汀の島

小貝川リン子

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九月第二週②

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 翌朝、日の出と共に目が覚めた。四時間も寝ていないが、思いの外すっきりと起きられた。昨晩は結局、行けるところまで行けなかったが、汀と繋がれたという事実だけで、俺は満たされに満たされた。カーテンを開ければ、澄んだ薔薇色に匂う朝焼けが、俺達を祝福してくれているようだった。
 
「ん……がくとさん?」
 
 瞼を擦り、あくびをして、伸びをする汀の元に、清浄な朝日が射し込む。俺はベッドに上がり、可愛い唇を可愛がった。
 
「ん、んん……おきたばっかなのに……」
「お前が可愛いから」
「かわっ……!?」
 
 窓の向こうに見える空と同じ色に、汀は全身を染め上げた。
 
 
 
 安価なビジネスホテルだが、朝食がついている。バイキングというほどのこともない、数種類のおかずをセルフサービスで盛り付ける形式だが、なかなか悪くなかった。コーヒーも旨い。
 
「岳斗さん」
 
 デザートのフルーツポンチを俺の分まで食べながら、汀は思い詰めたように言った。
 
「まだ帰りたくない」
 
 今日の昼の便で家に帰る約束だ。観光をする時間はない。
 
「おばあちゃんにお願いしてみるか」
「ばぁちゃんがいいって言ったら、いいの?」
 
 ホテルのロビーにあるダイヤル式のピンク電話で、汀は家に電話をかけた。俺は十円玉を用意して待機していたが、通話は案外早く終わった。
 
 
 
 早速、ホテルで延泊の手続きをし、離島桟橋近くの店でレンタカーを借りた。二人だけの旅行で、荷物も少なく、そもそも人気車種は出払ってしまっているため、格安の軽自動車を借りた。免許証を持ってきていて本当によかった。まずはどこへ行こうかと地図を広げれば、「買い物がしたい」と汀が言った。
 
 市街地から車で十分ほどの郊外に、サンエーのショッピングセンターとイオンのショッピングセンターが隣接している。ここへ来れば何でも揃うということで、地元の人はもちろん、近隣の離島からの買い出し客も多く、それなりに賑わっていた。
 
 意味もなく百円ショップで雑貨を見、ホームセンターで水槽の熱帯魚を眺め、文房具店でノートや鉛筆をまとめ買いした。書店もあり、汀は児童書コーナーで軽く立ち読みをしたが、結局買いはしなかった。映像化作品のコーナーが設けられていて、一番奥の棚の一番下の段の一番隅っこに、俺の書いた小説もひっそりと陳列されていたが、汀は気付かずに通り過ぎた。
 
 ドラッグストアにも立ち寄った。絆創膏やガーゼなどの衛生用品が置いてある棚の隣に、アダルトグッズが陳列されていた。コンビニに比べると、格段に品揃えがいい。極薄の避妊具はもちろんのこと、陰茎を模したようなボトルに入った潤滑ゼリーや、一人遊びに使える玩具、効果の怪しい催淫剤に、滋養強壮ドリンク剤など。
 
「どれか買ってくか」
 
 アダルトコーナーに気付かず素通りした汀は、俺の声に振り向いた。
 
「なに?」
「だから、何か買ってくかって」
「……?」
 
 汀は不思議そうに首を傾げる。
 
「昨日買ったのだけじゃ、すぐ無くなるだろ。ちゃんとしたローションもあった方がいいし」
「ろーしょん?」
「ほら、ぬるぬるの」
「……!」
「どれが好みとかあるか?」
 
 汀は茹蛸のように真っ赤になった。
 
「知らないっ!」
 
 たたっと駆けて、逃げてしまった。俺は、必要最低限のものだけを選んでレジへ持っていった。
 
 スーパーマーケットの二階は衣料品店になっていた。ファッション誌に載っているような流行の服は置いていないが、普段着や子供服が手頃な価格で売っていた。汀がよく履いているのと似た、三枚一組で七百八十円の男児用下着も売っていた。
 
