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6.魔法
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バニラのリップクリームをスカートのポケットにしまう。化粧室の鏡で身だしなみをチェック。今日はこのあともうひとつ模擬授業を受けたら、美月センパイの部屋に行く。気持ちはもうオープンキャンパスよりも今夜のことに向かっていた。
スーパーで買い物するって言っていたから、美月センパイの手料理が食べられるってことだよね。こんなことならもっと家の手伝いをしておくべきだったな。「料理できるんだ」って美月センパイを驚かせたかった。大学生になるまでに少しでも覚えられるだろうか。今日だけでなく一年後の自分たちまで想像して、楽しみで胸がいっぱいになる。ご飯を食べたばかりとは思えないくらい体がふわふわする。
自然と鼻唄が零れた。美月センパイがよく歌っている名前の知らない歌。知らないはずなのに不思議な懐かしさがあって、美月センパイと一緒にいるようになってから私も時々口ずさむようになっていた。今みたいにとても楽しいことが待っているときなんかに。
学食の出入口で待つ美月センパイのもとに向かう。たった数分離れていただけなのに、駆け出しそうなほど心が急く。会いたい。会いたいって。やっぱり私は美月センパイが好きなんだ。
学生たちのざわめきで満ちる空間を通り抜け、美月センパイの姿がもうすぐ見えそう、というときだった。
「え」
すれ違った誰かから零れ落ちた声。自分に向けられたのかもわからない小さな音。どうして立ち止まってしまったのか、自分でもわからなかった。
「その歌……」
と続く言葉のあと、すぐに「あれ、もしかして」と驚きに変わる。それは私も同じだった。眼鏡をかけていなかったので、一瞬誰だかわからなかった。見慣れたスーツ姿ではない。大学生らしい私服姿の高遠先生が立っていた。高遠先生もここの学生なのだからいてもおかしくはない。おかしくはないのに、心臓は驚き以上に不安定に揺れる。
「――高校の生徒さんですよね。廊下で一度ぶつかりそうになった」
高遠先生は少し困ったような顔で笑った。
「そう、です。あの時はすみませんでした」
「俺も……僕も悪かったので」
言い直した瞬間のバツの悪そうな表情に思わず笑ってしまう。
「先生、普段は『俺』なんですね」
「あー、内緒にしといて」
高遠先生から「先生」の空気が消える。柔らかな、けれど決して消えることのない透明のカーテンみたいだった空気。高遠先生は誰にでも丁寧に接していたけれど、私たち生徒に対する距離は一定だった。それが、今は取り払われている。ここでは本当にただの大学生なんだと、そんな当たり前のことにくすぐったくなる。若宮さんは知っているだろうか。教えてあげたいな。好きな人のことならひとつでも多く知りたいって思うから。私も美月センパイのことなら、どんな小さなことでも知りたいって、そう――。
ふっと頭の片隅で何かが小さく爆ぜる。記憶の断片。見えない位置に押しやられたそれが、一瞬の光を見せる。なん、だろう。何かはわからないのに、美月センパイに確かめたいことがあった気がする。爆ぜて落ちた欠片が体内を移動し、胸の奥へと達する。それは突き刺さった細い針を揺らした。
「あのさ」
「みのり」
私に向かってかけられたふたつの声はキレイに重なった。
「どうしたの? なかなか戻ってこないから」
心配したよ、と続いたのであろう声が「美月?」と名前を呼んだ声に途切れる。
私を挟んで繋がる視線。美月センパイの口が小さく動く。声には、音にはならない。けれど私にはわかってしまった。だって私は美月センパイが大好きで、どんな些細なことも知りたくて、見逃したくなくて、いつだって美月センパイを見ていたから。
美月センパイは「豊くん」と高遠先生を下の名前で呼んだ。
狭い町だし、名前くらい知っていてもおかしくはない。高校は二校あるけど(しかない、ともいえる)、中学校と小学校はひとつしかない。顔見知りであっても不思議ではない。だけど、だからって、こんなふうに名前で呼び合うだろうか。
「久しぶり。美月もここだったんだ」
「……うん」
これはただの知り合いじゃない。もっと親しみのある懐かしさを含んだ距離だ。
そして私は思い出した。美月センパイに尋ねた夜のことを。知らない、と答えた声を。今の今まで忘れていたのはきっと――。
模擬授業の始まりを知らせるチャイムが鳴ったのをきっかけに、高遠先生とは分かれた。でも私たちは教室には行かなかった。こんな状態で出たところで何も頭に入らない。何より、確かめたいことがあった。
校門へと続く並木道。両側に植えられている桜は緑の葉でいっぱいだ。五月末の柔い風が肌を撫で、葉を揺らす。吸い込んだ空気には春と夏が混ざり合う。胸で膨らんだ香りに、嗅ぎ慣れた、今では一番好きだと思えるそれを見つけ、小さく手を握る。大丈夫。何もこわくない。私は美月センパイの彼女なんだから。
「高遠先生と知り合いだったんですね」
「うん」
隣を歩く美月センパイとは同じ歩幅で進んでいる。何も言わなくても自然と揃うくらいに私たちは一緒にいた。だから、きっと、大丈夫。
「美月センパイ」
「うん?」
足を止めた私を美月センパイが振り返る。繋がった視線を離さず、ゆっくり問いかける。
「……魔法、かけましたよね?」
