天狗の囁き

井上 滋瑛

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第三話 仁

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 才寿丸を伴って父の元へ向かった元資は、まず手にしていた一冊の書物を諸手で差し出した。
「お借りしておりました物、読み終えましたのでお返しに参りました」
 元春が受け取ったのは、この時代の武将に広く愛読された太平記だ。
 武勇だけでなく教養にも長けた元春は約二年かけてこれを書写し、元資や家臣達にも貸しだしていた。
「うむ、では次は二十一巻であるな」
 元春は何気ない様子で受け取った太平記の頁をパラパラと捲り、そして二人を見た。
「で、話はそれだけではあるまい」
 当然才寿丸がついてきている時点で、元春にも察しはついている。
 元資は少し緊張した面持ちで答える。
「はい。
 才寿丸の初陣に関して、母上のご意向をお伝えに上がりました」
 元春の眉が微かに跳ねた。
 母の言を伝えるにつれ、元春は目を丸くしていく。
 自分の考えに反対する妻の意見を聞き、単純に驚いているのか、あるいは不快と感じているのか。
 元春は文武を兼ね備えた名将であるが、少し頑固な所がある。
 軍議での意見の食い違いから、叔父の隆景と激論を交わしているのを何度か目の当たりにしている。
 そして母も先の言に表れているように、勝ち気な所がある。
 過去には元春の姉に当たる五龍局と頻繁に衝突し、元就や隆景から宥められ、和解を仲介する書状を送られた事がある。
 ある意味では似た者夫婦なのかもしれない。
 今まで二人の夫婦喧嘩など見たことはないが、子としてそれを見たいとは思わない。
 そんな元資の心配を他所に、やがて元春は少し目を細めて小さく笑った。
「そうか、母は才寿丸の初陣に賛成か。
 よし、ならば連れていこう」
 元資はあっさりと前言を覆した父を唖然として見た。
「才寿丸は二宮木工助(俊実)の隊に同行して従うがよい。
 彼は当家でも屈指の豪の者だ。
 学ぶものも多かろう」
 目を細めて言う父はどこか嬉しそうにも見える。
 この呆気なさ。
 今まで気を揉んでいたのは何だったのだろうか。
 呆然と目を移せば、才寿丸が喜色の気を漂わせて平伏している。
「では才寿丸、母に此度の戦が初陣となったと報告して参るがよい」
 元春に促された才寿丸は明るく返事をし、そして凛と引き締まった面持ちで新庄局の元へと去っていく。
「さて、お主には二十一巻であったな」
 そう言って立ち上がる父の表情はどこか満足気に感じれ、元資は疑問を投げ掛けた。
「父上、もしや最初から才寿丸の出陣には賛成だったのではありませんか」
 元春は立ち上がったまま動きを止め、意味ありげに笑うと元資に歩み寄ってしゃがみこんだ。
「ほう、何故その様に思ったのだ」
「当初のお考えを、母上のお考えを知ってからあまりにもあっさりと覆されました。
 また初陣をお認めになった今のお顔も、実に満足そうであります。
 愚察ではありますが、才寿丸があまりにも時期早く、しかも自ら初陣を願った為に、母上と意見の取り交わしが出来なかった。
 そこで一旦は反対をされた。
 才寿丸が相応の覚悟を持って初陣を望んだのであれば私、そして母上に相談いたしましょう。
 ここで母上が父上と同じく、初陣に反対ならばそれでよし。
 賛成であれば、それはそれでよし。
 しかしもし仮に父上が最初から才寿丸の初陣をお認めになって、母上がそれに反対であった場合、母上の性格からして何かしらの諍いが生じる。
 そうお考えになったのではありませんか」
 そこまで聞くと元春は呵々と笑った。
