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記憶の残滓 6★
しおりを挟む「見つけた。でも、」
布団から手を離した大智は改めて言葉にして、そして俯いた。記憶を整理しているのかそのまま微動だにせず、ようやく顔をあげると健を振り返った。
不安げな表情は、得た情報から導き出した答えが正解なのか確証がないからだ。
訥々と語られた大智の視た記憶の内容に、健も同様に腑に落ちなさを感じたのだった。
「駆け落ち、か……」
「うん。どっちも、実家とは縁を切って結婚したみたい」
老婆の生前を大智から聞いたあと、健は要点を繰り返して口にした。
老婆はそれなりな家柄の娘として育ち、結婚相手も老爺とは別に決められていたらしい。適齢期を迎えお見合いを直前に、すでに恋愛関係にあった老爺と共に家を抜け出したのだ。
老爺の実家はしがない商店を営んでおり、釣り合いも何もなく両家は大反対だった。
「捕まりそうになっては逃げて、を繰り返していたんだ。そのうちにおじいちゃんの実家は見限って、おばあちゃんの実家は絶縁を言い渡した」
ただ、怒りはあれど憎しみは生まれない終わりのようだった。
大智が桐箪笥にそっと目線をやった。
「あの箪笥はおばあちゃんへの最後の贈り物だよ。家族の愛はたしかにあったのに、どうして縁を切らなきゃいけなかったんだろうね」
「……俺たちにはわからないことだな」
「おばあちゃんは自分の子供たちには何も教えなかった。実家があること、それはおじいちゃんも。だから、この箪笥がどれだけ大事な物なのか、誰も知らない」
先ほど、桐箪笥に触れたあとに健が投げた問いかけの答えが今になって返された。
残された老婆の嫁入り道具。いろいろと家具は残されたままの家だが、恐らく大事な物はすでに健たちより年上の子供たちによって回収されている。
手付かずなのは、そういう理由だったのだ。
「駆け落ちするくらいだし、実家をなくした分、二人は寄り添いあってきたんだよ」
「いつまでも隣に、か」
「死んでも肩を並べて、が二人なりの誓いの言葉だった。なのに……」
大智はまた布団に目線を戻した。
触れた手は、使い古してくたびれたその表面をそっと撫でた。
「なんだろうね。すれ違ってるような、踏み込みきれない感情があった。一緒にいた年月がそうさせたのかな」
「……俺にはわからないけどな。いくら好き合っていても、それがずっと続くかどうかは」
「おばあちゃんは変わらなかったよ」
「じいさんがわからないんだろ。だから、死んでも悩み続けてるんだろ」
老爺の言っていた『約束』。
それは二人の誓いの言葉だった。
いつまでも隣に、死んでも肩を並べて。
それを老婆は健気に守ろうとしたが、生前の老爺とのやりとりで何があったのか、その約束を守っていいものかと躊躇していた。
大智が過去視した記憶の中での決定打はない。
夫婦にしかわからない、微々たるすれ違いが老婆の中に蓄積されていたのだろう。
老爺が亡くなってからずっと悩み迷い、そして自身が亡くなってからもそれを繰り返した。
呑み込まれそうな悲しみの中で、老婆はずっと繰り返していたのだ。
「……とりあえず、思いついたことはやってみようぜ」
「うん……」
老婆同様に迷いを捨てきれない大智の腕を取って立ち上がらせると、健と大智は再びループの始まっている階下へとおりた。
スリッパの足音は軽快に、もう何度も耳にした動きを繰り返している。
入れ違いで二階へ上がっていくと、あの桐箪笥の開閉音が始まった。
お鈴が鳴り始めたちょうどその時に、健と大智は和室に敷かれた布団の前にいた。
「記憶の中とはいえ、おばあちゃんの目の前でこれ持っていくのは忍びないけど」
確証はないが、思いつくのはこれだけだった。
約束のとおりなら、夫婦の布団を並べることで、誓いの言葉に少しでも近づけるのではないかと考えた。
実際に一組の布団が和室に敷きっぱなしだということが、老婆のやり残したことを表していると思った。
「大智は掛け布団と枕を持ってけ。敷布団は重いから俺が持つ」
「わかった」
大智は記憶の中の老婆に「ちょっと、ごめんね」と声をかけると、掛け布団に手を触れた。
恐らくまた、新たな過去を視るだろう。これまでに触れるのを避けていた物の一つだったから、それは健も大智も予期していた。
だが、大智の身体はぐらりと崩れた。
「大智!?」
咄嗟に健は大智の身体を支える。
回した腕の中、ぐったりと身体を預けられたのは一瞬で、意識を取り戻すのと同時に大智の身体に力が入った。
鳴り響くお鈴の音を背に、老婆はリビングを出ていったところだった。
「あぁ、そうか……おじいちゃんも……」
