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出逢い、別れ、そして
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0 「泡みたいに消えていかないで」
1 夢から覚めて誰かに言われたような言葉がひとつ浮かんだ。僕はいつも1人だからそれを僕に言うような人はいないけれど。1人だけれどこの部屋にはもう一匹動くものがいる。名前は雪。名の通り真っ白な猫だ。僕の話相手は雪だけ。本棚に囲まれてバイト以外は外出しない。買い出しは週に一度。本屋のバイトでどうにかなる生活。後数年で30に手が届くのにこんな生活をして案外気に入っているんだから困ってしまう。これは嘘。別に困ってはいない。ちなみに現在28。今日はこれからバイト。最近入った子の教育係になってしまった。確か名前は___「泡瀬雪です。」
あ、泡瀬さんか、それと同時に今朝見た夢を思い出す。泡...あの夢は何だったんだろう。
「お疲れ様です、桐乃先輩」
『おつかれさまです。雪...じゃない!泡瀬さん!」
突然名前を呼ばれて固まる泡瀬さん。僕は必死に手を振る。
『ご、ごめん!えっと、家の猫が雪って名前で、それで本当にごめん...』
泡瀬さんは焦る僕を見て首を傾げそして笑う。
「なるほど、私、猫と間違えられた...?びっくりしちゃいました。」と僕を見る。そしてタイムカードに手を伸ばし再度僕を見て言う。
「雪...はあれですけど、雪さんなら。もし桐乃先輩が大丈夫だったら、名前で呼んでください」その微笑みが儚すぎてまるで泡みたいだとそう思った。
2 何気ない毎日が過ぎていく。それを何気ないと思えるのは自分が幸福だと気付かないだけなのかもしれない。
___『雪さん、この本お願いします。』
新しく入荷した本を雪さんに渡す。名前のやり取りから僕は名前を呼ぶようにした。けれど僕は変わらず桐乃先輩のままだ。何が変わるわけでもない。変えたいとも思わない。丁度いい距離感を保てているのだと何とは無しにそう思う。
花火の音が聞こえる。あ、今日は夏祭りか。焼きそばでも買って帰ろうか。そう考えていると雪さんから声をかけられた。
「あの~、桐乃先輩。今日夏祭りですよね。よかったら、帰り道屋台通るのでそこだけご一緒してもいいですか?」
急な誘いだった。まぁ、不自然なことはないか。雪さんはバイト中でも休憩中も思いついたことを口にしては仕事場に困惑と笑いをもたらす。だから僕は自然こう答える。
『いいですよ。焼きそばを夕飯にしようかと思っていたところで、帰り支度終わったら行きましょうか』
ちなみに敬語は僕の癖だ。
そう告げて支度を始める。雪さんもゆっくりと支度している。
そして帰り道、屋台が並ぶ通りを眺めながら目的のものを探して歩く。一つの屋台を通り過ぎようとした時雪さんが止まる。
『ん、どうかしましたか?』
振り返って問う。雪さんは顔を赤くしながら
「えっと、あの、りんご飴...買っても良いですか...?」
いつもよりおどおどしながら答える雪さん。
その様子がおかしくて、思わず笑いそうになりながら
『...っ...良いですよ。あ、待っててください。』
思いついて人の少ない所に雪さんを待たせる。
そして屋台に行ってふたつのりんご飴を買い戻る。
「どうぞ。毎日お疲れ様です。』
差し出した僕の手を見て呆然とする雪さん。
「え、ありがとうございます。いいんですか...?」
『大丈夫ですよ。実は僕もりんご飴好きなんです』
これは本当だ。昔から一番好きだ。雪さんははにかんで受け取り
「嬉しいです。ありがとうございます。あ、そうだ。少し待ってください」
そう言って近くの屋台へ。何かを買い戻ってくる雪さん。
「いつもお疲れ様です」
そう言いラムネを差し出してくる。
『ありがとうございます。りんご飴にラムネって甘いと甘いですね』
「確かに。気付きませんでした。」
そう言い笑い合う雪さんと僕。
目当ての焼きそばを買って雪さんの方を見る。
『じゃあ僕はそろそろ。帰り一人で大丈夫ですか?』
「はい。楽しかったです。ありがとうございます。大丈夫です。」
一つ一つ丁寧に答える雪さんを初めて律儀な人だと思う。
そうして帰路につく。...きっとこれは恋にはならない。親愛のようなものだ。不幸になるのも幸せになるのも等分に面倒だ。そんな思いで僕は生きている。丁度よかった距離感さえ変わる日が来るのだろうか。
3 あの夏祭りの日から少しだけ雪さんを目で追うようになった。
よく見ていると雪さんはよく笑いよく困り気配りが出来、時々上の空になり宙を見て、本当に時々本を落とす。良い子なのだと思う。
本を戻している時に気付かず雪さんの手に触れた。棚の整理をしている所当たってしまったのだろう、雪さんが慌てて手を仕舞う。何故か顔は真っ赤。
「ご、ごめんなさい!!えっと、あの、うー、、」
雪さんが何と言ったかは分からない。その心も。けれど。
...触れた手が冷たくて少し柔らかかったことが印象に残っている。
心に温かい灯のようなものが灯った。そんな気がした。
4 柔らかい部分に灯ったものが一瞬だとしても僕はきっと忘れないだろう。
「桐乃先輩、おはようございます。今日も涼しいですね~。」
『おはようございます、雪さん。もうすぐ秋ですから。紅葉もそろそろ色付くんじゃないですかね。』
何てことのない会話だった。秋の始まり。暦では九月の終わり。
「そういえば、桐乃先輩って浮いた話とかないですよね。恋人さんはいないんですか?」
...あぁ、雪さんは知らなかったのか。周知の事実だと思っていたけれど新人だものな。それを聞いていた店長が慌てる。
「泡瀬さん...!桐乃くんは...」
首を傾げる雪さん。それに少し笑って僕は答える。
『大丈夫ですよ。僕の恋人は、3年前に亡くなったんです。』
回想
僕の恋人、七月(ナヅキ)とは6年付き合って婚約をしていた。記念日と七月の誕生日を兼ねてお祝いをすると決まった日2人でチェコに行く予定だった。けれど、朝連絡がつかずフライトの時間になっても何もない。七月は向かう途中通り魔に襲われたらしい。それでもう...。
七月は僕の全てだったのに。七月の両親は決して僕を責めなかった。労りさえしてくれた。7/15、この日だけは忘れることが出来ない。...人を救えなかった。世界で一番大切な人を。...思い出した。「泡みたいに消えていかないで」は七月に僕が叫んだ最後の言葉だった。あの日僕は、世界中全てを呪うくらい七月を悼んだ。悲しかった。寂しかった。七月が僕に言ってくれたこと、細かく覚えている。
「悠真!おはよう~。今日は天気よくないねぇ。でも私の力で悠真と私だけは晴れにしよう!」
「悠真、聞いて!昨日食べたチョコ苦かったの...!でもミルク飲んだら甘くなった!私、天才じゃない!?」
「悠真~、玉子焼き作ってみたよ!食べて食べて!」
...思い返せば七月の話はいつも僕の名前から始まっていた。僕に向き合ってくれた七月が大好きだった。幸せだと胸を張って言えるくらいには。人を恨まず、困っている人を見たらすぐに駆け寄り、人が好きで、明るく平等で、本が好きで、音楽が好きで、空が好きで、口遊む歌は下手で、楽しそうに笑っていた七月。
七月さえいればよかった。どんなことでも2人ならよかった。だから七月がいなくなった世界に僕は幸福を見出せない。僕はそれ以来、人を信じ心を許すことをやめた。
5 話し終えた時雪さんは固まっていた。謝ることも違うと理解しているのだろう。謝られても困る。ちなみにここは休憩室。店長が早めにお昼をと気遣ってきれた。そこで七月の話をしている。沈黙が続いていた。僕はその空気を切り裂くように
『だから僕はもう恋人を作る気はないんです。七月が死んだのに僕一人幸せになんかなれない』そう告げて、一息置いて、きっと合っているだろう核心に踏み込む。
