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第七章 波乱
1 女
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「まっこと、酷い目に遭うたわ」
正月気分も抜けてきた、一月半ばの金曜日。居酒屋の個室で馨は愚痴を零す。向かいに座るのは、つい最近も話題に上った女剣士だ。彼女もビールのジョッキを片手に、既にかなり酔っている。
「聞いちゅうが?」
「はいはい、聞いてる聞いてる。彼氏に愛されすぎて困ってるんでしょ」
「は!? ち、ちゃうわ、アホ! そがな話しやせん」
「同じようなもんじゃん。毎回毎回会う度に惚気話聞かせやがって」
引き戸が開いて店員がやってくると彼女は一旦口を閉じ、店員が出て行ってから再び喋り始めた。
「惚気てんでしょーが。除夜の鐘も気づかないくらい、エッチに没頭してたんでしょ?」
「なっ……ぅ、まぁ、そう……」
「はー、いいわねぇ恋人がいるってのは。あたしゃ夜通し親父と酒飲んでたわよ」
「な、なんやすまん。わしばっかりいつも話聞いてもろて」
「いいのいいの、あたしが聞きたくて聞いてんだから。恋バナは酒の肴にちょうどいいからねぇ。大体、酷い目に遭ったとか何とか言って、どうせ満更でもないんでしょ。そのマフラーも……」
脱ぎ散らかしたコートの上に畳んで置いてある馨のマフラーを指して彼女は言う。
「マフラーも手袋も、冬になってからずうっと大事そうに使ってるけど、それも彼氏くんが買ってくれたやつなんでしょ」
「そがぁなこと、言うたかいのう」
「見ればわかるわ。そんな柄物、あんた絶対自分では買わないでしょ」
「何じゃあ、カマかけたがか」
「それにさ、見ちゃったのよね。お正月、浅草寺に初詣行ったでしょ」
「ああ、二日に、りょーまと行った」
「まぁめちゃくちゃ混んでたし、遠くからちょこっと見えただけなんだけどさ。彼氏くんもこれと同じ柄の耳当て着けてたじゃん? それで、ピンと来ちゃったわけ」
「何じゃ、おまんもおったがか。はぁ、揃いのもんなぞ目立つきやめぇ言うたのに、りょーまが強情で聞かんきに……」
しまったな、と馨は内心でぼやく。遼真と二人でいるところを知り合いに見られるなど、決まりが悪い。
「彼氏くん、なかなかの男前だよね。好青年っていうか、馨とは大分違うわね」
「ほうかぁ? わしゃあこんまい頃から見慣れちゅうき、ようわからん」
「はー、これだから男は。美に対する興味関心が薄いのよ」
「おまんかて美を追求しちゅうわけやないろう。その短髪、まるで子供ぜよ」
「はぁー? これはただの短髪じゃありませんー、ショートウルフっていうんですぅ。ちゃーんとカタログにも載ってたんだからね」
「けんど、前髪は自分で切っちゅうやか」
「それは、そうだけど……だってカット代もったいないし。っていうか、髪って言えばさ、馨のその長ぁい髪は彼氏くんの趣味なわけ? あたしは好きだけど、面着ける時に邪魔じゃない? あと蒸れそう」
「ああ、これ……」
馨は、普段通り無造作に束ねた髪に手をやる。
「別に、わしがしとうて伸ばしちゅうだけじゃ」
「ふぅん。けど、彼氏くんも気に入ってるんでしょ? 初詣で見かけた時、めっちゃ毛先さわさわしてたもん」
言われて、馨は思わず噴き出した。色々零れて水浸しになる。
「え、ちょぉ、大丈夫? はい、おしぼり」
「はぁ……いや、そがなことより、その話はほんまか?」
「ほんとほんと。すんごいさわさわしてた。もうね、猫が猫じゃらしに戯れるくらいちゃいちゃいしてた」