「こーいうの、お前似合うんじゃねぇの」
 
 俺が言ったのはさすがに下着ではなく、帽子のことだ。ニシの浜の砂のようなアイボリーホワイトの麦わら帽子で、長いレースのリボンが結んである。
 
「なんか、ひらひらしすぎじゃない?」
「それがいいんだろ」
「おれ似合わないよ」
「似合うよ」
「だって可愛すぎだもん」
「だからいいんだろ」
 
 汀はむっと頬を膨らませ、そっぽを向いた。
 
「岳斗さん、今朝からなんか変」
「浮かれてんだよ。悪いか」
「……似合うかな」
「似合うって」
 
 実際に被せてみたら想像以上に可愛くて、俺は迷わずレジを通した。
 
 昼食をどうするか、汀は大いに悩んだ。中華料理屋も和食レストランもハンバーガーショップもドーナツショップも、どれも島にはない店ばかりだからだ。しばらく悩んで出した結論は、「マクドナルドがいい」とのこと。
 
 食べ慣れたジャンクな味だが、久しぶりに食べるとえらく旨く感じる。汀は、顔と同じくらいのサイズのハンバーガーを、小さな両手をいっぱいに広げて掴み、顎が外れそうなほど口を開いて豪快にかぶり付いたが、汀の小さな口にこの大きなハンバーガーが入り切るわけもなく、バンズとパティをほんの少し齧り取っただけだった。しかも、持ち方が悪いのか食べ方が下手なのか、レタスがぼろぼろ、ソースがぼたぼた零れて、そこら中見境なく汚していく。
 
「んん……おいしーけど、食べにくい」
「不器用すぎだろ」
「そんなことない! 見てて、今度はキレイに……」
 
 がぶっ、ともう一口食らい付くと、びゅっ、とソースが押し出された。垂れるのが分かって、汀は咄嗟に手で押さえる。マスタードベースのソースが掌をべったり汚し、指の間からぼたぼた零れた。
 
「あぅうう……なんでぇ?」
「縦にするからだろ。水平にして持ったら零れないんじゃねぇか」
「そんなの知らないし。そしたらもっと食べにくいじゃん」
 
 汀は、べたべたになった掌を舐め、指の間の水かきを舐めた。手の甲や手首の方まで、短い舌を一生懸命伸ばして這わせ、垂れたソースを舐め取った。さらに、バンズからはみ出たソースを指先で掬い取り、乳を吸う赤子よろしくちゅっちゅと吸った。
 
「行儀悪いぞ」
「だっておいしいんだもん」
「だからってなぁ」
「岳斗さんも舐めたい?」
「は? いや……」
 
 てっきり、汀の指についたそれを舐めるのかと思い狼狽したが、汀は単純に、ハンバーガー本体をこちらへ差し出した。
 
「ほら、この辺。零れそうだから早く」
「ああ、うん……」
 
 指先で少し掬って、舐めた。塩辛い濃い味で、ピクルスの酸味が利いていた。
 
 その後、さらに市街地を離れて車を走らせた。汀は助手席に座り、スーパーマーケットで買い込んだお菓子を食べる。ウエハースチョコなんて零れやすいものを。
 
「見て岳斗さん。キラカード出た」
「へぇ、よかったな。何のキャラ」
「知らない」
「知らないのに集めてんのかよ」
「集めてるわけじゃないよ。珍しいから欲しかっただけ。岳斗さんが何でも買ってくれるって言うから」
「お前、俺を都合のいい財布か何かだと思ってないか?」
「思ってないよぉ、そんな失礼なこと」
 
 確かに、島では食玩なんて滅多に見ない。汀は、ゲームキャラのソフビ人形や恐竜のミニフィギュアと一緒に、ホログラム加工をされたカードを丁寧に袋に仕舞った。
 
 しばらくは国道を道なりに行き、やがて曲がりくねった細い林道に入った。一応舗装されてはいるが、とにかく道幅が狭く、青々と茂った草木が道路の方へ迫り出して邪魔をする。もしも対向車が来たらすれ違うのに苦労するだろうと思いはらはらしたが、ともかく無事に登山口まで辿り着いた。
 
 登山口といっても、木製に手書きの小さな看板が、木陰にぽつんと立っているだけ。その先は、登山道というにはあまりにも自然を残しすぎた獣道だった。正直、俺は二の足を踏んだが、汀は臆することなく駆けていく。汀の島は全体的に平坦なので、低い山でも珍しいのだろう。
 