『雪さん、貴女が僕に好意を抱いてくれていることは分かります。僕も憎からず想ってはいる。けれどこれが七月に抱いている気持ちを越えることはない。こんな気持ちではどちらに対しても不誠実です。勿論友人として仲良くすることは出来ます。でもそれが期待させるようなことになるならきっと仕事仲間以上の関係になることは良くない。勘違いならすいません。でも、きっと合っている気がします。雪さんが僕を見る目は、あの頃僕が七月に向けていた目に、そして七月が僕に向けていた目にそっくりなんです。...長々と聞いてくれてありがとうございます。休憩終わりますね。先に戻ります。』
そう言って僕は休憩室を後にする。雪さんの顔を見ず逃げるように。卑怯だとは思う。言葉を聞くべきだとも。それでも怖かった。
...その日の夜、業務上の都合で交換していたLINEにメッセージが届いていた。雪さんだ。
「夜分に失礼します。今日言われたことを考えていました。大切なお話を聞かせて頂きありがとうございます。直接言う勇気がないので文章で伝えることを許してください。確かに私は桐乃先輩が好きです。けれど私が先輩と向き合う為にはどうしても伝えなければいけないことがあると今日の話を聞いて思いました。明日バイト終わりにお時間を頂けませんか?私が聞いてほしいこと、話さなければいけないこと、きちんと話します。桐乃先輩が話してくれたから、ではないですが、やっぱり必要なことだと思うので。少し長い話になるので公園かカフェなどで如何でしょうか。私は桐乃先輩が逃げたとは思いません。重ねてお礼を。話して頂きありがとうございます。明日のお話次第で距離が変わってしまうかもしれないこと少し怖く思います。長文失礼致しました。それではおやすみなさい」
___読み終わってしばらくして、もう一度目を通して、とても真っ直ぐな子だと何故か泣きそうになった。酷いことを言ったのに向き合おうとしてくれるのか。僕は顔も見ずに逃げたのに。それなら今度は僕の番だ。明日ちゃんと話を聞こう。もう逃げない。そこにあるのがどんな痛みでもちゃんと向き合おう。一方的な言葉をぶつけた、その代わりになるかは分からないけれど。
6 そして翌日のバイト終わり。雪さんと近くの公園に向かう。自販機で飲み物を買って、ベンチに座り落ち着くのを待って、雪さんが何度も息を吸って吐く。そして話し始める。
「音矢圭、この名前をご存知ですか」
そう尋ねられ、息が詰まる。その、名前は。
『七月を刺した、通り魔の、何で雪さんが?』
雪さんは息を吐き出して言う。
「圭は私の兄なんです。圭が事件を起こした後、加害者家族である私たちは被害に遭われた方の名前だけでも覚えておこうと警察の方に頼み込んで拝見させて頂いたんです。冬見七月さん、その方のお名前、確かにありました。圭が何故事件を起こしたかは分かりません。それでも決して許されることではないと、昨日話を聞いた時、すぐに思い至りました。桐乃先輩も被害に遭われたようなものだと。兄に代わり謝罪します。本当に申し訳ありませんでした。」
雪さんから聞いたのは俄には信じ難い話だった。どう受け止めればいいかすら分からない。それくらいに雪さんと、その通り魔__音矢圭の繋がりが分からなかった。
『えっと、苗字が違うのは?』簡単なことから聞いていく。
「再婚したんです。兄は父についていき、私は母に。兄は音矢姓、私は泡瀬姓になりました」
『圭さんはどんな人でしたか』
「何度も聞かれました。兄は優秀で格好良くて人当たりが良くて面白くて努力家でした。だから...っ...分からない。何故兄があんなことをしたのか。とても仲が良かったのに、どうして。ごめんなさい。辛いのは桐乃先輩です。私より余程。許されることではないけれど謝りたくて、聞いてもらったんです」
雪さんが泣きそうな顔をする。僕も泣きそうだった。雪さんは兄を、僕は七月を想って泣いた。月の綺麗な夜だった。
7 あの日の夜、別れ際雪さんは言った。
「桐乃先輩、私は決して貴方を名前では呼びません。それは私に許されることではないし、七月さんが何度も呼んだ名前に私が触れることもないと思います。幸本(コウホン)は今月いっぱいでやめる予定だったのでバイトも後少しです。桐乃先輩のせいでは勿論ありません。私は私なりに兄のことを受け止め許したい。家族は皆、兄のことを見放しました。だからこそ私だけは兄を許したい。兄のことを許してほしい。いつか兄が帰ってくる場所で居続けたいのです。七月さんのこと聞けてよかったです。本当に話してくれてありがとうございました。聞いて頂きありがとうございます。また、バイトで。おやすみなさい。」
そう頭を下げて帰っていく雪さんにかける言葉はあったのだろう。けれど出てこなかった。心の中投げかける言葉を探した。
(何でそんなに真っ直ぐなんだ。少しくらい投げ出したっていい。お兄さんのことを君が背負う必要なんてない。もっと傷ついた筈だ。君だって責められたはずだ。...僕だって責めていた。それでも、雪さんに背負って欲しいと思ったわけじゃないのに。バイトだって。雪さんには雪さんの幸せがあるだろう。全部許せるわけじゃない。それでもこんな結末は嫌だ。)僕が君に抱いている感情が何であれ、憎しみであれ、同情であれ、憐れみであれ、このままは嫌だった。どうしようもなく君を一人にしたくない僕がいた。
8 僕は雪さんに一つ頼みたいことがあったのでバイト終わりに声をかけた。
『雪さん、お願いを聞いて貰えませんか。』
「何でしょうか...?」
急に話しかけた僕に雪さんは戸惑いながらも答えてくれる。
『お兄さん、音矢圭さんに会わせて貰えませんか』
意を決して言う。
「兄に...?でも、兄は...。兄の場所は家族以外は知らずにいるんです。そう頼まれました。両親や病院関係の方々に。けれど、桐乃先輩になら、今の兄を知って欲しい。兄のことを先輩の目で判断して欲しい。分かりました。では、次の休みに一緒に会いに行きましょう」
そう頷いてくれた。
ーーー
そして約束の日。待ち合わせ場所に向かう。
雪さんは既に来ていて僕を見つけ手を振る。
「こんにちは、桐乃先輩。では行きましょうか。少し遠出をするので何か買っていきましょう。」
そう言いふたりで売店に行き小腹を満たす為のものを買う。そして雪さんは新幹線の切符を2人分買う。
『...熱海...?にいるんですか』
「はい。兄は熱海の、いえ、着いてから説明しますね」
そして熱海までの車中何も話さず2時間。
着いてからタクシーを拾い、ある建物を告げた。そこは。
『病院?』
「そうです。兄はここで治療を受けています。病室に向かいますね」
0108号室 音矢圭様。そう記された個室に雪さんに続き入る。
そこに居たのは。触れれば消えてしまいそうな同い年くらいの青年。色素の薄い人間で事件の犯人とは思えない程に優しい顔立ちをしていた。
雪さんはその青年に話しかける。
「圭兄さん。こんにちは。分かりますか?」
話しかけられた音矢圭は答える。
「..えっと、あぁ、雪?久しぶりだね、どうしたの?」
まるで思い出すみたいな口調。少しおかしいと思った。
小声で雪さんに聞く。
『この方がお兄さんですか?』
「はい。兄は記憶力がとても脆いんです。昔からではなく、脆くなったと言うのでしょうか。思い出すことが出来ないわけではないのですが、時間がかかる。だから事件のことも完全には..?桐乃先輩!?」
僕は飛びかかりそうになるのをこらえる。思い切り唇を噛んだ。爪が立つくらいに握る。おかしくなりそうだった。
何だよ、それ。僕から一番大切な人を奪っておいて忘れている?何でだよ、じゃあ僕はどうすればいい。どこにこの感情をぶつければいい。気付いたら泣いていた。止められなかった。本当は一発くらいと思っていた。だけど、そんな調子じゃ当たれないじゃないか。悲しいとか悔しいとか色んな感情を飲み込んで。息を吸う。
