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八月第五週①-①
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残暑はいまだ厳しいが、夏休みはもうすぐ終わろうとしている。そんな中、汀は終わらない宿題に追われていた。俺の目から見た限り、少なくとも七月中は、毎日しっかり勉強していたように思う。それがどういうわけか、盆の前後からサボり気味になって、このところは机に向かいもせず遊び惚けていた。
「だって! 岳斗さんが海行こうとか言うから!」
「海はお前が言い出したんだろ」
「アイス奢ってくれるとか、おそば食べに行こうとか言うから!」
「それは言ったけど、お前だって喜んでついてきたじゃねぇか」
「部活だって、岳斗さんがいると長引くし!」
「それは悪かっ――いや、俺のせいじゃないだろ、絶対」
「岳斗さんのせいだよぉ。もうう、終わんなかったらどうしよう」
汀は、真っ白な数学のプリントの前で唸る。軒先にぶら下げた風鈴が、涼しい音を奏でた。
「んなこと言ってたってしょうがないだろ。ほら、漢字の書き取り終わったぞ」
「ほんと!? じゃあ次これ!」
渡されたのは、英語の教科書とノート。アルファベットを書きやすいように四本の罫線が入った、子供向けの英語ノートだ。俺も中学生の頃はこういうのを使っていた。
「これをどうすんだよ」
「教科書の裏の方に単語がいっぱい載ってるから、それをノートに一列ずつ書いてって」
「はいはい」
漢字の書き取りといい英単語の書き取りといい、汀は地道で面倒な宿題を後回しにする傾向にあるらしい。
「だって、ずっと単語を書いてるだけなんて、つまんないんだもん」
「そうか? こんなの、修行だと思えば」
「腕疲れるし、手も汚れる」
「お前、自分のしたくないことを他人に押し付けるのはよくないぞ」
「でもでも、今は岳斗さんだけが頼りなんだよ。宿題手伝ってもらってるなんてばぁちゃんに知られたら、きっとすっごく怒られちゃう」
汀は泣き言を言いながらも、数学の計算問題を解く。高校数学では躓いた俺でもさすがに分かる、簡単な一次方程式の問題だ。汀は、迷うことなくシャープペンを滑らせて、すらすらと解答を書き込んでいった。
「勉強が分からないわけじゃないのに、なんでこんなにギリギリになるまで残しておいたんだよ」
「いつもならもっと計画的に終わらせるもん。今年だけだよ、こんな風になってるの」
「なんで今年だけこんなダメダメなんだよ」
「そんなの……」
汀は、シャープペンの先で俺の二の腕を突ついた。
「なんだよ。ツンツンすんな」
「岳斗さんのせいで、おれ、どんどん悪い子になっちゃう」
ほんの少し体を寄せれば、肘がぶつかる。狭い文机の下で、膝がぶつかる。つま先が触れ合う。軒先の風鈴が、けたたましく騒いだ。
「さっさと終わらせようぜ。あとそのプリントだけなんだろ?」
俺が言うと、汀は気まずそうに首を振った。
「あと、作文と絵が……」
まだまだ、夏休みは終われない。
夕食の時間までに、作文まではどうにか終わらせた。あとは絵を一枚仕上げるだけだ。ただ、何を描くかというのがまず問題だった。作文もそうだったが、テーマは特に決められていないらしい。好きなものでも好きなことでも、家族のことでも友達のことでも、静物画でも風景画でも、夏休みの思い出でも、何でもありらしい。
「好きなものかぁ……」
汀は、HBの鉛筆をくるりと回した。渦を巻いた蚊取り線香から、蒼い煙が昇る。
「海でいいんじゃねぇの。お前、海好きじゃん」
「海は好きだけど、もう暗いしなぁ……」
「暗いとダメなのか?」
「明るい海の方が好きだし。今更スケッチしに行くのも面倒だよ」
「そんなの、思い出して描けばいいだろ。俺に色々見せてくれたじゃねぇか」
燦然と輝く、青藍の海。朝日が昇る、神々しい海。夕日が沈む、物哀しい海。淡い光が差し込む、透き通った海の底。汀に見せてもらった美しいもの全て、瞼の裏側に焼き付いている。目を閉じるだけで、ありありと思い出すことができる。
「別に、夜の海だっていいと思うけどな。満月の映る大潮の海とかさ。きっと綺麗だぞ。あ、でも今夜は新月か?」
「うーん……」
画用紙と睨めっこをしていた汀は、いきなり顔を上げると、俺の顔をじぃっと見つめた。こちらがうっかりたじろいでしまうほど、ただでさえ大きな目をさらに大きく見開いて見つめる。自然と、顔が熱くなる。顔だけじゃない。その瞳に焦がされて、体までが熱を持つ。脈打つ心臓が、熱い血液を体中に押し流す。体の中心が熱くなって、内側から焦がされる。
「……おれ、決めた」
静寂を破ったのは、汀の声だ。俺は胸を撫で下ろした。無言で見つめ合う状態があと二秒続いていたら、間違いなく手が出ていた。危ないところだった。
