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第四話 声
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二月八日、総大将の輝元が隆景と共に津賀に着陣すると、元春達は先陣として赤穴に着陣した。
そこに出雲や石見の毛利家に従う武士達が合流し、その軍勢は一万三千に及んだ。
これは毛利の攻め手としては決して多くない数であった。
北九州や伊予の前線の情勢は予断を赦さず、それぞれに配された兵を割く事ができなかった為だ。
一方の尼子再興軍は月山富田城以外の出雲の城落とすと、兵力を分散して各城に数百の兵を配置している。
翌九日元春は赤穴から月山富田城に続く沿道の要衝である多久和城を攻め落とした。
寡兵で多久和城に籠っていた尼子再興軍はろくに戦わずに逃走し、元春は元資に命じてこれを追撃。
他の毛利軍はこれに易々と入城する事となった。
追撃から帰還した元春は元資、才寿丸、二宮俊実らを連れて本丸表御殿に向かう。
「おお、婿殿。
緒戦から幸先の良い戦果ですなぁ」
表御殿に向かう諸将の中から一人の男が声をかけてきた。
「これは伊豆守殿。
緒戦と言うのも烏滸がましく、逃げるだけの弱卒の尻を蹴り飛ばしただけですわ」
元春が笑いながらそう返す男が元春の舅、つまり新庄局の父熊谷信直である。
今年で齢六十四歳になり、頬から顎の虎髭はすっかり白く、額や頬には歴戦の証である刀傷と共に深く皺が刻まれている。
しかし裏腹に目には爛々と闘志の火が灯り、具足の上からでもわかる肉体の厚みは衰えを感じさせない。
「ほら、お主も伊豆守様にご挨拶せんか」
そう言って元春は控えていた才寿丸の背中を押す。
「ご無沙汰申し上げております、お祖父様。
この度許されまして初陣……」
才寿丸が信直に挨拶する言葉の途中、元春は才寿丸の頭を小突く。
「このうつけ者、お主も初陣を飾るのだったらいつまでも童のような心地ではあってはならぬ。
この場は我が家中ではないのだから、立場を弁えてお祖父様ではなく伊豆守様とお呼びせんか」
今この場は毛利家としての公の場、例え孫とはいえ毛利家の重臣に対して礼を尽くせと言うのだ。
そう叱る元春を信直は笑顔で宥める。
「まぁまぁ、それを言えば婿殿と呼ぶ儂も同じ事。
そういう堅い話は今後覚えていけばよいではありませぬか」
信直はそう言うと、今度は身を少し屈めて才寿丸に目線を合わせる。
「この歳で初陣とは、父に似てなんとも勇ましい事。
よき武士になるのだぞ」
信直は目を細め、顔の傷が皺で隠れるくらいの笑顔で孫の肩を叩く。
「伊豆守殿、あまり甘やかすのはお止しくだされ……」
元春は少し困った顔をした。
老いてなお益々壮んなるこの舅は兎にも角にも娘、娘婿である自分、そして孫に甘い。
真面目に育った元資などは心配いらないだろう。
だが奔放で甘え気質な所がある才寿丸は、のぼせ上がって天狗にならないか心配である。
この心配にはどうにも反りが合わない姉の五龍局が、元就から散々に甘やかされて我が儘で身勝手な性格に育った経緯もあった。
「各々方、そろそろ表御殿へ」
元春達の背後から表御殿へ促す声がかかる。
柳のように柔らかく静かな物腰、清流のように涼やかな眼差し、長身ではないが細く引き締まった体躯。
叔父の小早川隆景である。
「おう、行くぞ」
「はい」
元春の呼び掛けに元資が腹からの返事をし、表御殿へと進む。
表御殿に入った元春と隆景の兄弟は上座に並んで座り、才寿丸は二宮俊実と共に末席に座した。
「では」
一同が座ったのを確認した隆景が口を開いた瞬間、表御殿は重くのし掛かるような緊張感に包まれた。
隣り合う者と談笑していた武将達の表情が一変する。
口は真一文字に堅く結ばれ、目には闘志の炎が宿る。
才寿丸は思わずたじろいだ。
既にしてここは戦場なのだ。
父や兄から受けた剣の稽古時の緊張感など比べ物にならない。
歴戦の武士の鬼気に当てられ、息が詰まる。
そしてこの戦で初めて総大将として指揮をとる毛利輝元が、一同が頭を下げる中、やはり緊張の面持ちで上座に座る。