雪さんと、そして音矢圭が僕に目をやる。
「...その方は?雪の友人?初めまして。私は音矢圭と申します。妹がいつもお世話になっています。えっと...もしかして恋人さんだったりするのかな。雪も隅におけないなぁ。」
そう笑い首を傾げる圭さんを見て、あぁ...確かに2人は兄妹なのだと不意に泣きそうになった。
9 僕も自己紹介をした。
事件のことを彼に思い出して欲しくなかったと言えば嘘になる。だから僕は本当に縋るような気持ちで『冬見七月を知っていますか』と小声で呟いた。
「七月...?」
圭さんが反応し、何度もその名を繰り返す。やめてくれと思った。貴方が奪った命だ。そんな風に呼ばないで欲しいと。七月、と口にする圭さんの瞳は何処か寂しそうで、けれど優しそうだった。知らない筈なのに、分からない筈なのに、繰り返されるその名に苛立ちを覚えたその時だった。
「七月...姓は?もし聞き逃していたらごめんなさい」
そう聞かれ答える。
『冬見です。冬を見るで冬見。旧姓は』
と、そこまで口にして思い至る。ずっと忘れていたこと。ずっと気付かなかったこと。けれど...重大なこと。
『...音矢...圭さんと同じ?いや、でも、どうして』
混乱する僕に圭さんは一つずつ、ゆっくり記憶を辿るように話し始める。
「やっぱり。雪、そして七月を知っているであろう貴方に話したいことがあります。少し長い話になりますが聞いて頂けませんか?」
そう言った圭さんに頷く。そして彼は語り始める。
「初対面で話すようなことではないのですが、七月は僕の実の妹なんです。雪も驚くだろうね。
雪と僕は兄妹ではないんです。雪が物心つく前に僕は泡瀬家に引き取られました。僕の父親は本当にどうしようもない人間で、僕と雪の母は姉妹だったんですが、2人に同時期に手を出していたんです。だから雪と七月はいとこになるのかな。七月は二十五、雪と同い年ですね。
けれど、泡瀬家に来たのは僕だけで七月は施設に入れられました。そこからは、七月が二十歳になるまで会いませんでした。
僕は雪と共に実の兄妹のように育ちました。七月は幸せな暮らしではなかったと聞いています。十九の時に恋人が出来たと聞きました。それまでもずっと手紙のやり取りをしていて近況はお互いそこで。...もしかして貴方は、」
と、そこで言葉を区切り僕を見る。
『...そうです。大学が同じで付き合っていました。6年。七月が亡くなるまでは。」
この人を前に言うのはおかしかった。この人が犯人なのに。
「...七月が?いつですか?」
その言葉を口にして本当に驚いたように僕に聞く。
『3年前の7/15に。通り魔に襲われて。』
僕は圭さんの反応を窺いながら言う。すると彼は
「通り魔?七月が?しかも3年前?そんな筈、僕は、だって、去年も七月から手紙を貰っています。そんな筈ない、」
これが演技なら大した役者だと思う、けれど聞き逃せない言葉があった。
『手紙...?七月からですか?去年って、僕には何も、」
「見て下さい。これです。」
圭さんが差し出したのは何通もの手紙。しかも、
「エアメール?七月は海外にいるんですか?」
まだ七月と決まったわけじゃない。だって七月は死んだ筈だ。でもその手紙に書かれていたのは間違いなく見慣れた七月の筆跡だった。
そしてそれとは関係なく、雪さんと彼が似ているのは、血の繋がりではなく育った環境が同じだからなのだと理解した。
10 話を聞き終わった僕と雪さんは、しばらく呆然としていた。記憶を、思い出すまでに時間がかかる圭さんがこんな嘘をつく理由はない。雪さんは止めていた息を吐くように言う。
「圭兄さん、それでも圭兄さんが私の兄であることに変わりはないわ。けれど、今の話信じられない。だって私は被害にあった方の名前を見た。そこに七月さんの名前があった。見間違いとは思わない。どういうこと?」
雪さんの問いに圭さんはしばらく考えてから言う。
「...七月は冬見姓になったのはいつかな、偽名とも考えられないけど、戸籍を昔のまま忘れていたのかもしれない。同姓同名の可能性もある。それが七月じゃない理由は幾らでも考えられる。」
それを聞き雪さんは黙る。僕に申し訳なさそうな顔をした。...今の話が本当なら、どうして七月は僕に何も言わずにいるんだ。3年もの間どうして。
ーーーーそして時と語り手は切り替わる。
幕間 side七月
ここからは彼と私の話をしよう。私、冬見七月と彼、桐乃悠真のきっと彼が語らない、そして彼の知らない私の話をしよう。私と悠真は大学が同じで、とは言っても受ける授業は違うから、食堂でよく顔を合わせるだけの仲だった。余りにも毎日会うから自然と挨拶を交わすようになったっけ。学年は違って先輩みたいなものだったから「桐乃先輩」と呼ぶようになった。彼は私を「冬見さん」と呼んでいた。けれどお互いフランクに話すことを望んだ。食の好みが似ていて、友人がいない私たちはあっという間に仲良くなった。私は本が好きで、彼もそうだった。私が好んだのは純愛小説、彼はミステリーをよく読んでいた。2人で静かに本を読む。そんなことを繰り返していたから、きっといつまでも2人であれるのだろうと彼から告白された時、それを凄く自然に思ったことを覚えている。お互いを名前で呼び捨てで呼ぶようになった。話したいことが増えた。明るくなった。笑うことが増えた。けれど、ずっと彼に言えなかったことがある。私がいつも彼の名前から会話を始めたのは、自分の気持ちを誤魔化すためだったこと。きっと優しい彼は気付いていただろう。
6年付き合った。あっという間だった。彼のことを、彼の笑顔を思い出す度私は悲しくなる。彼が私を本当に大切にしてくれたから私は怖くなってしまった。そして3年前、私はそんな恐怖から、悠真から逃げた。別れるとか付き合っていくとかそういうことに不信感さえあった。彼は何も悪くない。彼の名を呼ぶ度に満たされていた。彼に名を呼ばれる度に生きていることを知った。それなのに逃げた私は彼のことを傷つけた。真っ直ぐな彼はまだ私なんかを好きでいるのだろうか。そんなことを思う資格さえ今の私にはないのだけれど。私の居場所を知っているのは圭兄さんだけ。圭兄さんとは離れて暮らしていたから兄妹だという実感はない。二十になった会った時、線の細い人だと思ったことを覚えている。ずっと私の味方でいてくれた。私が彼のことを相談した時も一緒に考えてくれた。自分を犠牲にしてまで人のことを考える、それが圭兄さんだった。私の身勝手を圭兄さんは許してくれた。圭兄さんから届いた手紙、それが私の宝物。けれど今日届いたそれにはいつもの挨拶の後に「七月の恋人が来たよ、とても君を想っているんだね、戻ってはこないのかい?彼はまだ君を愛している」とそう書かれていた。...悠真、貴方はもうそこまで辿り着いたんだね。私は悠真から逃げたのに。また一緒に本が読みたいな。そんな現実逃避みたいな夢を見る。本当の私を知ったら彼は悲しむかな。戻って話して何になるんだろう。ねぇ、悠真、私は今チェコにいるよ。貴方と来るはずだったチェコ。時計台が立派なの。この3年間きっとずっと縛っていたよね。苦しいよね、ごめんなさい。日本に戻ったら私の本当を伝えるよ。きっと沢山傷つける。優しい貴方は笑うんだろうな、痛みを隠すんだろうな。『生きていてよかった』って私の名を呼ぶんだろう。だから傷つけたくないな。貴方はきっと『僕の気持ちを七月が決めるなよ。僕が傷ついたとしても話してくれた七月を恨んだりはしない。だから大丈夫、僕は君を信じているから』せう言うんだろうな。こんなに身勝手な私なのにおかしくて泣けてきちゃう。うん、戻ろう、悠真と圭兄さんとそして雪さんのいる日本に。
11 side 悠真
七月が帰ってきたと圭さんから報せがあったのは、話を聞いた1週間後、12/2のことだった。今日会おう。会って全部ちゃんと話を聞こう。そこにどんな想いがあったとしても受け止める為に。
