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記憶の残滓 2
しおりを挟むギッ、と階段が軋む。
のれんの奥、台所ではスリッパのような足音が遠のいていった。のれんが引かれて大きく揺れた。
ギッ、ギッ、ギッ、ギッ。
重さのある音だ。
ゆっくりと階段を下りて、スリッパとは違う足音を立ててリビングへと入っていった。
「……大智、なんか視えたか……?」
「ううん……」
健も大智もぽかんと廊下の奥に目を向けていた。
また、ぱたぱたと足音が近づく。のれんがばさっと激しく揺れ、人が通ったように持ち上がった。
ぱたぱた、音はリビングへ消えた。
「音、だけ……?」
不可解な現象に二人とも呆然とした。
リビングではソファの沈む音が鳴る。
スリッパは小刻みに動き回った。そしてまた廊下に出てくると、台所へと引っ込んだ。
そのうちにもう一つの足音もソファから立ち上がり、廊下に出ると突き当たりの扉へと消えた。
水音が響き始める。
「あの奥、見てないな。浴室か」
「た、たぶん」
水音が響く間、スリッパはぱたぱたと家中を移動した。リビングに入ったかと思えば突き当たりの扉へ、そして階段にも。
ギッと軋む音は大智のものよりも小さく、駆け上がるように二階へと消えた。
スー、ぱたん。スー、ぱたん。桐箪笥の開閉音だろうか。
多少の床鳴りと一緒に移動し、階段を下りてくる。
水音、恐らくシャワーだろう。その音が止まった。
ギィィィ……ぱたん。
扉の軋む音、そしてまたスリッパとは違う足音がリビングへ入った。
「なんか、普通に生活してるみたいな音だね……」
二つの足音はそれぞれに動き、まるで一日の生活を行うように物音を立てていた。
健と大智の前を足音は何度も通過した。それなのに、その姿はちらりとも視えることはなかった。
不可思議さに、二人は戸惑う。
「玄関は開かないんだよな?」
「あ、えっと……そうだね」
大智が引き戸を引くが、カチリ、と引っかかる。
念のために鍵が動かないかと見てみると、そこで初めて簡単に開け閉めができる鍵ではないと気づいた。
内側から専用のネジを差込み、回すことによって施錠できる捻締り錠だったのだ。
「……これがさっき、勝手に回ったの……?」
引き戸を開けようとしていた大智の目の前、ネジが勝手に差し込まれて回れば、どうしたって気づくはずだ。
ネジは鍵穴にささることなく、不使用時はその形が当たり前のごとくぶら下がっていた。
大智はその鍵を触ることができず、代わって健がネジを穴に差し込んでみた。
しかし、何度奥にさしても跳ね返ってくる。回す段階に至る前に、まるでそれを邪魔するように、ネジは健の手をすり抜けて跳ね返った。
小さな金属音を立ててぶら下がるネジは、えも言われぬ不気味さを感じさせた。
そして気づけば、生活音のような物音はぴたりと止んでいた。
静寂と暗闇がゆるやかに忍び寄り、健と大智を覆い尽くそうとしている。
「た、健」
「待て。なんか聞こえる」
耳を澄ます。
ほんのわずかに、か細く伸びる音が聞こえた。
それはリビングの奥からで、楽器のような音だった。
「……見に行ってみよう」
鍵が開かない以上、選択肢はないのだ。
「えぇっ」と怯える大智は健の背中に引っ付き、再び靴を脱いでリビングへ足を向けた。
「健、何が聞こえるの?」
「なんだろうな。鈴? トライアングル? そんな感じの高い音だ」
ひとつ鳴っては、か細く伸びて消えていく。
誘われるようにリビングに入ると、そこの静けさは先ほど見た通りのままで。足音や生活音からはほど遠く寂しげに、空気が沈んでいた。
また音が鳴る。
少し明瞭に強く、細長く伸びる。
奥の和室からだった。
健は目を向けると、そこにある存在感に片目を細めた。
「あれは……?」
ピントが合わずぼやけるそれに焦点を合わせていると、健の背中にくっついていた大智の手がぎゅっと服をつかんだ。
「おばあさんだ。背中を向けて座ってる」
和室には布団が敷いてあった。
その布団の手前、布団を見るように小さな背中が座っている。大智に言われてようやく視えた。
黒の着物を着た小さな背中は、布団に横たえられた老爺に向いている。
老爺の体には布団が肩まで掛けられており、ただ眠っているように見えるが違う。
小さな背中、着物には家紋が入っていた。家紋は礼装に必ず入れるもの。
黒の着物はおそらく、喪服だ。
また鈴のような音が響く。
発生源は間違いなく和室からであり、この光景を目にしてようやくなんの音なのか検討がついた。
「これ、お鈴の音じゃないか?」
「確実にそうだね……」
お鈴。仏具だ。
だいたいは木魚と共に仏壇に置かれており、線香をあげた際やお経を読んだ際に鳴らされる。