「ちゃ、ちゃいちゃいいうがはようわからんけんど」
「とにかくすごく触ってたよ。あれ気づいてなかったの?」
「わ、わからん。まっこと混んじょったし、転ばんようにするがで精一杯で」
急激に喉が渇き、馨は手元のグラスを一気に空にした。女はおもしろそうににやにや笑う。
「実際どうなのよ。褒めてくれたりしないの? 烏の濡れた羽のように美しい、とかって」
「わしの毛、黒うないし……そらおまんが言われたいだけやか。何じゃあ、烏の濡れた羽ち。褒めやせんろう」
「一応褒め言葉なんだけど。じゃあ何、絹みたいにしなやかで美しい、とか? うーん、あたしってば超詩的!」
「やき、わしの毛ぇはそがなんやないき……どっちかちゅうとりょーまの方が、さらさらしちゅう黒髪で綺麗かもしれん。わしの毛ぇは、むく犬みたぁにもふもふで気持ちえいち、りょーまはよう言うけんど」
「ほぉら、やっぱり褒めてくれるんじゃん。大体ねぇ、ポニーテールが嫌いな男なんてこの世に存在しないのよ。好きな子のだったら余計」
「ほ、ほうかにゃあ……」
馨は纏め髪に指を入れ、ふさふさと撫でた。
「ま、まぁ? 前にバイト探しちょった時、えい加減切ろうか言うたら、えらい勢いで反対はされたけんど」
「ほらぁ、やっぱり好きなんだぁ」
「前は石鹸で洗いよったけんど、りょーまがえいシャンプー買うてきたき、昔よりは大分傷みも減ってきちゅうし」
「はー、はいはい、また惚気か」
「にゃっ、おまんが訊くき」
「冗談! いいよぉ、どんどん惚気なさい。あんたの話聞いてるだけで夢と希望が湧いてくるわ」
「……おまんは、特定の人は作らんがか?」
「あたしはほら、自分より強い人じゃないと嫌だから」
「……そりゃあ、まっことハードルが高いのう」
「まぁねぇ。それに、強いだけでもだめだしね……」
女は、少々気落ちしたように息を吐いた。腕時計を見、言う。
「そろそろ帰らなくていいの? 彼氏くん、待ってるんじゃない?」
「りょーまもどうせ二次会行って遅うなるき、わしもまだ飲む」
「ふーん。じゃああたしも頼もう」
タッチパネルを叩いてメニューを見る。
「ところでさぁ、あんたのその、“りょーまぁ”って言い方さぁ」
「何じゃ、わしゃそがぁに腑抜けた言い方しやせんぞ」
「してるって。“りょーまぁ”ってさ、なんか、フフ」
エッチの時もそういう声で呼んでるわけ? と女は揶揄うように言った。不意を衝かれた馨は全身を真っ赤に染め上げ、そがぁなわけあるか! と叫んだ。
*
今日は職場の新年会があった。遼真は断り切れず二次会に参加し、最寄りの駅に着いたのは夜も更けた頃だった。
「ちょっとぉ~、ちゃんと自分で歩きなさいよぉ、この酔っ払いぃ~」
改札を出たところで、何やら女の声がする。
「ほたえなやぁ、しゃんと歩きゆうやいかぁ」
続いて、遼真のよく知る男の声がする。
「ちゃんと歩いてるってぇ? どっからどう見ても千鳥足じゃないのよぉ~」
どうやら情けないほどべろべろに酔っ払っているらしい。遼真は音もなく、その二人組に忍び寄る。
「あの」
「ぎゃっ!?」
遼真が声をかけると、女は大袈裟に驚いた。
「す、すいません、脅かすつもりは」
「あ、いえ、こちらこそ……ていうか、えっとぉ、ちょうどよかったです。あのこれ」
女は遼真の姿をじろじろ見た後、地べたにしゃがみ込んでいる馨の腕をぐいっと引っ張った。遼真はすかさず二人の間に割って入り、馨をしっかり抱き止める。
「それじゃ、ちゃんと引き渡しましたんで。あたしも帰ります」
遼真が口を挟む隙もなく、女はひらりと踵を返して駅へと戻っていった。閑散とした広場に冷たい風が吹き抜ける。