あの夜。私は美月センパイに高遠先生のことを尋ねた。美月センパイは「知らない」と答えた。通話を終わらせたとき、私からは自分の問いも、美月センパイの嘘も、消えてしまっていた。一瞬で忘れるなんて、そんなこと普通はあり得ない。――あり得ないことができるのは、ただ一人。
「……そうだね」
美月センパイは「バレちゃったか」と小さく笑ったけど、その表情はどこか寂しそうだった。
スーパーで買い物するって言っていたから、美月センパイの手料理が食べられるってことだよね。こんなことならもっと家の手伝いをしておくべきだったな。「料理できるんだ」って美月センパイを驚かせたかった。大学生になるまでに少しでも覚えられるだろうか。今日だけでなく一年後の自分たちまで想像して、楽しみで胸がいっぱいになる。ご飯を食べたばかりとは思えないくらい体がふわふわする。
自然と鼻唄が零れた。美月センパイがよく歌っている名前の知らない歌。知らないはずなのに不思議な懐かしさがあって、美月センパイと一緒にいるようになってから私も時々口ずさむようになっていた。今みたいにとても楽しいことが待っているときなんかに。
学食の出入口で待つ美月センパイのもとに向かう。たった数分離れていただけなのに、駆け出しそうなほど心が急く。会いたい。会いたいって。やっぱり私は美月センパイが好きなんだ。
学生たちのざわめきで満ちる空間を通り抜け、美月センパイの姿がもうすぐ見えそう、というときだった。
「え」
すれ違った誰かから零れ落ちた声。自分に向けられたのかもわからない小さな音。どうして立ち止まってしまったのか、自分でもわからなかった。
「その歌……」
と続く言葉のあと、すぐに「あれ、もしかして」と驚きに変わる。それは私も同じだった。眼鏡をかけていなかったので、一瞬誰だかわからなかった。見慣れたスーツ姿ではない。大学生らしい私服姿の高遠先生が立っていた。高遠先生もここの学生なのだからいてもおかしくはない。おかしくはないのに、心臓は驚き以上に不安定に揺れる。
「――高校の生徒さんですよね。廊下で一度ぶつかりそうになった」
高遠先生は少し困ったような顔で笑った。
「そう、です。あの時はすみませんでした」
「俺も……僕も悪かったので」
言い直した瞬間のバツの悪そうな表情に思わず笑ってしまう。
「先生、普段は『俺』なんですね」
「あー、内緒にしといて」
高遠先生から「先生」の空気が消える。柔らかな、けれど決して消えることのない透明のカーテンみたいだった空気。高遠先生は誰にでも丁寧に接していたけれど、私たち生徒に対する距離は一定だった。それが、今は取り払われている。ここでは本当にただの大学生なんだと、そんな当たり前のことにくすぐったくなる。若宮さんは知っているだろうか。教えてあげたいな。好きな人のことならひとつでも多く知りたいって思うから。私も美月センパイのことなら、どんな小さなことでも知りたいって、そう――。
ふっと頭の片隅で何かが小さく爆ぜる。記憶の断片。見えない位置に押しやられたそれが、一瞬の光を見せる。なん、だろう。何かはわからないのに、美月センパイに確かめたいことがあった気がする。爆ぜて落ちた欠片が体内を移動し、胸の奥へと達する。それは突き刺さった細い針を揺らした。
「あのさ」
「みのり」
私に向かってかけられたふたつの声はキレイに重なった。
「どうしたの? なかなか戻ってこないから」
心配したよ、と続いたのであろう声が「美月?」と名前を呼んだ声に途切れる。
私を挟んで繋がる視線。美月センパイの口が小さく動く。声には、音にはならない。けれど私にはわかってしまった。だって私は美月センパイが大好きで、どんな些細なことも知りたくて、見逃したくなくて、いつだって美月センパイを見ていたから。
美月センパイは「豊くん」と高遠先生を下の名前で呼んだ。
狭い町だし、名前くらい知っていてもおかしくはない。高校は二校あるけど(しかない、ともいえる)、中学校と小学校はひとつしかない。顔見知りであっても不思議ではない。だけど、だからって、こんなふうに名前で呼び合うだろうか。
「久しぶり。美月もここだったんだ」
「……うん」
これはただの知り合いじゃない。もっと親しみのある懐かしさを含んだ距離だ。
そして私は思い出した。美月センパイに尋ねた夜のことを。知らない、と答えた声を。今の今まで忘れていたのはきっと――。
模擬授業の始まりを知らせるチャイムが鳴ったのをきっかけに、高遠先生とは分かれた。でも私たちは教室には行かなかった。こんな状態で出たところで何も頭に入らない。何より、確かめたいことがあった。
校門へと続く並木道。両側に植えられている桜は緑の葉でいっぱいだ。五月末の柔い風が肌を撫で、葉を揺らす。吸い込んだ空気には春と夏が混ざり合う。胸で膨らんだ香りに、嗅ぎ慣れた、今では一番好きだと思えるそれを見つけ、小さく手を握る。大丈夫。何もこわくない。私は美月センパイの彼女なんだから。
「高遠先生と知り合いだったんですね」
「うん」
隣を歩く美月センパイとは同じ歩幅で進んでいる。何も言わなくても自然と揃うくらいに私たちは一緒にいた。だから、きっと、大丈夫。
「美月センパイ」
「うん?」
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「……そうだね」
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