ーそして圭さんのいる病院へ向かう。雪さんも一緒に行くと言ってくれた。2人で彼の病室に入る。そこにいたのは圭さんと、
『七月...』
最後に会った時から少し痩せ、緊張したように立ち尽くす七月の姿があった。言葉だけじゃなく手を握って七月をちゃんと確かめたかった。
「悠真、ずっとごめんなさい、話したいことが沢山ある。話せなかったことが沢山あるの。雪さん、初めまして。圭兄さんからよく聞いています。私と同い年の妹が出来たんだっていつも嬉しそうに話すんですよ。...ねぇ、聞いてくれますか、私の抱えたものについて」。
七月は一息にそう言う。僕は抱きしめたい衝動に駆られそうになった。けれど、抑えて頷く。そして一言。
『おかえり、生きていてよかった、七月』
そう伝えたい。七月は寂しそうに笑った後、これまでを振り返るように話し始める。施設で育ち、そこで散々な目に遭い、学校も辛く、本だけが救いだったこと、そして僕と出逢ったこと、そこで区切って言う。
「私は怖かった。付き合って愛され続けることが苦しかった。幸せになるのが怖かった。ずっと、向き合ってきたつもりで最後は悠真から逃げた。ねぇ、悠真、ごめんなさい。お願いがあるの。__別れて欲しい。ずっとそう言おうと思っていたの。3年間も何も言わずにごめんなさい。傷つけてごめんなさい。」
彼女は泣いていた。僕も泣いていた。別れを受け入れることは出来る。けれど、その先が分かってしまった。雪さんにも聞いてもらった理由、七月がこれから告げる言葉が。だから先に言う。
『七月、君は、圭さんが好きなんだろう。兄妹としてではなく、愛している。そして雪さんが羨ましかった。実の妹ではなく、それでも1番近くで過ごせる雪さんが羨ましくて仕方ないんだろう?』
そう言うと七月は俯かせていた顔を上げて、そして雪さんと圭さんは驚いて僕を見る。
けれど聞けば分かる。七月の話には圭さんが沢山出てきた。この3年も、今までも七月の支えはずっと圭さんだったんだろう。好きを隠しきれないことが分かる。僕ですら分かってしまう七月の想い。
それに圭さんが気づかなかったのは、きっと彼女が想いを隠したからだ。圭さんは息を止めて言う。
「七月、今の悠真くんの話は本当かい?」
問われた七月は顔を青くして小さく「本当よ」と呟いた。
「そうか、僕は七月に恋人が出来たと聞いて嬉しかったよ。雪が連れてきてくれた彼にお礼を言いたいくらいに。七月の幸せを誰より祈っている。それは家族としてだ。七月の幸せを叶えるのは僕じゃない。七月、僕じゃなく悠真くんを見るんだ。6年も過ごしたんだろう?僕より余程長くの時を。それでも悠真くんは違うのかい?七月、ちゃんと逃げずに向き合うんだ。3年逃げたのなら倍の時間、君は悠真くんに向き合っていくんだ。恋愛としてでも友人としてでも。2人で決めることで、2人が決めることだ。けれどそれは七月がしなくてはいけないことだと思う。僕の言いたいことは分かるね?」
そう圭さんは言った。七月と圭さんはそっくりだった。人の気持ちを大切にする。七月は僕に別れてと言ったけれど、それでいいのだろうか。僕に罪悪感を抱くことはないのに。好きな人のことだ。世界で一番幸せになって欲しい。一番好きな人に愛されて欲しい。報われないならせめて僕は彼女に寄り添いたい。彼女が今は僕を望まなくとも時間をかけて。
『七月』
と声をかける。七月は肩を震わせた。そして僕を見る。
『さっきの返事まだしていなかったよね。別れない。僕は君から離れない。3年のことまだ納得は出来ない。だから聞かせてくれ。もっと話をしよう。2人で向き合って、2人で進んでいかないか。』
そして一度区切り圭さんを見る。
『圭さん、僕は貴方の妹を誰よりも愛しています。傷つけあうこともあるかもしれない。けれど彼女ができましたらなら傷だって構わない。彼女は僕が守ります。圭さんに負けないくらい、彼女に想われてみせます。だから、僕に七月をください』
一息にそう言う。圭さんへの照れ隠しでもあった。けれど本音でもあった。七月からなら傷だって愛してみせる。七月のことは、七月の想いは聞かなければ分からないけれど。七月を見る。七月は
「悠真、私、きっと貴方を追い詰める。好きな人がいる私を貴方は辛く感じる。貴方はどうして私を責めないの?こんな私でいいの?一緒にいてくれるの?ねぇ、だって雪さんは悠真が好きなのでしょう?ここまで来たのは雪さんの力なのでしょう?そんなに貴方を想う人がいるのにどうして、」
『それでも僕が選ぶのは七月、君だよ』
遮って言う。誰にとっても残酷な答えかもしれない。ふと雪さんを見ると泣きそうな顔で微笑んでいた。
そして
「七月さん、七月さんの気持ち、私なんとなく分かります。七月さんは圭兄さんに近い私が羨ましかった。私は桐乃先輩に愛される七月さんが羨ましかった。分かるからこそ、近いからこそ、幸せになって欲しいと思いました。私の恋は叶わなかったけど、七月さんを見たら悔しいなんて思えません。だって凄く綺麗なんですから。圭兄さんにそっくり。__あ、そうそう、私圭兄さんに話さなければいけないことがあるので、2人で先に帰ってください。後日幸せな報告待ってますね!」
そう言って僕と七月の背を押す雪さん。話?僕らは2人きりになる。6年ぶりの、あるいは3年ぶりの2人きり。僕と七月がどんな話をするか気になるかな。けれど決して言わないと誓ったんだ。一つだけとても優しい結末になったことだけはここに記しておこう。
fin
(この後にショートストーリーを載せます。興味がある方は是非読んでみてください)
『話があるって嘘だろう?雪』
圭兄さんが笑う。
「まぁまぁ、本当よ。圭兄さん。貴方今通り魔として追われているわ。」
『え!?僕が!?いつから!?』
この人は...両親に見放されたのに...私だけは兄さんが犯人じゃないと知っている。
「3年前から。七月さんが死んだっていうのも圭兄さんが犯人だと思われてる。被害っていうのはそう言う意味。私、桐乃先輩に謝ったのよ。それも良くなかったのかもしれないけれど。」
『うわぁ、じゃあ僕の言葉、完全に上からじゃないか...犯人から言われたと思っているなら流石に怒るよな...えぇ...何で今言うんだよ...』
「だって圭兄さん、呑気なんだもの。それと失恋したから腹いせ。今日は泊まってもいいかしら。強がってみせたけれど苦しいわ」
『酷い妹だ。僕も衝撃なんだけどな、七月の好意全く気付かなかったよ』
「圭兄さん、昔から鈍いもの。今まで何人の女の子が兄さんのせいで泣いてきたか。ずっと好きな子がいるんだと思ってたのに。どうして誰とも付き合わなかったの?」
『僕には2人も可愛い妹がいるんだよ?七月は離れて暮らしていたとは言え、そんな状態で他の女子が目に入るわけないだろう?』
圭兄さんの残念なところ。凄く素敵なのに重度のシスコン。
「引いたわ、あの2人の幸せ願っていたじゃない」
『ああは言ったけど、悔しいよ。七月は綺麗だからね。彼ならまぁ...さて、雪。』
「なぁに?」
『彼のことを教えて貰おうか。七月に相応しいかどうか...』
「自分にかけられた冤罪の心配が先でしょう?私も失恋して苦しいのよ?」
『僕の妹2人から好かれるなんて羨ましい...法律がなければ七月の告白もOKしたし雪とも結婚出来るのに』
「圭兄さん、その発言はアウトだし気持ち悪いわ。いい加減にして。」
『...コホン...申し訳ない。七月にバレないように気をつけないと』
「よく擬態できるわね。尊敬するわ」
『雪こそよく猫を被っていたじゃないか。「桐乃先輩」だなん...っ!?』
「殴るわよ」
『事後報告じゃないか』
「...あの2人上手くいくと思う?」
『...大丈夫。七月と彼は笑い方がとても似ていて、捉え方さえよく似ていた。だから大丈夫だよ。サポートはいるかな』
「いいわよ、それは切ないわ」