「……誰だったんだ」
遼真はぽつりと呟いた。腕の中で馨が身動ぐ。すっかり寝入ってしまったらしい。その重たい体を負ぶって、遼真は家路を急いだ。
正月気分も抜けてきた、一月半ばの金曜日。居酒屋の個室で馨は愚痴を零す。向かいに座るのは、つい最近も話題に上った女剣士だ。彼女もビールのジョッキを片手に、既にかなり酔っている。
「聞いちゅうが?」
「はいはい、聞いてる聞いてる。彼氏に愛されすぎて困ってるんでしょ」
「は!? ち、ちゃうわ、アホ! そがな話しやせん」
「同じようなもんじゃん。毎回毎回会う度に惚気話聞かせやがって」
引き戸が開いて店員がやってくると彼女は一旦口を閉じ、店員が出て行ってから再び喋り始めた。
「惚気てんでしょーが。除夜の鐘も気づかないくらい、エッチに没頭してたんでしょ?」
「なっ……ぅ、まぁ、そう……」
「はー、いいわねぇ恋人がいるってのは。あたしゃ夜通し親父と酒飲んでたわよ」
「な、なんやすまん。わしばっかりいつも話聞いてもろて」
「いいのいいの、あたしが聞きたくて聞いてんだから。恋バナは酒の肴にちょうどいいからねぇ。大体、酷い目に遭ったとか何とか言って、どうせ満更でもないんでしょ。そのマフラーも……」
脱ぎ散らかしたコートの上に畳んで置いてある馨のマフラーを指して彼女は言う。
「マフラーも手袋も、冬になってからずうっと大事そうに使ってるけど、それも彼氏くんが買ってくれたやつなんでしょ」
「そがぁなこと、言うたかいのう」
「見ればわかるわ。そんな柄物、あんた絶対自分では買わないでしょ」
「何じゃあ、カマかけたがか」
「それにさ、見ちゃったのよね。お正月、浅草寺に初詣行ったでしょ」
「ああ、二日に、りょーまと行った」
「まぁめちゃくちゃ混んでたし、遠くからちょこっと見えただけなんだけどさ。彼氏くんもこれと同じ柄の耳当て着けてたじゃん? それで、ピンと来ちゃったわけ」
「何じゃ、おまんもおったがか。はぁ、揃いのもんなぞ目立つきやめぇ言うたのに、りょーまが強情で聞かんきに……」
しまったな、と馨は内心でぼやく。遼真と二人でいるところを知り合いに見られるなど、決まりが悪い。
「彼氏くん、なかなかの男前だよね。好青年っていうか、馨とは大分違うわね」
「ほうかぁ? わしゃあこんまい頃から見慣れちゅうき、ようわからん」
「はー、これだから男は。美に対する興味関心が薄いのよ」
「おまんかて美を追求しちゅうわけやないろう。その短髪、まるで子供ぜよ」
「はぁー? これはただの短髪じゃありませんー、ショートウルフっていうんですぅ。ちゃーんとカタログにも載ってたんだからね」
「けんど、前髪は自分で切っちゅうやか」
「それは、そうだけど……だってカット代もったいないし。っていうか、髪って言えばさ、馨のその長ぁい髪は彼氏くんの趣味なわけ? あたしは好きだけど、面着ける時に邪魔じゃない? あと蒸れそう」
「ああ、これ……」
馨は、普段通り無造作に束ねた髪に手をやる。
「別に、わしがしとうて伸ばしちゅうだけじゃ」
「ふぅん。けど、彼氏くんも気に入ってるんでしょ? 初詣で見かけた時、めっちゃ毛先さわさわしてたもん」
言われて、馨は思わず噴き出した。色々零れて水浸しになる。
「え、ちょぉ、大丈夫? はい、おしぼり」
「はぁ……いや、そがなことより、その話はほんまか?」
「ほんとほんと。すんごいさわさわしてた。もうね、猫が猫じゃらしに戯れるくらいちゃいちゃいしてた」
「ちゃ、ちゃいちゃいいうがはようわからんけんど」
「とにかくすごく触ってたよ。あれ気づいてなかったの?」
