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◆おいしいが幸せ
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初夏の日差しの下、私、細井里桜は中学校からの帰り道を鼻歌混じりで進んでいた。この時、私の頭の中は帰ってからの〝お楽しみ〟のことでいっぱいだった。
そうして帰り着いた我が家。
「ただいまー!」
玄関を上がって一番にキッチンに向かうのはもう習慣。
「おかえりなさい里桜ちゃん、学校はどうだった?」
「うん、別に普通だよ」
玄関先まで顔を出し、迎えてくれたママの横を気のない返事をしながら通りすぎる。一瞬、お昼ごはんの後に起こった普通ではあり得ない〝悲しい珍事〟が脳裏をよぎった。しかし、目先のことで頭がいっぱいの今はそれを片隅に追いやって、真っ直ぐにお目当ての棚に行く。
うきうきで取っ手を掴み、エイヤと引けば――。
……ああ~! これよ~、これよ~♪
棚の中には、あふれるほどのお菓子が詰まっていた。
口の中で甘くとろけるチョコレート。サクサク食感のクッキーに、パリッという小気味いい噛み音とともに心地いい塩味と至福感が広がっていくポテトチップス。この世のすべての幸せは、このお菓子収納棚の中にある!
……うん。食べるのを想像しただけで、すでに口の中が幸せでいっぱいだ!
少し迷ってから『新発売』の文字が目を引くみっつの幸せを腕に抱え、指定席となっているリビングのソファに向かう。もちろん途中で冷蔵庫から、シュワシュワと気泡と心が一緒に弾ける炭酸飲料を持っていくのも忘れない。
ソファに辿り着くやバフッと腰をおろし、まずは缶入りの炭酸飲料のプルトップを引いてゴクゴクと渇いた喉を鳴らす。その勢いのままチョコレート菓子のパッケージを破ると、指先で摘まめるサイズのチョコレートを一気に三個ほど口の中に放る。
う、うっ、うわぁああ~っ! これ、めっちゃおいしいっ!!
リピート確定の新商品との出会いに目をキラキラにして、もぐもぐ、ぱくぱく、どんどんどんどん口へと運ぶ。
「……って、もうないや。おいしいけど、中身が少ないのがマイナス点っと……それじゃあ、次!」
あっという間にチョコレート菓子を空にした私は、次にポテトチップスへと手を伸ばす。
――バリッ。――パリッ、パリッ。
開封音を追うように、さっそく一枚、二枚と口の中に放り込む。そうすれば、数あるポテトチップスの中で一番好きなコンソメ味で、さらに限定新発売・濃厚三倍コンソメパンチは『安定のおいしさ×3』で口に中に怒涛の幸せを運び込む。
私はもっともっと幸せになるべく、今度は五~六枚を重ねて摘まんで一口で噛り付いた。
……ああ。控えめに言って、超幸せ。
バリバリと噛んで飲んでを繰り返し、濃厚コンソメ味の幸せを貪った。
「ん? もうないや。これ、ファミリーパック出さないのかな?」
普通サイズの袋入りだったが、一度に五~六枚ずつ食べていたら見る間に空っぽになってしまった。
名残惜しく指先をちゅぱっとひと舐めし、炭酸飲料で一度口を潤してから、クッキーを開ける。
――サクッ。
わ、わっ、わぁああぁあ~~っ!! なにこれ!? めっちゃサクサクで、しかも中にチョコレートチップがこれでもかってくらい入ってて……くぅ~っっ! 超、おいしーーっ!!
チョコレートチップの黄金比に目を丸くして、こちらも三~四枚ずつ頬張っていれば、物の数分でクッキーも空になった。
残る炭酸飲料も飲み干し、手持ちの幸せを堪能しきった私は、口内に残る幸福の余韻をもちゃもちゃと味わいつつ、ゴロンッとソファに寝転がる。
……へへへっ! 今日のお菓子、どれもめっちゃおいしかっ……ん? なに?
