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第二十一話 私の「好き」と、あなたの「好き」。

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 明日香は【本当に気持ち良いセックス】に、結論を見いだしつつあった。

 私は今までずっと、暎子と自分を比べてばかりいた。
 彼女が百の気持ち良さを経験していたら、自分も百体験しないと気が済まなかった。

 しかし今は、そんな比較は必要ないと素直に思える。
 とどのつまり、気持ち良さの先にあるのは、満足感なのだ。

 気持ち良さは数字にしづらいが、満足感は数字にしやすい。
「今満足か?」ときかれたら、自信を持って「百パーセント満足している」と言い切れる。

 そう断言できるほど、大輔とのセックスは素晴らしい。
 優しく囁かれ、抱きしめられ、体中をくまなく撫でられ、舐められ、弄ばれる。
 それはまさに、至福の時間だ。

 そして彼を迎え入れる時の、あの高揚感。
 他の行為では得られない、胸の高まり。
 その直後に訪れる、充足感。
 女だけが得ることのできる、突き抜けるような快楽。

 大輔はそれらをすべて、自分に教えてくれたのだ。
 
 ◆◆◆◆

 九月も半ばに入った、日曜日。

 彼女は大輔の家のリビングで、遅い朝食をとっていた。
 ラグの上にちょこんと座り、コンビニのサンドイッチとヨーグルトを食べている。

 そこへ、シャワーを浴びた大輔が現れた。
「明日香、サンドイッチ好きだよね」

 土曜に大輔のマンションに行くときは、事前に翌日の朝食を買って持っていく。大輔は朝を抜いても平気なのだが、明日香は【朝はキッチリ食べたい派】なのだ。

「それ、英会話のスタッフさんにも言われた」
 ヨーグルトをスプーンでかき混ぜて、中に入っているはずのアロエを探す明日香。

「英会話でサンドイッチなんか食べるの?」
 大輔がウーロン茶のペットボトルに口を付けながら、彼女の隣に座った。
「始まる前にちょっとだけ食べるの。そうじゃないと、レッスン中にお腹が鳴っちゃう」
 
 大輔が彼女の頬にキスをする。
「明日香のお腹の音、聞いてみたい」
「もう、やめてよぉ」
 アロエをスプーンに乗せて、彼の口の中に入れる明日香。

「そういえば」
 アロエを噛みながら大輔が尋ねてくる。
「来週、TOEICトーイックだよね?」

「受けないよ」
 あっけらかんと答える明日香。

「え? 『申し込んでる』って言ってなかったっけ?」
「申し込んだけど、受験するのやめた。貴重な日曜だもの。大輔さんと一緒に居たいもん」

 大輔が真顔になって背筋を伸ばす。
「ダメだよ、明日香。ちゃんと受けなきゃ。受験料だって払ったんだろう?」
「……」
「俺も来週の金曜は、大阪に出張なんだ。ついでに大阪にいる友達にも会いたいし、来週は会うのはめにしよう」

 明日香が口角を下げる。
「なにそれ。聞いてないよ」
「ごめん。昨日言いそびれた」

 サンドイッチのセロハンやヨーグルトのケースを、黙々と片付けだす明日香。
「大輔さん、私より大阪の友達を取るんだ」
「なんでそうなるんだよ」
「だって」

 あからさまに不服そうな態度で、キッチンに向かっていく明日香。
 大輔も立ち上がり、その背中を静かに抱きしめる。

「明日香。俺はね、明日香が『将来海外で働きたい』って言うのを聞いて、応援したいって思ったんだよ。そのために、試験も受けるつもりだったんだろ?」

 大輔を背負いながら、ヨーグルトの容器をシンクで軽く洗う。
「それは、まだ大輔さんとちゃんと付き合う前の話で……だいたい、リーズに行くのも、ダメになっちゃったんだし。もういいの」

「その話だけどさ。はっきり『あなたは海外赴任から除外されました』って、言われたわけじゃないんだろ? だったら、諦めるのはまだ早いよ」
 手を洗い終えた彼女に、大輔がタオルを渡す。

「甘いな、大輔さんは。私なんて、入社した時からずっと、雑用ばっかやらされているんだよ。それにね、リーズに行くのは、帰国子女とか、留学経験とかあるペラペラの人だけだよ」

 ぼやく彼女を、大輔がたしなめる。
「明日香はそうやって『雑用、雑用』って言うけどさ。雑用……庶務の仕事だって、立派な仕事なんだよ。明日香は『誰でも出来る、どうでも良い仕事』みたいに言うけど、庶務の仕事を完璧にできる人なんて、そういないんだ。明日香は貴重な人材なんだよ。もっと自信を持つべきだ」

 彼は本当に実直な人だ。
 頭が良くてキャリアがあるにもかかわらず、それを決して鼻にかけない。そして仕事の内容で優劣をつけるのを嫌う。彼の下に就く人間は、さぞかし発奮するに違いない。

 官僚時代、彼は相当プライドを持って仕事をしていたらしいが、父親の死で考えが変わったのだろうか。それとも、もともとそういった考えの持ち主だったのだろうか。
 いずれにせよ、暎子の父親が直々に声をかけたのも頷ける。彼の性格や資質を見ぬいて、一緒に働いて貰いたいと思ったのだろう。