『じゃあ見守ろうか。2人の行く先を』
「えぇ、そうね。見守りましょう」
これは優しい兄妹の物語。
1 夢から覚めて誰かに言われたような言葉がひとつ浮かんだ。僕はいつも1人だからそれを僕に言うような人はいないけれど。1人だけれどこの部屋にはもう一匹動くものがいる。名前は雪。名の通り真っ白な猫だ。僕の話相手は雪だけ。本棚に囲まれてバイト以外は外出しない。買い出しは週に一度。本屋のバイトでどうにかなる生活。後数年で30に手が届くのにこんな生活をして案外気に入っているんだから困ってしまう。これは嘘。別に困ってはいない。ちなみに現在28。今日はこれからバイト。最近入った子の教育係になってしまった。確か名前は___「泡瀬雪です。」
あ、泡瀬さんか、それと同時に今朝見た夢を思い出す。泡...あの夢は何だったんだろう。
「お疲れ様です、桐乃先輩」
『おつかれさまです。雪...じゃない!泡瀬さん!」
突然名前を呼ばれて固まる泡瀬さん。僕は必死に手を振る。
『ご、ごめん!えっと、家の猫が雪って名前で、それで本当にごめん...』
泡瀬さんは焦る僕を見て首を傾げそして笑う。
「なるほど、私、猫と間違えられた...?びっくりしちゃいました。」と僕を見る。そしてタイムカードに手を伸ばし再度僕を見て言う。
「雪...はあれですけど、雪さんなら。もし桐乃先輩が大丈夫だったら、名前で呼んでください」その微笑みが儚すぎてまるで泡みたいだとそう思った。
2 何気ない毎日が過ぎていく。それを何気ないと思えるのは自分が幸福だと気付かないだけなのかもしれない。
___『雪さん、この本お願いします。』
新しく入荷した本を雪さんに渡す。名前のやり取りから僕は名前を呼ぶようにした。けれど僕は変わらず桐乃先輩のままだ。何が変わるわけでもない。変えたいとも思わない。丁度いい距離感を保てているのだと何とは無しにそう思う。
花火の音が聞こえる。あ、今日は夏祭りか。焼きそばでも買って帰ろうか。そう考えていると雪さんから声をかけられた。
「あの~、桐乃先輩。今日夏祭りですよね。よかったら、帰り道屋台通るのでそこだけご一緒してもいいですか?」
急な誘いだった。まぁ、不自然なことはないか。雪さんはバイト中でも休憩中も思いついたことを口にしては仕事場に困惑と笑いをもたらす。だから僕は自然こう答える。
『いいですよ。焼きそばを夕飯にしようかと思っていたところで、帰り支度終わったら行きましょうか』
ちなみに敬語は僕の癖だ。
そう告げて支度を始める。雪さんもゆっくりと支度している。
そして帰り道、屋台が並ぶ通りを眺めながら目的のものを探して歩く。一つの屋台を通り過ぎようとした時雪さんが止まる。
『ん、どうかしましたか?』
振り返って問う。雪さんは顔を赤くしながら
「えっと、あの、りんご飴...買っても良いですか...?」
いつもよりおどおどしながら答える雪さん。
その様子がおかしくて、思わず笑いそうになりながら
『...っ...良いですよ。あ、待っててください。』
思いついて人の少ない所に雪さんを待たせる。
そして屋台に行ってふたつのりんご飴を買い戻る。
「どうぞ。毎日お疲れ様です。』
差し出した僕の手を見て呆然とする雪さん。
「え、ありがとうございます。いいんですか...?」
『大丈夫ですよ。実は僕もりんご飴好きなんです』
これは本当だ。昔から一番好きだ。雪さんははにかんで受け取り
「嬉しいです。ありがとうございます。あ、そうだ。少し待ってください」
そう言って近くの屋台へ。何かを買い戻ってくる雪さん。
「いつもお疲れ様です」
そう言いラムネを差し出してくる。
『ありがとうございます。りんご飴にラムネって甘いと甘いですね』
「確かに。気付きませんでした。」
そう言い笑い合う雪さんと僕。
目当ての焼きそばを買って雪さんの方を見る。
『じゃあ僕はそろそろ。帰り一人で大丈夫ですか?』
「はい。楽しかったです。ありがとうございます。大丈夫です。」
一つ一つ丁寧に答える雪さんを初めて律儀な人だと思う。
そうして帰路につく。...きっとこれは恋にはならない。親愛のようなものだ。不幸になるのも幸せになるのも等分に面倒だ。そんな思いで僕は生きている。丁度よかった距離感さえ変わる日が来るのだろうか。
3 あの夏祭りの日から少しだけ雪さんを目で追うようになった。
よく見ていると雪さんはよく笑いよく困り気配りが出来、時々上の空になり宙を見て、本当に時々本を落とす。良い子なのだと思う。
本を戻している時に気付かず雪さんの手に触れた。棚の整理をしている所当たってしまったのだろう、雪さんが慌てて手を仕舞う。何故か顔は真っ赤。
「ご、ごめんなさい!!えっと、あの、うー、、」
雪さんが何と言ったかは分からない。その心も。けれど。
...触れた手が冷たくて少し柔らかかったことが印象に残っている。
心に温かい灯のようなものが灯った。そんな気がした。
4 柔らかい部分に灯ったものが一瞬だとしても僕はきっと忘れないだろう。
「桐乃先輩、おはようございます。今日も涼しいですね~。」
『おはようございます、雪さん。もうすぐ秋ですから。紅葉もそろそろ色付くんじゃないですかね。』
何てことのない会話だった。秋の始まり。暦では九月の終わり。
「そういえば、桐乃先輩って浮いた話とかないですよね。恋人さんはいないんですか?」
...あぁ、雪さんは知らなかったのか。周知の事実だと思っていたけれど新人だものな。それを聞いていた店長が慌てる。
「泡瀬さん...!桐乃くんは...」
首を傾げる雪さん。それに少し笑って僕は答える。
『大丈夫ですよ。僕の恋人は、3年前に亡くなったんです。』
回想
僕の恋人、七月(ナヅキ)とは6年付き合って婚約をしていた。記念日と七月の誕生日を兼ねてお祝いをすると決まった日2人でチェコに行く予定だった。けれど、朝連絡がつかずフライトの時間になっても何もない。七月は向かう途中通り魔に襲われたらしい。それでもう...。
七月は僕の全てだったのに。七月の両親は決して僕を責めなかった。労りさえしてくれた。7/15、この日だけは忘れることが出来ない。...人を救えなかった。世界で一番大切な人を。...思い出した。「泡みたいに消えていかないで」は七月に僕が叫んだ最後の言葉だった。あの日僕は、世界中全てを呪うくらい七月を悼んだ。悲しかった。寂しかった。七月が僕に言ってくれたこと、細かく覚えている。
「悠真!おはよう~。今日は天気よくないねぇ。でも私の力で悠真と私だけは晴れにしよう!」
「悠真、聞いて!昨日食べたチョコ苦かったの...!でもミルク飲んだら甘くなった!私、天才じゃない!?」
「悠真~、玉子焼き作ってみたよ!食べて食べて!」
...思い返せば七月の話はいつも僕の名前から始まっていた。僕に向き合ってくれた七月が大好きだった。幸せだと胸を張って言えるくらいには。人を恨まず、困っている人を見たらすぐに駆け寄り、人が好きで、明るく平等で、本が好きで、音楽が好きで、空が好きで、口遊む歌は下手で、楽しそうに笑っていた七月。
七月さえいればよかった。どんなことでも2人ならよかった。だから七月がいなくなった世界に僕は幸福を見出せない。僕はそれ以来、人を信じ心を許すことをやめた。
5 話し終えた時雪さんは固まっていた。謝ることも違うと理解しているのだろう。謝られても困る。ちなみにここは休憩室。店長が早めにお昼をと気遣ってきれた。そこで七月の話をしている。沈黙が続いていた。僕はその空気を切り裂くように
『だから僕はもう恋人を作る気はないんです。七月が死んだのに僕一人幸せになんかなれない』そう告げて、一息置いて、きっと合っているだろう核心に踏み込む。
