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第1章「火星へ」

密航者(1)

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 え?
 制御室は与圧がされていない。真空状態だ。
 そこでライトスーツを着替えるなんて不可能だ。
 ライトスーツが破れたときは緊急補修用パッチを当てるのが基本で、ライトスーツをそのまま置いていても意味はない。

 俺はゆっくりライトスーツににじり寄った。注視する。
 あ……。
「脱ぎ捨てられた」と思ったのは、それがあまりに小さかったからで、よく見るまでもなくヘルメットが繋がっている。
 それがうずくまって背中を向けていた。
 密航者だ!
 すぐさま駆け寄って、ヘルメットの下、首筋にアームを極めた。
《くあ!》
 真空中で音は聞こえないが、密着した腕を通して「声」は伝わる。
 腕の感覚から、骨格そのものは細い。俺は身長176cmで体重は1G時に約75kg。
 体格差で圧倒できるかと一瞬頭をよぎったが、密航者がナイフを持っていてライトスーツを切り裂かれたら、その瞬間に俺の負けが、つまりは死が確定する。
 こちらは、ナイフもピストルも携帯していない。
 そう気づいた俺はとっさに後ろに飛び退いた。

 立ち上がった密航者としばらくにらみ合った。
 ヘルメット込みで身長は150センチ前後か。
 首に腕を回したときは細く感じたが、改めて見ると、意外と体格はがっちりしている。
 映画のアウトロー主人公なら格闘技の達人だったりするが、脱サラの俺は格闘技なんて座学でしか知らない。
 密航者が筋肉質の格闘技経験者だったら、床に押し倒されてとどめを刺されるのは俺だ。

 時間はたったが、相手が攻撃してくる様子はない。
 俺はおそるおそる右手を伸ばし掌を開いた。相手も同じように左手を伸ばし掌を合わせる。
 座学のマニュアルではこれで「振動対話が可能」とあったが、やってみると現実にはムリだった。
 相手が何を言っているのか、言葉か雑音かもわからない。
 ただ、相手にも対話の意思はあるようで攻撃の意図がないとなれば……俺は覚悟を決めて両手を下ろし、床に掌をつけてクラウチングスタイルの姿勢を取って、頭を、ヘルメットを伸ばした。
 密航者は立ったまま上体を曲げ、やはりヘルメットのガラス面を当てる。
 大昔からある、宇宙でもっとも古典的な「直接対話」だ。

 その状態になって俺は自分の迂闊さを呪った。
 ここまでしておきながら、質問を全く考えていない。脅しもブラフも思いつかない。どうする?
 と、向こうから声が届いた。
《メシ!》と。

 ハードスーツを残したまま密航者の手を引いて気密室に戻る。
 密航者は暴れることも一切の抵抗も見せず、むしろ俺の腰にしがみつくようについてきた。
 ハッチを閉めて与圧を始める。言うまでもないが、俺は密航者から目を離さなかった。

 ライトスーツは、時に残酷なほど体型が出る。
 小柄だががっしりした体型で、格闘戦となったら危ないかもしれない。素手なら。
 が、この気密室は俺の居城の一部で、斧やハンマーの格納場所を知っている。
 もっとも、それは隠しているわけではなく工具箱にしまっているだけで、工具箱の位置は密航者の方が近い。
 というか、密航者の真後ろだ。

 いや!
 何も倒す必要はない。
 緊急排気ボタンを押せば密航者は背中から放り出され、俺は両手を開いてハッチに引っかかることができる。
 このボタンは逆に自分の真後ろにあるし、密航者は簀巻きにして放り出すのが宇宙のルールだ。
 俺は密航者と正対したまま、手探りで右手を後ろに下げた。

 後ろ手に、感覚だよりでボタンを探り当てるよりも密航者の動きの方が早かった。
 ヤツは……右手の人差し指を伸ばし、自分のライトスーツのヘルメットの顎部先端を押した。
 光線から目を守るため真っ黒にスモーク処理したフェイスがすっと開く。

 ブラックスモークの下にあったのは、頬のこけたガキの顔だ。
 宇宙空間での生活のためだろう、紫外線をほとんど浴びることがない肌は全く日焼けしていない。
 不健康なまでに青白かった。
 ブラウンの瞳が不敵な光をたたえて俺を睨みつけている。その上の眉はドブネズミ色。
 ……くそう。やりづらい。

 ライトスーツのまま真空に放り出せば、たとえフェイスが閉じていても、ほどなく死ぬ。
 が、フェイスが開かれていれば、放り出された直後に俺の目の前で絶命する。
 死ぬのは同じだが、俺の知らないところ、俺のいないところで死なれるのと、自分がこの手で死なせるのでは、メンタルが全く異なる。
 今から押そうとしている緊急排気=ハッチオープンのボタンは、死刑執行のボタンそのものだ。
 軍歴があるならばともかく……正直、これまでの航海で、手に負えないと判断した誰とも知らない船を見捨てたことはあった。
 救難に向かってスラスター剤と時間を無駄にしたくないというだけで。
 が、この手で直接人をあやめた経験はまだない。
 人を殺す訓練を受けていない俺に、このボタンはとてつもなく重い。