その時、おいしい幸せに浸って頬もゆるゆるの私の背後から、湿っぽいナニカが迫る。驚いて振り返った視界に、目にハンカチをあて、折れそうに華奢な肩を震わせるママの姿が飛び込んだ。
「うっ、うぅっ……」
「ちょっ? ママったら、嘘っこ泣きなんてしてどうしたの?」
コテンと小首を傾げて問う。
「チッ。……里桜ちゃん、ママはトドを産んだ覚えはないわ」
ママから舌打ちらしき音が聞こえた気がするが、きっと私の思い違いだろう。案の定、ママは涙なんかこれっぽちも染みてないハンカチを放ると、カラッカラに乾いた目でジトリと私を見下ろし、至極当たり前のことを言う。
「ん? そりゃそうでしょ、人がトド産んだら大変だもん。ママったら、時々おもしろいんだから!」
「物のたとえです! とにかく、四月の入学式に誂えた制服が夏を前にしてぱっつんぱっつんだなんて、さすがにママは悲しいわ」
ママの『悲しい』のひと言で、ふと、帰宅した時に脳裏を過ぎった〝悲しい珍事〟のことが思い浮かんだ。
「……そうだった。実はねママ、私も今日学校で悲しいことがあったんだ」
「え!? 里桜ちゃん、一体なにがあったの? 体型を馬鹿にされた? いじめられた?」
ママはガバッと私の肩に手を置いて、心配そうに眉根を寄せた。
「ううん。スカートのね、ウエストのホックが吹っ飛んじゃったの! それで今、安全ピンで留めてるんだった!」
「最初にそれを言いなさい、それを! 付けてあげるから早く脱ぎなさい、早くっ!!」
「きゃーっ! ママの鬼、エッチ~!」
呆れ眼のママにスカートを引っぺがされ、パンツ一丁になった私は頬を膨らませながらソファを立った。
……とりあえず、着替えてこよう。
「んもう、この子は……どーれ?」
ママがスカートを検分する横を通り過ぎようとした、その時――。
「……だめだわ」
「どしたの?」
ママの悲愴感たっぷりの呟きを耳にして足を止める。
「生地まで裂けちゃってる。……これは、作り直しだわ」
「え、やったー! もう窮屈で仕方なかったの! 今度はゆったり目で作ってね」
「なにが『やったー』ですか、このお馬鹿ーっ!」
「きゃーっ!!」
ガラガラピシャーンとママの雷が落ちてきて、私は脱兎のごとくリビングを出て二階の自分の部屋へと駆け上がった。
その日の夕食の席。
「どうしたんだいママ? 元気がないじゃないか?」
むっしゃむっしゃと大好物のハンバーグを頬張っていると、私の向かいに座ったパパが心配そうに隣のママに水を向けた。
……ん? そうかなぁ。ママは雷まで落としてきて、絶好調だったと思うんだけど?
ハンバーグの最後のひと口を噛みしめながら、帰宅後のママとのひと幕を思い出して首を捻った。
そうしてゴクリと口の中のハンバーグを飲み込むと、おかわりのハンバーグをゲットするべく席を立つ。
「フライパンの残りのハンバーグ、もらってくるね~」
ジトリとしたママの視線もなんのその。私はキッチンへ一直線した。
ふふふっ。最初のハンバーグはデミソースで食べたから、おかわりのハンバーグは大好きなハーブソルトで食ーべよっと。
私はじゅるりとよだれをすすりながら、調味料ラックからヒマラヤ岩塩とタイムやセージといったお気に入りの乾燥ハーブを選んでたっぷりと振りかけた。
「パパ、聞いてちょうだい」
「うん?」
「今日ね――」
背中に深刻そうに切り出すママの声が聞こえたような気もするが、ハンバーグのことで頭がいっぱいの私の耳にはろくすっぽ届かなかった。
「はははっ!」
私がハンバーグをよそってダイニングテーブルに戻ってくると、なぜかパパがお腹を抱えて笑っていた。……なんだろう?
