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13.薄氷はいつ割れるかわからない
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自室に戻ると私は髪をほどき、ドレスを脱いで寝衣に着替えた。
脱いだドレスはなるべく皺にならないように長椅子の背に掛けておく。もう就寝するから誰も部屋に入らないよう命じたから、明日の朝に侍女が片付けるだろう。
寝台の天涯の垂れ布を開けて、中に滑り込んで腰を下ろす。そのまま閉めて寝ようとしたら、バルコニーに繋がる大窓の向こうに月が見えた。
その月を見て思い出すのはアウグスト様との会話。
──私のやりたいこと。
それを見つけようとアウグスト様は言った。
私は頷いた。
だから、明日からはそれを見つけるための予定を生活に組み込まなくてはならない。
時間なら問題ない。私の日常生活といえば、寝食以外なら、家の仕事やそれに必要な勉強、今日のような夜会などの参加、あとはたまに友人や婚約者と会ったり。そういえば明後日は友人が来訪する日だった。今日のことを話したら、あの友人はどんな反応を見せるだろうか。
婚約者との時間──は心配しなくてもいいか。前なら月に一度は会うことが定例行事と化していたが、婚約者に恋人が出来てからはそれも久しい。
それ以外は何もしない。なら、その時間をやりたいことを探す時間に当てても問題ないだろう。
そういえば、アウグスト様にはこちらから手紙を出す約束をしていた。その内容も決めなくては。
アウグスト様だって帰国したばかりで忙しいだろうし、早めに送った方がいいだろう。明日は予定も入っていないし、ゆっくりと考えて遅くても来週までには手紙を出そう。
「…………ふわ」
部屋の明かりはとうに落としているため、暗いせいか欠伸が漏れる。
今日はもう眠い。こんな頭で考えても纏まらないし、もう寝よう。
垂れ布を閉め、体を横にして掛布に潜り込むと、心地好い態勢になるように何度かもぞもぞと動く。
目を瞑ると意識が飴のように溶けていく。
そんな微睡みの中で、ふと、声が聞こえた。私の声だった。
──私にやりたいことなんて本当にあるの?
自分の声と会話するなんておかしなことだ。けれど、今の私にはそのことを疑問に思うほどの思考力はなかった。
その声に無意識に答える。
──わからない。
全てはそこに帰結する。どんなに考えても答えがその位置から動くことはなかった。
それはきっと、私にとっては砂漠に落とした小さなダイヤを見つけるよりも難しいことだろう。
見つかる可能性なんて零に等しくて、そこに掛かる時間も労力も膨大で。
きっと、早々に諦めるか宝石店で新しいダイヤを買って、それを落としたダイヤですと偽る方が容易いし、それでも問題はないはずだ。
無駄かもしれない。徒労に終わるかもしれない。
──けれど、それも今更だ。
そもそも今の私の婚約だって無駄なものに終わるかもしれないのだから。
幼い頃から母に決められた結婚。そのために費やしてきた時間。それが無意味になったら、その時に私はどうするのか。
与えられていたやるべきものを失った時に。
アウグスト様と話していて、そんな考えが頭を過っていた。だからこそ、やりたいことを見つけることを了承したのだと思う。
たとえ無為な人生だとしても、この先、何があってもせめて道だけは失わないように──。
そう思いながら、私は眠りについた。
常に薄氷の上に立っていると思って、予防線は張っておかないといけない。それがいつ崩れて、自身を冷たい水底へ誘うのかわからないのだから。
──そのことを、私はわかっているつもりだった。
──はずだった。
けれど、足元の薄氷が割れるのは本当に突然で、予期なんてしようがない。
ぴかぴかの表面を見てまだ大丈夫だと思っても、氷の内側は本当はひびだらけかもしれない。
翌日、私はそのことを身をもって体験することになる。
「────今、なんと?」
聞き逃したわけでもないのに、私はその言葉を訊いてつい、聞き返してしまった。
夜会の翌日の午前。
急な来訪があった。自室で便箋と向き合っていた私は、侍女から来訪者の名前を聞くと、僅かに驚いてから応接室へ向かった。
目の前に座るのはよく知る相手で、けれど最近はろくに顔も合わせなかった相手。
挨拶もそこそこに向き合い座ると、相手は単刀直入に本題に入った。
その内容が問題だった。
まさか──、と思った。勿論、その可能性もなきにしもあらずとは考えていたが、確率は低いと思っていたし、何よりこんなに早く言われるとは思っていなかった。
精神的な苦痛というよりは、予測を大幅に裏切られたことに対する衝撃の方が強い。
けれど、話を聞いていなかったのかと言いたげに寄せられた相手の眉間の皺が私の聞き間違いではないことを証明していた。
相手は呆れ混じりに溜息をひとつ吐き出すと、今言った言葉を今度はしっかりと伝えるように、殊更ゆっくりと言った。
「聞いてなかったのか? リスリアーノ・フィルメンティ伯爵令嬢、貴女との婚約を破棄したい、と言ったんだ」
