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1. 会えない日々

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 ふとしたときに、思い出す。
 流れる水を見たときであったり。
 空を飛ぶ鷹の姿を見たときであったり。
 風が森を揺らしたときであったり。
 そんな何でもないような、ふとしたときに、思い出す。
 あの人の手と、ぬくもりを。

          ◇

「リュシイ、いるー?」

 小さな家の扉が、ノックされる。

「はーい」

 返事をしながら、ぱたぱたと扉に向かう。
 この声は、ライラだ。ハダルの恋人。
 扉を開けると案の定、赤毛の彼女が立っていて、にっこりと笑った。

「ねえ、これから街に帰ろうと思うのよ。ついてきてくれない?」
「はい、もちろん」

 そううなずくと、彼女は微笑み返してきた。
 そのまま家を出て、セオ村の入り口に二人で並んで向かう。
 すると村の入り口に張られた天幕の中から、常駐していた兵士の一人が立ち上がってこちらに向かって歩いてきた。

「お出かけですか?」
「はい、お願いできるでしょうか」
「おまかせください」

 兵士はうなずくと、荷馬車の用意を手伝ってくれる。
 その間に二人は、村人になにかお遣いはないかと聞いて回った。

 リュシイが最後の家を回ったときには、ライラはハダルの家の前で、恋人との一時の別れの儀式というものを行っていた。
 抱き合う二人が目に入って、くるりと背中を向ける。
 なんと情熱的なのだろう。愛し合う二人というのは、ああいうものなのか。
 他人事ながら、顔が熱くなってしまう。

「ねえ、もう皆に訊いたあ?」

 少ししてライラの声がして、振り向く。もうハダルは家の中に入ってしまったようだった。

「あ、はい、もう」
「そう」
「あの、……もう、いいんですか?」

 言いながら、ハダルの家のほうを見る。

「ああ、見てた?」

 ライラはそう言って、小さく舌を出した。

「寂しい、ですよね」

 恋しい誰かと離れるのは。

「まあ、またすぐに来るし。平気平気」

 笑いながらそう言うので、ほっと息を吐く。
 二人で並んで、また村の入り口まで並んで歩く。
 荷馬車の準備も、もう大方できているようだ。

「リュシイがいると、街に帰るのも安心だし楽だし、助かるわあ」

 笑いながら、ライラは言う。

 彼女は、二月前からセオ村に出入りするようになった。
 ライラは少し離れたエンリルという街に住んでいるのだが、今はもう、ハダルと一緒に暮らしているようなもので、街と村を行ったり来たりしている。
 その際ついでに、村人が必要とする物資をまとめて買ったり、仕事を貰ってきたりするのだ。

 リュシイの隣を歩く、すらりとした長身のライラは、肩のところでまっすぐに切られた赤毛をかき上げた。
 お姉さんがいたらこんな感じなのかしら、とリュシイはライラを見上げる。

 小さな村であるセオ村の人々は、内向的なハダルが恋人を村に連れてきたときにはずいぶん警戒していたものだが、彼女の気さくな人柄に触れ、次第に歓迎するようになっていった。

 リュシイより五つ年上の、二十二歳。
 セオ村ではこれでもリュシイと年が近いほうで、彼女は事あるごとにリュシイに話しかけてくるようになった。
 もう何年もこの村に出入りしているのではないかしら、と思うほど、ライラはセオ村になじんでしまっている。

「ご用意できました、どうぞ」

 荷馬車の準備を整えた兵士は、御者台を指し示す。二人は一旦御者台に登り、そこから荷台に移って座り込んだ。

「おねがいしまーす」

 ライラがそう言うと、兵士は御者台に乗り、馬を操って荷馬車を走らせる。

 彼らは、四月前からセオ村の入り口に天幕を張って常駐している。
 僻遠の地にあったセオ村の存在を認識したエイゼン国が、村を統治下に置くために兵士を常駐させているのだ。
 最初の頃は、帯刀している兵士たちに村人はびくびくしていたが、今では彼らの存在も当たり前になっている。
 数はいないが小さな子どもたちに文字を教えたり、畑仕事を手伝ったりして、馴染もうとした兵士たちの努力もあっただろうと思う。

 そんな彼らは、リュシイのことも何くれとなく気にかけてくれた。
 特に村の外に出るときには、必ず一人はついてくる。
 それはたぶん、リュシイの『力』を欲しがる者がいることを警戒しているのだろう。

「ねえ、最近は、夢を見ないの?」

 隣に座る、ライラが言う。
 ライラのその言葉に、兵士が聞き耳を立てているのが分かった。

「最近は、見ていないんです」
「あら、そうなの。面白くなーい」

 ライラはそう言って、空を見上げた。リュシイもつられて上を向く。
 広がる青空。小鳥のさえずりがどこからか聞こえる。
 リュシイの銀色の長い髪が、風に揺れた。

「私の夢なんて、面白いことはないですよ。……嫌な夢ばかりです」

 人が怪我する夢。病に倒れる夢。……死に至る夢。
 そしてその夢は、確実に現実となる。
 もう二度と見たくない。

「だって村の人たちは、みーんなリュシイの予知夢を知ってるって言うのに、私だけ何にも知らないんだもん」

 傍から見れば、そんなものなのかもしれない。
 村人たちはリュシイの夢を怖がっている節があるが、ライラはまったくそんな素振りを見せない。
 だとしたら、村人たちと馴染みたいと思っているライラにとっては、一人だけ仲間外れのような気分なのだろう。