「どうしたのパパ、なにか面白いことでもあった?」
「いや。ママから里桜ちゃんの制服の件を聞かされ……って、あはははっ!」
「やだ、パパったら。そんなに笑ってひどいんだ」
「ごめんごめん。とはいえ、スカートのホックが飛んじゃうって、成長期にしてもちょっと成長しすぎちゃったかな」
ぷうっと頬を膨らませる私に、パパは一応謝ってみせるけど、その肩はまだ小刻みに揺れている。
「パパ! 笑いごとじゃありません! それに里桜ちゃんは『ちょっと成長しすぎちゃった』どころじゃありません! 『明らかに成長しすぎ』です!」
ママが身も蓋もない言葉を重ねる。
「まぁまぁ、ママ。そんなに目くじら立てなくても、里桜ちゃんは育ちざかりなんだ。そのうちに体形も落ち着くよ」
わぁっ! やっぱりパパは分かってる!
「私、パパのこと大好き!」
「パパも里桜ちゃんが大好きだ。里桜ちゃんはパパのお姫さまさ、どんな里桜ちゃんもかわいいよ」
「パパ~!」
キュッと腕に抱き付けば、パパは私の頭をポンポンと撫でてくれる。私は昔からパパと、パパがしてくれるこのポンポンが大好きだった。
「……おかしいわ。どんなフィルターをかけて見たら里桜ちゃんの体形が『ちょっと成長しすぎちゃった』で済むっていうの? 会社ではあんなに厳しかったパパの審美眼が、なんで里桜ちゃんには発揮されないのかしら」
仲良し父子を横目に、ママはブツブツと独り言を念仏のように唱えていた。
ちなみに、パパが役員を務める『トータルビューティプロデュースカンパニー』はその名の通り、化粧品の製造販売からサロンや美容室、ジムやスパの経営までを手広く手掛ける。まさに、美の総合商社といったところだ。
ママは結婚を機に退社してしまったけれど、かつてパパと同じ会社に務めていた。前に『会社でのパパは人が変わったように厳しい』と言っていたが、家での優しくてのほほんとしたパパしか知らない私はとても信じられなかったっけ。
「そうだった。今の『会社』で思い出したよ」
パパが突然、ママが唱えていた念仏の中の『会社』という一語に反応した。なぜか、私の頭から手を引いて口を開くパパの表情は、これまでとは一変し、とても苦々しい。
私とママは、揃ってパパに目を向けた。
「実はさ、社長夫妻が結婚二十周年記念に世界一周クルーズに行くそうなんだ。それで、その間ご子息をうちで預かってくれないかって相談されていたんだ。なんでも、祖父母の家に行く予定だったのが、急に都合が悪くなっちゃったとか。クルーズ自体は来年一月から七月の半年間なんだけど、クルーズの前にも南国でバカンスを予定してて、合わせて一年間預かってくれないかって」
「ハァァアアアア!? そんな長期間、うちで社長のご子息なんて預かれるわけが……って、ちょっと待って」
聞かされた瞬間、ママが般若の形相でパパにグワッと牙を剥きかけて……途中でなにかに気づいた様子で般若の仮面を引っ込めた。
普段おっとりとして優しげなママは、時々ちょっと怖くなるのだ。私はドキドキしながら、パパとママを交互にチラ見した。
「ご子息って、もしかして未来君?」
どうやらママは、社長さんのご子息と面識があるらしかった。
……あ。そう言えば、小さい頃、一緒にキャンプに行ったことがあったかも。ふと、五歳くらいの時に社長さん一家と家族ぐるみで交流した記憶を思い出した。
でも、未来君ってどんな子だったっけ? 考えてみるも、キャンプ場で出会ったとびきり可愛い女の子のことと、気の良さそうな社長さん夫妻の顔がぼんやりと浮かんでくるばかりで、未来君の記憶は掠りもしなかった。
「ああ、そうだ」
パパはママのド迫力にタジタジで首を縦に振った。
「未来君は夏休みに入ってすぐサマースクールで海外に行くそうだから、我が家に来るのは早くても八月中ばだと言っていたよ。それから、もし我が家で預かることになったら、九月からは里桜ちゃんと同じ帝都学園中学に転入を考えているそうだ」
「……これはチャンスかもしれないわ。未来君は礼儀正しくて、分別を弁えたいい子だし。……なにより、ひとつ屋根の下に同世代の男の子の目があったら、里桜ちゃんだって今まで通りにドカ食いなんてできないわよね」
ママはパパの答えに考え込むように顎に手をあてて、真剣モードで再びの念仏を唱えだす。
ちょっと飽きてきた私は、そんなママを尻目におかわりのハンバーグを食べ始めた。
……わわわっ。せっかくのハンバーグが少し冷めてきちゃってるよ!
