そして家族になる

小貝川リン子

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第四章 すれ違う心

失踪③

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 夕刻、街はにわかに浮き立っていた。甚平姿で大はしゃぎする子供や、浴衣姿でめかし込んだ若い女の子が、続々と駅に集まっていく。今夜、隣町で花火大会が開催される。
 
 千紘は、高台にある公園に登った。打上会場からはかなり距離があるが、見晴らしがいいので花火がよく見えるらしい。ぽつりぽつりと並ぶベンチには、ちらほら地元の人の姿があった。
 
 噂通り、花火はよく見えた。遠くに小さくではあるが、遮るものもなく綺麗に見えた。夕闇に沈む街を、色とりどりの花火が明るく照らした。夜を鮮やかに彩る花火があんなに丸いなんて、千紘は初めて知った。
 
 夜空を滑る光の一粒一粒、温かな街灯りの一滴一滴、その下に無数の人生が横たわっていることを、千紘は知った。たった今地面に落ちた火花のその先に、颯希がいるかもしれなかった。千紘が目にした光を、颯希もまた見ているかもしれなかった。
 
 やがて、夜空が闇に染まった。打上の音がやみ、静寂が満ちる。そして誰もいなくなった。
 
 千紘は、ベンチに腰を下ろしたまま動かなかった。今見える明かりといえば、街灯の青い光だけ。草むらには虫の声が聞こえる。靴を脱ぎ、裸足で芝を踏むと、ひんやりと冷たくて気持ちよかった。
 
 ここで夜を明かしたって構わないのだ。誰も千紘を咎めない。千紘はベンチに横になった。こうしてみれば、ちょっとしたベッドのようだ。少し狭いし硬いけど、ベッドを独占するのは初めてだった。
 
 眠れそうになくて、空を見ていた。夏の大三角形が、東の空高く昇っていた。天の川を挟んで織姫星と彦星があるはずだが、肝心の天の川が見えないから、どれがどれだか分からない。
 
 確か、一番明るいのが織姫だったろうか。彦星の特徴はどんなだったろう。見つけられない。
 
 こんな時、颯希がいればすぐに教えてくれるのだろう。しかし、今の千紘には一緒に彦星を探してくれる相手はいない。見つけたいなら、一人で探さなくてはいけない。
 
 不意に、千紘の目元を鋭い光が掠めた。眩しくて、目を閉じる。それは懐中電灯の光だった。一体どこから降って湧いたのだろう。
 
「……千紘?」
 
 耳馴染みのある声がした。心の奥底で焦がれ続けた、愛おしい声。千紘は裸足で逃げ出した。
 
「あ!? おい待て!」
 
 すぐに追いつかれた。千紘も全力で走ったつもりだったが、足にまるで力が入らず、ふらふらと倒れたところを抱きすくめられた。抵抗しようにも、腕にも力が入らない。
 
「やっ、やだやだっ、はなせっ、離せよぉっ」
「離さない。絶対に」
「なんで……やだ、やだってぇ」
「約束しただろ。お前のこと、絶対一人にしないって」
「……っ」
 
 約束した。覚えている。忘れたことなんて、ただの一度もない。千紘は、鼻の奥がツンと痛くなるのを感じ、颯希の胸に顔を埋めた。
 
「だっ……でも、もぉムリじゃん」
「何も無理じゃない。一緒に帰ろう」
「ムリだよ!」
 
 千紘の痛切な叫びが静寂を切り裂く。
 
「だって、オレ……だってぇ……颯希が好きなんだもん!」
「ああ」
「もう、今までみてぇにゃいられねぇんだぜ? オレ、オレぇ……颯希にも、オレんことだけ好きになってほしいんだ!」
「そうか」
「オレんことだけ見てくれよ! オレだけ愛して! いっぱいいっぱい愛してよ! 痛いのも苦しいのも我慢すっから、オレを好きんなってくれよぉ……」
 
 千紘は、颯希の衣服を握りしめて泣き叫んだ。そんな醜態を晒す千紘を、颯希は優しく抱きしめてくれ、千紘が恋い焦がれたその大きな手で、頭を優しく撫でてくれた。
 
「愛してるよ。とっくの昔から」
「……」
「嘘だと思ってんな?」
「信じねぇもん」
「信じろよ」
「……だって……んなこと、あるわけねー」
「お前なぁ」
 
 颯希は困ったように笑い、千紘の頬を両手で挟んだ。
 
「顔見せろ」
「……やだ」
「なんだ。不貞腐れてんのか」
「ふん」
「ま、そういう子供っぽくてめんどくせぇとこも好きだよ」
「はァあ!?」
 
 千紘は思わず叫ぶ。颯希と目が合ってしまった。涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔を颯希に見られて、それでも目を離せない。
 