「わ、わからん。まっこと混んじょったし、転ばんようにするがで精一杯で」
急激に喉が渇き、馨は手元のグラスを一気に空にした。女はおもしろそうににやにや笑う。
「実際どうなのよ。褒めてくれたりしないの? 烏の濡れた羽のように美しい、とかって」
「わしの毛、黒うないし……そらおまんが言われたいだけやか。何じゃあ、烏の濡れた羽ち。褒めやせんろう」
「一応褒め言葉なんだけど。じゃあ何、絹みたいにしなやかで美しい、とか? うーん、あたしってば超詩的!」
「やき、わしの毛ぇはそがなんやないき……どっちかちゅうとりょーまの方が、さらさらしちゅう黒髪で綺麗かもしれん。わしの毛ぇは、むく犬みたぁにもふもふで気持ちえいち、りょーまはよう言うけんど」
「ほぉら、やっぱり褒めてくれるんじゃん。大体ねぇ、ポニーテールが嫌いな男なんてこの世に存在しないのよ。好きな子のだったら余計」
「ほ、ほうかにゃあ……」
馨は纏め髪に指を入れ、ふさふさと撫でた。
「ま、まぁ? 前にバイト探しちょった時、えい加減切ろうか言うたら、えらい勢いで反対はされたけんど」
「ほらぁ、やっぱり好きなんだぁ」
「前は石鹸で洗いよったけんど、りょーまがえいシャンプー買うてきたき、昔よりは大分傷みも減ってきちゅうし」
「はー、はいはい、また惚気か」
「にゃっ、おまんが訊くき」
「冗談! いいよぉ、どんどん惚気なさい。あんたの話聞いてるだけで夢と希望が湧いてくるわ」
「……おまんは、特定の人は作らんがか?」
「あたしはほら、自分より強い人じゃないと嫌だから」
「……そりゃあ、まっことハードルが高いのう」
「まぁねぇ。それに、強いだけでもだめだしね……」
女は、少々気落ちしたように息を吐いた。腕時計を見、言う。
「そろそろ帰らなくていいの? 彼氏くん、待ってるんじゃない?」
「りょーまもどうせ二次会行って遅うなるき、わしもまだ飲む」
「ふーん。じゃああたしも頼もう」
タッチパネルを叩いてメニューを見る。
「ところでさぁ、あんたのその、“りょーまぁ”って言い方さぁ」
「何じゃ、わしゃそがぁに腑抜けた言い方しやせんぞ」
「してるって。“りょーまぁ”ってさ、なんか、フフ」
エッチの時もそういう声で呼んでるわけ? と女は揶揄うように言った。不意を衝かれた馨は全身を真っ赤に染め上げ、そがぁなわけあるか! と叫んだ。
*
今日は職場の新年会があった。遼真は断り切れず二次会に参加し、最寄りの駅に着いたのは夜も更けた頃だった。
「ちょっとぉ~、ちゃんと自分で歩きなさいよぉ、この酔っ払いぃ~」
改札を出たところで、何やら女の声がする。
「ほたえなやぁ、しゃんと歩きゆうやいかぁ」
続いて、遼真のよく知る男の声がする。
「ちゃんと歩いてるってぇ? どっからどう見ても千鳥足じゃないのよぉ~」
どうやら情けないほどべろべろに酔っ払っているらしい。遼真は音もなく、その二人組に忍び寄る。
「あの」
「ぎゃっ!?」
遼真が声をかけると、女は大袈裟に驚いた。
「す、すいません、脅かすつもりは」
「あ、いえ、こちらこそ……ていうか、えっとぉ、ちょうどよかったです。あのこれ」
女は遼真の姿をじろじろ見た後、地べたにしゃがみ込んでいる馨の腕をぐいっと引っ張った。遼真はすかさず二人の間に割って入り、馨をしっかり抱き止める。
「それじゃ、ちゃんと引き渡しましたんで。あたしも帰ります」
遼真が口を挟む隙もなく、女はひらりと踵を返して駅へと戻っていった。閑散とした広場に冷たい風が吹き抜ける。
「……誰だったんだ」
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