『雪さん、貴女が僕に好意を抱いてくれていることは分かります。僕も憎からず想ってはいる。けれどこれが七月に抱いている気持ちを越えることはない。こんな気持ちではどちらに対しても不誠実です。勿論友人として仲良くすることは出来ます。でもそれが期待させるようなことになるならきっと仕事仲間以上の関係になることは良くない。勘違いならすいません。でも、きっと合っている気がします。雪さんが僕を見る目は、あの頃僕が七月に向けていた目に、そして七月が僕に向けていた目にそっくりなんです。...長々と聞いてくれてありがとうございます。休憩終わりますね。先に戻ります。』
そう言って僕は休憩室を後にする。雪さんの顔を見ず逃げるように。卑怯だとは思う。言葉を聞くべきだとも。それでも怖かった。
...その日の夜、業務上の都合で交換していたLINEにメッセージが届いていた。雪さんだ。
「夜分に失礼します。今日言われたことを考えていました。大切なお話を聞かせて頂きありがとうございます。直接言う勇気がないので文章で伝えることを許してください。確かに私は桐乃先輩が好きです。けれど私が先輩と向き合う為にはどうしても伝えなければいけないことがあると今日の話を聞いて思いました。明日バイト終わりにお時間を頂けませんか?私が聞いてほしいこと、話さなければいけないこと、きちんと話します。桐乃先輩が話してくれたから、ではないですが、やっぱり必要なことだと思うので。少し長い話になるので公園かカフェなどで如何でしょうか。私は桐乃先輩が逃げたとは思いません。重ねてお礼を。話して頂きありがとうございます。明日のお話次第で距離が変わってしまうかもしれないこと少し怖く思います。長文失礼致しました。それではおやすみなさい」
___読み終わってしばらくして、もう一度目を通して、とても真っ直ぐな子だと何故か泣きそうになった。酷いことを言ったのに向き合おうとしてくれるのか。僕は顔も見ずに逃げたのに。それなら今度は僕の番だ。明日ちゃんと話を聞こう。もう逃げない。そこにあるのがどんな痛みでもちゃんと向き合おう。一方的な言葉をぶつけた、その代わりになるかは分からないけれど。
6 そして翌日のバイト終わり。雪さんと近くの公園に向かう。自販機で飲み物を買って、ベンチに座り落ち着くのを待って、雪さんが何度も息を吸って吐く。そして話し始める。
「音矢圭、この名前をご存知ですか」
そう尋ねられ、息が詰まる。その、名前は。
『七月を刺した、通り魔の、何で雪さんが?』
雪さんは息を吐き出して言う。
「圭は私の兄なんです。圭が事件を起こした後、加害者家族である私たちは被害に遭われた方の名前だけでも覚えておこうと警察の方に頼み込んで拝見させて頂いたんです。冬見七月さん、その方のお名前、確かにありました。圭が何故事件を起こしたかは分かりません。それでも決して許されることではないと、昨日話を聞いた時、すぐに思い至りました。桐乃先輩も被害に遭われたようなものだと。兄に代わり謝罪します。本当に申し訳ありませんでした。」
雪さんから聞いたのは俄には信じ難い話だった。どう受け止めればいいかすら分からない。それくらいに雪さんと、その通り魔__音矢圭の繋がりが分からなかった。
『えっと、苗字が違うのは?』簡単なことから聞いていく。
「再婚したんです。兄は父についていき、私は母に。兄は音矢姓、私は泡瀬姓になりました」
『圭さんはどんな人でしたか』
「何度も聞かれました。兄は優秀で格好良くて人当たりが良くて面白くて努力家でした。だから...っ...分からない。何故兄があんなことをしたのか。とても仲が良かったのに、どうして。ごめんなさい。辛いのは桐乃先輩です。私より余程。許されることではないけれど謝りたくて、聞いてもらったんです」
雪さんが泣きそうな顔をする。僕も泣きそうだった。雪さんは兄を、僕は七月を想って泣いた。月の綺麗な夜だった。
7 あの日の夜、別れ際雪さんは言った。
「桐乃先輩、私は決して貴方を名前では呼びません。それは私に許されることではないし、七月さんが何度も呼んだ名前に私が触れることもないと思います。幸本(コウホン)は今月いっぱいでやめる予定だったのでバイトも後少しです。桐乃先輩のせいでは勿論ありません。私は私なりに兄のことを受け止め許したい。家族は皆、兄のことを見放しました。だからこそ私だけは兄を許したい。兄のことを許してほしい。いつか兄が帰ってくる場所で居続けたいのです。七月さんのこと聞けてよかったです。本当に話してくれてありがとうございました。聞いて頂きありがとうございます。また、バイトで。おやすみなさい。」
そう頭を下げて帰っていく雪さんにかける言葉はあったのだろう。けれど出てこなかった。心の中投げかける言葉を探した。
(何でそんなに真っ直ぐなんだ。少しくらい投げ出したっていい。お兄さんのことを君が背負う必要なんてない。もっと傷ついた筈だ。君だって責められたはずだ。...僕だって責めていた。それでも、雪さんに背負って欲しいと思ったわけじゃないのに。バイトだって。雪さんには雪さんの幸せがあるだろう。全部許せるわけじゃない。それでもこんな結末は嫌だ。)僕が君に抱いている感情が何であれ、憎しみであれ、同情であれ、憐れみであれ、このままは嫌だった。どうしようもなく君を一人にしたくない僕がいた。
8 僕は雪さんに一つ頼みたいことがあったのでバイト終わりに声をかけた。
『雪さん、お願いを聞いて貰えませんか。』
「何でしょうか...?」
急に話しかけた僕に雪さんは戸惑いながらも答えてくれる。
『お兄さん、音矢圭さんに会わせて貰えませんか』
意を決して言う。
「兄に...?でも、兄は...。兄の場所は家族以外は知らずにいるんです。そう頼まれました。両親や病院関係の方々に。けれど、桐乃先輩になら、今の兄を知って欲しい。兄のことを先輩の目で判断して欲しい。分かりました。では、次の休みに一緒に会いに行きましょう」
そう頷いてくれた。
ーーー
そして約束の日。待ち合わせ場所に向かう。
雪さんは既に来ていて僕を見つけ手を振る。
「こんにちは、桐乃先輩。では行きましょうか。少し遠出をするので何か買っていきましょう。」
そう言いふたりで売店に行き小腹を満たす為のものを買う。そして雪さんは新幹線の切符を2人分買う。
『...熱海...?にいるんですか』
「はい。兄は熱海の、いえ、着いてから説明しますね」
そして熱海までの車中何も話さず2時間。
着いてからタクシーを拾い、ある建物を告げた。そこは。
『病院?』
「そうです。兄はここで治療を受けています。病室に向かいますね」
0108号室 音矢圭様。そう記された個室に雪さんに続き入る。
そこに居たのは。触れれば消えてしまいそうな同い年くらいの青年。色素の薄い人間で事件の犯人とは思えない程に優しい顔立ちをしていた。
雪さんはその青年に話しかける。
「圭兄さん。こんにちは。分かりますか?」
話しかけられた音矢圭は答える。
「..えっと、あぁ、雪?久しぶりだね、どうしたの?」
まるで思い出すみたいな口調。少しおかしいと思った。
小声で雪さんに聞く。
『この方がお兄さんですか?』
「はい。兄は記憶力がとても脆いんです。昔からではなく、脆くなったと言うのでしょうか。思い出すことが出来ないわけではないのですが、時間がかかる。だから事件のことも完全には..?桐乃先輩!?」
僕は飛びかかりそうになるのをこらえる。思い切り唇を噛んだ。爪が立つくらいに握る。おかしくなりそうだった。
何だよ、それ。僕から一番大切な人を奪っておいて忘れている?何でだよ、じゃあ僕はどうすればいい。どこにこの感情をぶつければいい。気付いたら泣いていた。止められなかった。本当は一発くらいと思っていた。だけど、そんな調子じゃ当たれないじゃないか。悲しいとか悔しいとか色んな感情を飲み込んで。息を吸う。
雪さんと、そして音矢圭が僕に目をやる。
「...その方は?雪の友人?初めまして。私は音矢圭と申します。妹がいつもお世話になっています。えっと...もしかして恋人さんだったりするのかな。雪も隅におけないなぁ。」
