上 下
33 / 38
第五章 宮守明日香【後編】

第三十三話 我慢なんかしていない

しおりを挟む
「一月からお世話になります、星野です。宜しくお願い致します」

 十月に入るとすぐに、採用試験をパスした数名の男女が大輔のオフィスに姿を見せた。
 女性は恭子ただ一人。あとの三名は二十代から三十代の男性であった。

 内定者四名が、執務室を巡回するように挨拶をしていく。
 大輔は遠目から嘗ての恋人を視界に入れた。

 大学の時よりもさらに短い、黒髪のベリーショート。
 アイボリーのスーツにピンクゴールドのネックレス。
 モデル張りのプロポーションは相変わらずで、社員たちの視線を一身に浴びていた。

「菅原さん、お久しぶりです」

 恭子が大輔に気づき、少し硬い笑顔を添えて声をかけてくる。
 坂本をはじめ、周囲の人間全員が大輔のほうを振り返った。

「どうも」
 名指しされた大輔は、無表情で軽く頭を下げる。

「社長から菅原さんの名前を伺った時は、驚きました。これから宜しくお願いします」
「こちらこそよろしく」

 大輔が薄く笑うと、恭子は安心したように表情を柔らげた。
 
 ****

 午前中にひと仕事を済ませると、大輔は得意先との打ち合わせのためオフィスを後にした。

 クールビズ期間も終了し、ジャケットを羽織って事務所を後にする。
 ネクタイが嫌いではない彼にとって、暑さもひと段落した十月は心身ともに仕事に集中できる時期であった。

 大宮駅が見えてきたあたりで、百貨店の正面玄関から恭子が出てきたことに気づく。彼女は一人だった。

「どうも、お疲れ様です」
 彼女と目が合ったため、軽く会釈をする。

「……大輔君」
 会社では「菅原さん」だったことに、今頃気が付いた。

 恭子は少し恥ずかしそうな表情をした。
 化粧品屋の紙袋を手に下げた彼女。よく見ると、朝会った時よりも化粧がかなり濃い。

「帰り?」
「えぇ。今日はオリエンテーションだけだから……大輔君は、これからなの?」
「上野で打ち合わせ……随分買ったね。化粧品?」
 紙袋を覗き込むと、個々に箱入りされた大量の化粧品が入っている。

「化粧品カウンターの人、セールストークが上手くて……採用通知も受け取ったし、自分へのご褒美で沢山買っちゃった」
 ようやく縦長の笑窪を見せる。

「まさかうちに転職してくるとは思わなかったよ。なんでうちにしたの? 星野さんなら、もっと凄いとこ行けるでしょ」

 恭子は数年前に、病気療養のため仕事を辞めていた。
 現在治療は終了し経過観察の状態であると、篠原から聞かされている。
 坂本もそうだが、大輔の同僚の殆どは病気で一度リタイアした人間ばかりである。次いで多いのが、大輔のような介護離職者である。

「それは大輔君だってそうでしょ?」
「俺の場合、篠原さんが元上司だったから。つい甘えちゃって」
「……大輔君、本当に官僚だったんだね」
「まぁね。誰かさんに振られたから、ヤケになって勉強したよ」
「すごい皮肉」
 クスクスと笑いだす恭子。
 
 大輔は思わず微苦笑した。
 懐かしいな、この感じ。
 星野さんは、そう、こういう感じだった。

 恭子が左手を持ち上げて腕時計を見る。
「時間、大丈夫なの?」
「大丈夫。いつも時間には余裕もって出ているから」

 笑顔で答える彼を見て、恭子がポツリとつぶやく。
「本当はね、大輔君に会うの、怖かったの」
 震えるような声を発する彼女。大輔は持っていたバッグの柄を強く握った。

「……どうして?」
「私のこと、恨んでいるかなって。怒ってるかなって。もし顔を見て、目を逸らされたりしたらどうしようって。怖かった。もしそうだったら、この会社、辞退しようかなって思ってた。一緒に働くの、辛いから……」
 目線を下げて、何度も瞬きをする。

 大輔はやや苛立ちを見せた。
「俺はそんなに度量の狭い男じゃないよ。そんな子供みたいな……いい年こいて、そんなことしないって」

 彼の答えに、恭子は嘗ての彼女を彷彿とさせる、淀みない口調で持論を展開した。
「そうなの? 嫌なことは、幾つになっても嫌だし、辛いことは、幾つになっても辛いんじゃないの? 大人になったからって、年取ったからって、平気になんてならないよ。もし平気だとしても、それは平気になったんじゃなくて、我慢しているだけじゃない?」

