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あなたに誓うのは
しおりを挟む誰よりも強くなりたかった。
あなたを守るため。あなたのそばにいるため。
――あなたがこの国の王となるその日まで。
戴冠式を終えたばかりの顔にはまだ、あどけなさが残っていた。
「あと何分?」
ほんの数分前にこの国の王となった――シエル王子(いや、もうシエル国王か)は、いつもと同じ口調、いつもと同じ声でソファに沈み込んだまま、そばに控える私の名前を呼んだ。
「フェリア? 聞いてる?」
夜の空を閉じ込めた双眸がこちらへと向けられる。小さく輝く星さえも再現された瞳の奥には果てのない深い青色が広がっている。それは初めて会ったときの記憶のまま姿を変えることのない宝石だった。
――この美しい宝物を覗き込めるのもあと数分、か。
大聖堂のすぐ隣に位置する小さな塔の一室には今、シエルと私のふたりしかいない。
本来なら広場を見渡せる城のバルコニーへとまっすぐ向かうべきであったが、私が無理やりこの休憩をねじ込んだ。国民へのお披露目が終われば、今度は各国からの祝いの列に始まり、夕食会、夜会へと続く。夜会に出席されるにはまだ早いご年齢であるにも関わらず、国王となった彼に出席しないという選択肢はない。
「あと五分は大丈夫です」
自分で口にしておきながら胸の奥にチリリと痛みが走る。
――あと五分。
それはシエルの残された休憩時間であり、私が側近としてそばにお仕えできる最後の時間でもある。私の役目はここまで。もうシエルは王子ではなく国王になったのだから。国王となった者を守る役目は男性のみに与えられる地位だ。女の自分ではこれ以上そばにいることは叶わない。ましてや異国の生まれである自分など望むことすらおこがましいというもの。
――先に母君への報告をするのが礼儀ですので。
戴冠式後、国民へのお披露目は速やかに行うべきだと主張する重臣たちをこの一言で黙らせた。シエルのことを思っての言葉ではあったけれど、本当にそれだけであったのかと問われればわずかに心が揺らぐ。少しでも一緒にいたいという身勝手な思いがありはしなかったかと、自分を疑わずにはいられない。
「そっか。じゃあ、そろそろ準備するよ」
王城にある調度品とは思えないほどシンプルなデザインのソファの上で背中を軽く丸めたままシエルが息を吐く。言葉とは裏腹にその動きは緩慢で、まだここにいたいのだと全身が訴えていた。動作ひとつひとつにたっぷりと時間をかけて起き上がった体はまだ細く、「国王」と呼ぶには幼さの抜けきらない表情をしている。これからの彼を待ち受ける大きすぎる職責や重圧を思うと、その体はあまりにも小さく感じられた。
――まだ、いいのではないですか?
そう声をかけたくなる。グッと両手を天井に突き出し背中を逸らしながら伸びをする仕草は小さな頃から変わらない。逆さまになった顔のまま「フェリア」と呼びかけるのも、ふわりと揺れる銀髪の隙間から覗く青い瞳も、何も変わらない。変わらないものを見つけては安堵して、今もまだ昨日までと同じ日常の中にあるのだと錯覚したくなる。
静かに立ち上がった彼が身に纏うのは数分前と同じものだ。今までのものとは比べ物にならないほど豪華な衣装と装飾品。そして、この国の王であることの証――冠。
「……」
上着を着せるところまでは手伝えたが、さすがにこれには触れられない。
これは彼自身が持ち上げるものであり、ほかの誰にも触れさせてはならない神聖なものだ。不自然に動きを止めた私を振り返り、その視線だけですべてを理解したのだろう。何も言わず自らの両手で戴いたばかりの冠を持ち上げた。
「王、か」
声に滲むのは不安ではなく覚悟だった。
初めてこの場所に来たときは「ここは気味が悪くていやだ」と言っていた。母君がこの地下に眠っているのだと知ってからは「誰も寄り付かないから静かでいいな」と言って時間を見つけては入り込むようになっていた。シエルの母君は身分の低い側室であったため、ほかの王族たちが眠る大聖堂ではなくこの薄暗く寂しい塔の地下に置かれた。その事実を知らされたのは彼が十にも満たない歳の頃だ。一体自分はどちらに入れられるのだろう、と不安を口にしていた姿を今でも覚えている。どちらがいいのかわからない、とも。