そう笑い首を傾げる圭さんを見て、あぁ...確かに2人は兄妹なのだと不意に泣きそうになった。
9 僕も自己紹介をした。
事件のことを彼に思い出して欲しくなかったと言えば嘘になる。だから僕は本当に縋るような気持ちで『冬見七月を知っていますか』と小声で呟いた。
「七月...?」
圭さんが反応し、何度もその名を繰り返す。やめてくれと思った。貴方が奪った命だ。そんな風に呼ばないで欲しいと。七月、と口にする圭さんの瞳は何処か寂しそうで、けれど優しそうだった。知らない筈なのに、分からない筈なのに、繰り返されるその名に苛立ちを覚えたその時だった。
「七月...姓は?もし聞き逃していたらごめんなさい」
そう聞かれ答える。
『冬見です。冬を見るで冬見。旧姓は』
と、そこまで口にして思い至る。ずっと忘れていたこと。ずっと気付かなかったこと。けれど...重大なこと。
『...音矢...圭さんと同じ?いや、でも、どうして』
混乱する僕に圭さんは一つずつ、ゆっくり記憶を辿るように話し始める。
「やっぱり。雪、そして七月を知っているであろう貴方に話したいことがあります。少し長い話になりますが聞いて頂けませんか?」
そう言った圭さんに頷く。そして彼は語り始める。
「初対面で話すようなことではないのですが、七月は僕の実の妹なんです。雪も驚くだろうね。
雪と僕は兄妹ではないんです。雪が物心つく前に僕は泡瀬家に引き取られました。僕の父親は本当にどうしようもない人間で、僕と雪の母は姉妹だったんですが、2人に同時期に手を出していたんです。だから雪と七月はいとこになるのかな。七月は二十五、雪と同い年ですね。
けれど、泡瀬家に来たのは僕だけで七月は施設に入れられました。そこからは、七月が二十歳になるまで会いませんでした。
僕は雪と共に実の兄妹のように育ちました。七月は幸せな暮らしではなかったと聞いています。十九の時に恋人が出来たと聞きました。それまでもずっと手紙のやり取りをしていて近況はお互いそこで。...もしかして貴方は、」
と、そこで言葉を区切り僕を見る。
『...そうです。大学が同じで付き合っていました。6年。七月が亡くなるまでは。」
この人を前に言うのはおかしかった。この人が犯人なのに。
「...七月が?いつですか?」
その言葉を口にして本当に驚いたように僕に聞く。
『3年前の7/15に。通り魔に襲われて。』
僕は圭さんの反応を窺いながら言う。すると彼は
「通り魔?七月が?しかも3年前?そんな筈、僕は、だって、去年も七月から手紙を貰っています。そんな筈ない、」
これが演技なら大した役者だと思う、けれど聞き逃せない言葉があった。
『手紙...?七月からですか?去年って、僕には何も、」
「見て下さい。これです。」
圭さんが差し出したのは何通もの手紙。しかも、
「エアメール?七月は海外にいるんですか?」
まだ七月と決まったわけじゃない。だって七月は死んだ筈だ。でもその手紙に書かれていたのは間違いなく見慣れた七月の筆跡だった。
そしてそれとは関係なく、雪さんと彼が似ているのは、血の繋がりではなく育った環境が同じだからなのだと理解した。
10 話を聞き終わった僕と雪さんは、しばらく呆然としていた。記憶を、思い出すまでに時間がかかる圭さんがこんな嘘をつく理由はない。雪さんは止めていた息を吐くように言う。
「圭兄さん、それでも圭兄さんが私の兄であることに変わりはないわ。けれど、今の話信じられない。だって私は被害にあった方の名前を見た。そこに七月さんの名前があった。見間違いとは思わない。どういうこと?」
雪さんの問いに圭さんはしばらく考えてから言う。
「...七月は冬見姓になったのはいつかな、偽名とも考えられないけど、戸籍を昔のまま忘れていたのかもしれない。同姓同名の可能性もある。それが七月じゃない理由は幾らでも考えられる。」
それを聞き雪さんは黙る。僕に申し訳なさそうな顔をした。...今の話が本当なら、どうして七月は僕に何も言わずにいるんだ。3年もの間どうして。
ーーーーそして時と語り手は切り替わる。
幕間 side七月
ここからは彼と私の話をしよう。私、冬見七月と彼、桐乃悠真のきっと彼が語らない、そして彼の知らない私の話をしよう。私と悠真は大学が同じで、とは言っても受ける授業は違うから、食堂でよく顔を合わせるだけの仲だった。余りにも毎日会うから自然と挨拶を交わすようになったっけ。学年は違って先輩みたいなものだったから「桐乃先輩」と呼ぶようになった。彼は私を「冬見さん」と呼んでいた。けれどお互いフランクに話すことを望んだ。食の好みが似ていて、友人がいない私たちはあっという間に仲良くなった。私は本が好きで、彼もそうだった。私が好んだのは純愛小説、彼はミステリーをよく読んでいた。2人で静かに本を読む。そんなことを繰り返していたから、きっといつまでも2人であれるのだろうと彼から告白された時、それを凄く自然に思ったことを覚えている。お互いを名前で呼び捨てで呼ぶようになった。話したいことが増えた。明るくなった。笑うことが増えた。けれど、ずっと彼に言えなかったことがある。私がいつも彼の名前から会話を始めたのは、自分の気持ちを誤魔化すためだったこと。きっと優しい彼は気付いていただろう。
6年付き合った。あっという間だった。彼のことを、彼の笑顔を思い出す度私は悲しくなる。彼が私を本当に大切にしてくれたから私は怖くなってしまった。そして3年前、私はそんな恐怖から、悠真から逃げた。別れるとか付き合っていくとかそういうことに不信感さえあった。彼は何も悪くない。彼の名を呼ぶ度に満たされていた。彼に名を呼ばれる度に生きていることを知った。それなのに逃げた私は彼のことを傷つけた。真っ直ぐな彼はまだ私なんかを好きでいるのだろうか。そんなことを思う資格さえ今の私にはないのだけれど。私の居場所を知っているのは圭兄さんだけ。圭兄さんとは離れて暮らしていたから兄妹だという実感はない。二十になった会った時、線の細い人だと思ったことを覚えている。ずっと私の味方でいてくれた。私が彼のことを相談した時も一緒に考えてくれた。自分を犠牲にしてまで人のことを考える、それが圭兄さんだった。私の身勝手を圭兄さんは許してくれた。圭兄さんから届いた手紙、それが私の宝物。けれど今日届いたそれにはいつもの挨拶の後に「七月の恋人が来たよ、とても君を想っているんだね、戻ってはこないのかい?彼はまだ君を愛している」とそう書かれていた。...悠真、貴方はもうそこまで辿り着いたんだね。私は悠真から逃げたのに。また一緒に本が読みたいな。そんな現実逃避みたいな夢を見る。本当の私を知ったら彼は悲しむかな。戻って話して何になるんだろう。ねぇ、悠真、私は今チェコにいるよ。貴方と来るはずだったチェコ。時計台が立派なの。この3年間きっとずっと縛っていたよね。苦しいよね、ごめんなさい。日本に戻ったら私の本当を伝えるよ。きっと沢山傷つける。優しい貴方は笑うんだろうな、痛みを隠すんだろうな。『生きていてよかった』って私の名を呼ぶんだろう。だから傷つけたくないな。貴方はきっと『僕の気持ちを七月が決めるなよ。僕が傷ついたとしても話してくれた七月を恨んだりはしない。だから大丈夫、僕は君を信じているから』せう言うんだろうな。こんなに身勝手な私なのにおかしくて泣けてきちゃう。うん、戻ろう、悠真と圭兄さんとそして雪さんのいる日本に。
11 side 悠真
七月が帰ってきたと圭さんから報せがあったのは、話を聞いた1週間後、12/2のことだった。今日会おう。会って全部ちゃんと話を聞こう。そこにどんな想いがあったとしても受け止める為に。
ーそして圭さんのいる病院へ向かう。雪さんも一緒に行くと言ってくれた。2人で彼の病室に入る。そこにいたのは圭さんと、
『七月...』