「岳斗さんも早く!」
 
 登山など、高校の遠足以来だ。足場はあまりよくない。道なき道が延々続いている。あちこちに岩がごろごろしていて歩きにくく、剥き出しの木の根に躓きそうになり、闇雲に飛び出した鋭い枝葉に行く手を阻まれる。
 
 山の深い緑や、湿った土の匂い、虫の声や鳥の囀り、木の葉の囁きや風のざわめきなど、全身で自然を感じることができて気持ちいいことは気持ちいいが、そんなことよりとにかく暑い。そして辛い。足が上がらない。
 
 生い茂る草木が陰を作ってくれるが、それにしたって暑い。加えて滑り落ちそうな急勾配だ。ロープが張られており、それを伝って登る。汗だくで、ぜいぜいと息を切らして、重たい足を引きずって、時折立ち止まっては膝を抱えずにはいられない俺を尻目に、汀は軽い足取りで登っていく。
 
「岳斗さぁん、大丈夫?」
「俺のことは置いて、先に行け……」
「ごめんね。おれが山に行きたいなんて言ったから……。岳斗さん、体力ない弱々人間なのに」
「うるせぇ……」
 
 汀は振り返り、哀れむような目でこちらを見た。疲れすぎて怒りも覚えない。
 そんな具合で、なかなか過酷な道のりであったが、二十分もかからずに山頂へ到達した。緑と土ばかりだった視界が突然開け、青い空が頭上いっぱいに広がる。俺は、手近にあったちょうどいい岩に腰掛け、浴びるように水を飲んだ。ようやく座って休憩できる。嬉しい。文字通り帽子の上から水をぶっかけたい気分だったが、帰りもあるのでやめた。
 
「岳斗さん、まだ上あるよ。休んでないで来てよぉ」
「そんなに急ぐなよ……お前、ちゃんと水飲んだか?」
「飲んだ! だから、ね、早く!」
 
 汀は俺の腕をぐいぐい引っ張る。山頂はごつごつとした険しい岩場で、結局のところ足場はよくない。
 
「ねぇ、見て! すっごい絶景!」
 
 岩の頂までよじ登ると、石垣島を丸ごと望むことができた。青い稜線と、長閑な田園。白い砂浜と、青い海岸線。透き通る海と、くっきり光る水平線。三百六十度どこを見回しても、空と海が交差している。
 
「わぁあ~。ねぇ、すっごく高いね」
「……すっごく高いな……」
「怖い?」
「お前こそ。はしゃいで足滑らすなよ」
 
 眺望は素晴らしいが、見下ろすと足が竦む。転げ落ちたら命はないだろうに、汀は突き出した岩盤の先端へ行って、その迫力を楽しむ。先程買ってやった麦わら帽子の白いレースのリボンが、風にそよぐ。
 
「ここねぇ、ツィンダラ節の伝説の山なんだよ」
「つぃ……何?」
「ツィンダラ節。忘れちゃったの? 前に唄ったことあるじゃん」
 
 汀が軽く節をつけて唄ってくれて、やっと思い出した。ムシャーマの夜に、月の下で汀が唄ってくれた民謡の一つだ。確か、強制移住によって恋人と離れ離れになった哀しみを唄ったものだ。曲調は明るいのに、酷く切ない気持ちになる唄だった。
 
「島分けで、娘はこの山の麓に移り住むんだけど、どうしても恋人のことを忘れられなくて、山の頂上から故郷の島を一目見ようとするんだけど」
 
 汀は南西の方角を指差した。
 
「もっと高い山が邪魔をして、島影すらも見えなかった。悲しみのあまり、娘はそのまま石になっちゃったんだってさ」
 
 実際、南西方向は高い山に遮られて、海が見えない。
 
「じゃあ、ここにある岩のどれかが、その娘かもしれないってことかよ」
「うーん、さぁ。所詮は言い伝えだし。おれは、娘はここから身投げしたんだと思うな。そっちの方がリアルだし、ずっとロマンチックだもん」
 