才寿丸の八つ歳上の輝元は、その父隆元の死後、元服を迎えるより早く十一歳で家督を継いだ。
さすがに若過ぎる為に実権は元就が握り、隆景が教育係となった。
父にも増して温厚な性格が災いして大名としての果断さに欠け、時に隆景からは家臣のいない所で鉄拳を伴う薫陶もなされたという。
緊張した面持ちの輝元はどこか怯えるようでもあり、単に初めて務める総大将の重責よりも、自分を補佐する筈の隆景や元春に萎縮しているようにも見えた。
「各々方、敵地にも入りましたので、吉川駿河守と某が大殿から言いつかっている事がありますのでお伝えいたす。
此度の戦は若殿が初めて総大将を務められる戦でもあります。
謀を用いて敵を引き寄せ、華々しい戦勝を飾ってほしい、と。
今ここに集まった兵が少なく見えるように陣をとり、数は一万と称していただきたい。
また、
『今回は兵力が少ないので、道中の宿場で一戦するのも危険だ。
月山冨田城に兵糧を入れたらすぐに引き揚げ、再び防長の兵を残らず掻き集めて合戦に臨もう』
と吹聴してくだされ。
さすればここから月山富田に至る道中に伏せられた尼子勢の物見や物聞きから伝わりましょう。
そして我らの兵が少ないと知った尼子勢は出雲各城に籠る兵を集結させて迎え撃ってくるでしょう」
そこまで言うと隆景は澄んだ声を止め、元春に首を傾けて目配せをした。
「杉原播磨守につけ置かせた者の調べでは、出雲各城から集結させた尼子勢は六千から七千程になると思われる。
恐らく尼子勢は布部辺りで迎え撃ってくるだろう。
敵は我らよりも長く出雲を治めていた地の利もある上、あの山中鹿介も健在。
数こそ我らが優るとはいえ、決して楽な戦いにはならんだろう。
各将の獅子奮迅の働きに期待する」
元春の力強い檄に毛利家臣団は大きく声を発して平伏する。
そして周りの家臣団に倣って平伏する才寿丸の耳元で、ある囁きが聞こえた。
『何の事はない、総大将とは名ばかりのお飾りだな』
総大将を目の前になんと不敬不遜な物言い。
才寿丸は驚きのあまり、跳ね上げるように身を起こしてしまった。
しかし周囲を見渡すと家臣団は平伏したままで才寿丸一人が頭を上げた格好となってしまい、そして不思議そうに見ている輝元と目があった。
それとは別に強烈な視線を感じて目を向けると、明らかに怒った目をした元春、眉を寄せて少し首を傾げた隆景が見ている。
才寿丸は元春の目に『今言ったのは自分ではない』と首を振る。
しかしそれに対して元春は声には出さず『(頭を上げるのが)早い』と、口を動かして二度三度床を力強く指差した。
才寿丸は慌てて再度頭を下げようとするが、今度はすれ違いで頭を上げる家臣団の中で一人だけ頭を下げる格好になってしまった。
才寿丸はまるでコメツキバッタのように頭を上げ下げした不恰好さに、気恥ずかしく唇を噛む。
だが不思議な事に、あの不躾な言葉を自分以外の誰かが聞いた様子はない。
元春も何者かの声ではなく、自分の不作法を怒っていた様子だ。
そもそも自分以外の者にも聞こえていれば、元春や隆景、あるいは他の誰かが糾弾の声を上げているだろう。
自分の気のせいだったのだろうか。
だが気のせいと言うにはあまりに明瞭に聞こえた言葉だった。
いずれにしても元春から不作法を叱られる事を予感し、才寿丸は憂鬱な気持ちになった。
輝元が退出後、才寿丸は家臣団に紛れ、逃げるように表御殿を退出しようとした。
しかし退出の直前、襟首がむんずと掴まれる。
才寿丸は観念したように目を閉じた。
「なんだ、今のみっともない姿は」
掴まれているのは襟首だが、低く押し殺された声が才寿丸の臓腑を鷲掴みにする。
軍議中には才寿丸の隣にいた俊実が座して平伏した。
「申し訳ありません。
私が側におりながら」
「立て、お主には問うておらん。
このうつけ自身の問題だ」
才寿丸が振り返ると、眉を釣り上げ仁王の様な形相の元春。
才寿丸は必死に弁明を考える。
ここまできて『所作未だ初陣に能わず』などと日野山に返されては、今度は母に何と叱責されるかわからない。
「いえ、その、思わぬ声が……聞こえた気がしまして……」
しどろに言い訳しながら、才寿丸は助けを求めるように元資や信直の姿を目で追うが二人は他の重臣と難しい顔をして話し込んでいる。
