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散歩1
しおりを挟む「こらー、夏休み明けてもう何日も経つぞー。いつまでもだらけてんなー」
だらけた口調で注意するのは、これまただらけて教壇に立つ教授だ。
周りを見ると、眠たげに講義を受けている生徒がちらほら、船を漕いでいる者もいる。
かく言う健も、その例外ではない。
休み明け特有の気怠さに加え、少々寝不足気味である。
その理由としては、夏休みに入った頃から始めたバイトのせいだとしか言えない。
主な労働時間が深夜帯だ。
休み中は昼間に睡眠を取り補っていたが、大学が始まるとそうもいかない。
学生の本分は勉強だ。決して、講義中に居眠りをすることではない。
そう、わかってはいるのだが、重たくなる瞼に抵抗する気力は健にはなかった。
そういう訳で、にやにやと不敵な笑みを浮かべた取り巻きに起こされるまで、健は存分に居眠りをしたのだった。
日が落ち飲食街が賑わう頃、健は待ち合わせの店へと向かっている。
お馴染みの大衆居酒屋だ。
だが、今回の待ち合わせ相手はいつもと違う。
夏休み中に縁の出来た、同じ大学の連中だ。
あの時だけの付き合いになるかと思っていたが、存外、彼らは気さくに健に声をかけてくる。
こうして、夜の飲みに健を呼び出すほどに。
「あっ、仁科君!」
呼ばれて振り返ると、人の波の中からぱたぱたとロングスカートの女性が駆け寄ってきた。下ろした茶髪が動きに合わせて後ろへ流れる。
夏休み中、廃校で肝試しをした際、健を誘いたいと発案した物好きな乃井さくらという女性だ。
「大智達と先に行ってたんじゃなかったのか?」
「私はちょっと用事があって、一旦別行動してたんだ」
大智達はカラオケに行くと言っていた。健も誘われたが、もちろんお断りした。
「行こっか」
もうみんな待ってるかな? と歩き出したさくらは、前方からやってきた男の集団を避けきれず、見事にのまれた。
チャラついた男の1人にぶつかり、大げさに声をかけられている。いちゃもんかと思ったら、ナンパのようだ。
「こんな可愛い子にぶつかられたのラッキーじゃね? ねぇねぇ、1人? 俺らと遊びに行かねー?」
「えっ、いや、あの」
「やめろってお前、怖がってんじゃん」
「ごめんねーお姉さん。こいつより俺と遊ばない?」
男達は、ぎゃはははは! と下品に笑う。
完全に囲まれ、逃げ場を失ったさくらは体を小さくしてどう見ても怯えていた。
視線を彷徨わせ、健を見つけた時の涙目に、体が勝手に動く。
「ぶつかってすいません。こいつ、俺の連れなんで」
健は集団に割って入り、さくらの手を引いた。
「おいおい!」と男の1人が絡んでこようとしたが、捕まる前に人の波にまぎれこんだ。
回り道をして、男達に見つからないように店に向かうことにする。
少し歩いたところで後ろを振り返り、男達がいないことを確認して息を吐いた。
さくらを見れば、肩で息をしている。
「に、仁科君、ありがとう……」
「いや。大丈夫か?」
「う、うん。怖かった……。いつもは結菜が追い返してくれるから」
「あぁ」
なんだか納得した。
木原結菜は快活な女性だ。肝試しの際は恐怖からパニックを起こしていたが、そこらの人間に比べれば肝が座っているほうだろう。先ほどの連中にも、物怖じせずあしらう様が簡単に想像できる。
「1人だと、どうあしらえばいいのかわからなくて」
「無視して人の多いところか、お店の中に逃げればいいと思うけど」
「そうなんだけど……」
さくらは煮え切らない返事をする。押しに弱いのだろう。
それと、ナンパをしてくる輩というのは大抵チャラついている。一定の女性からすれば、そういう男は恐怖の対象でしかないのかもしれない。
「やっぱり、逃げるのが一番だと思うんだけど」
さくらを振り返って言うと、頰を赤らめて俯かれてしまった。
なんだ? と疑問を持った健だが、歩くスピードが早かったか、と歩調を緩めた。
それから待ち合わせの居酒屋に着くまで、健とさくらの間に会話はなく、繋がれた手を通してお互いの体温だけが伝わっていた。
そして、言うまでもなく、大智達に冷やかされたのだった。
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて、大智は言う。
