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モズの家 3
しおりを挟む褒められたもの。怒られたもの。
喜んだもの。悲しんだもの。
たくさんの記憶に触れた。
ひとつひとつは小さく些細なもので、それなのに大きくあたたかい。
愛情に包まれているとは、こういうことなのだと。
記憶に触れるたびに、自然と笑みの溢れる大智がいた。
そしてまた、ひとつの記憶に触れる。
場所は二階の一室。
部屋に入った瞬間から、ここが少年の部屋だとわかった。
物悲しく漂う空気は、少年から感じ取れたものによく似ていた。
カタン、とクローゼットから音が聞こえた。
暴れ出しそうな心臓を押さえつけ、ゆっくりと扉を開ける。
決して大きくはないクローゼットの中に、膝を抱えて座り込む少年がいた。
暗く、無表情な顔を上げて、大智を見た。
「見つけたよ」
大智は少年に手を伸ばした。
今まで恐れていた気持ちが嘘のように、少年を目の前にして消えていった。
——だって彼は、幸せな家庭に育った、幸せだったはずの少年なのだから。
少年に伸ばした手が何かに触れた。
それは少年なのか、違うものなのか。理解する間もなく、大智の体は強い力で引っ張られた。
今までの記憶とは違う。
深く、深く、沈み込んでいくような感覚。これが、少年の一番大きな記憶なのだ。
それがわかったところで逃げる術はなく、大智の意識は瞬く間に少年の記憶に呑み込まれていった。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
小さな子供がたくさん、お兄ちゃんお姉ちゃんもたくさん。賑やかな毎日。賑やかな、大きな家。
それは、薄れる記憶の中の、小さな思い出話。
お父さんとお母さんと、僕。物心ついた頃には3人家族だった。
仕事で家を空けていることの多かったお父さんは、休みの日には僕とたくさん遊んでくれた。怒ることのない、優しいお父さん。
お母さんには怒られることが多くて怖かったけれど、僕が泣き出すとぎゅっと抱きしめてくれた。頭や背中を撫でてくれる手はあたたかくて、ほっと安心したのを覚えてる。
どこにでもあるような平凡な家庭。
でも、本当は違う。僕はそれを知っていた。
その違いがはっきりと現れたのは、弟が生まれてから。僕は小学4年生だった。
お母さんもお父さんも、弟の誕生をすごく喜んでいた。もちろん僕も嬉しかった。
お母さんが抱っこして、お父さんが隣に寄り添う。普通なら僕もその中に入っているはずだけど、そこには距離を感じた。
僕は、そこには入れないと感じた。
でも、お父さんもお母さんも手を差し伸べてくれる。入れないと感じた “家族の輪” の中に、僕の居場所をつくってくれる。
僕はそれが嬉しくて、あたたかくて、溢れ出る笑顔のままに弟の小さな手のひらに指を置いてみた。
ぎゅっと、力強く握られた。それがまた、嬉しかった。
お父さんとお母さんが弟に向ける愛情は、僕に対するものとは違う。まっすぐで揺らぎのない愛情。赤ちゃんだから、ということではない。
お父さんとお母さんは僕に気を遣っているから。
優しさの裏には、いつも遠慮があるのだ。
その理由は、僕の薄れる記憶の中にある。
あの賑やかな大きな家。賑やかな毎日。
消えそうで消えない、小さな小さな思い出。
僕が本当にいるべき場所は、あそこだったんだと。
僕の中で、昔の僕が、忘れるなと泣いている。
小学校の卒業式。
お父さんは「おめでとう」と僕の頭を撫でた。大きくなったなぁ、と感慨深く、昔のことを思い出すように目を細めて。
お母さんは眠ってしまった弟を抱っこしたまま、堪えきれず涙を流していた。弟を起こしてしまわないように、嗚咽を抑えて静かに泣いていた。
その時に撮られた写真は、ずっとずっと忘れない。
笑顔のお父さん、泣き顔のお母さん、それを恥ずかしく思っている僕に、眠っている弟。
ちぐはぐでまとまりがないのに、ちゃんと幸せが溢れる家族の写真。