「岳斗さんを描く」
「はぁ? 俺のことなんか描かなくていいよ」
「だって、描きたいんだもん。モデルになってよ。んー、どっち向きがいいかなぁ。正面か、横向きか……。背景はどうしよっかな」
「いや、おい、待てって……」
俺のことなんか置いてきぼりで、汀はやる気満々だ。押し入れからわざわざ画版を探し出し、画用紙を挟む。描く場所を求めて家の中をあちこち歩き回っていたが、最終的に縁側に決めたらしい。俺を柱のそばに座らせ、自分も隣に腰掛けて、画版と鉛筆を構えた。
「うん、いい感じじゃない? 岳斗さん、じっとして動かないで、庭の方見ててね」
「いや、うん……ほんとにいいのか?」
汀の要望通りにポーズを取りながら――といってもただ座っているだけだが――俺は何度目か分からない疑問を口にした。
「俺なんか描いたって、しょうがねぇだろ。他にもっといい題材があると思うんだけど」
「しょうがなくないよ。大丈夫、ちゃんと見たまんま描くから」
「そこは普通、実物より格好よく描くもんだろ」
「なんでよ。本物に近い方が嬉しいじゃん」
「嬉しいって何だよ」
汀の方を向こうとすると、「動かないで」と怒られた。
汀は、熱心に鉛筆を走らせる。消しゴムをかけて、また鉛筆を取る。紙と筆の擦れる音が響く。時折、穴の開くほど見つめられた。今自分がどんな顔をしているのか想像するに、やはり、わざわざ絵に残すような美しい横顔ではないように思われて、だからつい、汀の視線から隠れたくなったけれども、ポーズを崩すとまた怒られるので、俺は踏ん張って耐えた。
縁側で描いているものだから、通りかかった宿泊客が「何やってるの?」などと訊きに来る。「夏休みの宿題です」と汀が少々ぶっきらぼうに答えると、頑張っているご褒美にと、お菓子やジュースを置いていってくれた。
下描きが終われば、色塗りに移行する。水彩絵具セットのバケツに水を汲んできて、パレットに絵具を絞り出し、水をたっぷり含んだ絵筆で溶く。絵具セットという存在自体が、俺にとっては懐かしい。汀のそれは大分使い込まれており、色々な絵具の染み付いた白いパレットが、満開の花園のようだった。
「なぁ、そろそろ動いてい――」
「まだだめ」
「もう腰が限界なんですけど……」
「あとちょっとだから」
汀が、真剣な目で俺を見る。パレットに青と橙の絵具を出して混ぜ合わせ、空の色を作る。それから画用紙に視線を落とし、細い指で絵筆を滑らす。たったそれだけの仕草に、俺の心臓はいちいち調子を狂わせる。大仰な溜め息でも吐きたい気分だった。
「だって! 岳斗さんが海行こうとか言うから!」
「海はお前が言い出したんだろ」
「アイス奢ってくれるとか、おそば食べに行こうとか言うから!」
「それは言ったけど、お前だって喜んでついてきたじゃねぇか」
「部活だって、岳斗さんがいると長引くし!」
「それは悪かっ――いや、俺のせいじゃないだろ、絶対」
「岳斗さんのせいだよぉ。もうう、終わんなかったらどうしよう」
汀は、真っ白な数学のプリントの前で唸る。軒先にぶら下げた風鈴が、涼しい音を奏でた。
「んなこと言ってたってしょうがないだろ。ほら、漢字の書き取り終わったぞ」
「ほんと!? じゃあ次これ!」
渡されたのは、英語の教科書とノート。アルファベットを書きやすいように四本の罫線が入った、子供向けの英語ノートだ。俺も中学生の頃はこういうのを使っていた。
「これをどうすんだよ」
「教科書の裏の方に単語がいっぱい載ってるから、それをノートに一列ずつ書いてって」
「はいはい」
漢字の書き取りといい英単語の書き取りといい、汀は地道で面倒な宿題を後回しにする傾向にあるらしい。
「だって、ずっと単語を書いてるだけなんて、つまんないんだもん」
「そうか? こんなの、修行だと思えば」
「腕疲れるし、手も汚れる」
「お前、自分のしたくないことを他人に押し付けるのはよくないぞ」
「でもでも、今は岳斗さんだけが頼りなんだよ。宿題手伝ってもらってるなんてばぁちゃんに知られたら、きっとすっごく怒られちゃう」
汀は泣き言を言いながらも、数学の計算問題を解く。高校数学では躓いた俺でもさすがに分かる、簡単な一次方程式の問題だ。汀は、迷うことなくシャープペンを滑らせて、すらすらと解答を書き込んでいった。
「勉強が分からないわけじゃないのに、なんでこんなにギリギリになるまで残しておいたんだよ」
「いつもならもっと計画的に終わらせるもん。今年だけだよ、こんな風になってるの」
「なんで今年だけこんなダメダメなんだよ」
「そんなの……」
汀は、シャープペンの先で俺の二の腕を突ついた。
「なんだよ。ツンツンすんな」
「岳斗さんのせいで、おれ、どんどん悪い子になっちゃう」