そうはっきりと、私の婚約者であるペーター・ウォレストは婚約破棄を希望する旨を口にした。
脱いだドレスはなるべく皺にならないように長椅子の背に掛けておく。もう就寝するから誰も部屋に入らないよう命じたから、明日の朝に侍女が片付けるだろう。
寝台の天涯の垂れ布を開けて、中に滑り込んで腰を下ろす。そのまま閉めて寝ようとしたら、バルコニーに繋がる大窓の向こうに月が見えた。
その月を見て思い出すのはアウグスト様との会話。
──私のやりたいこと。
それを見つけようとアウグスト様は言った。
私は頷いた。
だから、明日からはそれを見つけるための予定を生活に組み込まなくてはならない。
時間なら問題ない。私の日常生活といえば、寝食以外なら、家の仕事やそれに必要な勉強、今日のような夜会などの参加、あとはたまに友人や婚約者と会ったり。そういえば明後日は友人が来訪する日だった。今日のことを話したら、あの友人はどんな反応を見せるだろうか。
婚約者との時間──は心配しなくてもいいか。前なら月に一度は会うことが定例行事と化していたが、婚約者に恋人が出来てからはそれも久しい。
それ以外は何もしない。なら、その時間をやりたいことを探す時間に当てても問題ないだろう。
そういえば、アウグスト様にはこちらから手紙を出す約束をしていた。その内容も決めなくては。
アウグスト様だって帰国したばかりで忙しいだろうし、早めに送った方がいいだろう。明日は予定も入っていないし、ゆっくりと考えて遅くても来週までには手紙を出そう。
「…………ふわ」
部屋の明かりはとうに落としているため、暗いせいか欠伸が漏れる。
今日はもう眠い。こんな頭で考えても纏まらないし、もう寝よう。
垂れ布を閉め、体を横にして掛布に潜り込むと、心地好い態勢になるように何度かもぞもぞと動く。
目を瞑ると意識が飴のように溶けていく。
そんな微睡みの中で、ふと、声が聞こえた。私の声だった。
──私にやりたいことなんて本当にあるの?
自分の声と会話するなんておかしなことだ。けれど、今の私にはそのことを疑問に思うほどの思考力はなかった。
その声に無意識に答える。
──わからない。
全てはそこに帰結する。どんなに考えても答えがその位置から動くことはなかった。
それはきっと、私にとっては砂漠に落とした小さなダイヤを見つけるよりも難しいことだろう。
見つかる可能性なんて零に等しくて、そこに掛かる時間も労力も膨大で。
きっと、早々に諦めるか宝石店で新しいダイヤを買って、それを落としたダイヤですと偽る方が容易いし、それでも問題はないはずだ。
無駄かもしれない。徒労に終わるかもしれない。
──けれど、それも今更だ。
そもそも今の私の婚約だって無駄なものに終わるかもしれないのだから。
幼い頃から母に決められた結婚。そのために費やしてきた時間。それが無意味になったら、その時に私はどうするのか。
与えられていたやるべきものを失った時に。
アウグスト様と話していて、そんな考えが頭を過っていた。だからこそ、やりたいことを見つけることを了承したのだと思う。
たとえ無為な人生だとしても、この先、何があってもせめて道だけは失わないように──。
そう思いながら、私は眠りについた。
常に薄氷の上に立っていると思って、予防線は張っておかないといけない。それがいつ崩れて、自身を冷たい水底へ誘うのかわからないのだから。
──そのことを、私はわかっているつもりだった。
──はずだった。
けれど、足元の薄氷が割れるのは本当に突然で、予期なんてしようがない。
ぴかぴかの表面を見てまだ大丈夫だと思っても、氷の内側は本当はひびだらけかもしれない。
翌日、私はそのことを身をもって体験することになる。
「────今、なんと?」
聞き逃したわけでもないのに、私はその言葉を訊いてつい、聞き返してしまった。
夜会の翌日の午前。
急な来訪があった。自室で便箋と向き合っていた私は、侍女から来訪者の名前を聞くと、僅かに驚いてから応接室へ向かった。
目の前に座るのはよく知る相手で、けれど最近はろくに顔も合わせなかった相手。
挨拶もそこそこに向き合い座ると、相手は単刀直入に本題に入った。
その内容が問題だった。
まさか──、と思った。勿論、その可能性もなきにしもあらずとは考えていたが、確率は低いと思っていたし、何よりこんなに早く言われるとは思っていなかった。
精神的な苦痛というよりは、予測を大幅に裏切られたことに対する衝撃の方が強い。
けれど、話を聞いていなかったのかと言いたげに寄せられた相手の眉間の皺が私の聞き間違いではないことを証明していた。
相手は呆れ混じりに溜息をひとつ吐き出すと、今言った言葉を今度はしっかりと伝えるように、殊更ゆっくりと言った。
「聞いてなかったのか? リスリアーノ・フィルメンティ伯爵令嬢、貴女との婚約を破棄したい、と言ったんだ」
そうはっきりと、私の婚約者であるペーター・ウォレストは婚約破棄を希望する旨を口にした。
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