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残る想い、寄せる想い 4
しおりを挟む激しさが落ち着き、しとしと降り続いた雨は夜明けを前についに雫を落とすのみとなった。
ぴちゃん。ぴちゃん。
不規則に、定まらない場所で水音を立てる。
明かりの消された和室。
少し開けられた窓から離れて座るさくらは、アンコの大きな体に抱きついていた。
目を向ける先は窓の一点。
ばくばくと暴れ出す心臓の音は嫌でも自分の耳に届く。
落ち着けようと息を大きく吸っても、音を立てたくないと無意識に呼吸を小さくしてしまう。だんだんと苦しくなる。
逃げ出してしまいたくなる恐怖に包まれながら、さくらは必死に耐えていた。
手に汗を握って、抱きつくアンコの被毛まで湿らせて。
ぴちゃん。ぴちゃん。
空は変わらず、不規則に雫を落とす。
厚い雲はすでに昇り始めているであろう朝陽を簡単に隠してしまっていた。
暗い空は、いつまでも和室を闇に閉じ込める。
ぴちゃん。ぴちゃん。
屋根から伝った雫が地面に落ちた。
水溜りは波紋を広げる。
ぴちゃん。ぴちゃん。
こつ。
木の葉から落ちた雫も、地面に落ちた。
ぴちゃん。ぴちゃん。
こつ、こつ。
水音の合間にくぐもった音。
それは、雫が落ちる場所よりも間近で鳴る。
ぴちゃん。こつ。
ぴちゃん。こつ、こつ。
こつ、こつ、こつ。
間隔が狭まる。
叩く音はどんどん大きくなり、さくらの呼吸は細く早くなる。
見開いた目は音の正体をしっかりと捉え、相手もまた、それに気づいている。
こつ、こつ、こつ、こつ。
こつ、こつ、こつ、こつ。
窓を叩く男は、さくらの恐怖に怯える顔を悦ばしげに眺めていた。
歪んだ口元は禍々しく弧を描き、黄ばんだ歯がのぞく。
さくらが恐怖に駆られて腰を浮かせると、男は待ってましたとばかりに鼻息を荒くした。
バンバンッ! バンバンバンッ! と、容赦なく窓を叩く。
「————っ!」
驚いたさくらは声にならない悲鳴をあげて、ぺたりと腰を落とした。
震える口元がカチカチと歯を鳴らす。
肩を大きく上下させて舌舐めずりする男は、窓を叩くのをやめてゆったりとした動作で腕を伸ばした。
僅かに開けられた隙間に手を差し込む。
カラ、カラ、カラ……
窓が開けられた。
人間らしからぬ形容し難い動きで和室へ侵入した男は、さくらをぎょろりと見る。
にちゃあ、と音がするような笑顔を向けた。
ズル……。一歩。
ズル……。また一歩。
さくらへと距離を詰める。
恐怖と、言いようのない気持ち悪さ。
きつくアンコを抱きしめるさくらの恐怖はもう限界だった。
男をまっすぐ見ることしかできない、その恐怖一色の瞳から涙が伝う。
ゆっくり頬を落ち、顎へと。その間にも男は近づく。
ぽたり、とアンコの体に一粒落ちた。
その瞬間、温厚な大きな犬は初めて唸り声をあげた。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
「まだだ。待て」
廊下を挟んだ和室向かいのリビング。
あちらからは見えないよう死角に身を潜めた健は、今にも飛び出していきそうな小柄な柴犬を抑えていた。
布の首輪に指を引っ掛け、万が一にもすり抜けられないようにする。
こつ、こつ、と窓を叩く男に、柴犬は憎らしげに牙を見せている。
「もう少し引きつけたい。さくらが頑張ってくれてるんだから、お前も耐えてくれ」
グゥゥッと唸る柴犬は「さくら」の名前に反応した。
逆立つ毛はそのままに、男を睨みつけながらお尻を落として座った。
健は首輪に指を引っ掛けたまま「いい子だ」と褒めた。
さくらの言った通り、マメ太はずいぶんと賢い犬だ。
興奮しているにもかかわらずにこちらの言うことを聞いてちゃんと理解してくれる。
主人の為に通した一本筋は強固たる意思によるものだが、状況を見る力まで犬が備えているとは驚きだった。
ゆえに、不思議でもあった。
それだけさくらを守りたいマメ太を、どうして外では視ることがなかったのか。
マメ太という存在を健はこの家に来てから知ったのだ。
つまり、この家からマメ太が出ることはない。例えさくらが外に出たとしても、マメ太はついていかないのだ。
家を守っているといえばそれまで。
優秀な番犬だと思ってしまえば、それまでだ。
けれど、腑に落ちなかった。
さくらを害する者が家のすぐ外にいるのに、マメ太はそれ以上追い出そうとはしなかった。
飛び出さんばかりの勢いで窓に飛びついても——窓が開いていても——外には一歩も出なかった。
出られなかった。
さくらが話していた理由を、マメ太は今でも守っているから。
バンバンッ! バンバンバンッ!
男が窓を激しく叩く。驚いたさくらが腰を抜かして座り込んだ。
柴犬は前のめりに唸る。
さくらのために健の言うことを聞いているが、我慢ならないのだ。
だが、それは健も同じこと。
もう少しだからと、健は柴犬の首輪をグッと引く。
男は窓を開け、和室に入り込んだ。
緩慢な動きで一歩ずつさくらに近づく。
まるで、わざとそうしているかのように。
足を引きずっては、音を立てた。
さくらは微動だにできない。
男を凝視して、ただ恐怖に耐えている。
柴犬の引く力が強い。
さくらに男が一歩近づくたびに強くなる。
首輪にかけた指が痛むほどの力で、もう、我慢の限界だ。
和室からアンコの低い唸り声が聞こえた。
男はさくらの目の前に迫っている。
だらんと垂れた両手が、さくらを求めて伸ばされた。
——今だ。
「行け、マメ太!!」
首輪から指を離して解放すると、柴犬は瞬く間に和室へと駆け込んだ。
さくらを捕まえようとする男に飛びつく。
勢いに負けてひっくり返った男は、情けない声をあげて牙を向ける柴犬に抵抗した。
健も柴犬のすぐ後に和室へ飛び込み、涙を流して振り返ったさくらを抱きしめた。
自らの体で壁をつくり、男から物理的な距離を取る。
嗚咽を漏らすさくらは健の胸に必死にしがみついた。「よく頑張った」と、健はさくらの背を優しくなでた。
和室中に柴犬の容赦ない威嚇声が響く。
暴れる男は柴犬を何度も振り払うが、そのたびに噛みつかれて引きずり倒される。
それが繰り返されて、ようやく。
厚く、朝陽を遮断していた雲が動き出す。雲の切れ目から光が差した。
灰色に染まっていた世界に彩りが蘇り、闇に包まれた和室にも温かな陽光が降り注ぐ。
それを待っていたと言わんばかりに柴犬は牙を収めた。
その隙に逃げようともがく男の首根っこを咥え、男を引きずって開かれたままの窓から飛び出した。
男の悲痛な叫びは誰にも聞こえない。
小柄な柴犬に引きずられ、空を昇っていく男の姿は誰にも視えない。
眩く天から降る陽の中を、首輪を付けた柴犬は一目散に駆けていった。
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