大智の耳もその音をしっかりと拾い「もうやだ……」と情けなく言った。
「どういう状況なの? いや、このおばあさんの状況はわかるんだけど、なんでこれが視えるの?」
気づかれまいとひそひそ声を小さくする大智の言いたいことはわかる。
が、健にもわからない。この状況。光景。
すでに亡くなっているらしい老爺のものじゃないのは確かで、老婆がなぜこれを見せるのか。
……そこに佇んでいるだけの存在じゃない。
つきん、と健の頭が疼いた。
覚えのある違和感に健はその光景から顔を逸らした。
「健?」
「いや、頭が……」
二人が目を離すと、ふいに老婆が立ち上がった。
驚き健は後ろに下がる。大智は必死に健の背中に隠れた。
老婆はそんな二人に気づいているのかいないのか、もしくは気にしていないのか、目もくれずリビングを出ていってしまう。ぱた、ぱた、と弱々しい足音が遠のいた。
和室に残された老爺はいつの間にか姿を消しており、そこには最初に見た通りに布団が敷かれているだけだった。
「どこ行ったんだろう」
「音がまたなくなったな。あのばあさん、どんな顔をしてここを通ったか視たか?」
「いや、ごめん……どんな顔してたの?」
健の背にひっついて隠れていたのだから、大智は当たり前に視ていなかった。そして健は当たり前に視ているのだろうと、その上でそれを聞いたのだと思ったようだ。
健は脈打つように疼き出した頭にわずかに顔を顰めた。
「……ぼやけるんだ。ピントが合わないような、そんな感じで。あんまり視えない」
「そうなの? めずらしいね」
めずらしい。大智にそう言われるほどに、健も自分でめずらしいと思う。今までにそんなことなどなかったのに。
「でも波長の合う合わないがあるって言ってたもんね。ここは健には合わないのかな。あれ、でも……」
大智が気づく。
健はその違和感を昨日から抱えていた。いや、気づいたのが昨日で、違和感自体はもっと前からあったのかもしれない。
違和感と感じないうちから、じわじわと少しずつ。
「結菜の写真もぼやけるって言ってなかった?」
ずきん、と際立って痛みが走った。
健は思わず痛む部分を押さえた。
「え、健? 大丈夫?」
「……大丈夫」
「痛むの?」
「ずきずきしてきた。無理矢理視ようとすると疲れて、疼くみたいだ」
覚えのある疼き。痛む場所。
視たいものが視えにくくなったのはいつからだろう。はっきり気づいたのが昨日だとしても、その前から兆候はあったはずだ。――原因が。
思い当たって、まさか、と思考が止まる。
心配そうに健を窺う大智は、同じように考えを巡らせたのか、核心めいてそれを口にした。
「いつから……?」
頭が痛む。ずきんずきんと脈打つ。
健はその場にしゃがみ込んだ。動くのも億劫なほどの痛み。
覚えは、あの日しかなかった。
「お盆の、頭打った時だな……」
夏休みに旅館で受けた依頼。
若女将をかばい、階段から滑り落ちた健は頭を打っていた。あの時の痛みが蘇っている。
そして、それに気づいた今、視えにくくなったのはあの後からだと確信した。
少しずつ、確かに不便を感じるほどに視えなくなってきている。
「健……」
大智は不安そうな面持ちを隠せずに健を見ていた。
大丈夫なのかという心配と、現状で健が使えないという焦り。視えるのは大智だけで、動けるのも大智だけ。無理に動かしちゃいけない。頼ってはいけない。
自分がやらなければいけない、でも、恐怖が強い。
ないまぜの表情をすべて出してくるのだから、健は「ふっ」と息で笑った。
「大丈夫だよ。視ようとしなきゃたぶん痛みは治る」
「でも……」
「それよりも、今はこっちを優先するぞ」
ぱたぱた、ぱたぱた。
再び足音が聞こえ始めた。階段の軋む音。スリッパとは違う重たげな足音はゆっくりと階段を移動した。
廊下に足をつけ、リビングに向かってくる。姿はなく、わずかな気配がリビングのソファに沈んだ。
ぱたぱたとスリッパの音が甲斐甲斐しく動き回る。
やがてスリッパはリビングを出て行き、ソファが軋むと重たげな足音も出ていった。少しの間を置いて水音。
階段を駆け上がっていく小柄な足音。桐箪笥の開閉音。
そのうちに、お鈴が鳴り響く。
「また、いる……!」
振り返れば、和室には喪服姿の老婆の背が。
敷かれた布団、そこに横たえられた老爺に向き合って。静かに、お鈴が鳴り続ける。
繰り返される光景。
老婆が立ち上がり、弱々しげなスリッパの音がリビングを抜け出る。
和室には敷かれた布団のみが残り、お鈴の音は室内に響き渡って消えていく。
そしてまた、生活音が始まる。
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