「声だと」
元春は怪訝な表情をして聞き返す。
やはり父にはあの声は聞こえていなかったようだ。
どうすればこの場を上手くやり過ごせるだろう。
懸命に考えを巡らせる才寿丸に、思わぬ人物から助けの手が差しのべられた。
「ほう、どんな声が聞こえたのかな」
叔父の隆景であった。
この叔父なら父を上手く宥めてくれるかもしれない。
しかしどんな声だったかと問われても、聞いた内容を答えられる訳がない。
あの言葉を口にする事で、その次にどんな波紋を呼ぶ事になるか知れたものではない。
苦悩する才寿丸に、隆景の澄んだ眼差しが注がれる。
胸の奥底まで見透かすかの様な目だ。
才寿丸は澄みきった視線と息苦しさから逃れる様に、目を逸らした。
「若殿がお飾りの総大将だ、とかそんな言葉かな」
隆景の言葉に才寿丸は目を剥き、一度逸らした視線を戻す。
口調こそ穏やかだが、隆景の目は本気だ。
背筋に冷たいものが伝う。
如何に慧眼で知られる叔父とはいえ、胸に隠した言葉を読むとは天狗や狐でも憑いているのではなかろうか。
「図星のようだね」
才寿丸は観念したように小さく首を縦に振った。
「何、誰の声だ」
まるで自分を責める様な元春の声、眼光に締め付けられ、才寿丸の胃の腑が悲鳴をあげる。
才寿丸は必死に首を横に振る。
「兄上、落ち着いてください。
別にそれを才寿丸が言った訳ではないのですから、そう圧を当てられなくてもよいではありませんか。
それに若殿が初めての総大将だというのに、兄上があの様に締めてしまってはそう思う者がいても仕方ないでしょう。
若殿には今後も成長していただき、我々もそうなるようにお支えすればよいだけではありませんか。
そもそも才寿丸しか聞いていない、誰が言ったかもわからない。
才寿丸も初陣の緊張であらぬ空耳を聞いて、思わず驚きふためいてしまった。
それでよいではありませんか。
それより兄上……」
半ば強引にその場を纏めようとし、そして目配せをする隆景に対して、元春は未だ不服げながらも渋々といった面持ちで了承した。
「又四郎(隆景の通称)がそう言うなら今日はここまでとしておこう。
お主達は先に下がっておれ」
才寿丸と二宮俊実は二人を残し、畏まって表御殿を後にした。
そこに出雲や石見の毛利家に従う武士達が合流し、その軍勢は一万三千に及んだ。
これは毛利の攻め手としては決して多くない数であった。
北九州や伊予の前線の情勢は予断を赦さず、それぞれに配された兵を割く事ができなかった為だ。
一方の尼子再興軍は月山富田城以外の出雲の城落とすと、兵力を分散して各城に数百の兵を配置している。
翌九日元春は赤穴から月山富田城に続く沿道の要衝である多久和城を攻め落とした。
寡兵で多久和城に籠っていた尼子再興軍はろくに戦わずに逃走し、元春は元資に命じてこれを追撃。
他の毛利軍はこれに易々と入城する事となった。
追撃から帰還した元春は元資、才寿丸、二宮俊実らを連れて本丸表御殿に向かう。
「おお、婿殿。
緒戦から幸先の良い戦果ですなぁ」
表御殿に向かう諸将の中から一人の男が声をかけてきた。
「これは伊豆守殿。
緒戦と言うのも烏滸がましく、逃げるだけの弱卒の尻を蹴り飛ばしただけですわ」
元春が笑いながらそう返す男が元春の舅、つまり新庄局の父熊谷信直である。
今年で齢六十四歳になり、頬から顎の虎髭はすっかり白く、額や頬には歴戦の証である刀傷と共に深く皺が刻まれている。
しかし裏腹に目には爛々と闘志の火が灯り、具足の上からでもわかる肉体の厚みは衰えを感じさせない。
「ほら、お主も伊豆守様にご挨拶せんか」
そう言って元春は控えていた才寿丸の背中を押す。
「ご無沙汰申し上げております、お祖父様。
この度許されまして初陣……」
才寿丸が信直に挨拶する言葉の途中、元春は才寿丸の頭を小突く。
「このうつけ者、お主も初陣を飾るのだったらいつまでも童のような心地ではあってはならぬ。
この場は我が家中ではないのだから、立場を弁えてお祖父様ではなく伊豆守様とお呼びせんか」
今この場は毛利家としての公の場、例え孫とはいえ毛利家の重臣に対して礼を尽くせと言うのだ。
そう叱る元春を信直は笑顔で宥める。
「まぁまぁ、それを言えば婿殿と呼ぶ儂も同じ事。