けれど今、目の前にいるのは見えないものにおびえる子どもでも、未来への不安を口にする少年でもない。
――齢十四の若き王の姿がそこには確かにあった。
父である前国王が崩御してわずか五日。年齢を理由に実権を握ろうとする者たちを黙らせ、自らその道に進むことを決めたのは彼自身だ。見た目ほど彼はもう幼くも小さくもない。
「行きましょうか、シエル陛下」
――陛下。
殿下でも、王子でも、シエル様でもない。
この呼び名こそが別れの挨拶になることをわかっていて、私は口にした。
深く沈む夜の色がわずかに揺れる。空というよりは海に近い。一瞬だけ波立った水面は私の顔を映したまま白い瞼の奥へと消えた。
「ああ、行こう」
再び銀色の睫毛で縁どられた瞼が上げられたとき、彼の瞳はもう揺れてはいなかった。見慣れた夜空の宝石はどんな距離であっても静かに輝き続ける。
――この先を守るのはもう私ではない。
扉をくぐれば外には近衛騎士団の面々が揃っているはずだ。ぐっと手に力をこめ扉を押し開ける。差し込む白い光がこれからの彼への祝福であることを祈りながら。
「ありがとう、フェリア」
私が扉を開けるのは当然のことであったけれど、シエルは感謝の言葉を口にした。それは幼いシエルに私が言ったことだ。「王族だからってなんでもやってもらって当然なんて思わないでくださいね」今思えばいくら子ども相手とはいえ、王家の者に対して不敬すぎる言葉である。それでも私はシエルには誰からも愛される優しい国王になってほしかった。差別され続けてきた私を救ってくれたように。あの頃のままの、まっすぐなシエルでいてほしかった。
――夢は叶った。
もう十分だ。これ以上を望んでは罰が当たるというもの。
カツン、と石畳を踏むシエルの靴音が響く。「陛下」と待ち構えた者たちから声が上がる。
「……」
大きくなった背中を静かに見送る。この別れは悲しいものではない、と息を吸い込んだその時――。
体は咄嗟に反応していた。
「シエル王子!」
呼び慣れてしまっていたその名前は自然と口から飛び出していた。見送ったばかりの背中を後ろから抱きかかえ、その場に倒れ込む。頬を掠めた物の正体よりも先に腕の中の存在を確かめる。
「ご無事ですか? お怪我はありませんか?」
「ありがとう。大丈夫」
「よかった」
「………決まりだな」
「え?」
聞こえた言葉の意味がわからず瞬きを繰り返しているとシエルが先に体を起こし、こちらへと手を差し出してきた。
「いえ、私は」
自分が守るべき、忠誠を誓った相手に助け起こされるわけにはいかない。首を振ると、ムッと眉根を寄せたシエルが私の手を無理やり掴んだ。こんなにも力が強くなっていたのかと驚く間もなく一気に引き上げられる。
「あ、あの」
もう一方の手が立ち上がった私の腰へと回り、体ごと抱き寄せられる。一瞬にして近づいた距離に、触れ合ってしまっている体にわけが分からなくなる。刻み込んだばかりの決意が、しまい込んだはずの想いが胸の奥で騒ぎ出す。いつもなら冷静に対処できていただろうが、これが最後だと思うと自分の声ですらうまくコントロールできなかった。
「あ、あの、シエル王子! まだ安全が確認されておりませんので、お放しくだ……」
「もう王子ではない。私はこの国の王だ」
凛と間近で響いた声に、一瞬にして息が止まる。
まだわずかに見下ろす位置にあるその顔。重すぎる冠を傾け、こちらへと向けられる視線。その先にあるのは揺らぐことのない、変わることのない夜の空――。
「……失礼、致しました」
美しい瞳が柔らかく細められ、薄い唇の端が小さく持ち上がる。離れた体の間にふわりと空気が舞い、繋がったままの手だけがその場に残される。
「お前ももう私の側近ではないな? フェリア」
確かめるようにゆっくりと紡がれた言葉が胸を締めつけてくる。シエルはもう王子ではない。私ももう側近ではない。それが現実。それこそが変えようのない事実。抱きしめられたのは、きっとシエルなりの別れの挨拶だったのだろう。