 岩盤の下を覗き込みながら言うので、俺はその襟首を掴んで引き戻した。
 
「そろそろ下りようぜ」
「えー、もう? せっかく高いのに」
「いや、ほら、待ってる人もいるし」
 
 汀の座る岩は山頂で一番の絶景スポットであり、かつスリルを楽しめる場所でもあるらしい。後から登ってきた男女カップルが、俺達の帰るのをカメラを携えて待っていた。
 
 下山し、再び国道に入って、島を一周ドライブした。石垣島は、特に北部は山がちの地形で、ジャングルを切り拓いて通した風な道が多かった。ヤシやフクギの街路樹が連なる、渋滞とは無縁の快適な道路で、交差点はたまにあるが信号機はなく、横断歩道もなく、車も走っていなければ人っ子一人歩いていない。
 
「石垣島に行くって言ったら、ちゃんと左右確認して道渡れとか、青信号がちかちかしたら渡っちゃダメとか、横断歩道があるところを渡らなきゃダメとか、あっちの車は飛ばすから気を付けろとか、色々心配されたんだけど、全然そんなことなかったね」
 
 汀は楽しそうにドロップ缶を振り、転がり出た赤い玉を頬張って、口の中でころころ転がす。その丸い頬を横目に見ていたら、俺が食べたがっていると勘違いしたのか、一粒口に入れてくれた。
 
「ハッカかよ」
「嫌いなの?」
「好きか嫌いかって言えばな。やっぱフルーツ味がいいよ」
「そーなんだ。おれも」
「自分の嫌いなもんを押し付けるの、よくないぞ」
「だって岳斗さん大人だから、食べられるかと思って」
「大人でも苦手なもんは苦手なんですー」
 
 北側に大きく突き出した半島の最北端の岬の灯台から東シナ海を一望し、県道七十九号を西進してマングローブの林を散歩し、入江の公園で洒落たジェラートを食べ、最西端の岬から半島を回り、市街地へ向けて南下した。景色の開けた海沿いの道を真っ直ぐ走るのは爽快感があって気持ちよく、窓を開けると潮風が吹いた。島の南西にある岬の灯台からは、大きな島影が水平線にはっきりと見えた。
 
 市街地近郊の森林公園は、夕方になり涼しくなってきたせいか、親子連れの姿がちらほら見られた。丘陵の斜面を利用したロングスライダーや、丸太やロープを使用したアスレチックが設置されていて、汀はしばらく夢中で遊んだ。ネットでできたジャングルジムが特に気に入ったようで、何度もてっぺんに登って腰掛けては、一人ベンチで休む俺に手を振った。
 
 日没を迎え、公園内で一番の高台にある展望台に登った。一階にはベンチとテーブルが、二階には望遠鏡があり、三階は屋上になっていて、螺旋階段で上ることができた。背後には山がそびえているが、市街地と海を一望できて見晴らしが良い。街に明かりが灯り始め、キラキラと眩しい。
 
「これが夜景?」
 
 汀は、興味津々に屋上の欄干から身を乗り出した。
 
「ほんとに宝石箱みたい。見たことないけど」
 
 大都会の夜景に慣れた者にとっては大したことはないが、街灯一本すらない真の暗闇を知っている者にとっては大変珍しく、美しいものとして映る。実際、俺の想像を遥かに超えて、完成された夜景だった。俺は、欄干に置かれた汀の手に、自分の手を重ねた。汀は、驚いて手を引っ込めようとする。
 
「わっ」
「何だよ。せっかくいい雰囲気なのに」
「い、いい雰囲気って……」
 
 汀は、ちらりと背後を振り返る。男女カップルが隅の方にいるが、今にもキスしそうな距離でうっとりと見つめ合い、お互いがお互いのことしか見えていない様子だった。
 
「どうせ気付かねぇから大丈夫だよ」
「そ、そうかな」
「見られたところで、どうせ知らない人なんだから。ちょっと気まずくなって終わりだろ」
 
 旅の恥は掻き捨てとはよく言ったものだと思いながら、俺は指を絡めた。汀もおずおずと手を握り返してくれ、恥ずかしそうに笑った。
 
「えへへ……これが、いい雰囲気?」
「いつか、もっとすごい夜景、見に行けるといいな」
「もっとすごいの?」
「都会の灯りはすごいぞ。東京でも大阪でも、横浜とか神戸でもいいけど、いつか連れてってやりたいよ」
「連れてってくれるの? 岳斗さんが?」
「お前がもう少し大きくなったらな」
「絶対ね。約束」
 
 思いがけず、プロポーズのようになった。汀は、分かっているのかいないのか、俺の薬指を強く握りしめた。
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