そういう堅い話は今後覚えていけばよいではありませぬか」
信直はそう言うと、今度は身を少し屈めて才寿丸に目線を合わせる。
「この歳で初陣とは、父に似てなんとも勇ましい事。
よき武士になるのだぞ」
信直は目を細め、顔の傷が皺で隠れるくらいの笑顔で孫の肩を叩く。
「伊豆守殿、あまり甘やかすのはお止しくだされ……」
元春は少し困った顔をした。
老いてなお益々壮んなるこの舅は兎にも角にも娘、娘婿である自分、そして孫に甘い。
真面目に育った元資などは心配いらないだろう。
だが奔放で甘え気質な所がある才寿丸は、のぼせ上がって天狗にならないか心配である。
この心配にはどうにも反りが合わない姉の五龍局が、元就から散々に甘やかされて我が儘で身勝手な性格に育った経緯もあった。
「各々方、そろそろ表御殿へ」
元春達の背後から表御殿へ促す声がかかる。
柳のように柔らかく静かな物腰、清流のように涼やかな眼差し、長身ではないが細く引き締まった体躯。
叔父の小早川隆景である。
「おう、行くぞ」
「はい」
元春の呼び掛けに元資が腹からの返事をし、表御殿へと進む。
表御殿に入った元春と隆景の兄弟は上座に並んで座り、才寿丸は二宮俊実と共に末席に座した。
「では」
一同が座ったのを確認した隆景が口を開いた瞬間、表御殿は重くのし掛かるような緊張感に包まれた。
隣り合う者と談笑していた武将達の表情が一変する。
口は真一文字に堅く結ばれ、目には闘志の炎が宿る。
才寿丸は思わずたじろいだ。
既にしてここは戦場なのだ。
父や兄から受けた剣の稽古時の緊張感など比べ物にならない。
歴戦の武士の鬼気に当てられ、息が詰まる。
そしてこの戦で初めて総大将として指揮をとる毛利輝元が、一同が頭を下げる中、やはり緊張の面持ちで上座に座る。
才寿丸の八つ歳上の輝元は、その父隆元の死後、元服を迎えるより早く十一歳で家督を継いだ。
さすがに若過ぎる為に実権は元就が握り、隆景が教育係となった。
父にも増して温厚な性格が災いして大名としての果断さに欠け、時に隆景からは家臣のいない所で鉄拳を伴う薫陶もなされたという。
緊張した面持ちの輝元はどこか怯えるようでもあり、単に初めて務める総大将の重責よりも、自分を補佐する筈の隆景や元春に萎縮しているようにも見えた。
「各々方、敵地にも入りましたので、吉川駿河守と某が大殿から言いつかっている事がありますのでお伝えいたす。
此度の戦は若殿が初めて総大将を務められる戦でもあります。
謀を用いて敵を引き寄せ、華々しい戦勝を飾ってほしい、と。
今ここに集まった兵が少なく見えるように陣をとり、数は一万と称していただきたい。
また、
『今回は兵力が少ないので、道中の宿場で一戦するのも危険だ。
月山冨田城に兵糧を入れたらすぐに引き揚げ、再び防長の兵を残らず掻き集めて合戦に臨もう』
と吹聴してくだされ。
さすればここから月山富田に至る道中に伏せられた尼子勢の物見や物聞きから伝わりましょう。
そして我らの兵が少ないと知った尼子勢は出雲各城に籠る兵を集結させて迎え撃ってくるでしょう」
そこまで言うと隆景は澄んだ声を止め、元春に首を傾けて目配せをした。
「杉原播磨守につけ置かせた者の調べでは、出雲各城から集結させた尼子勢は六千から七千程になると思われる。
恐らく尼子勢は布部辺りで迎え撃ってくるだろう。
敵は我らよりも長く出雲を治めていた地の利もある上、あの山中鹿介も健在。
数こそ我らが優るとはいえ、決して楽な戦いにはならんだろう。
各将の獅子奮迅の働きに期待する」
元春の力強い檄に毛利家臣団は大きく声を発して平伏する。
そして周りの家臣団に倣って平伏する才寿丸の耳元で、ある囁きが聞こえた。
『何の事はない、総大将とは名ばかりのお飾りだな』
総大将を目の前になんと不敬不遜な物言い。
才寿丸は驚きのあまり、跳ね上げるように身を起こしてしまった。
しかし周囲を見渡すと家臣団は平伏したままで才寿丸一人が頭を上げた格好となってしまい、そして不思議そうに見ている輝元と目があった。
それとは別に強烈な視線を感じて目を向けると、明らかに怒った目をした元春、眉を寄せて少し首を傾げた隆景が見ている。