 しかもこのマンションも、もとは篠原家が税金対策で購入した部屋らしい。それを彼が中古で買い取ったという。
 暎子の父親の、彼に対する思い入れの深さが窺える。自分の娘婿にするつもりで、目を掛けていたのかもしれないが。

 明日香は彼の方に向き直った。
「じゃあ、仮に私がリーズに行くことになっても、大輔さんは良いの?」
「いいよ。明日香の夢の為なら。俺は応援する」

 明日香は不満だった。
 リーズに行くことになったら、当分日本には戻って来られない。その間、彼には会えなくなる。
 そんなの堪えきれない。彼はそれで良いのだろうか。

 そんな彼女の気持ちを汲んでか、大輔は淡々と続けた。
「イギリスなんて、飛行機で十数時間もすれば着くんだ。リーズだからちょくでは行けないとしても、やろうと思えば月に数回会うことだって、全然可能なわけだし」

 仕事柄、彼にとって海外に飛ぶのは、特別なことではないのだろう。
 そういう意識があるから、父親のところにも、すぐに戻ろうとしなかったのか。

 彼女がいつまでたっても反応を示さないので、大輔が念を押す。
「だから試験もちゃんと、受けて欲しい」
「……大阪で会う人って、女の人?」
「違うよ。心配なら友達と一緒に居るところ、写真撮って送るよ。だから明日香は、今週末は勉強頑張れ」

 幼稚な詮索をあっさりと流され、決まりが悪そうな明日香。
 彼に背を向けて、皮肉交じりに言う。
「大輔さんの『好き』と、私の『好き』って、なんか違うね。私は大輔さんと、いつも一緒に居たいのに。すごい温度差」

 なんだか寂しい。
 彼の性格を考えれば、「夢を諦めるな」って言いそうなのは、わかっていたけど。
 それでも、「明日香、何処へも行くな。俺のそばに居ろ」って、言って欲しかった。
 私の存在って、その程度なのかな。

 帰り支度を始めようとする明日香に気づき、大輔が彼女の腕を掴む。
「俺だって明日香と一緒に居たいよ。でも君はまだ、二十代なんだ。叶えたい夢もあるだろうし、挑戦したい事だってあるはずだ。それを俺がいるせいで、諦めたり先延ばしにしたりするのは、嫌なんだよ」
 
 明日香は歯を軋ませた。
「私は、大輔さんのせいなんて思ってない。私自身が、大輔さんと一緒に居る方が大切だと思って……」
「それは今の感情だよ。もっと俺たちの関係が落ち着けば、考えが変わってくる。俺に夢中になってくれるのは嬉しいけど、自分を見失っちゃダメだ」

 言葉を被せてくる彼の態度に、明日香は苛立った。
 掴まれた腕を振り払って、部屋の隅にあるショルダーバッグを掴む。

「気持ちが冷めたら気が変わるってこと? なにそれ。恋って夢中になるものでしょ? 周りが見えなくなるものでしょ? 最初から冷めること前提なんて、変だよ。私は大輔さんみたいに、冷めた恋なんかできないし、そんな恋愛なんかしたくない!」

 足早に玄関に向かう彼女を、大輔が追う。
「明日香、待てって」
「いや。もう帰る」

 大輔は、玄関でしゃがみこんでサンダルを履く彼女を見下ろした。
「ダメだ、こんなの。お互い頭を冷やすにしても、こんな形は良くない。仕事に手がつかなくなる」
 
 なんか変なの。
 喧嘩して出ていこうとしている相手に、「仕事に支障をきたすから」って理由で引き止めるなんて。
 大人の恋愛って、こんなものなのかな。なんか滑稽だな。

「明日香。試験が終わった次の週、平日に会おう。一緒に食事しよう」
「……平日?」
 思わず彼の方を振り返る。

 初めて平日に誘われた。
 今まで土曜がつぶれても、その代替えは一切なかった。

「仕事帰りに待ち合わせしよう。近くになったら連絡するよ」
 今しがたまで喧嘩していたとは思えない、優しい口調。
 それに乗せられるように、返事をしてしまう明日香。
「うん……わかった」

 大輔は彼女の肩に手を置いて、額に軽くキスをした。
「今日は送らないよ。車に気をつけて」

 優しくされているんだか、突き放されているんだか。
 なんだかよく分からない。
 ひとつだけハッキリしているのは、彼がいつも冷静だってことだ。

 彼が感情に任せて喋るのを、まだ見たことがない。
 トラウマをカミングアウトした時も、少し怒ってはいたけど、口調は穏やかだった。彼はいつだって大人で、冷静で。

 なんだか私だけ、盛り上がってるみたい。
 もっと私を求めて欲しい。
 私しか目に入らないぐらい、夢中になって欲しい。

 彼は私のこと、本当に、本気なのかな。
「真剣」って言ってたけど、彼の言う「真剣」って、私の思う真剣と違うのかな。
「愛してる」って言ってくれるけど、結婚する気とか、ないのかな。

 折角彼と結ばれたのに、彼の気持ちが分からない。
 彼と私の気持ちは、ズレている感じがする。

 来週は、私の誕生日なのに。
 今日教えようと思ったけど、言えなかった。

 すごく、楽しみにしていたのに。
 彼と一緒に、過ごしたかったな。
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