遠慮があっても、必要以上の気遣いがあっても。
それは僕に対する愛情には違いなくて、決して弟と比べるものではない。
僕は僕で、家族に愛されていることは、この写真が証明してくれていた。
大事な写真。僕の宝物。
眺めるたびに心が満たされる。
だから、生徒手帳に入れていた。いつも持ち歩くために。
でも、それが失敗だったなんて。
その時の僕は後悔する日がくるなんて思わなかったし、思うはずがなかった。
中学に進学し、他校にいた生徒や環境にも慣れた頃。
どこからともなく流れ始めた噂はゆっくりと広まっていき、気づけば僕は『カッコウの子』と呼ばれていた。
無遠慮に向けられる好奇の目。憐れみの目。
気にするなと言う友人でさえ、本当はどうなのかと水面下で探っている。
「どういう意味?」
と問えば、目を逸らされて。
「自分で調べてみなよ」
と、逃げられた。
言葉の意味がわからなかった僕は、離れていく友人をただ見送るしかなかった。
いくら『カッコウ』を調べても鳥だという情報しかなく、噂の真意もわからず。
ただ、向けられる視線に否定せずにいた。
それからしばらくして、僕はもう一つの言葉を耳にする。
『モズの家』
これまた、意味がわからなかった。
けれど、僕の家のことを指しているのだけはわかった。
『モズ』と調べてみる。また、鳥。
僕の家が、鳥の巣ってこと? 本当に意味がわからない。
そして、それから数日もしないうちに、決定的な言葉を投げかけられた。
悪意のこもった言い方。笑い方。
意味がわからなくても、悪いことだとわかる。
「モズの家の、カッコウの子」
僕は2つの鳥の名前で関係性を調べて、愕然とした。
はっきりとは言わず、暗にしていた。そのやり口に、吐き気がした。
事実でなくとも、事実に近い噂。
こんなもの、どこの誰が嗅ぎつけたというのか。
たちまちに怖くなり、すぐに違うのだと否定したかったけれど……——事実もまた、僕が口に出すのは勇気のいることだった。
否定することもせず、友人からも離れて目立たぬように学校生活を送る僕に、周りはどんどんエスカレートしていった。
物を隠されたり、壊されたり。遠巻きに笑われたり、悪口を言われるのは日常茶飯事になっていた。
誰がどうみても、歴としたイジメ。
それでも僕は、静かに静かに過ごしていた。どうせすぐ飽きるだろうと、その時を待っていた。
でも、それはイジメを楽しむやつらにとって、ただ火に油を注いだだけだった。
教壇に立つ先生が、締めの挨拶をする。
黒板にはまだ授業の名残が消されず残っていて、はみ出しそうなほどたくさん書かれた文字は日にちのところまで達していた。
帰りのホームルームが終わり、チャイムが鳴ると先生は教室を出た。
すると次々と席を立ち、各々で帰り始める。
僕も同じように席を立つと、いきなり鞄を引ったくられた。
そいつは同じクラスの、別に親しくもなんともない奴。僕を見ていつもニヤニヤと笑う、嫌な奴。それと、数人の取り巻き。
そいつが、気持ち悪く笑いながら、僕の鞄を持つ。
「帰んの?」
「……帰るけど。鞄返して」
奪い返そうと伸ばした腕は取り巻きの奴らに叩かれ、僕は痛みでとっさに引っ込めた。
「どこに帰んの?」
「は?」
「お前の家って、どこにあんの?」
「……何が言いたいの?」
ニヤニヤと意地の悪い笑いは醜く歪み、「わかってんだろ?」と言葉を続ける。
「お前さ、弟いたよな。まだちっこいの。悪いと思わねぇの? 本当の家族じゃないのに」
「…………」
「まぁ、お前が悪いわけじゃないけどさ。すげーよなぁ、お前の母親。本当の父親って、どこにいるんだろうなぁ」
わざとらしく、憐れむような瞳を向ける。
その仕草に取り巻きは吹き出し、下品な笑いが周囲から沸き立つ。
2つの鳥の名前で調べた結果は、カッコウが托卵する鳥だということ。
そして、モズは、托卵される鳥だということ。
それが僕の生い立ちに当てはめて噂されていた。……でも、事実は少し異なる。
「騙されてる今の父親も、かわいそうだよなー。血のつながりのない子供を育てさせられて」