才寿丸は元春の目に『今言ったのは自分ではない』と首を振る。
しかしそれに対して元春は声には出さず『(頭を上げるのが)早い』と、口を動かして二度三度床を力強く指差した。
才寿丸は慌てて再度頭を下げようとするが、今度はすれ違いで頭を上げる家臣団の中で一人だけ頭を下げる格好になってしまった。
才寿丸はまるでコメツキバッタのように頭を上げ下げした不恰好さに、気恥ずかしく唇を噛む。
だが不思議な事に、あの不躾な言葉を自分以外の誰かが聞いた様子はない。
元春も何者かの声ではなく、自分の不作法を怒っていた様子だ。
そもそも自分以外の者にも聞こえていれば、元春や隆景、あるいは他の誰かが糾弾の声を上げているだろう。
自分の気のせいだったのだろうか。
だが気のせいと言うにはあまりに明瞭に聞こえた言葉だった。
いずれにしても元春から不作法を叱られる事を予感し、才寿丸は憂鬱な気持ちになった。
輝元が退出後、才寿丸は家臣団に紛れ、逃げるように表御殿を退出しようとした。
しかし退出の直前、襟首がむんずと掴まれる。
才寿丸は観念したように目を閉じた。
「なんだ、今のみっともない姿は」
掴まれているのは襟首だが、低く押し殺された声が才寿丸の臓腑を鷲掴みにする。
軍議中には才寿丸の隣にいた俊実が座して平伏した。
「申し訳ありません。
私が側におりながら」
「立て、お主には問うておらん。
このうつけ自身の問題だ」
才寿丸が振り返ると、眉を釣り上げ仁王の様な形相の元春。
才寿丸は必死に弁明を考える。
ここまできて『所作未だ初陣に能わず』などと日野山に返されては、今度は母に何と叱責されるかわからない。
「いえ、その、思わぬ声が……聞こえた気がしまして……」
しどろに言い訳しながら、才寿丸は助けを求めるように元資や信直の姿を目で追うが二人は他の重臣と難しい顔をして話し込んでいる。
「声だと」
元春は怪訝な表情をして聞き返す。
やはり父にはあの声は聞こえていなかったようだ。
どうすればこの場を上手くやり過ごせるだろう。
懸命に考えを巡らせる才寿丸に、思わぬ人物から助けの手が差しのべられた。
「ほう、どんな声が聞こえたのかな」
叔父の隆景であった。
この叔父なら父を上手く宥めてくれるかもしれない。
しかしどんな声だったかと問われても、聞いた内容を答えられる訳がない。
あの言葉を口にする事で、その次にどんな波紋を呼ぶ事になるか知れたものではない。
苦悩する才寿丸に、隆景の澄んだ眼差しが注がれる。
胸の奥底まで見透かすかの様な目だ。
才寿丸は澄みきった視線と息苦しさから逃れる様に、目を逸らした。
「若殿がお飾りの総大将だ、とかそんな言葉かな」
隆景の言葉に才寿丸は目を剥き、一度逸らした視線を戻す。
口調こそ穏やかだが、隆景の目は本気だ。
背筋に冷たいものが伝う。
如何に慧眼で知られる叔父とはいえ、胸に隠した言葉を読むとは天狗や狐でも憑いているのではなかろうか。
「図星のようだね」
才寿丸は観念したように小さく首を縦に振った。
「何、誰の声だ」
まるで自分を責める様な元春の声、眼光に締め付けられ、才寿丸の胃の腑が悲鳴をあげる。
才寿丸は必死に首を横に振る。
「兄上、落ち着いてください。
別にそれを才寿丸が言った訳ではないのですから、そう圧を当てられなくてもよいではありませんか。
それに若殿が初めての総大将だというのに、兄上があの様に締めてしまってはそう思う者がいても仕方ないでしょう。
若殿には今後も成長していただき、我々もそうなるようにお支えすればよいだけではありませんか。
そもそも才寿丸しか聞いていない、誰が言ったかもわからない。
才寿丸も初陣の緊張であらぬ空耳を聞いて、思わず驚きふためいてしまった。
それでよいではありませんか。
それより兄上……」
半ば強引にその場を纏めようとし、そして目配せをする隆景に対して、元春は未だ不服げながらも渋々といった面持ちで了承した。
「又四郎(隆景の通称)がそう言うなら今日はここまでとしておこう。
お主達は先に下がっておれ」
才寿丸と二宮俊実は二人を残し、畏まって表御殿を後にした。
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