なぜかママの視線がいつもより突き刺さるような気がしたが、ひとくち頬張ってハンバーグが冷め始めてしまっているのに思い至れば、それ以上ママのことを気にする余裕はなかった。
私は慌てて大きめにカットして、ちゃーんと温かいうちに完食した。
へへへっ。おいしかった~。デミソースもいいけど、ハーブで食べるとひと味もふた味も違う美味しさなんだよね~。
「……パパ、未来君を預かりましょう」
「え?」
ママが低く告げたら、パパは驚いたように目を見開いた。私も、パパよりもっと目を真ん丸にしてママを見た。
「未来君のことは我が家で責任を持って預かります! 社長さんにも、そうお伝えしてくださいな」
「いいのかい? てっきりママは、反対するかと思っていたよ」
「やぁね、パパったら。日頃から社長さんご夫婦にはお世話になっているもの。喜んでお引き受けさせていただくわ」
ママの若干上擦った棒読みに、なんだか背筋がぞわぞわした。
「そ、そうかい。ママがそう言うなら、僕はもちろん異存ないけど……。里桜ちゃんは、未来君をお家に預かって嫌じゃないかい?」
「なにを言うの! あんなに仲良しだった未来君が一緒で、里桜ちゃんが嬉しくないわけないじゃないの。ねぇ、里桜ちゃん? ね? ね?」
ママは物凄く威圧感たっぷりの『ね?』を連発し、私にプレッシャーをかけてくる。ちなみに、パパには見えない絶妙な角度で私に向き直ったママの顔も威圧感が凄まじい。
「う、うん」
気づいた時には、意思とは無関係にコクコクと首を縦に振っていた。ママに惨敗を喫した瞬間だった。
「そうか。里桜ちゃんがいいなら、明日さっそく社長に話すよ。きっと喜ぶ」
「そうね! 未来君をお迎えするなら、お家の中を少し綺麗にしておかなくちゃ。楽しみだわ」
「……」
是とも否とも答え難く、私は残るサイドメニューへと手を伸ばした。
こうしてママの主導によって、未来君との同居生活が決定した。
そうして帰り着いた我が家。
「ただいまー!」
玄関を上がって一番にキッチンに向かうのはもう習慣。
「おかえりなさい里桜ちゃん、学校はどうだった?」
「うん、別に普通だよ」
玄関先まで顔を出し、迎えてくれたママの横を気のない返事をしながら通りすぎる。一瞬、お昼ごはんの後に起こった普通ではあり得ない〝悲しい珍事〟が脳裏をよぎった。しかし、目先のことで頭がいっぱいの今はそれを片隅に追いやって、真っ直ぐにお目当ての棚に行く。
うきうきで取っ手を掴み、エイヤと引けば――。
……ああ~! これよ~、これよ~♪
棚の中には、あふれるほどのお菓子が詰まっていた。
口の中で甘くとろけるチョコレート。サクサク食感のクッキーに、パリッという小気味いい噛み音とともに心地いい塩味と至福感が広がっていくポテトチップス。この世のすべての幸せは、このお菓子収納棚の中にある!
……うん。食べるのを想像しただけで、すでに口の中が幸せでいっぱいだ!
少し迷ってから『新発売』の文字が目を引くみっつの幸せを腕に抱え、指定席となっているリビングのソファに向かう。もちろん途中で冷蔵庫から、シュワシュワと気泡と心が一緒に弾ける炭酸飲料を持っていくのも忘れない。
ソファに辿り着くやバフッと腰をおろし、まずは缶入りの炭酸飲料のプルトップを引いてゴクゴクと渇いた喉を鳴らす。その勢いのままチョコレート菓子のパッケージを破ると、指先で摘まめるサイズのチョコレートを一気に三個ほど口の中に放る。
う、うっ、うわぁああ~っ! これ、めっちゃおいしいっ!!