「……やめろよ」
「本当のこと知ったら、どうなるんだろうな?」
「やめろ!!」
知らずに握り込んでいた拳から、血が滲む。
僕は怒りに任せて腕を振り上げ、そいつに殴りかかろうとした。
でも、取り巻きたちに呆気なく捕まり、羽交い締めのままバタバタとから回る羽目になった。
「母さんはそんなことしない! 母さんは弟も、父さんも裏切ってない!!」
「ふーん。じゃあ、お前はなんなの?」
「僕は……っ」
握り込んだ拳が痛い。けれど、この痛みがまだ僕を冷静にさせてくれる。
事実を言えと、弱虫になるなと。家族を守れと、自分を奮い立たせて。
また、さらに拳を握った。
「僕は……っ、児童養護施設からの養子だ!!」
僕らのやり取りを見ていた周囲がざわつく。
僕が初めて認めたことは噂と異なれど、簡単に理解できる話ではなかった。
薄れる記憶の、あの思い出。
小さな子供がいて、お兄ちゃんお姉ちゃんもいて。賑やかな大きな家の記憶は、児童養護施設にいた頃のもの。
お父さんとお母さんから教えられたことじゃない。
記憶があったから、僕は知っていただけだ。
「だから僕は『カッコウの子』でもないし、僕の家は『モズの家』なんかじゃない!」
「……お前、養子だったんだ」
ぽかんとしたそいつは、取り巻きを下がらせて僕に鞄を返した。
ぽんぽんと肩を叩かれ、悪びれない笑みを浮かべて。
「……でもさ、弟にしたらやっぱ邪魔だよな。血の繋がりないのに」
いつのまにか抜き取られていた生徒手帳を開き、そこからあの写真を僕に見せつけて。
「本当の家族の邪魔、してやんなよー」
ビリ、ビリ、と細切れになっていく写真。
止めることも忘れ、目の前で破り捨てられる写真を、僕は呆然と見ていた。
突きつけられた現実に、僕の前に闇が広がっていった。
それからは覚えていない。
ぼんやりとした意識で、地面を見下ろしていた。
ずいぶんと離れているように見えて、飛び降りたらきっと一瞬の距離。
叩きつけられて、僕は終わる。
びゅうっと吹き付ける風に背中を押されて、僕は迷いなく吸い込まれた。
仕事で忙しかったお父さん。
休みの日はたくさん僕と遊んでくれた。キャッチボールしようって言い出したのに、僕より下手で笑ってしまった。
怒ったことは一度もなくて、いつも笑顔で朗らかな、あたたかい人だった。
そのせいか、お母さんは厳しかった。
よく怒られて、よく泣いていたっけ。
でもそれは全部、僕のことを思ってだった。いたずらをしたら怒られるの、当たり前だもん。
ぎゅって抱きしめられるとちょっと照れ臭くて、でも嬉しくて。
一番の愛情を注いでくれたのは、お母さんに間違いなかった。
2歳になったばかりの弟は、よく僕の真似をしていた。
どこにでもついて歩いて、転んで泣いて。僕が抱っこして起こすとケロッと泣き止む。
おしゃべりもだんだん上手になって、会話ができるようになっていた。
「にいに」って呼ばれると可愛くて仕方なくて、ぎゅってしたくなる。
血は繋がらなくても、僕の大事な兄弟。
……最後に、ぎゅってしたかったなぁ。
溢れる涙は風圧で吹き飛ばされ、頰に残ることなく宙を舞った。
死を待つだけのこの一瞬で、思い出すことは山ほどある。
施設から引き取られて、僕はどれだけの愛情を受けて育ったか。
遠慮や気遣いがあっても、弟との差があっても。
家族として受け入れられていた僕は、誰にも負けないくらいに幸せだったのに。
溢れるほどの愛をくれた家族に、僕は何を残せただろう。
僕がいなくなって、家族はどう思うのだろう。
弟は……「にいに」を、成長とともに忘れてしまうだろうか。
寂しい気持ちになって、目を閉じた。
思い出すことは山ほどでも、やはりたったの一瞬なのだ。
もうじき僕は終わる。痛くないといいな。苦しくないといいな。
家族が、ちゃんと本当の家族になってくれたらいいな。
——あ、最後に写真、貼り直せばよかっ
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