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三、蛇の毒具合

一、往診の匙加減 五

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 肉体的には、明矢のほうが少しばかり年長になる。にもかかわらず、精神的には、与無蔵のほうがはるかに落ちついていた。

「どうして染次郎は大声でもださないんだ。お前は、それくらい計算して染次郎にいい寄っていたんだから、理由がわかるはずだな」

 まずは明矢の泣きどころをはっきりさせておきたかった。引縄云々はそれからでも遅くない。

「善幕の親分は、よほどのことがないかぎり……その、こういう類も黙認なんです」
「よほどのこととは」
「た、たとえばまぐわいとか」

 黙認され、盛りあがった気持ちが……たとえ片方からの一方的なものであっても……性のいとなみなしですむものか。善幕は意図的に、熱情や恋心を生殺しにしているとしか思えない。

「なら、染次郎は泣き寝いりか」
「いえ、困ったことがあれば相談しろと、親分が皆の前ではっきり染次郎に仰りました」

 さすがの与無蔵も、理解に苦しんだ。染次郎は、明らかにいやがっていた。善幕が矛盾した宣言をしたから、どう対応していいのかわからないということか。こればかりは、染次郎か善幕にたしかめねばわからない。

「とにかく俺は、掟を破っちゃいませんから」

 明矢は、早く逃れたいばかりに隙を……というよりはボロをだした。掟という言葉は、与無蔵はまったく口にしていない。与無蔵がきたことで、掟絡みの叱責を意識しているのが簡単にわかった。

「引縄の件でもか」

 カマをかけると、明矢は口をぱくぱくさせて震えだした。

「な、なんのことだか」
「とぼけるな。お前が引縄からブツを受けとったことは抑えてある。夜八つにな。虎組はとっくに俺のものになってるんだ」

 具体的な時刻をだすと、もはや明矢に抵抗のしようはなくなった。さっきまで染次郎を追いつめていた壁にもたれ、すがりついていた。

「俺を……どうするんです」
「べつにどうとも」

 感情をこめず、与無蔵は拍子ぬけするような台詞を述べた。

「ただ、近いうちに俺からの招待がくるだろうから、応じてもらう。いっとくが、善幕のオジキに泣きついても無駄だぞ」

 いかに直属幹部とはいえ、染次郎にこうもしつこくいいよる人間が、新たに与無蔵とことをかまえようものなら容赦なく切り捨てられるだろう。

「はい、わかりました」

 明矢には、承諾以外の選択肢はなかった。

「さっさと会場にもどれ」

 明矢は去った。与無蔵は、手洗いを探して用をたした。

 なにくわぬ顔でふたたび席につくと、佐藤と近森はおとなしく飲食にいそしんでいた。頭の中は今夜のしとねでいっぱいなのだろう。

 二人が、喧嘩を踏まえて真面目くさった顔をしながら箸を動かすのは、つい笑いがこみあげてくる。折り目と切り目も落ちついており、頼もしい。

 染次郎は、ときおり善幕に酌をするほかなにもしていない。明矢はまっさおな顔をしながらときどき猪口を手にしたものの、酒をこぼしたり銚子を倒したりしていた。

 台一をはじめとする、狸組のほかの面々は何事もなかったかのようにふるまっている。

 善幕は、染次郎の酌をうけつつも、いっこうに酔った気配がない。ただ、口元には淡い微笑がたゆたっていた。

 一呼吸おいて、与無蔵は改めて銚子を手にした。台一の前まできて酒を勧めると、先方は恐縮しながら猪口を両手で捧げもった。

「さっきは見事な仲裁だったな」
「恐れいります。与無蔵のアニキにつまらない姿をお見せしました」

 台一は、豊かな脇腹を揺するように軽く笑った。

「今日の芝居も見事だったが、染次郎は品川歌舞伎で市川一門の大むこうを張れそうだな」
「そう仰ってくださると、気合いがはいります」
「小屋の普請はもうはじまったのか」
「いえ、集めた役者の稽古が先でして。もっとも、土地も資材も押さえますよ」
「そうか、さすがの段取りだ。虎組も大車輪になりそうだな」
「はい、その節はよろしくお願いします」
「そういえば、引縄はちゃんと仕事をしていたか」

 野暮も極まる質問だが、なりふりかまってはいられない。

「え……いやぁ、とくに問題となったことはございません」
「いっちゃなんだが、引縄はもう墓の下だ。俺も、新しく虎組を納める身だからあえて無粋をしている」
「はぁ。まあ、それなら申します。ときどき荷が遅れたり、足りなくてあとで帳尻をあわせたりすることがありましたね」
「一ヶ月ほど前はどうだった」
「ああ……そういえば、いつにもまして乱れがちでしたねぇ。私も善幕親分にいつどやされるかと冷や冷やしていましたよ」
「染次郎の稽古が、それで影響されたりはしてないか」
「いえ、そこは私が厳しく見はっていますから。ただ、そういえばムラができて小言を述べたことが重なりましたね」
「ヘマでもやらかしたのか」
「いえ、深刻なものではないです。表情や振りつけがわずかに固くなったくらいなもので」

 明矢が引縄となれあっていた時分、荷受けがあやふやになった。同じ時期に、染次郎にもわずかながら変調がでている。明矢はいまでも染次郎にいいよっている。

 これらが田中の病的な研究と、どうかかわるかはまだわからない。かかわるとして、頭吉の死とのつながりもわからない。だからこそ、たしかめねばならない。

「そうか。邪魔したな。まあ飲んでくれ」
「はい」

 それから与無蔵は、自分の席に座りなおした。

「折り目、岡場所の責任者は誰だ」
「本助さんです。お席はあちら」

 末席といっていい場所に、若く背は高いが腹のたるんだ男がいた。そういえば、狸組というだけあってか、肥満してないのは善幕や触次くらいだ。染次郎は堅気であるから除外。

「よし」

 与無蔵は、本助まで酒をつぎにいった。

「これは与無蔵のアニキ、生きててよかったとはこのことです」

 ありがたがるのは台一とかわらないが、大げさなほど喜んだ。

「そうか、つぎにきたかいがあったな。この宴会はお前が都合をつけたのか」
「はい、善幕親分のお指図で。なんでしたら、いまからでもおきれいさんをご用だてしますよ」
「そっちはまにあってるが、景気はどうだ」
「それはもう。芝居見物のあと、女としっぽりが堅気の定番ですから」

 本助は、金と引きかえに房事の相手を紹介するのが楽しくてたまらないらしい。それが需要と供給というものだから、与無蔵はとくになんとも思わない。

「ウチの連中も世話になっていそうだな」
「はい、お代もうんと勉強しております」
「そういえば、新しい芝居小屋を作るのに引縄がかなり活躍したってな」
「ええ、日ノ本中から取りよせた材木を、品川の港でおろしていましたね」
「芝居小屋には岡場所もつくのか」
「もちろんです。芸者も数をそろえてますよ」
「引縄も、一仕事すませたらこの辺りで身体を濡らしたことだろう」
「いやぁ、お見通しでしたか。ここ何年もお得意様でしたよ」
「まさかとは思うが、女の取りあいでどうこうはなかったか」
「まさか。ありえません」
「お得意ということだが、仲間とつるんできたのか一人できたのか、どっちが多い」
「ああ、それなら川船の押是さんがしょっちゅうご一緒でしたね」

 押是もまた虎組の幹部で、軒速ともども毒殺されている。
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