 ****
 
 大輔は京浜東北線の車内にいた。
 大宮は始発駅なので席はいくらでも空いていたが、座らずに扉にもたれかかった。

 あの後も暫く、百貨店の前で恭子と立ち話をした。
 彼女は「大輔君には話しておくね」と、これまでの経緯を話してくれた。

 彼女は現在、父親と二人で東京の入谷に住んでいる。病気をきっかけにして父親とは和解したと言う。

 患ったのは卵巣癌だった。発見が遅く、かなり進行していた。
 アメリカ赴任時に発覚したのだが、死を意識した彼女は、日本で治療に専念することを選択した。

「日本人だからね。最後の晩餐は、和食が良いなと思って」

 手術は成功したが、結果彼女は子供の産めない体になった。
 術後は更年期障害により、心身のコンディションは最悪となった。更に他部位への転移の可能性もあったため、元の職場への復帰は絶望的となった。

 今回篠原の会社に応募したのは、父親の勧めがあったからである。
 仕事と通院、安心して両立できる環境をと、父親が過去の人脈を駆使して探した結果だった。

 彼女にはパートナーがいた。相手はアメリカ人。
 現在も彼はニューヨークに住んでいるが、スカイプで毎日会話はしているという。

「日本に戻る前に、彼には別れようって言ったの。こんな体だからね。でも頑として了解してくれなくて。来年、日本に来ることになっているの。父も承諾してくれたし、結婚しようと思ってる」


 扉のガラスに映る自分自身を、ぼんやりと見つめる大輔。
 恭子にフィアンセがいると聞いた時、素直に「おめでとう」と言えた。自分の中で、彼女は本当に過去の人なんだと確信できた。

 そして彼女が何気なく発した一言が、彼の体を蝕むように染みこんでいた。

「大人になったからって、平気になんてならないよ。それは我慢しているだけじゃない?」

 ****

 同週、土曜日。
 久しぶりの休日出勤である。

 渋谷・神泉の老齢社長との面談を終えると、大輔はまっすぐ家に戻った。
 明日香が「大事な報告があるので、会って欲しい」と申し出てきたため、今夜は自宅で彼女から話を聞くことになっている。
 本来仕事のある週は会わないのだが、特段の用件ということで、マンションで待ってもらうことにした。

 部屋の鍵は、彼女の誕生日の直後に渡している。
 そうすることで、彼女が自分を「特別な女性」だと自覚するのではないかと、大輔が考えたからである。勿論、「勝手に入らないこと」という条件付きである。


 大輔は出迎えにきた明日香を抱きしめる。
「ただいま、明日香」
「大輔さん!」

 余程嬉しいことがあったのだろう、明日香はこぼれそうな笑顔を見せている。
 釣られるように顔を緩ませる大輔。
「嬉しそうだね。何? 報告って?」

「大輔さん、私ね、リーズに行けるようになったの!」

 言葉に詰まる大輔。
 それを悟られまいと、思いきり彼女を抱き締める。

「おめでとう、明日香」
 
 彼女から連絡が来たのは、水曜日。恭子がオフィスに挨拶に来た日だった。
 改まって至急の報告というのだから、きっと家族か仕事のことだろうとは思っていた。しかし恭子とのやり取りのほうが頭に残ってしまい、それ以上深く考えないまま、土曜日を迎えていた。

 言い知れない不安が大輔を襲う。

 嘗て自分は、「君の夢を応援したい」と宣言した。今でもその気持ちに変わりはない。
 だが、あの時と今とでは彼女との関係はかなり違う。

 彼女がリーズに行けば、当然だが長期間会えなくなる。
 思い出したくないが、彼女は一度浮気をしている。その理由が「寂しかったから」だとしたら。今回も同じ過ちを犯す可能性は十分にある。

 こんな状態で、俺は彼女をリーズへ行かせられるのか。
 大人になって、「行っておいで」と言うべきなのか。
 子供のように、「行かないでくれ」と正直に言うべきなのか。

