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「楽しそうな声が部屋の外まで聞こえていたけど、俺は邪魔だったみたいだね」 

「いえ、邪魔だなんて……」



 オリヴィアは震える手を後ろに隠し、急いで笑みを作った。

 キリア以外の侍女は頭を下げて部屋を退室していく。

「キリアも、もう下がっていいよ」

 新しい侍女は、ちらりとオリヴィアを見た。

「下がりたいのはやまやまですが、難しいですね。オリヴィアさまはまだここに来て日が浅く不安でしょう」

「俺がいるから不安に思うことはないよ」

「あなたが不安材料と申しているんです」



 オリヴィアは、キリアがカルロスに臆することなくハキハキと言うのを見て目を見開いた。 

 他の侍女たちは陛下の前にいるとき常に緊張しているが、彼女は乳母なだけあって、堂々としている。

 カルロスも怒るどころか、ふっと笑った。



「へえ。もうキリアを味方にしたか。わかったよ。いてもいい。その代わり飲み物……ワインをくれ」

「かしこまりました」

 カルロスは近くのソファにどかりと座った。首元のボタンを外し、鎖骨があらわになる。目のやり場に困って視線を逸らした。

 静かに一度息を吸う。落ちつけと自分に言い聞かせていると、カルロスにワインを渡したキリアがオリヴィアのもとへきた。



「オリヴィアさまも、果実水をどうぞ」

「ありがとう」

 オリヴィアはカルロスから少し離れた一人用のソファに座ると、オレンジ色の液体が入ったグラスを受け取った。

 鼻を近づけると柑橘系の爽やかな香りがした。一口、二口とゆっくり味わうように飲んでいく。

 キリアのおかげで、飲み終わる頃には冷静を取り戻すことができた。



「もう少し早く来るつもりだったが、ハリソンとジラードがなかなか放してくれなかった」

「お忙しいのですね。無理してここへ来なくても」

「きみに会いたくて、風呂にも入らずに直行でここへ来たのに、つれないこと言うね」

 カルロスはキリアが出したワイングラスを持ち上げた。こくこくと美味しそうに飲んでいく。

 キリアの前でも溺愛発言はやめないつもりらしい。



「今朝、『贈り物は確かに受け取った』と一筆書いた書簡をミディル国に送った。さて、ウエル王はどういう反応を返してくるかな?」

「兄王は、陛下より年上です。大人な対応をするでしょう」

「へえ。俺より兄の肩を持つのか。妬けるなあ」

 カルロスは、空になったグラスを目の前のローテーブルに置くと立ち上がった。

「陛下?」

 オリヴィアの前に立った彼は、座ったまま逃げ遅れたオリヴィアに顔を近づけた。



「我が寵姫は忘れっぽいのかな? 俺はきみに、俺側につけと言ったと思うが」

「おっしゃって、おられましたね」

 見つめてくる彼の瞳は鋭くて、落ちついたはずの心臓がどくどくと拍動を強める。



「さっきもそうだ。俺が部屋に入ったとき、青い顔で怯えた」

 カルロスは口角を吊り上げるとオリヴィアの頬に触れた。

「皇妃になりたければ、俺に怯え、意見が言えないようではだめだと教えたはずだ。思っていることは畏れずはっきり言え」

 オリヴィアはぐっと奥歯をかみしめた。彼を睨む。そうしていなければ、恐怖で泣きそうだった。



「陛下、好きな子を苛めるのは子どものすることですよ」

 すっと間に割って入ったのはキリアだった。彼女は、カルロスを窘めながら、空になったグラスにワインを注いだ。

 カルロスはオリヴィアから離れると、何事もなかったようにソファに座り直す。



「オリヴィアさま、大丈夫ですか?」

「ええ。大丈夫です」

 強がって笑みを浮かべると、キリアは痛々しそうに眉根を下げた。

「陛下は極悪人のような噂ばかりですし、本人もこんな調子ですが、根はやさしい人なんです。どうか、見限らずにできればご理解差しあげてくださいませ」

「キリア、大丈夫だよ。俺がどういう人間かは、これから俺自身が彼女に知っていってもらうから」

「あらまあ、陛下はオリヴィアさまを気に入ったようですね。それでは私はなるべく離れて気配を消しますね」

「ああ、お願いできる? 俺は平気だけどオリヴィアが気にすると思うから」

 オリヴィアが口を挟む前に軽快に話が進んでいく。



「えっと、キリアさん。気配を消さなくていいわ。そばにもいて」

「オリヴィアさま。陛下は凶暴な獅子に見えますが、時と場合はわきまえるおかたです。今は、遊ばれていらっしゃるだけ。畏れなくても大丈夫ですよ」

「だけど」

「もしよかったら、さきほど私にしていただけたように、手のマッサージを陛下にもして差しあげてください」

 キリアはほほえみながら頭を下げると、そのまますすっと部屋の隅へと移動してしまった。



「手のマッサージとは?」

「……キリアさんや、他の侍女たちの手が少し荒れていたので、マッサージをしてあげていたんです」

「へえ。王女のきみが侍女たちにマッサージを?」

 こくりと頷いて見せると、カルロスはオリヴィアに向かって手のひらを向けた。

「マッサージ、俺にもしてよ」

「……かしこまりました」

 一度、席を立って香油を取りに行く。そのときちらりとキリアを見たが、銅像のように壁に立って動かない。本当に気配を消している。 

 キリアさん、何者? と、オリヴィアは感心しながらもカルロスの元へ戻った。



「では、陛下。失礼します」

 香油を自分の手で揉んで温めてからカルロスの手に触れた。

 ――古い傷がいっぱいある。

 指は長いが、全体的にごつごつしている。手のひらには潰れた豆がいくつもあった。



 ――不思議。私、一度この手で殺されたのよね。

 何で今はマッサージなんかしているんだろうと思いながら、ゆっくりと指圧していく。

「力加減はいかがですか?」

「気持ちいいが、もう少し強くてもいいよ」

「かしこまりました」

 女性よりも厚い手をしているし大きい。オリヴィアは兄よりも無骨な手に念入りにマッサージをしていった。



「……夢を、見たんです。陛下に、殺される夢を」

「俺が、きみを殺す夢?」

 視界の端に、カルロスが顔を上げたのがわかったが、あえて彼の目を見ずにオリヴィアは続けた。

「今のように、夜中に私の部屋に来て、剣を私の胸に突き刺すんです。その時の情景と重なって、……思い出して怯えてしまいました」

「つまり、夢に出てきた俺に怯えたということか」

「はい」



 夢と言って誤魔化したが、あれは生々しい、実体験の記憶だ。一語一句、彼の表情すべてを覚えている。胸を貫いた剣の感覚は忘れられない。理不尽な暴力に抗う術を持たない悔しさも、忘れていない。



「畏れずに言えとおっしゃったので、お伝えしました。気を悪くさせたなら、申しわけございません。謝ります」



 ミディル国存続のためなら、どんな辛酸でもなめる。オリヴィアはゆっくりと視線をあげて、カルロスを見た。
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