うん……大ちゃん」
ひかりが小さな声を出したが、目は閉じられたままだった。
「ひかり、起きないと」
ひかりを起こそうと、顔を覗き込んだ俺は、そのまま動きを止めた。
ひかりの閉じられた瞼から涙が滲んでいた。
「……」
急いで自分の部屋に戻った俺は、ベッドの上に丸まっていたタオルケットを掴み、リビングへと引き返す。
映像は消えていたので、俺はリモコンでテレビの電源を落とした。
アルバムを抜き取られたからか、ひかりの体は自然にソファに横たわっていた。
ソファの上で少しだけ背中を丸めたひかりに、そっとタオルケットを掛けてやる。
「……大ちゃん、」
名前を呼ばれた気がして、ひかりの顔を覗いたが、先ほどと変わらず瞼は閉じられたままだった。けれど、先ほど見えた涙の跡はもうどこにもなかった。
部屋に戻ろうかとも思ったが、ソファの上で丸まっているひかりの小ささに、消えてしまった涙の跡に、俺は立ち去ることができなかった。
俺はソファに寄りかかるように床に座ると、小さく一定のリズムを刻みながら揺れるひかりの背中に手を伸ばした。
手のひらからひかりの呼吸が伝わってくる。
俺はそっとその背中を撫でてやる。
そういえば、さっき見た写真の俺もこうしていたな。
ひかりの呼吸に合わせるように背中を撫でていた俺は、いつの間にか意識を手放していた。
翌朝、目を覚ました俺はキッチンに立っているひかりに「おはよう、大ちゃん。ところで、なんでそんなところで寝てるの?」と小さく笑われた。体にかけられていたタオルケットを剥がしながら、俺も「なんでだろうな?」と笑ってみせた。
——強い日差しが寝不足気味のまぶたに突き刺さる。
湿気を含んだ熱い空気が息苦しい。
触れられない指先でコーンの先を口に押し込む。
「ごちそうさまでした!よし、イルカショー観に行こう!」
ソフトクリームを食べ終えたひかりはベンチから立ち上がると、まっすぐに俺に手を差し出してきた。
その白く細い腕に木漏れ日が揺れる。
「よし、行くか」
俺は俺よりも小さなひかりの手を優しく握った。
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