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第六章

5.荒れた手

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 翌日から、レディオスとジャンティは仕事に取り掛かった。まずは王都の状況を知らねばならない。

「やれやれ、だ」

 信頼のおける者に調査は任せて、毎日のように入ってくる情報に目を通す。
 書類をまとめることだけで、一苦労だ。極秘の内容であるから、その辺にほっぽり出す訳にはいかない。

 更には調査の内容自体にもうんざりしていた。
 予想はしていたが、こんなにも脆い都だとは思っていなかった。
 歴史を重んじた結果なのか、老朽化の進んだ建物が多い。王都にひしめき合うように並んだ建物の通り道は、狭すぎる上にわき道が多く、曲がりくねっている。

「これは、一度王都というものを考え直す必要がありそうですな」
「かといって、一斉に整備する訳にもいくまい」
「それはそうですが」

 新しい報告が入ってくる度に、ため息が洩れる。やめた、と言って投げ出したい衝動に何度かられたかしれない。
 だが、すべてを把握して、優先順位をつけなければならない。

「張本人に手伝わせたいな。彼女はこの話を知っているし」

 書類を繰りながら言うと、ジャンティがいいえ、とつぶやいた。

「彼女には、無理です」
「なぜだ? できるかぎり、雑用は他の者に任せて……」
「文字が読めないのですよ」

 その言葉にぴたりと手を止める。
 そしてまじまじとジャンティを見た。彼は書類に目を落としたまま顔を上げない。

「文字が、読めない?」
「そうです。そもそも文字など彼女には必要なかったし、辺境の村には教育設備もない」
「……そうか」

 丁寧な言葉遣いをしていたし、物腰が柔らかく、どことなく気品も漂っていたから、まさか字が読めないなどとは思ってもみなかった。

「今、いい機会ですからアリシアに教えさせています。飲み込みが早いようですよ」
「そうか。為になればいいのだが」
「本人も喜んでいるようですよ。だからこそ、吸収も早い」

 レディオスは再び書類に目を落とした。
 王都の状況や、彼女のような文字が読めない人々がいる、という現実を知れば知るほど、自分がどれほど無力なのかを思い知る。

「新しい仕事が、また増えたな」

 誰に言うともなく、そうつぶやく。
 その言葉にジャンティが顔を上げるのが、気配でわかった。

「私は陛下がそのようにお考えになることを、嬉しく思います」
「そなたは私に甘すぎるからな。世辞は聞かぬ」
「今のは世辞ではありませぬ」
「では、素直に受け取っておこう」

 小さく笑うと、また書類をめくる。まだまだこれからも情報が舞い込んでくるはずだ。
 それだけではない。情報を元に、対策を考え、実行に移さなければならない。
 いったいどれだけの時間が必要なのか、検討もつかない。

「いつ頃のことなのだろう」
「は? 何が、でしょうか」
「地震だ。もし起きるとしたら、いつ頃のことなのだろう」
「ああ。彼女が言うには、今はまだわからないそうですよ。時期が迫れば、時間を限定できる夢を見るのではないか、と言っておりました。いつもそうなのだと」
「念のため、もし時期がわかったらこちらに報告するように言っておけ」
「かしこまりました」
「辛いだろうな」

 何気なく言った言葉に、ジャンティがまた手を止めた。

「辛い?」
「もし本当に予知夢を見ているのなら、そんな夢ばかり見て辛いだろう、と言ったのだ」

 それが妄想であれ何であれ、人が死ぬ夢や地震が起きる夢、どれもこれもできれば目を背けたいような出来事だろうに。

「そうですな。できれば、彼女に幸せな夢を見てもらいたいものです」
「あやつは幸せな夢ばかり見ていたのだろうがな」

 レディオスの言う「あやつ」が誰なのか悟ると、ジャンティはああ、と嘆息した。
 常に幸せな予言しかしなかった男。

「それが必要なときもあるのですよ」
「そんなものか?」
「人は、時に逃げたくなるものなのです」
「父上もか?」
「そうかもしれない、と申し上げておきましょう」

 しばらくの沈黙が二人を包む。先に口を開いたのはジャンティだった。

「陛下だって逃げたくなるときがあるでしょう。例えば、今」
「今? この仕事か?」

 机上に山と積まれた書類を見渡してレディオスが言った。
 ジャンティはいいえ、と首を横に振る。

「これから、授業があるでしょう。彼女ははりきっておられましたよ」

 ジャンティが何を言おうとしているのか、しばしの間、眉をひそめて考える。
 そして、あ、と小さな声を洩らした。

「忘れていた」
「後は私がやっておきますから、陛下はどうぞ授業の方へ」
「忙しいのに……」
「これらの作業は極秘ですから、他のことはすべて滞りなく行う必要があります。ほら、逃げたくなるときがあるでしょう?」

 レディオスは小さくため息をつくと、立ち上がった。
 言うのではなかった。
 弱みを握られたような気分だった。ジャンティの表情が「してやったり」と言っているように感じるのは、気のせいではないだろう。

