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美月センパイと傘
しおりを挟む――ここに通うのか。
試験を受けに来た時は一応の緊張感を持っていたので、そこまでじっくりと見てはいなかった。
外観も設備も以前の学校とは比べものにならない。
ひと目で古いとわかる校舎。元の色がなんだったのかわからないほど薄汚れた壁。チャペルもホールもない。グラウンドは広いけれど図書室はびっくりするほど狭い。
それだけではない。
そこに通う人たちも今までとは全然違う。
一学年に二クラスずつ、一年から三年まで合わせてもたった六クラスしかない。私が先月まで通っていたところでは、A組からH組まで八クラスあった。それでも例年よりは二クラスほど少ないという話だった。
クラスの数が違えば当然のことながら人数だって違う。人数が違えば距離感も変わる。それはこの町(というか、村?)の空気も関係しているのかもしれないけど。転校生という存在が珍しいのもあるだろう。
朝のホームルームで簡単な自己紹介をすませると、休み時間のたびに私の席は人に囲まれた。「よろしくね」「わからないことあったら聞いてね」「購買のチョコメロンパン美味しいよ」「部活は何か入る?」みんなとても親切に話しかけてくれる。私が何かひとつ答えるだけで、何倍にもなってリアクションが返ってくる。それはとてもありがたかった。
だけど。
ちらりちらりと言葉の端に残る違和感。
方言。イントネーションの違い。
幸い、意味がまったくわからないというほどではなかったけれど。それらが耳に入るたびに私の胸の中には居心地の悪い苦味が積もっていく。
――ここは私のいるべき場所ではない。
私は自分の居場所を置いてきてしまった気がしてならない。
――ここで本当にやっていけるのだろうか。
クラスメイトの申し出をやんわりと断った私は、放課後の校舎の中をひとり歩いていた。
本当は誰かに案内してもらった方が効率はいいのだろうけど。
――ひとりになりたかった。
そんなふうに学校生活の中で思ったのは初めてかもしれない。
たった一日。たった数時間しか経っていない。それなのに今日だけでたくさんの人の視線を感じた。同じクラスどころか他の学年の知らない人にまで興味を向けられる。あまりにも狭い世界。あまりにも息苦しい空気。積極的に馴染む気はもともとなかった。でも、孤立することを望んでいるわけでもなかった。少しの煩わしさを飲み込むくらいなら我慢できる。
絶え間なく続く質問に笑顔で答え続けた結果、私の頬には軽い痺れが残った。笑おうとすると顔が痛い。
――限界、だった。
私が一日にできる笑顔の回数はとっくに超えていた。
「はぁ」
本日二度目の大きなため息。
首も肩もカクンと重力に持っていかれる。
下げてしまった視界に真新しい上履きと廊下の木目が映り込む。ワックスを何度も塗り直された木の色には不思議な懐かしさがあった。シミのついた壁は気に入らないけれど、丁寧に磨かれた床は好きだと思える。
たった一つでも好きなところを見つけられて安心したのか、私のお腹がくぅと鳴いた。
「帰ろう」
呟くと同時に顔を上げる。
静かだった廊下にはチャイムの音が響き渡っていた。
――チャイムの音は同じだな。
最後の一音、その端っこに重なるように別の音が届く。窓の外へと顔を向けると、灰色に覆われた景色の中で雨が降り出していた。数センチだけ開けられていた隙間から、湿った匂いがこちら側へと流れ込む。
――天気予報どおりだけど。
窓ガラスを叩く雨の勢いは激しく、斜めに線が入った景色から風も強いのだとわかる。折り畳み傘では心許ないが、それでも圧迫感の増した校舎内にこれ以上いるよりは多少濡れてでも家に帰りたい。探索途中だった廊下を引き返し、私は昇降口へと早足で向かった。
雨の音は強さを増し、開け放たれている出入り口からは下がりきらない生ぬるい温度が流れてくる。
私はローファーに履き替えると、背負っていたリュックから傘を取り出した。
白いカバーのついた傘の柄を握り、もう一方の手を前に押し出す。一瞬の抵抗感を超えて紺色の布地が開く、ハズだった。
「うそ」
思わず声に出してしまっていた。
どこかにぶつけた覚えも、乱暴に扱った覚えもない。
それなのに開きかけた傘からは、ぷらん、と折れた傘の骨が一本ぶら下がっている。
引越しの時に壊れたのだろうか。
それしか考えられない。
お気に入りだったのに。
紺地に白い小さなお花の模様。
上品で可愛らしくて。
憧れ続けた学校の雰囲気にぴったりだった。
この傘ならどんな雨の日でも楽しく登校できると思っていた。
なのに。
「なんで……」
こぼれ落ちた言葉は震えていた。
私は下唇を歯の先で噛み、溢れ出そうとする感情を必死に抑え込む。
――引越しなんてしなければ。
この傘が壊れることはなかった。学校だって制服だってもっとキレイでおしゃれで。イントネーションの違いに戸惑うことも、こんなふうにひとりで立ち尽くすこともなかった。それもこれも、ぜんぶ、ぜんぶ……。
「それ、直してあげようか?」
突然近くから響いた声に私は軽く両肩を跳ねさせた。
こちらを覗き込むように傾けられた顔には見覚えがあった。
教室に入ってから代わる代わるやってきたクラスメイトのことは正直まだ覚えられていない。でも、この人は見たことがある。クラスではない、廊下でもない、学校の中ではなくて……。
丸くて大きな瞳。肩下で揺れる髪の先。頭の中でパッと朝の光景が蘇る。
――そうだ、水色のアイスを食べていた彼女だ。
「ちょっと見せて」
「え……でも」
傘の骨は明らかに折れていて、この場で簡単に直るようなものではない。
家に帰ったら不燃ゴミになる、そんな状態。
それでも彼女は私の手元を覗き込み、ふむふむと小さく頷く。
「貸して」
するりと私の手から折り畳み傘を奪うと、彼女は口の先を動かした。何かを唱えているように見えるけれど声は聞こえない。不思議に思って見つめていると、彼女がパッと勢いよく傘を開いた。
「はい、どうぞ」
開かれたままの傘を受け取り、中を見上げる。
先ほどまでプラプラと垂れ下がっていた部分がない。いや、キレイに直っている。
「え、え、なんで」
胸のスカーフの色で上級生だと分かっていたはずなのに、驚きのあまり私の頭からは敬語が吹っ飛んでしまう。
「さて、なんででしょう?」
「……手品?」
「ふ、ふは、手品。うん、そういうことにしておこう」
「あ、あの、ありがとう……あ、ございます」
慌ててつけた私の言葉を気にする様子もなく、彼女は優しい声を響かせた。
「ううん。私も助かったからいいの」
「え」
「傘、ないから。一緒に入れてもらえる?」
少しだけ傾けられた顔は、いたずらに成功した子供のような表情で笑っていた。
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