「ひどい顔だな」
 
 うるせぇ見ンな! と噛み付くつもりだったのに、できなかった。
 
 颯希の唇は、千紘の記憶よりもずっとずっと柔らかくて、温かくて、しょっぱくて、甘かった。
 
「俺は、好きな相手にしかこういうことはしねぇよ」
「……」
「今までだって、ずっとそうだった」
「……そーかよ」
「……帰ったら、続きするか」
「……つづき……?」
「お前がしたいこと、全部してやる」
「オレの……」
 
 したいこと。いっぱいあったはずなのに、今はどうでもいいように感じる。涙味のキスに満たされすぎて、この後のことなんて考えている場合じゃない。今この瞬間が一番幸せだ。いつまでもこの幸せを噛みしめていたい。
 
「……腹減った」
「途中食べてくか」
「ラーメン」
「何ラーメンがいい」
「いつもの」
 
 *
 
 くたびれた赤い暖簾をくぐって店に入った。手書きのメニューが壁に貼られている、典型的な昔ながらの町中華だ。床は若干油っぽいが味は確かだということを、千紘はよく知っていた。
 
 醤油ラーメンを二杯注文した。油の浮いた透明なスープにストレートの細麺、具材はチャーシューに煮卵、メンマとネギと青物という、シンプルながら間違いのない組み合わせだ。
 
 子供用のフォークや取り皿は必要ない。割り箸を割るのには失敗したが、千紘は麺を器用に摘まんで啜った。汁は飛ばさないように気を付ける。
 
「うめェ~~ッ!」
 
 塩分と油分が五臓六腑に染み渡る。
 
「胃がびっくりしないか?」
「お~、うますぎてびっくりしてんぜ。ギョーザ頼んでいい?」
「好きなだけ食え」
 
 餃子に加え、炒飯も追加注文し、ラーメンはスープまで飲み干した。満腹の幸福を久しぶりに味わった。
 
 腹が膨れると眠くなってくる。千紘はさっさと風呂に入って寝たいのに、颯希はコンビニに立ち寄った。
 
「お菓子買ってくれんのぉ?」
「特別に高いアイス買ってやる」
「マジで!? やった!」
 
 冷房を浴びる以外の目的でコンビニに入るのは久しぶりだった。アイスケースを覗くのも久しぶり。どのアイスにしようか。定番のバニラか、ストロベリーか、チョコレートもいいな。
 
「たけーアイスってよぉ、マジでたけーやつ買っていーの?」
「ああ、好きなの選べ」
「マジかよ~。後でやっぱなしとかナシだかんなぁ~?」
「そんなケチくさいこと、言ったことないだろ」
「え~、普段の颯希はわりとケチだぜ~? でも、今日はなんか太っ腹だよなぁ~」
 
 ふと、颯希の提げているカゴを見ると、見たことのない菓子が目に入った。チョコレートとかキャラメルが入っていそうなサイズ感とパッケージ。しかし、よく見ると菓子ではないようだ。普通、商品の写真を前面に配置するはずだが、これはそうなっていない。
 
「な~……コレってよぉ……」
「なんだ、知ってるのか」
「知っ……てるも何も……コンドームだろ、これ」
 
 学校で習ったし、実物を見たこともあるし、使用済みのものを見つけたこともある。ただ、こういう風に売られているとは知らなかった。お菓子みたいな箱に入っているなんて。
 
「イチゴとチョコがあるけど、どっちがいい?」
「あ? 味ついてんの?」
「いや、香りだな。香りなしもあるけど。お前選ぶか」
「オレぁ、なんでも……つかよ~……ソレ、買ってどーすんだよ」
 
 分かりきっていることを、千紘は訊ねた。初心を装っているわけではないが、無性に恥ずかしかった。顔が火照って仕方ない。
 
「お前がしたいなら、今夜使うことになるな」
「ぅ……」
「今日使わなくても、いつか必要になるだろ」
「ぉ……」
「何だよ、変な顔して。適当に買うぞ?」
「っ、か、勝手にしろよ!」
 
 照れが最高潮に達し、ぶっきらぼうな返事をしてしまった。選んだアイスはちゃっかりカゴに放り入れて、千紘は店の外で待った。
 
 今夜起こることを考えたら、とても落ち着いていられない。満腹の幸福に浸り、早く帰って寝たいなぁなんて思っていたのに、眠気も一瞬で吹っ飛んだ。
 
 今夜、いよいよ今夜、千紘は名実共に颯希のものになれるのだろうか。颯希は、千紘のものになってくれるのだろうか。想像だけで心臓がドキドキして、痛くて、苦しくて、幸せだった。
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