健に抱えられたまま、大智は誰に言うともなくつぶやいた。
恐らく視たのは老爺の過去だろう。それまでとは違った大智の脱力っぷりに、健には知り得ない重要な過去を視たのだろうと悟った。
大智は健の腕から離れ、そして瞳を揺らした。
「あのままじゃダメだ。おじいちゃんがあのままじゃ、おばあちゃんはいつまでも囚われたままだ」
「何を視たんだ?」
「おじいちゃんの後悔。……押し込んだ気持ち」
健を見た大智の瞳は強かった。
やるべきことが定まったと言うように、大智はふらふらと立ち上がった。
「待て、何する気だ?」
「おじいちゃんに教えなきゃ」
「詳しく教えろ」
「健も来て。俺が震えないように、俺の隣にいて」
それはきっと、これ以上は触れるなという警告に対する恐怖心。感じた圧は怒りと同じようなもので、行き過ぎれば殺意にも取れるほどで。
老爺への接触は、最悪を覚悟する必要があった。
「……大丈夫なのか?」
大智を疑うわけじゃない。
だが、ただのお人好しで動こうとしているなら止める必要があった。
「絶対に説得するよ」
返された迷いない言葉に、健は大智の覚悟を信じて頷いた。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
台所にはすでに老爺と老婆の姿があった。
こちらに背を向けてダイニングテーブルに向かって座る老婆に、その横に立ちその姿を見下ろす老爺。
淡々とした口調で一方的に話しかける老爺の声は冷たく聞こえるが、その一方で共にいた長さを感じさせる遠慮のなさがあった。
「いつまでそうしているんだ?」
ずっと、そうしてきたのだろう。
返事を返されずとも諦めることなく、老婆を見捨てることなく。
この家で繰り返される老婆の後悔に、老爺は今までずっと付き合ってきたのだろう。
「約束はもういい」
老婆の細い肩が小刻みに揺れる。
小さな嗚咽は、丸まった背中をさらに沈みこませていく。そこに広がる闇に溶け込むようにして。
老爺の言葉に反応しているようで、それはすでに一連の流れとなってしまっているように。
次の瞬間には姿を消してしまうことがもう、当たり前のこととなっていた。
眉間に皺を寄せた老爺は、すでに諦めていると首を横に振っていた。
「ダメだよ、それじゃ」
暗闇の一層深い台所内、老婆の木霊する嗚咽を制して大智の言葉が通る。
老婆の小刻みに揺れていた肩はぴたりと止まり、剣呑さを隠さない老爺がじろりと睨みつけた。
向けられた圧に怯んだ大智は、掴んだ健の腕を盾に声だけは大きくした。
「そんな伝え方じゃおばあちゃんには届かないよ」
「お前に何がわかる!」
老爺は顔だけでなく、身体もこちらに向けた。
向かい合うだけで感じる圧は何倍にも膨れ上がる。
健でさえ、滲んだ冷や汗が背中を伝った。
「わかるよ」
だが、大智は負けじと言い返した。
「お互いがどれだけ大切に想い合っているか。後ろめたいことも、そのせいで本心に触れられなくてすれ違ってることも」
目を細めて睨みつけてくる老爺はいまにも怒鳴りつけてきそうな雰囲気を崩さず、だが口を開くことはなかった。
嗚咽を収めた老婆も姿を消すことなくそこに留まっている。まるで、会話を聞いているかのように大人しくその存在を消していた。
「おじいちゃんは、ずっと後悔していたんでしょ? おばあちゃんが家族と縁を切ったこと。嫁入り道具にって持たされた桐箪笥の前で、おばあちゃんがよく泣いていたのを知っていたから」
「お前、なぜそれを……」
「子供にも両親のことを教えられない。後ろめたい人生を歩かせて、本当にそれは幸せなのかって悩んでいたんだ。幸せを誓って隣にいるはずなのに、本当に幸せにできているのか自信がなかったんでしょ?」
「……お前に、」
何がわかる。続くであろう言葉は、目を丸くした老爺の口から出てくることはなかった。
いまだに俯いたままの老婆が、筋張った老爺の手を掴んでいた。
大智は盾にしている健の腕からわずかに身を乗り出し、声音を優しくした。
「おばあちゃん。おじいちゃんに壁を感じた理由はそれだよ。ずっと後悔して、自分を責めてたんだ」
老爺が掴まれた手を見下ろす。
顔は上がらないが、老婆の手には力が込められていた。
「おばあちゃんのことを想うあまりのことだったんだよ。だから、おばあちゃんもそれ以上思い詰めないで。『約束』は、おじいちゃんもちゃんと大切にしているから」
老爺は戸惑いを隠すことなく大智を見た。
これまで老婆をここから救い出そうとしていた老爺は、この現状に至ったそもそもの根本を理解できていなかった。
もういいからと伝えていた『約束』の深さを。