「ねえ、本当に嫌な夢ばかり? たとえば、ほらっ、私がハダルとどうなるかとか、わからないの?」

 顔を寄せてきて、そんなことを言う。
 御者台に座る兵士が、小さく笑って言った。

「そういう色恋沙汰は、わからないほうが楽しいんじゃないですか?」
「そうかもしれないけどお、でも不安なときだってあるじゃない」

 少し口を尖らせて、ライラが言う。
 街と村を行ったり来たりの生活。二人はまだ結婚しているわけではないから、不安になるときもあるのかもしれない。

「夢は、好きなときに好きなものを見られないんです」
「そうらしいけどさ。でも、私の夢を見たら教えてよ」
「ええ、見たら、必ず」

 それだけは約束できる。
 リュシイの夢は、変動する。
 見たら必ずその当人に忠告しないと、次第に酷くなっていくのだ。
 その忠告が遅れ、死に至った者もいる。
 たとえば、両親。

「ほんっとうに、嫌な夢ばかり? 幸せな夢は見ない?」

 顔を覗き込んでリュシイに言ってくるので、思考を中断させられる。

「ええ……だいたいは」
「一回も?」
「……一回は……たぶん、あるんですけど……」
「ほらあ! あるんじゃない!」

 あるにはある。一度だけ。
 通常の予知夢は、一度見たら、それを何度も繰り返して明確になっていく。
 だが、あの幸せな夢は、一度きり。
 そして、あの夢以降、一度もどんな予知夢も見ていない。
 時間が経つにつれ、あれは本当に予知夢だったのか、という疑念が湧いてしまっている。

「予知夢だったのかどうか、自信がなくて……。もしかしたら、私の願望だったのかも」

 身の程知らずな、夢。
 すると、ライラはにやにやと笑って言った。

「なるほどね、リュシイの願望ということは、自分の幸せな夢だったんだ」
「えっ、あっ」

 カッと顔が熱くなった。
 その様子を見て、ライラはうんうん、とうなずいた。
 御者台の兵士の肩も小さく震えている。

「ふんふん、なるほどなるほどー」
「嫌だ、そんなのじゃないんですっ」
「そんなのってどんなの? 私、どんな夢なのか言ってないわよ」
「え……」
「それに、その態度じゃ、自分の夢だって認めたようなものよ?」
「あ……」

 語るに落ちるとは、このことだ。

「もう、言いません……」

 膝を抱えて、小さくなって座る。
 ライラは笑いながら、リュシイの肩を叩いた。

「まあまあ、それが現実になるといいわね」
「なる……わけないんです。だから、余計に信じられなくて……」
「ふうん?」

 荷馬車が揺れる。
 空を見上げる。空はきっと繋がっているけれど、とても遠い。
 あの人に会いたいと思うけれど、きっともう会うことはないのだろう。
 いつかまた会えると彼は言ってくれたけれど、でもやはり、遠い。それは、距離だけではなくて。
 会えない日々が続くうち、きっと、この胸の痛みも感じなくなるときが来るのだろう。
 それがいつなのかは、想像すらできないけれど。

          ◇

 エンリルに到着し、頼まれた買い物を済ませる。兵士も荷物を持ったりして手伝ってくれて、用事はあっという間に完了した。

「じゃあね、リュシイ。二週間後にまた来てね」
「はい、また」

 ライラはぱたぱたと走って、彼女が住むという小さな家の中に入っていく。
 弟と二人暮らしで、両親はいない。
 だから彼女は、セオ村には住めない。

「うちの弟、あいつ、馬鹿だからさ。一人にできないんだ」

 いつだったか、ライラはそう言っていた。
 ハダルが村から出て、エンリルに住むようになればいいのだろうが、ハダルはハダルで年老いた母親の面倒を見なければいけない。
 だからライラはこうして行ったり来たりの生活を送っているのだ。

 荷物を荷馬車に詰め込み、今度は荷台で一人で座る。
 馬を操る兵士に、話し掛けてみる。

「あの、もうずっと村におられますよね」
「僕ですか? ええ、そうですね」
「王都にどなたか残してきていないんですか?」
「ああ、まあ、独身ですから。親はおりますが、兄もおりますので、その点は心配ないんですよ」
「そうなんですか」

 こんな辺鄙な土地で、もう何月も過ごしている彼らも、寂しいのではないかと思ったのだが。

「独身の者が優先的にこちらに派遣されました。でもそれももうすぐ終わります。そろそろ交代の時期ですから王城に帰ることになるでしょう」
「それは寂しくなります」

 すると兵士は、ははは、と笑って言った。

「『女神』にそう言っていただけると嬉しいですね。僕も寂しいですけれど、陛下の命であればどこでも行くのが我々ですから」

 陛下、の言葉に、ばくん、と心臓が跳ねた。
 この人が王城に帰ることが、少し、羨ましいと思った。
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