リピート確定の新商品との出会いに目をキラキラにして、もぐもぐ、ぱくぱく、どんどんどんどん口へと運ぶ。
「……って、もうないや。おいしいけど、中身が少ないのがマイナス点っと……それじゃあ、次!」
あっという間にチョコレート菓子を空にした私は、次にポテトチップスへと手を伸ばす。
――バリッ。――パリッ、パリッ。
開封音を追うように、さっそく一枚、二枚と口の中に放り込む。そうすれば、数あるポテトチップスの中で一番好きなコンソメ味で、さらに限定新発売・濃厚三倍コンソメパンチは『安定のおいしさ×3』で口に中に怒涛の幸せを運び込む。
私はもっともっと幸せになるべく、今度は五~六枚を重ねて摘まんで一口で噛り付いた。
……ああ。控えめに言って、超幸せ。
バリバリと噛んで飲んでを繰り返し、濃厚コンソメ味の幸せを貪った。
「ん? もうないや。これ、ファミリーパック出さないのかな?」
普通サイズの袋入りだったが、一度に五~六枚ずつ食べていたら見る間に空っぽになってしまった。
名残惜しく指先をちゅぱっとひと舐めし、炭酸飲料で一度口を潤してから、クッキーを開ける。
――サクッ。
わ、わっ、わぁああぁあ~~っ!! なにこれ!? めっちゃサクサクで、しかも中にチョコレートチップがこれでもかってくらい入ってて……くぅ~っっ! 超、おいしーーっ!!
チョコレートチップの黄金比に目を丸くして、こちらも三~四枚ずつ頬張っていれば、物の数分でクッキーも空になった。
残る炭酸飲料も飲み干し、手持ちの幸せを堪能しきった私は、口内に残る幸福の余韻をもちゃもちゃと味わいつつ、ゴロンッとソファに寝転がる。
……へへへっ! 今日のお菓子、どれもめっちゃおいしかっ……ん? なに?
その時、おいしい幸せに浸って頬もゆるゆるの私の背後から、湿っぽいナニカが迫る。驚いて振り返った視界に、目にハンカチをあて、折れそうに華奢な肩を震わせるママの姿が飛び込んだ。
「うっ、うぅっ……」
「ちょっ? ママったら、嘘っこ泣きなんてしてどうしたの?」
コテンと小首を傾げて問う。
「チッ。……里桜ちゃん、ママはトドを産んだ覚えはないわ」
ママから舌打ちらしき音が聞こえた気がするが、きっと私の思い違いだろう。案の定、ママは涙なんかこれっぽちも染みてないハンカチを放ると、カラッカラに乾いた目でジトリと私を見下ろし、至極当たり前のことを言う。
「ん? そりゃそうでしょ、人がトド産んだら大変だもん。ママったら、時々おもしろいんだから!」
「物のたとえです! とにかく、四月の入学式に誂えた制服が夏を前にしてぱっつんぱっつんだなんて、さすがにママは悲しいわ」
ママの『悲しい』のひと言で、ふと、帰宅した時に脳裏を過ぎった〝悲しい珍事〟のことが思い浮かんだ。
「……そうだった。実はねママ、私も今日学校で悲しいことがあったんだ」
「え!? 里桜ちゃん、一体なにがあったの? 体型を馬鹿にされた? いじめられた?」
ママはガバッと私の肩に手を置いて、心配そうに眉根を寄せた。
「ううん。スカートのね、ウエストのホックが吹っ飛んじゃったの! それで今、安全ピンで留めてるんだった!」
「最初にそれを言いなさい、それを! 付けてあげるから早く脱ぎなさい、早くっ!!」
「きゃーっ! ママの鬼、エッチ~!」
呆れ眼のママにスカートを引っぺがされ、パンツ一丁になった私は頬を膨らませながらソファを立った。
……とりあえず、着替えてこよう。
「んもう、この子は……どーれ?」
ママがスカートを検分する横を通り過ぎようとした、その時――。
「……だめだわ」
「どしたの?」
ママの悲愴感たっぷりの呟きを耳にして足を止める。
「生地まで裂けちゃってる。……これは、作り直しだわ」
「え、やったー! もう窮屈で仕方なかったの! 今度はゆったり目で作ってね」
「なにが『やったー』ですか、このお馬鹿ーっ!」
「きゃーっ!!」
ガラガラピシャーンとママの雷が落ちてきて、私は脱兎のごとくリビングを出て二階の自分の部屋へと駆け上がった。
その日の夕食の席。
「どうしたんだいママ? 元気がないじゃないか?」
むっしゃむっしゃと大好物のハンバーグを頬張っていると、私の向かいに座ったパパが心配そうに隣のママに水を向けた。
……ん? そうかなぁ。ママは雷まで落としてきて、絶好調だったと思うんだけど?