「なんで手繋いでたの~?」
健は半眼で睨み、さくらは顔を真っ赤にして小さくなった。
なんでも何も、男達の中から引っ張り出し、人混みに紛れてはぐれないよう繋いでいたからに他ならない。
ただ、離すのを忘れていただけだ。健はそこの考えがすっぽり抜けていた、ただそれだけなのだ。さくらには悪いことをしたと思う。
「まったく、さくらってばすぐ絡まれるんだから! 適当にあしらっとけばいいのよ、ナンパなんて!」
「お前みたいにできれば、乃井ちゃんも苦労しないって」
さくらに呆れる結菜に対して、苦笑まじりに言うのは中村省吾だ。
廃校の一件後、この2人は付き合い始めたと聞いた。
確かに言われてみると、そんなオーラを放っているような。疎い健には、なんとなくとしか感じられないが。
「ほらほら、なんか頼もうぜ! とりあえず串焼き盛合せと、何がいい?」
「私、なすの一本漬け!」
「渋いよなぁ、お前」
「俺はフライドポテト~」
仕切り屋の省吾は、場の流れをさらっと変えてくれる。
大智は少しつまらなそうな顔をしたが、結菜はあっさりと切り替えメニューを指差していた。
それぞれが好きな物を注文し、乾杯をして食べ飲みし始める。
俯いていたさくらも、次第に普段通りになっていった。時折、健のほうを見ては頰を赤らめて、結菜にほっぺをツンツンとされていた。
「ん。電話だ」
串焼きにかぶりついていた大智が、スマホを持って席を立った。
みんな特に気にすることなく、談笑を続けている。健はビールをちびちびと飲みながら話を聞いていた。
「健」
5分もしないうちに大智が戻り、健に手招きをする。
疑問に思いつつ、席を立って大智と共に店の外に出た。大智はスマホを健に差し出す。
「もしもし」
スマホを耳に当てると、聞き馴染んだ声が聞こえた。
『邪魔しちゃってごめんね』
「依頼ですか?」
『そうよ』
健がちらりと大智を見ると、頷いて返した。先に話を聞いたようだ。
『簡単に説明するわね』
一楓は前置いて、依頼内容を話し始めた。
賑わいを見せる飲食街は、雑多な音が反響する。健は一楓の声を聞き漏らさないよう、耳を傾けた。
『2週間ほど前、男性が事故に遭った。犬の散歩をしていて、突っ込まれたそうよ。男性は重症だけど命に別状なし。ただ、まだ意識が戻らないので入院中。なんだけど、入院しているはずの男性が自宅に現れるらしいの。死んでいないのに、まるで幽霊になってしまったようで怖い、調べてほしい、ということよ』
「生きているのに、幽体が現れる?」
なんだか覚えがある。それはまるで、廃校で出会った女性と同じような。
その女性も意識不明で倒れ、幽体でさまよっていた。いわゆる、幽体離脱をしていた。
今回の男性にも、可能性があるということか。
『なぜ幽体で現れるのか、本人なのか。今はっきりとわかることはないわ。健くんがその目で見て、確かめてきて』
いろいろ疑問に思うことはあったが、詳しい話はまだ一楓も聞いていないようで、依頼主にと言われた。
大智にスマホを返すと、まだ話をするからと手を振られたので、健は先に戻ることにした。
席に戻る前にトイレに寄り、「あっ」と思い大智の元へ戻る。平日に予定を組まれては、また睡眠時間が講義中になってしまう。依頼は週末に受けてほしい。
店の扉をくぐり、背中を向けている大智に声をかけようとした。
「……健にばれないかな?」
受話器の向こうへ問いかける、大智の声が聞こえた。潜めた声は、内緒話をしているようで。
健は口を閉じ、何の話かと次の言葉を待った。
「大丈夫って……。健、そういうのは勘がいいんだよ」
「誤魔化してって言われても……」
「いや、なんとかするけど」
「ねえちゃんも気をつけてよ」
「うん。ねえちゃん、あのさ……」
そこで、耳障りな下品な笑い声が健の耳に入った。
辺りを見回すと、さくらに絡んだ例の男達がこちらに向かって歩いてきていた。男達は健に気づいていない。
大智を見ると、スマホを耳から離して画面を見つめている。
その横顔は険しく、唇をぎゅっと噛み締めていた。
何の話をしていたのか気になるところだが、男達に見つかっては面倒くさい。
健は店の中へ足早に戻った。
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