螺旋階段

小貝川リン子

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14 悠月編③

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 悠月が、今日は一日どこぞへ出かけて友達と遊んでくると言うので、俺は丸一日暇をした。あまりに暇すぎて、柄にもなく仕事が捗ってしまった。だから悠月が帰ってくるまで、とっくに日が暮れているということに気が付かなかった。
 
 ただいま、とか細い声がして、そのまま真っ先に浴室へ入る。その行動がなんだかいつもと違うような気がして引っ掛かり、俺は後を追った。悠月にしては珍しく、脱衣所に服が脱ぎ散らかしてある。
 
「悪い、風呂まだやってなくて」
「いいんだ。シャワー浴びるだけだから」
 
 浴室の扉越しに話をする。声音からして悠月は大分疲れているようだった。
 
「ずいぶん遅かったな。飯は?」
「……まだ……食ってない」
「じゃあ簡単なの作るな」
 
 脱ぎ捨ててあった服をネットに入れて洗濯機に放り込もうとした時、ガチャン、と何かが壊れるような音が浴室から響いた。何事かと思いドアを開ける。悠月がぐったりとして浴室の床に倒れ込んでいた。シャワーは出しっぱなしで、流れる水がうるさかった。
 
 どうしたんだと尋ねても返事がなく、きつく目を瞑って微かに呻くばかりである。ただならぬ気配を感じ、ともかく濡れたままではまずいから抱き上げてタオルで拭いた。抱っこで運んで布団に寝かせると、悠月は不意に目を覚ます。しばらく視線を彷徨わせ、ようやく俺のことを捉えた。
 
「……せんせぇ?」
「そうだよ。名前言えるか?」
「七海、啓一……」
「じゃなくてお前の名前……ああ、まぁいいや。お前、風呂場で急に倒れたんだぞ。心配したんだからな。どっか痛いとこない? 頭ぶったとか、怪我したとか」
 
 悠月は困ったように額を押さえる。
 
「……たぶんだけど、腹が減ったせいだ」
「腹ぁ?」
「おれ、今日何も食ってなかったんだ。なのに結構……疲れた」
 
 空腹で失神したということだろうか。悠月は脱力して溜め息を吐く。
 
「なんか食べやすいもの作ってよ、せんせぇ」
「おかゆとか?」
「ん……うどんがいい。うどん作って」
「何うどんがいい?」
「あったかいのなら何でも。せんせぇのごはんが食べたい」
「じゃあ待ってろ。すぐ作るから」
 
 俺は急いでエプロンを締め、台所に立った。有り合わせの材料で餡かけ玉子うどんを作って持っていくと、パジャマを着た悠月が炬燵に入って寛いでいる。寝ていなくていいのかと問うと大丈夫だと言う。俺はうどんを啜る悠月の後ろに座り、濡れた髪をドライヤーで乾かした。
 
「濡れたままだと風邪引くから」
「……先生の服も濡れちゃったな。おれのこと運んでくれたんだろ」
「いいよ、どうせ部屋着だし。うどんうまいか?」
「うん。先生は器用だな。それにすごく優しい」
「そんな褒めたって何も――」
 
 とん、と悠月が背中を預けてくる。尻をもぞもぞさせてちょうどいいポジションを確保する。そのままぐんと伸びをして寄り掛かってくる。
 
「ちょ、何、重いんだけど」
「んー……おれもう、このまま寝る。食ったら眠くなった」
 
 丼ぶりは汁まで飲み干して空になっている。悠月は俺の肩の辺りに頬をすり寄せて匂いを嗅ぐ。
 
「せんせぇのにおい、好き」
「おっ前、相当に疲れてんな。何してきたの」
「運動……山登り……」
「山!?」
「でも、頂上は行けなかったんだ。みんな、疲れちまって……」
「どこ登ったんだよ、高尾山とか?」
 
 話しかけるも返事がない。悠月は俺の胸にすっかり体を預け、穏やかな寝息を立てていた。健やかな寝顔にほっとする。帰宅時に感じた不穏な気配は既に消えていた。薄く開いた唇に軽く口づけると、うどんつゆと玉子の味がした。
 
 布団に寝かせてやり、俺も適当に飯を食おうと思って立ち上がろうとすると、悠月の手がまるで離れないでと言わんばかりに裾をぎゅっと掴んで放さないので、俺ももう離れ難くなって、そのまましばらく添い寝した。
 
 *
 
 底が白む夜更け。下腹に幸せな重みを感じて目を覚ます。冷気に肺が痛むが、それを覆すほどの熱気が降ってくる。布団をとっぷり被り、悠月が俺の上で息を荒げていた。色付く頬にそっと触れると、とろりと目を開けてこちらを見る。
 
「せんせぇ……」
「疲れてたんじゃねぇの」
「ふ……だって……さむくって」
「寂しいの間違いだろ」
 
 服はほとんど脱がず、身動ぎする程度にわずかに腰を動かす。快感よりは一つに溶け合う幸福感が勝る。
 
「せんせ……おれな、せんせぇさえいれば、あとはなんにもいらないよ」
「俺もだよ」
「違うんだ、もっと……」
 
 吐く息が白くなる。今日はきっと冷えるだろう。初雪が降るかもしれない。
 
「せんせぇ……おれの足りないところ、ぜんぶ埋めてくれよ」
「今そうしてるだろ」
「ちがう、もっと、深いとこだよ……おれ、せんせぇと一つになりたいんだ……もどりたい」
「戻るも何も……」
 
 眦に光るものを見つけ、指の腹で拭う。
 
「俺だって、お前の腹ン中に帰りたいって思うこと、よくあるよ」
「ほんとう?」
「ああ。だからこうして、一番敏感なとこ擦り合わせて、なるべく深いところで繋がっていたいって、そう思うんだろ」
「うん、せんせぇ、すきだよ……もうはなれないで」
 
 それを言うなら俺の方こそだ。もう二度と、遥か遠い土地で孤独に死なせたりはしない。死の瞬間までそばにいてやる。
 
「離すもんか。お前は俺の一部だ」
 
 俺達はどこか歪で、欠けていて、不完全だ。だからこそぴったり嵌まるのだと知っている。俺はもう、こいつのいない人生など考えられない。かつての孤独に苛まれる夜を一体どんな風に乗り越えてきたのか、今やまるで思い出せない。頭の中に靄がかかっているみたいだ。
 
「それならせんせぇはおれのぜんぶだ。おれのぜんぶ、せんせぇからできてるんだよ。髪の毛一本から爪の先までぜんぶ、元はぜんぶせんせぇのものだったんだ。だからせんせぇだけは、おれを好きにしていいんだよ。せんせぇだけの、特権だ」
「お前の言うことは時々わかりにくいな」
「そのうちわかるよ。せんせぇ、あいしてるなんて言葉じゃ足りないくらい、あいしてるよ」
 
 こうして密着して繋がっていれば薄い皮膚なんて無視できるくらい一つになれているような気がして、だからこの行為に耽溺してしまう。寒いのに熱い、冬の夜は粛々と更けていく。
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