ハンバーグの最後のひと口を噛みしめながら、帰宅後のママとのひと幕を思い出して首を捻った。
そうしてゴクリと口の中のハンバーグを飲み込むと、おかわりのハンバーグをゲットするべく席を立つ。
「フライパンの残りのハンバーグ、もらってくるね~」
ジトリとしたママの視線もなんのその。私はキッチンへ一直線した。
ふふふっ。最初のハンバーグはデミソースで食べたから、おかわりのハンバーグは大好きなハーブソルトで食ーべよっと。
私はじゅるりとよだれをすすりながら、調味料ラックからヒマラヤ岩塩とタイムやセージといったお気に入りの乾燥ハーブを選んでたっぷりと振りかけた。
「パパ、聞いてちょうだい」
「うん?」
「今日ね――」
背中に深刻そうに切り出すママの声が聞こえたような気もするが、ハンバーグのことで頭がいっぱいの私の耳にはろくすっぽ届かなかった。
「はははっ!」
私がハンバーグをよそってダイニングテーブルに戻ってくると、なぜかパパがお腹を抱えて笑っていた。……なんだろう?
「どうしたのパパ、なにか面白いことでもあった?」
「いや。ママから里桜ちゃんの制服の件を聞かされ……って、あはははっ!」
「やだ、パパったら。そんなに笑ってひどいんだ」
「ごめんごめん。とはいえ、スカートのホックが飛んじゃうって、成長期にしてもちょっと成長しすぎちゃったかな」
ぷうっと頬を膨らませる私に、パパは一応謝ってみせるけど、その肩はまだ小刻みに揺れている。
「パパ! 笑いごとじゃありません! それに里桜ちゃんは『ちょっと成長しすぎちゃった』どころじゃありません! 『明らかに成長しすぎ』です!」
ママが身も蓋もない言葉を重ねる。
「まぁまぁ、ママ。そんなに目くじら立てなくても、里桜ちゃんは育ちざかりなんだ。そのうちに体形も落ち着くよ」
わぁっ! やっぱりパパは分かってる!
「私、パパのこと大好き!」
「パパも里桜ちゃんが大好きだ。里桜ちゃんはパパのお姫さまさ、どんな里桜ちゃんもかわいいよ」
「パパ~!」
キュッと腕に抱き付けば、パパは私の頭をポンポンと撫でてくれる。私は昔からパパと、パパがしてくれるこのポンポンが大好きだった。
「……おかしいわ。どんなフィルターをかけて見たら里桜ちゃんの体形が『ちょっと成長しすぎちゃった』で済むっていうの? 会社ではあんなに厳しかったパパの審美眼が、なんで里桜ちゃんには発揮されないのかしら」
仲良し父子を横目に、ママはブツブツと独り言を念仏のように唱えていた。
ちなみに、パパが役員を務める『トータルビューティプロデュースカンパニー』はその名の通り、化粧品の製造販売からサロンや美容室、ジムやスパの経営までを手広く手掛ける。まさに、美の総合商社といったところだ。
ママは結婚を機に退社してしまったけれど、かつてパパと同じ会社に務めていた。前に『会社でのパパは人が変わったように厳しい』と言っていたが、家での優しくてのほほんとしたパパしか知らない私はとても信じられなかったっけ。
「そうだった。今の『会社』で思い出したよ」
パパが突然、ママが唱えていた念仏の中の『会社』という一語に反応した。なぜか、私の頭から手を引いて口を開くパパの表情は、これまでとは一変し、とても苦々しい。
私とママは、揃ってパパに目を向けた。
「実はさ、社長夫妻が結婚二十周年記念に世界一周クルーズに行くそうなんだ。それで、その間ご子息をうちで預かってくれないかって相談されていたんだ。なんでも、祖父母の家に行く予定だったのが、急に都合が悪くなっちゃったとか。クルーズ自体は来年一月から七月の半年間なんだけど、クルーズの前にも南国でバカンスを予定してて、合わせて一年間預かってくれないかって」
「ハァァアアアア!? そんな長期間、うちで社長のご子息なんて預かれるわけが……って、ちょっと待って」