「儂が我が子の初陣を妻に相談しなければ決められぬ程、軟弱な男だと思うか」
 元資は父の笑顔を見て安心したか、自身も小さく笑って答える。
「いえ、父上のそれは軟弱ではなく、母上への配慮と懇情かと存じます」
 元春はすこし照れくさそうに、自身の鼻先を掻いた。
「弟の初陣一つで随分と考えを巡らせたものよ」
 それは感心した様でもあり、呆れた様でもあった。
 元資は苦笑いし、そして少し苛立ち責めるような口調で答える。
「敬えばこそ、父上と母上の性格はわかっております。
 もし父上と母上が本心で意見が食い違っていたとして、喧嘩でもしたらどうしようかと無用な気も揉みましょう」
 元春は笑いながら立ち上がり、しばし待っておれと言って奥へ下がる。
 やがて戻ってきた元春は手にした太平記の続きを元資に渡す。
「お主は儂に似ず、小さい頃から生真面目よの」
 元資はその言葉に不甲斐なさと悔しさを感じながら太平記を受け取る。
 自身としては父の背を見て育ち、父の声に従い、父の所作に学んできたつもりだった。
 太刀を振り、弓を引き、馬を駆り、書に学んだ。
 家中の者は例え世辞であっても、少輔次郎あれば次代も吉川家は安泰、と持ち上げる。
 だが父は『儂に似ず』と言う。
 その言葉の真意とは。
 父からすれば、まだ不足という事だろうか。
 そんな元資の思いは他所に、元春は言葉を続ける。
「弟は言うに及ばず、父母に至るまで家中の和に気を配る仁。
 儂よりも、亡き兄に似ている」
 元春の兄隆元は七年前に四十一歳の若さで亡くなった。
 一代で家を中国最大勢力にまで成長させた偉大な父。
 武と謀それぞれに自分よりも秀でた元春、隆景の弟二人。
 それぞれに対して強い劣等感を持っていたようだが、温厚篤実な性格で内政財務に長けた人物であった。
 そんな伯父に似ていると言われた元資は、返すに適した言葉が見つからず黙って頭を下げて太平記を受け取った。
 元春は元資の様子も気にかけずに言葉を続ける。
「尼子の残党を殲滅でき、中国の情勢が安定したらお主に家督を譲って隠居しても心配なさそうだ」
 隠居、その二文字に反応して元資は頭を上げた。
 元春は八年前に癪にかかって苦しんだ事がある。
「また何か病を得ているのですか」
 元資は眉をひそめた。
 元春は笑って首を横に振りながら言う。
「そうではない。
 儂は十八で吉川家に養子に入り、二十一で家督を継いだ。
 お主も今年で二十三だ。
 大殿(元就)もそうだが、いつまでも儂や又四郎(隆景)の世代が大きい顔をしていては家の為にならない。
 此度の戦の総大将が若殿(輝元)であるのも、大殿が次なる世代の台頭を期待している表れでもあろう。
 儂は儂。
 お主はお主。
 何も気負う事はないが、幸いお主は性格は兄に似ながらも、儂の武も引き継いでおる。
 そろそろこの元春の子としてではなく、吉川少輔次郎元資という一人の武士として知られてもよかろう」
 元資は畏まって再度頭を下げた。
 稀代の謀将毛利元就を父、その血を最も濃く受け継いだと言われる小早川隆景を弟に持ち、そして自身の類い稀なる武勇が目立ち、ともすれば武勇一辺倒と勘違いされる事もあった元春。
 才寿丸にだけでなく元資にも『お主はお主』と言う。
 それは元春の子だから、元就の孫だから、と言った声に縛られず、自身の個性を輝かせて毛利家や吉川家の次代を担って欲しい。
 そして更に言えば、自分や元就を越えるような将に育って欲しい、との思いが込められていた。
 その意を受け止め、元資は一層気を引き締めて戦に臨む事を決意する。
 かくして毛利輝元が初めて総大将として指揮を執る戦は、同時に吉川才寿丸の初陣となる事になった。
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