ほんの少し体を寄せれば、肘がぶつかる。狭い文机の下で、膝がぶつかる。つま先が触れ合う。軒先の風鈴が、けたたましく騒いだ。
「さっさと終わらせようぜ。あとそのプリントだけなんだろ?」
俺が言うと、汀は気まずそうに首を振った。
「あと、作文と絵が……」
まだまだ、夏休みは終われない。
夕食の時間までに、作文まではどうにか終わらせた。あとは絵を一枚仕上げるだけだ。ただ、何を描くかというのがまず問題だった。作文もそうだったが、テーマは特に決められていないらしい。好きなものでも好きなことでも、家族のことでも友達のことでも、静物画でも風景画でも、夏休みの思い出でも、何でもありらしい。
「好きなものかぁ……」
汀は、HBの鉛筆をくるりと回した。渦を巻いた蚊取り線香から、蒼い煙が昇る。
「海でいいんじゃねぇの。お前、海好きじゃん」
「海は好きだけど、もう暗いしなぁ……」
「暗いとダメなのか?」
「明るい海の方が好きだし。今更スケッチしに行くのも面倒だよ」
「そんなの、思い出して描けばいいだろ。俺に色々見せてくれたじゃねぇか」
燦然と輝く、青藍の海。朝日が昇る、神々しい海。夕日が沈む、物哀しい海。淡い光が差し込む、透き通った海の底。汀に見せてもらった美しいもの全て、瞼の裏側に焼き付いている。目を閉じるだけで、ありありと思い出すことができる。
「別に、夜の海だっていいと思うけどな。満月の映る大潮の海とかさ。きっと綺麗だぞ。あ、でも今夜は新月か?」
「うーん……」
画用紙と睨めっこをしていた汀は、いきなり顔を上げると、俺の顔をじぃっと見つめた。こちらがうっかりたじろいでしまうほど、ただでさえ大きな目をさらに大きく見開いて見つめる。自然と、顔が熱くなる。顔だけじゃない。その瞳に焦がされて、体までが熱を持つ。脈打つ心臓が、熱い血液を体中に押し流す。体の中心が熱くなって、内側から焦がされる。
「……おれ、決めた」
静寂を破ったのは、汀の声だ。俺は胸を撫で下ろした。無言で見つめ合う状態があと二秒続いていたら、間違いなく手が出ていた。危ないところだった。
「岳斗さんを描く」
「はぁ? 俺のことなんか描かなくていいよ」
「だって、描きたいんだもん。モデルになってよ。んー、どっち向きがいいかなぁ。正面か、横向きか……。背景はどうしよっかな」
「いや、おい、待てって……」
俺のことなんか置いてきぼりで、汀はやる気満々だ。押し入れからわざわざ画版を探し出し、画用紙を挟む。描く場所を求めて家の中をあちこち歩き回っていたが、最終的に縁側に決めたらしい。俺を柱のそばに座らせ、自分も隣に腰掛けて、画版と鉛筆を構えた。
「うん、いい感じじゃない? 岳斗さん、じっとして動かないで、庭の方見ててね」
「いや、うん……ほんとにいいのか?」
汀の要望通りにポーズを取りながら――といってもただ座っているだけだが――俺は何度目か分からない疑問を口にした。
「俺なんか描いたって、しょうがねぇだろ。他にもっといい題材があると思うんだけど」
「しょうがなくないよ。大丈夫、ちゃんと見たまんま描くから」
「そこは普通、実物より格好よく描くもんだろ」
「なんでよ。本物に近い方が嬉しいじゃん」
「嬉しいって何だよ」
汀の方を向こうとすると、「動かないで」と怒られた。
汀は、熱心に鉛筆を走らせる。消しゴムをかけて、また鉛筆を取る。紙と筆の擦れる音が響く。時折、穴の開くほど見つめられた。今自分がどんな顔をしているのか想像するに、やはり、わざわざ絵に残すような美しい横顔ではないように思われて、だからつい、汀の視線から隠れたくなったけれども、ポーズを崩すとまた怒られるので、俺は踏ん張って耐えた。
縁側で描いているものだから、通りかかった宿泊客が「何やってるの?」などと訊きに来る。「夏休みの宿題です」と汀が少々ぶっきらぼうに答えると、頑張っているご褒美にと、お菓子やジュースを置いていってくれた。
下描きが終われば、色塗りに移行する。水彩絵具セットのバケツに水を汲んできて、パレットに絵具を絞り出し、水をたっぷり含んだ絵筆で溶く。絵具セットという存在自体が、俺にとっては懐かしい。汀のそれは大分使い込まれており、色々な絵具の染み付いた白いパレットが、満開の花園のようだった。
「なぁ、そろそろ動いてい――」
「まだだめ」
「もう腰が限界なんですけど……」
「あとちょっとだから」
汀が、真剣な目で俺を見る。パレットに青と橙の絵具を出して混ぜ合わせ、空の色を作る。それから画用紙に視線を落とし、細い指で絵筆を滑らす。たったそれだけの仕草に、俺の心臓はいちいち調子を狂わせる。大仰な溜め息でも吐きたい気分だった。
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