「はい」
今度こそ揺れることなく自分の声は響いた。今日までの日々を、この宝物のような日々をくれたシエルに私が渡すべきものは寂しさでも隠してきた想いでもない。これからも私はその背中をずっと見守っていくのだから。感謝と祈りを込めて、私から言える言葉はひとつしかない。
「今までありがとうございました。シエル陛下」
視線の間に存在するこの手が離れたその瞬間、私たちの今までの関係は幕を閉じる――。
「フェリア」
呼ばれた名前が鼓膜を震わせるのと同時に、きゅっと指先に込められた力が痺れとなって体の中を駆け巡る。離れるはずの、消えていくはずの体温と香りが再び距離を詰めてくる。
返事はうまくできなかった。言葉を作るよりも先に声が重ねられたから。
「これからはお前を私の妃にする」
「は、……え?」
まっすぐ目を見て言われたはずの言葉でも理解を越えると脳にはインプットされないらしい。聞き間違いか、それとも押し込めたはずの想いが見せる幻か。いずれにしても現実ではないだろう。どう聞き返すべきかと迷ううち畳みかけるように次の言葉がやってきた。
「決まりだと言っただろう?」
――決まりだな。
咄嗟に背中から抱きかかえるようにして庇った、あの瞬間。
地面に倒れ込んだあとで確かにシエルは言っていた。そのあとのやり取りのほうに気を取られて忘れていたけれど、確かにそう言っていた。
「何が、決まったのですか?」
ふっと緩められた口元からは小さな笑い声が零れ、解かれた視線が足下に落とされる。何がおかしいのかわからず、促されるままに地面を確認する。
「コレは先ほどの?」
「ああ、ちょっと自分で」
「ご自分で? 仕掛けられたのですか?」
「……」
「いくらおもちゃとはいえ、万が一にでもお怪我をされたらどうするおつもりですか!」
「フェリアがいるのに?」
間髪入れずに返ってきた言葉にぐっと喉が詰まる。向けられているのは揺らぐことのない絶対的な信頼だ。忠誠を誓った相手からいただくものとしてこれ以上のものはないだろう。
「お前がそばにいて私が怪我をするなんてことあるはずがないだろう?」
「ですが、私はもう……」
「私にはこれからもお前が必要だ。これがその証拠だ」
石畳の上にはおもちゃの矢が転がっている。ぶつかった衝撃で折れてしまうほど脆いものだ。――もし、これが本物だったら。シエル自身が仕掛けたものではなかったら。自分の目が届かないところでシエルに何かあったらと思うと怖くてたまらない。
「フェリア、私は本気だ。本気でお前がほしい」
浮かべていた笑みはいつの間にか消えていて。落とされた声がまっすぐ突き刺さる。見上げてくる瞳でさえ少しの揺らぎも見せてはくれない。
「イヤなのか?」
「い、いやと言うわけでは」
揺れることのない水面にわずかにかげりを落とされ、思わず口が動いてしまった。
「イヤでないのなら良いな?」
「え、あの」
「フェリア、私はもう王になったのだ」
――王。
その者がもつ言葉の意味はあまりにも強く、重い。隣に立つ者もきっと同じくらいのものを背負わされる。
ゆっくりと視界を流れていく大きな冠。装飾品が揺れる美しい音も衣擦れの重い音も、その地位の高さを、進みゆく道の険しさを象徴している。
「フェリア」
国王となったシエルが膝を折り、私を見上げた。
その手を取るのは私の方だった。その目に誓うのは私の方だった。
それなのに。すべてが今までとは反対で。どうしたらいいのかわからなくなる。鼻の奥がツンと痛みだし、両目が熱くなっていく。
「私の妃になってくれ」
答えはひとつしかない。
けれど、それを告げるのはあとだ。
「……今後このようなイタズラはしないように」
一瞬大きく見開かれた目が三日月形に細められると同時に、先ほどよりも大きな笑い声が響き渡った。それはやがて息を潜めるように見守り続けた周囲の者たちからも上がり、多くの国民が集まる広場にまで届いたという。
これからもあなたのそばに。
騎士としての忠誠ではなく、あなたへの変わらない愛を――誓って。
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