 密航者のガキは、声変わりもまだなのか、ボーイソプラノの声で言った。「ハラ減った」と。
「バカヤロウ! 密航者は簀巻きにして捨てるのが宇宙のルールだ!
 これからデブリになるヤツに、喰わせる余分なメシはない!」
 怒鳴りつけるが、密航者は笑みさえ浮かべて言い放った。
「死刑囚かて、最後の願いは聞いてもらえたって言うやん?
 簀巻きにされるんはしゃーないにしても、最後の晩餐くらいはええんちゃうん?」

 ……ああ。俺の負けだ。俺にこのガキを殺す度胸も覚悟もない。
 ただ、負けっ放しというのも口惜しい。一応のファイティングポーズを決めてせめて一言捨て台詞を紡いだ。
「繰り返すが、無駄飯を食わせる余裕はない。
 それでも喰って酸素を吸いたいって言うんなら、飯代以上の働きを見せろ。
 できなかったら……無能と判断したその直前のメシが、オマエの最後の晩餐だ」
 そう言うと掌を開いて指を伸ばし、自分の首の前で水平に振って見せた。
 ガキは右手を伸ばし親指を立てて、唇の端を上げ歯を見せウインクまでして応えやがった。

 そもそも、ヘルメットのフェイスが開いたときに勝負はついていた。
 10年前に連れ合いと別れ、そちらに引き取られた子供がちょうどこのくらいの年齢だったから。
 もちろん10年たって、子供もとっくに成人しているだろうが、記憶の中に残っている息子はあのときの年齢のままだ。
 ガキと息子が重なって見えたら、もう俺にガキは殺せない。

「よし。気密はいいぞ。ヘルメットをとれ」
 言われて取ったヘルメットの中にあったのは、やはり眉毛と同じドブネズミ色の頭だ。
 短く刈り込んでいるが坊主頭と呼ぶには少し長い。
 サイズの合っていないヘルメットで若干大きく見えたが、実際の身長は140cmもないだろう。
「ライトスーツも脱いでいいぞ」
 しかし、こちらはなぜか拒む。
「脱ぎたくないなら、もう一度ヘルメットをかぶれ。MAXで紫外線除菌してやる。
 隙間があったら、ヘタしたら一生火傷が残るかもしれん。
 あと。今後2度と船内でライトスーツを脱ぐことはゆるさん!」
 そう言うと俺は、一度は開いた自分のヘルメットのフェイスカバーを、自分でまた閉じた。


 船内の照明には、すべて若干の紫外線を含有させている。もちろん病原菌を滅菌するために。
 ただし、それは乗組員には影響のない強さだ。紫外線強度を調整できるのは、この気密室しかない。
 こちらはブラフでないと気がついたのか、ガキはライトスーツの首元のマジックテープをつまんで言った。
「おっちゃん。俺ずっと外におってん。……トイレ、どうしたと思う?」
「!」
 思わず顔色を失った。やせこけた顔に反して、やたらライトスーツにボリウムがあるのは……。
 ライトスーツは簡易宇宙服であり、水も空気も通さない。中からも外からも。
 若干ではあるが空気と水質の浄化・循環機能があって、ヘルメットと繋げばスーツ内の水分を集め、飲み水が作れるしボンベなしで呼吸もできる。
 が。水質は幾分マシというレベルでしかないし、固形排泄物はたまり続けるしかない。

 ライトスーツのファスナーはもちろんマジックテープすら開かれておらず、もちろん「臭い」は全く漏れていないが、俺は想像だけでうぷっ! と吐き気を覚えた。
「これ開けたら、大惨事やと思うんやけど……かめひん?」
「いいわけあるか! バカヤロウ!」
 おそらくエネルギーカプセルの錠剤を飲んで飢えをしのいでいたのだろう。
 軍では、基本食糧が尽きたあと野戦食料いわゆるレーションになり、それすら尽きたあとは非常用のチューブ食料、最後の砦がエネルギーカプセルだ。
「軍」のイメージは、しばしば「殺人集団」ととらえられるが、相手を殺す以上に味方が生き残ることを優先する、ある意味もっとも人道的な組織でもある。
 あくまで平時に限った話だが。
 
 エネルギーカプセルは、品質を落とした物が民生用にも市販されている。
 この船にも万一に備えて一定量の備蓄が法律で義務づけられているが、その船内備蓄量よりもヘルメットの空きスペースの方が明らかに少ない。
 それを、おそらく指定量の何分の一かというペースで細々と食いつないで、このガキはここまできたんだ。
 それと多少は浄化されてるとはいえ、自らの排泄物を飲んで。
 いくらかの同情は覚えるが、出る量は喰う量に相関する。
 ライトスーツを着せたまま飯を食わせたらライトスーツはどんどん膨らみ、やがて内容物=排泄物を船内にまき散らして破裂する。
 そんな汚物にまみれた船内で、ライトスーツを着てヘルメットをかぶり続け、臭いを遮断しながら火星までの数ヶ月を耐える根性はない。
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