          ◇

「私、ずっと考えておりましたのよ。どうしたら陛下が授業に身を入れられるのか」

 上機嫌な様子でアイルが言った。

「で、これか」

 いつもは二人きりの部屋に、もう一人の人間がいた。彼は竪琴を胸に抱いている。

「やはり、曲が必要でしょう。楽団を呼ぶ訳には参りませんから、竪琴で。ああ、ご心配なさらず。彼は竪琴一つで、楽団にも匹敵する腕前ですのよ」

 そんなことは心配していない。
 アイルの思惑とは相反したことを思いつつ、竪琴を持つ男にちらりと視線を走らせると、彼は小さく会釈して言った。

「お耳汚しになりますが」
「いや、ご苦労。期待している」

 心にもない言葉が、口から滑り落ちる。
 本当は大きくため息をつきたいほどだった。

「それから、前に申し上げましたでしょう。私の娘を呼びました。外から見たいものですから」
「アリシアを?」

 知らず声が高くなっていたらしい。アイルは怪訝な顔をした。

「アリシアでは何か?」
「あ、いや……」

 慌てて手を何度か振った。
 正直、アイル以外の人間に、のほほんと踊っている姿を見られるのは死ぬほど恥ずかしかった。

「前にも言ったが、今彼女は客人の相手をしているのだが」
「ええ、存じ上げております。ですから、そのお客さまもこちらで見学なさいます。何しろダンスというものを知らないようで、いい機会ですし……」
「冗談じゃない!」

 嬉々として言うアイルの言葉を遮って、大声をあげる。
 アリシアだけでも恥ずかしいのに、その上リュシイまで?
 とてもじゃないが耐えられない。

「まあ、なぜですか? こう言ってはなんですが、陛下の授業の受け方は特別です。他の方々は大人数でダンスを学びます。その方が切磋琢磨できますし、人に見られるということを意識するのも大切なのです」
「そうかもしれないが、とにかく私は嫌なのだ。悪いが二人には退がってもらって欲しい」
「駄目です」
「どうして」
「もう来ておられます」

 アイルの言葉に一瞬唖然として、恐る恐る振り返る。
 いつの間にかドアが薄く開いていて、そこからアリシアの姿が見えた。

「入ってもよろしいでしょうか?」

 アリシアが楚々として言った。が、言外に棘を感じさせる。
 どこから聞いていたものか知らないが、頭を抱えたくなった。

「どうぞ。あら、お客さまは?」

 娘が一人で入室したのを見て、アイルは首を傾げた。
 アリシアが扉を振り返りながら答える。

「いらっしゃるのですけれど、躊躇なさっていて。陛下のお邪魔になるようなら遠慮したいと仰っておりますの」

 そう言ってちらりとレディオスを横目で眺める。
 非難めいた視線を受ける筋合いはこれっぽっちもないが、だからと言って、彼女らを責める筋合いもない。

「ああ、楽しみにしておられましたのに」

 アリシアが小さく何度も首を横に振りながら、芝居がかった言い方をする。

「……わかった。構わぬ」

 肩を落としてそう言うと、アリシアはにっこりと極上の微笑みを見せ、扉の外を覗き込んだ。
 アリシアに呼ばれて、リュシイがおずおずと入室してくる。

「あの、本当によろしいのでしょうか?」

 上目遣いでそう言う。レディオスが口を開くより先に、アイルが進み出て腕を開いて彼女を歓迎した。

「ええ、どうぞご遠慮なさらず。ゆっくりとご覧になって」

 壁際にあった椅子を指し示し、それに座るよう彼女を促す。彼女はちょこんと小さく椅子に腰掛けた。
 レディオスは諦めたように小さくため息をついて振り返る。ふと、苦笑している竪琴奏者と目が合った。じろりと睨むと、彼は小さく肩をすくめる。

 こうなっては仕方がない。不本意ながら、アイルの言うことを受け入れるしかないだろう。

「さ、組んで下さいな」

 アリシアが目前に立ち、ドレスの裾を少し持ち上げて礼をする。
 黙っていればどこの深窓の令嬢かと思えるほどなのに、と本人が聞いたら激昂すること間違いなしのことを思う。
 彼女の手を左手にとり、背中に右手を回して引き寄せる。すっとアリシアの背が伸びたのが分かった。
 それが合図だったかのように、竪琴の音が広間に響き始めた。

 なるほど、これは。
 アイルが言った通り、曲があるとないとでは、全然違う。楽しさすら覚えるようだ。

 ダンス教師を母に持つだけあって、アリシアの動きは滑らかだ。流れるようにリードに従う。
 動きに合わせて彼女の長い髪が踊るのが、心地よかった。
 やはりアリシアの実力が断然上なのか、時に彼女の手に力が入り、導かれる。しかしそれも苦にならなかった。