聞かされた瞬間、ママが般若の形相でパパにグワッと牙を剥きかけて……途中でなにかに気づいた様子で般若の仮面を引っ込めた。
普段おっとりとして優しげなママは、時々ちょっと怖くなるのだ。私はドキドキしながら、パパとママを交互にチラ見した。
「ご子息って、もしかして未来君?」
どうやらママは、社長さんのご子息と面識があるらしかった。
……あ。そう言えば、小さい頃、一緒にキャンプに行ったことがあったかも。ふと、五歳くらいの時に社長さん一家と家族ぐるみで交流した記憶を思い出した。
でも、未来君ってどんな子だったっけ? 考えてみるも、キャンプ場で出会ったとびきり可愛い女の子のことと、気の良さそうな社長さん夫妻の顔がぼんやりと浮かんでくるばかりで、未来君の記憶は掠りもしなかった。
「ああ、そうだ」
パパはママのド迫力にタジタジで首を縦に振った。
「未来君は夏休みに入ってすぐサマースクールで海外に行くそうだから、我が家に来るのは早くても八月中ばだと言っていたよ。それから、もし我が家で預かることになったら、九月からは里桜ちゃんと同じ帝都学園中学に転入を考えているそうだ」
「……これはチャンスかもしれないわ。未来君は礼儀正しくて、分別を弁えたいい子だし。……なにより、ひとつ屋根の下に同世代の男の子の目があったら、里桜ちゃんだって今まで通りにドカ食いなんてできないわよね」
ママはパパの答えに考え込むように顎に手をあてて、真剣モードで再びの念仏を唱えだす。
ちょっと飽きてきた私は、そんなママを尻目におかわりのハンバーグを食べ始めた。
……わわわっ。せっかくのハンバーグが少し冷めてきちゃってるよ!
なぜかママの視線がいつもより突き刺さるような気がしたが、ひとくち頬張ってハンバーグが冷め始めてしまっているのに思い至れば、それ以上ママのことを気にする余裕はなかった。
私は慌てて大きめにカットして、ちゃーんと温かいうちに完食した。
へへへっ。おいしかった~。デミソースもいいけど、ハーブで食べるとひと味もふた味も違う美味しさなんだよね~。
「……パパ、未来君を預かりましょう」
「え?」
ママが低く告げたら、パパは驚いたように目を見開いた。私も、パパよりもっと目を真ん丸にしてママを見た。
「未来君のことは我が家で責任を持って預かります! 社長さんにも、そうお伝えしてくださいな」
「いいのかい? てっきりママは、反対するかと思っていたよ」
「やぁね、パパったら。日頃から社長さんご夫婦にはお世話になっているもの。喜んでお引き受けさせていただくわ」
ママの若干上擦った棒読みに、なんだか背筋がぞわぞわした。
「そ、そうかい。ママがそう言うなら、僕はもちろん異存ないけど……。里桜ちゃんは、未来君をお家に預かって嫌じゃないかい?」
「なにを言うの! あんなに仲良しだった未来君が一緒で、里桜ちゃんが嬉しくないわけないじゃないの。ねぇ、里桜ちゃん? ね? ね?」
ママは物凄く威圧感たっぷりの『ね?』を連発し、私にプレッシャーをかけてくる。ちなみに、パパには見えない絶妙な角度で私に向き直ったママの顔も威圧感が凄まじい。
「う、うん」
気づいた時には、意思とは無関係にコクコクと首を縦に振っていた。ママに惨敗を喫した瞬間だった。
「そうか。里桜ちゃんがいいなら、明日さっそく社長に話すよ。きっと喜ぶ」
「そうね! 未来君をお迎えするなら、お家の中を少し綺麗にしておかなくちゃ。楽しみだわ」
「……」
是とも否とも答え難く、私は残るサイドメニューへと手を伸ばした。
こうしてママの主導によって、未来君との同居生活が決定した。
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