「ありがとう、大輔さん。これも『諦めるな』って言ってくれた、大輔さんのおかげだよ」
 彼の首に手を回して、上半身を反らせる明日香。

「だから、言っただろう? 明日香の能力は、評価されて然るべきだって。この経験はきっと、明日香の糧になるよ。頑張っておいで」
 
 真剣な目で彼女を鼓舞する。
 彼女は勘がいい。作り笑顔はバレる。

 大輔は彼女を見つめて、その髪を撫でた。
「髪、切ったんだね。似合ってる」
 明日香は鎖骨の下まであった髪を切って、マッシュラインのショートヘアにしていた。

 リーズ行きが決まって、景気づけに美容院にでも行ってきたのだろう。
 まるで星野さんだな。
 女性は自分へのご褒美と称して、自分磨きに余念がない。

 大輔は明日香を引き連れながら、リビングに入っていく。
「でもね、専務の話だと、三年は戻って来れないって」
「三年か。意外と短いね」
 
 コートハンガーにジャケットを掛けると、その手が震えているのに気が付く。慌てて消臭スプレーを手にして、勢いよく上着にかける。
 
「短くないよ。その間、大輔さんに会えないんだよ、寂しいよ」
「会えるって。年に一度ぐらいは、会社の金で帰国できるだろうし。俺も時間みつけて会いに行くよ。シーズン外せば、航空券も結構安いし」

 俺は何を言っているんだろう。
 本当は「君を海外なんか行かせられない」と言いたいのを、我慢して。
 平気なふりをして。
 大人のふりをして。

 気が付くと、明日香がこちらにじっと視線を向けている。
「どうしたの?」

「大輔さんのスーツ姿、素敵だなって思って」
「……惚れ直した?」
「これ以上好きになったら、どうかしちゃう」
 明日香が口をすぼませて横を向く。

 ショートヘアのうなじが見えると、大輔は一気に欲情した。
 彼女の腕を掴んで引き寄せ、強引にキスをする。両手で彼女の耳を塞ぐようにして舌を入れる大輔。

「……大輔さん?」
 いつになく激しい彼の行動に、明日香が不安そうに息を漏らす。
「明日香……髪切って、色っぽくなった……」 

 彼女はこんなにも俺を愛してくれている。
 俺たちは心から愛し合っているんだ。

 俺は我慢なんかしていない。
 平気なふりなんかしていない。

 大輔は明日香の首筋に唇を這わせ、そのまま彼女をソファに押し倒した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

追放されましたが、私は幸せなのでご心配なく。

cyaru
恋愛
マルスグレット王国には3人の側妃がいる。 ただし、妃と言っても世継ぎを望まれてではなく国政が滞ることがないように執務や政務をするために召し上げられた職業妃。 その側妃の1人だったウェルシェスは追放の刑に処された。 理由は隣国レブレス王国の怒りを買ってしまった事。 しかし、レブレス王国の使者を怒らせたのはカーティスの愛人ライラ。 ライラは平民でただ寵愛を受けるだけ。王妃は追い出すことが出来たけれど側妃にカーティスを取られるのでは?と疑心暗鬼になり3人の側妃を敵視していた。 ライラの失態の責任は、その場にいたウェルシェスが責任を取らされてしまった。 「あの人にも幸せになる権利はあるわ」 ライラの一言でライラに傾倒しているカーティスから王都追放を命じられてしまった。 レブレス王国とは逆にある隣国ハネース王国の伯爵家に嫁いだ叔母の元に身を寄せようと馬車に揺られていたウェルシェスだったが、辺鄙な田舎の村で馬車の車軸が折れてしまった。 直すにも技師もおらず途方に暮れていると声を掛けてくれた男性がいた。 タビュレン子爵家の当主で、丁度唯一の農産物が収穫時期で出向いて来ていたベールジアン・タビュレンだった。 馬車を修理してもらう間、領地の屋敷に招かれたウェルシェスはベールジアンから相談を受ける。 「収穫量が思ったように伸びなくて」 もしかしたら力になれるかも知れないと恩返しのつもりで領地の収穫量倍増計画を立てるのだが、気が付けばベールジアンからの熱い視線が…。 ★↑例の如く恐ろしく、それはもう省略しまくってます。 ★11月9日投稿開始、完結は11月11日です。 ★コメントの返信は遅いです。 ★タグが勝手すぎる!と思う方。ごめんなさい。検索してもヒットしないよう工夫してます。 ♡注意事項~この話を読む前に~♡ ※異世界を舞台にした創作話です。時代設定なし、史実に基づいた話ではありません。【妄想史であり世界史ではない】事をご理解ください。登場人物、場所全て架空です。 ※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義なのでリアルな世界の常識と混同されないようお願いします。 ※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。 ※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。 ※話の基幹、伏線に関わる文言についてのご指摘は申し訳ないですが受けられません

【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!

ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、 1年以内に妊娠そして出産。 跡継ぎを産んで女主人以上の 役割を果たしていたし、 円満だと思っていた。 夫の本音を聞くまでは。 そして息子が他人に思えた。 いてもいなくてもいい存在?萎んだ花? 分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。 * 作り話です * 完結保証付き * 暇つぶしにどうぞ

冤罪で殺された聖女、生まれ変わって自由に生きる

みおな
恋愛
聖女。 女神から選ばれし、世界にたった一人の存在。 本来なら、誰からも尊ばれ大切に扱われる存在である聖女ルディアは、婚約者である王太子から冤罪をかけられ処刑されてしまう。 愛し子の死に、女神はルディアの時間を巻き戻す。 記憶を持ったまま聖女認定の前に戻ったルディアは、聖女にならず自由に生きる道を選択する。

【完結】夫の浮気相手は私の継母でした…。

山葵
恋愛
それは雨の降る鬱陶しい日の昼の事。 従姉妹のミリアが屋敷を訪ねて来た。 「ねぇケイト。あなたとブルースは…そのー上手くいってるの?」 奥歯に物の挟まった言い方が気になる。 「なぜそんな事を聞くの?」 ミリアは、言い辛そうにしている。 彼…ブルースに何が?

置き去りにされた転生シンママはご落胤を秘かに育てるも、モトサヤはご容赦のほどを 

青の雀
恋愛
シンママから玉の輿婚へ 学生時代から付き合っていた王太子のレオンハルト・バルセロナ殿下に、ある日突然、旅先で置き去りにされてしまう。 お忍び旅行で来ていたので、誰も二人の居場所を知らなく、両親のどちらかが亡くなった時にしか発動しないはずの「血の呪縛」魔法を使われた。 お腹には、殿下との子供を宿しているというのに、政略結婚をするため、バレンシア・セレナーデ公爵令嬢が邪魔になったという理由だけで、あっけなく捨てられてしまったのだ。 レオンハルトは当初、バレンシアを置き去りにする意図はなく、すぐに戻ってくるつもりでいた。 でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。 お相手は隣国の王女アレキサンドラ。 アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。 バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。 バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。 せっかくなので、家庭でできる餅菓子レシピを載せることにしました

笑い方を忘れたわたしが笑えるようになるまで

風見ゆうみ
恋愛
幼い頃に強制的に王城に連れてこられたわたしには指定の場所で水を汲めば、その水を飲んだ者の見た目を若返らせたり、傷を癒やすことができるという不思議な力を持っていた。 大事な人を失い、悲しみに暮れながらも、その人たちの分も生きるのだと日々を過ごしていた、そんなある日のこと。性悪な騎士団長の妹であり、公爵令嬢のベルベッタ様に不思議な力が使えるようになり、逆にわたしは力が使えなくなってしまった。 それを知った王子はわたしとの婚約を解消し、ベルベッタ様と婚約。そして、相手も了承しているといって、わたしにベルベッタ様の婚約者である、隣国の王子の元に行くように命令する。 隣国の王子と過ごしていく内に、また不思議な力が使えるようになったわたしとは逆にベルベッタ様の力が失われたと報告が入る。 そこから、わたしが笑い方を思い出すための日々が始まる―― ※独特の世界観であり設定はゆるめです。 最初は胸糞展開ですが形勢逆転していきます。

決めたのはあなたでしょう?

みおな
恋愛
 ずっと好きだった人がいた。 だけど、その人は私の気持ちに応えてくれなかった。  どれだけ求めても手に入らないなら、とやっと全てを捨てる決心がつきました。  なのに、今さら好きなのは私だと? 捨てたのはあなたでしょう。

貴方へ愛を伝え続けてきましたが、もう限界です。

あおい
恋愛
貴方に愛を伝えてもほぼ無意味だと私は気づきました。婚約相手は学園に入ってから、ずっと沢山の女性と遊んでばかり。それに加えて、私に沢山の暴言を仰った。政略婚約は母を見て大変だと知っていたので、愛のある結婚をしようと努力したつもりでしたが、貴方には届きませんでしたね。もう、諦めますわ。 貴方の為に着飾る事も、髪を伸ばす事も、止めます。私も自由にしたいので貴方も好きにおやりになって。 …あの、今更謝るなんてどういうつもりなんです?

処理中です...