「おじいちゃんが後悔すれば後悔するほど、二人の間には壁ができていたんだ。些細な言葉すら掛けられなくなるほどに少しずつ、だけど簡単には壊せない壁が。……おじいちゃんの布団だって、寝室に戻して並べていいか今でも悩んでるほどに」
「だからそんな『約束』はもういいと……」
「違うよ、おじいちゃん。その伝え方じゃダメなんだ」
老爺は口をつぐんだ。
不快そうな雰囲気は残るものの、今にも殺しにきそうな怒りの圧はもうなかった。
大智はようやく健の腕を離した。
「……押し込んで隠した、おじいちゃんの本当の気持ちを伝えないと」
老爺はハッと老婆を見下ろした。
掴まれた手。老爺にのみわかる、静かに伝わる震え。
掴んでいたようでいつしか離してしまっていた、自分のものよりも華奢な手を。
「俺の……――」
老爺はその体勢を変えないまま、掴まれていないもう片方の手で老婆の手を包み込んだ。
「……悪かった。苦労をかけた。寂しい思いをさせたな」
言葉を区切った老爺は一呼吸した。
何を言うべきか、気恥ずさに戸惑っているようにも見えた。
「まだ、俺に愛想を尽かさないでいてくれるか」
老婆は静かに頷く。
少しだけ、落ちた肩が上がったように感じる。
「まだ、俺の隣にいてくれるか」
老婆はまた頷く。
繋がった手から伝わる震えは、もう一人分じゃなくなっていた。
「……肩を並べて、俺といてくれるか」
声が震えた。
誤魔化すように老婆の手をとんとんと優しく叩く老爺は、もう顔を上げてはいられなかった。
深い暗闇の中にあった台所に、いつしか窓から光が射し込んだ。
朝日を思わせる柔らかな光を老爺は背に受け、老婆は正面から受け止めた。
健と大智から二人の表情は読み取れない。けれど、老婆はゆっくりと顔を上げてその光を受け入れた。
「――――私は、幸せですよ」
はっきりとした老婆の一言。
死後、はじめて合ったであろう二人の目線はようやく引き結んでいた口元を綻ばせた。
柔らかな光は二人を包み込み、そして少しずつ光の中に溶け込んでいく。
朝日の射し込む台所には、人に使われることのなくなった寂しげで静かな空気だけが残った。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
頑なに鍵を拒否し、わずかにでも動く気配を見せなかった玄関扉はあっさりと健と大智を解放した。
吸い込んだ空気は早朝の湿り気を匂わせ、ほんの数時間ぶりだというのにそよぐ風に心地よさを感じずにはいられなかった。
白んだ空を仰げば小鳥が飛びはじめ、どっと身体に疲労感が押し寄せる。
「長かったぁーっ」
緊張感からも解放された大智は大きく伸びをした。
早朝の、家の建ち並ぶ密集地。近隣に迷惑かと思ったが、近くのアーケード街からはすでに開店準備の気配が感じられた。
風に流されるままに、ふわりと焼きたてのパンの香りが漂った。
健の腹の虫が刺激されているところに、スマホのバイブがその意識を遮る。
「……結局なんなんだ、このメッセージは」
宛名不明、日時は文字化けを起こした謎のメッセージ。本文にはやけに上から目線な「ご苦労」の文字だけ。
大智にも同様のものが同時に届いた。
「俺、これ送ってきたの誰だかわかったよ」
「誰なんだ?」
「さっきは必要がなかったから言わなかったんだけど、おじいちゃんとおばあちゃんの記憶の中にあったんだ」
大智のお腹が、ぐぅと主張した。
徹夜明けの疲労感の中で嗅ぐ焼きたてパンの香りはいつになく刺激的だった。
「二人だけの神前結婚式。その後も何かしらのタイミングでお世話になってた神社。右近と左近は、それを全部見てたんだろうね」
「あいつらか……」
腑に落ち、ため息をついた。
神使らしからぬ振る舞いしか見たことのない狐たちだが、こうして参拝者を心配する面も持ち合わせてはいるらしい。ただ、どうして素直に助けてやれと言えないものなのか。
なんとなく開きっぱなしだったメッセージ画面に指を滑らせると、思いのほかスクロールしてもう一文現れた。
照れ隠しのようなその一言に、健は思わず苦笑いをした。
「何?」
「参拝者が減った、ってさ」
神使らしからぬ言動。
けれど、節目の行事で参拝を怠らなかったあの夫婦だからこそ、右近と左近は見ていたのだろう。
今回ばかりは大目に見るかと、健はスマホをしまった。
「大智、パン買いに行こうぜ。腹減った」
太陽は休むことなく空に上がっていく。
降り注ぐ朝日はかけられることのないカーテンを通り過ぎ、窓を透かしてその部屋に光を射し込んだ。
二つ並んで敷かれた布団は、もう誰も引き離すことはない。
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