「はい、止めて!」

 アイルの声で、竪琴の音と二人の動きが止まる。現実の世界に引き戻され、自分が軽く汗ばんでいることに驚いた。

「やはり曲があった方がいいようです。今までで一番良かったと思います」

 満足げにうなずきながら近寄ってくる。
 ちらりとリュシイの方へ視線を移すと、彼女は嬉々として小さく拍手をしていた。

「ええと、手を組む位置がまだ低いですわね。それとやはり前屈みになることがありますわ。足元は絶対に見ないで下さいませ」

 言いながら手を添えて、細かい補正に入る。
 ダンスの姿勢を保つのは中々に大変なことだが、アリシアの方は事もなげにその姿勢を維持している。

「ではもう一度」

 アイルに言われて、竪琴奏者はうなずくと、弦をかき鳴らし始めた。
 どこから連れて来たのかは知らないが、王城に勤めることのできるいい機会だ。彼も必死なのかもしれない。
 音楽に関しては素人だからよくわからないが、相当の実力の持ち主なのだろう。自然に身体が動くようだ。

 最近やっと、周りに目を向けることができるようになってきた。
 けれどまだまだ国民のことを知らないのかもしれない、と思った。

 リュシイはダンスを知らない、と言う。自分が嫌々ながら受けているこの授業は、彼女が生きていく上で全く必要のないことなのだろう。
 彼女にとっては畑を耕して生きることが、すべてにおいて優先されるのかもしれない。

「あなたも、少し踊ってみる?」

 ふと、そんな声がして、動きを止めた。
 アリシアも声のする方へ視線を向ける。曲が、止まった。

「えっ、でも、私」

 戸惑いながら、アイルの質問に首を横に振るリュシイがいた。

「せっかくですもの。どうぞ」
「私は踊ったことなんてないし」
「存じ上げておりますわ。教えて差し上げましてよ」

 そう言って、無理矢理手を取り、引っ張って席を立たせる。
 引き摺られるように、リュシイはレディオスとアリシアの前に連れてこられた。
 戸惑うリュシイを他所に、アイルは三人に忙しく視線を移す。

「そうねえ。アリシアでは身長が足りないかしら。陛下、ちょっと組んで下さる?」
「……ああ」

 レディオスがうなずくと、アリシアが一歩引く。
 が、リュシイは一歩も動けないようだった。

「いえ、あの、私は」

 みるみるうちに、彼女の顔が赤く染まっていく。
 何とか辞退しようとしているが、アイルの勢いに気圧されているようだ。

「いいから、とりあえず陛下の前にまっすぐ立って」

 そう言われて、申し訳ありません、と消え入るような声で言うと、レディオスの前に立つ。

「背中は伸ばして。反るくらいの気持ちで。右手を陛下の左手に乗せて」

 手を添えながら、細かく指示を出していく。

 リュシイの手が自分の手に重ねられたとき、レディオスは思わずまじまじとその白い手に視線を注いだ。
 荒れている。
 たおやかな身体や優雅な物腰からは想像もできない、固くザラついた手。
 レディオスの人生の中で、こんなに荒れた手を持つ女性はいなかった。これが働き者の手なのだろうか、と思った。

 その視線を受け止めてどう思ったのか、彼女はすぐに俯いてしまった。
 すかさずアイルが「顔を上げて、顎を引いて」と声を掛け、彼女は慌ててそれに従うが、ちょっとすると、また俯いてしまう。

「まあ」

 アイルは腰に手を当ててため息をついた。

「自信のなさが、姿勢に表れていますよ」

 リュシイはその言葉にすみません、と小さくつぶやいた。

「謝ることはないのよ。ダンスは初めてだし、上手くできないのは当然。でもね、あなたの自信のなさは、そういうことではないようよ。あなたはとても綺麗だし、自信を持って胸を張って」
「綺麗だなんて……」

 消え入るような、声だ。

「そうね、今のままではせっかくの美貌も宝の持ち腐れ。でも、しゃんとしなさい。自信は数倍も女を美しくしてよ。もしあなたが自分を好きになって、自信を持ったなら、どんな殿方でも振り向かずにはいられないでしょう。ねえ、陛下?」

 急に話を振られて、「は?」と惚けた声を出す。アリシアが視界の隅で苦笑した。

「それは、まあ……そうだろうな」

 しどろもどろでそう答える。既に輝かんばかりの美貌には、目を奪われる程なのだ。
 胸を張って闊歩すれば、間違いなく人目を引く。

 レディオスの言葉にリュシイはぱっと顔を上げた。それから少し頬を染めて、恥ずかしげに微笑んだ。
 それは、野に咲く一輪の小さな花が、朝露を受けて開くような輝きを持っていた。

「はい、じゃあもう一度組んで下さる?」

 まだ完全ではないが、先ほどよりは幾分か、背筋が伸びたようだった。
 背中に回した手に力を入れて引き寄せると、やはり俯いてしまったが。
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