最後に会った時から少し痩せ、緊張したように立ち尽くす七月の姿があった。言葉だけじゃなく手を握って七月をちゃんと確かめたかった。
「悠真、ずっとごめんなさい、話したいことが沢山ある。話せなかったことが沢山あるの。雪さん、初めまして。圭兄さんからよく聞いています。私と同い年の妹が出来たんだっていつも嬉しそうに話すんですよ。...ねぇ、聞いてくれますか、私の抱えたものについて」。
七月は一息にそう言う。僕は抱きしめたい衝動に駆られそうになった。けれど、抑えて頷く。そして一言。
『おかえり、生きていてよかった、七月』
そう伝えたい。七月は寂しそうに笑った後、これまでを振り返るように話し始める。施設で育ち、そこで散々な目に遭い、学校も辛く、本だけが救いだったこと、そして僕と出逢ったこと、そこで区切って言う。
「私は怖かった。付き合って愛され続けることが苦しかった。幸せになるのが怖かった。ずっと、向き合ってきたつもりで最後は悠真から逃げた。ねぇ、悠真、ごめんなさい。お願いがあるの。__別れて欲しい。ずっとそう言おうと思っていたの。3年間も何も言わずにごめんなさい。傷つけてごめんなさい。」
彼女は泣いていた。僕も泣いていた。別れを受け入れることは出来る。けれど、その先が分かってしまった。雪さんにも聞いてもらった理由、七月がこれから告げる言葉が。だから先に言う。
『七月、君は、圭さんが好きなんだろう。兄妹としてではなく、愛している。そして雪さんが羨ましかった。実の妹ではなく、それでも1番近くで過ごせる雪さんが羨ましくて仕方ないんだろう?』
そう言うと七月は俯かせていた顔を上げて、そして雪さんと圭さんは驚いて僕を見る。
けれど聞けば分かる。七月の話には圭さんが沢山出てきた。この3年も、今までも七月の支えはずっと圭さんだったんだろう。好きを隠しきれないことが分かる。僕ですら分かってしまう七月の想い。
それに圭さんが気づかなかったのは、きっと彼女が想いを隠したからだ。圭さんは息を止めて言う。
「七月、今の悠真くんの話は本当かい?」
問われた七月は顔を青くして小さく「本当よ」と呟いた。
「そうか、僕は七月に恋人が出来たと聞いて嬉しかったよ。雪が連れてきてくれた彼にお礼を言いたいくらいに。七月の幸せを誰より祈っている。それは家族としてだ。七月の幸せを叶えるのは僕じゃない。七月、僕じゃなく悠真くんを見るんだ。6年も過ごしたんだろう?僕より余程長くの時を。それでも悠真くんは違うのかい?七月、ちゃんと逃げずに向き合うんだ。3年逃げたのなら倍の時間、君は悠真くんに向き合っていくんだ。恋愛としてでも友人としてでも。2人で決めることで、2人が決めることだ。けれどそれは七月がしなくてはいけないことだと思う。僕の言いたいことは分かるね?」
そう圭さんは言った。七月と圭さんはそっくりだった。人の気持ちを大切にする。七月は僕に別れてと言ったけれど、それでいいのだろうか。僕に罪悪感を抱くことはないのに。好きな人のことだ。世界で一番幸せになって欲しい。一番好きな人に愛されて欲しい。報われないならせめて僕は彼女に寄り添いたい。彼女が今は僕を望まなくとも時間をかけて。
『七月』
と声をかける。七月は肩を震わせた。そして僕を見る。
『さっきの返事まだしていなかったよね。別れない。僕は君から離れない。3年のことまだ納得は出来ない。だから聞かせてくれ。もっと話をしよう。2人で向き合って、2人で進んでいかないか。』
そして一度区切り圭さんを見る。
『圭さん、僕は貴方の妹を誰よりも愛しています。傷つけあうこともあるかもしれない。けれど彼女ができましたらなら傷だって構わない。彼女は僕が守ります。圭さんに負けないくらい、彼女に想われてみせます。だから、僕に七月をください』
一息にそう言う。圭さんへの照れ隠しでもあった。けれど本音でもあった。七月からなら傷だって愛してみせる。七月のことは、七月の想いは聞かなければ分からないけれど。七月を見る。七月は
「悠真、私、きっと貴方を追い詰める。好きな人がいる私を貴方は辛く感じる。貴方はどうして私を責めないの?こんな私でいいの?一緒にいてくれるの?ねぇ、だって雪さんは悠真が好きなのでしょう?ここまで来たのは雪さんの力なのでしょう?そんなに貴方を想う人がいるのにどうして、」
『それでも僕が選ぶのは七月、君だよ』
遮って言う。誰にとっても残酷な答えかもしれない。ふと雪さんを見ると泣きそうな顔で微笑んでいた。
そして
「七月さん、七月さんの気持ち、私なんとなく分かります。七月さんは圭兄さんに近い私が羨ましかった。私は桐乃先輩に愛される七月さんが羨ましかった。分かるからこそ、近いからこそ、幸せになって欲しいと思いました。私の恋は叶わなかったけど、七月さんを見たら悔しいなんて思えません。だって凄く綺麗なんですから。圭兄さんにそっくり。__あ、そうそう、私圭兄さんに話さなければいけないことがあるので、2人で先に帰ってください。後日幸せな報告待ってますね!」
そう言って僕と七月の背を押す雪さん。話?僕らは2人きりになる。6年ぶりの、あるいは3年ぶりの2人きり。僕と七月がどんな話をするか気になるかな。けれど決して言わないと誓ったんだ。一つだけとても優しい結末になったことだけはここに記しておこう。
fin
(この後にショートストーリーを載せます。興味がある方は是非読んでみてください)
『話があるって嘘だろう?雪』
圭兄さんが笑う。
「まぁまぁ、本当よ。圭兄さん。貴方今通り魔として追われているわ。」
『え!?僕が!?いつから!?』
この人は...両親に見放されたのに...私だけは兄さんが犯人じゃないと知っている。
「3年前から。七月さんが死んだっていうのも圭兄さんが犯人だと思われてる。被害っていうのはそう言う意味。私、桐乃先輩に謝ったのよ。それも良くなかったのかもしれないけれど。」
『うわぁ、じゃあ僕の言葉、完全に上からじゃないか...犯人から言われたと思っているなら流石に怒るよな...えぇ...何で今言うんだよ...』
「だって圭兄さん、呑気なんだもの。それと失恋したから腹いせ。今日は泊まってもいいかしら。強がってみせたけれど苦しいわ」
『酷い妹だ。僕も衝撃なんだけどな、七月の好意全く気付かなかったよ』
「圭兄さん、昔から鈍いもの。今まで何人の女の子が兄さんのせいで泣いてきたか。ずっと好きな子がいるんだと思ってたのに。どうして誰とも付き合わなかったの?」
『僕には2人も可愛い妹がいるんだよ?七月は離れて暮らしていたとは言え、そんな状態で他の女子が目に入るわけないだろう?』
圭兄さんの残念なところ。凄く素敵なのに重度のシスコン。
「引いたわ、あの2人の幸せ願っていたじゃない」
『ああは言ったけど、悔しいよ。七月は綺麗だからね。彼ならまぁ...さて、雪。』
「なぁに?」
『彼のことを教えて貰おうか。七月に相応しいかどうか...』
「自分にかけられた冤罪の心配が先でしょう?私も失恋して苦しいのよ?」
『僕の妹2人から好かれるなんて羨ましい...法律がなければ七月の告白もOKしたし雪とも結婚出来るのに』
「圭兄さん、その発言はアウトだし気持ち悪いわ。いい加減にして。」
『...コホン...申し訳ない。七月にバレないように気をつけないと』
「よく擬態できるわね。尊敬するわ」
『雪こそよく猫を被っていたじゃないか。「桐乃先輩」だなん...っ!?』
「殴るわよ」
『事後報告じゃないか』
「...あの2人上手くいくと思う?」
『...大丈夫。七月と彼は笑い方がとても似ていて、捉え方さえよく似ていた。だから大丈夫だよ。サポートはいるかな』
「いいわよ、それは切ないわ」
『じゃあ見守ろうか。2人の行く先を』
「えぇ、そうね。見守りましょう」
これは優しい兄妹の物語。
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