ペトリの夢と猫の塔

雨乃さかな

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第1章『始まりの村と魔法の薬』編

第39話 再出発/Restart

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 とある日の朝、窓の外の小鳥の声に誘われて、一人の少女が眠りから目を覚ました。
 天使のような白い髪に、ルビーのような深紅の瞳。肌は白銀の雪の如く白く染まっており、触れれば溶けて無くなってしまいそうな儚い空気に包まれた不思議な少女だった。
「うぅっ……」
 少女はゆっくりと身体をおこし、辺りを見回そうとした。
 しかし、ぼんやりと霞む視界と頭を満たす激しい頭痛で、まともに体を動かすことはおろか、思考することすらもままならない。手足は痺れて、吐き気も少しする。
「はぁ、何これ……」
 意識は朦朧とし、うまく思考の焦点が定まらない。
 しばらく、くらくらと漂う漠然とした思考の波に揺られ、少女は重い頭を押さえて考えようとする。
 その時だった。
「ん? この感じ、どこかで……」
 映る光景、すべてに見覚えがあった。
 ベッドから目覚める自分、ゆらゆらと霞む視界、カーテンから透過する朝日、鉛のように脳内に満ちる鈍い頭痛、身体を包み込む不思議な倦怠感、散らかった小さな部屋。
 何か違和感が引っかかる。
 そうだ、初めてこの部屋で目覚めた時だ。
 まだミサとソウヤにすら会っていない頃、記憶を失って永い眠りから初めて目覚めたあの時と、今の状況がとても似ていた。まるで時間が巻き戻ってしまったかのような、そんな錯覚に陥る。
 するとその時、少女は意図せずに身が割かれるかのような耐え難い不安に襲われた。
「ぁあ……、また思い出が無くなってたらどうしよう……」
 震える少女の顔から、見る見るうちに血の気が無くなっていく。
 そう、状況が状況であるが故に、少女は記憶が再びリセットされてしまったのではないか、と焦ったのだ。
 だが、すぐに少女は自身の過去を回想しようと行動に起こすことができなかった。もし、本当に恐れていることが現実になってしまっては、ショックのあまり起き上がることができなくなってしまうかもしれない。何より、勇気が無かったのだ。最悪の未来を受け入れることのできる勇気を、その時の少女は持ち合わせていなかった。
 しかし数秒後、少女の苦悩はただの杞憂になった。
 鈍る脳内で、無意識に自身の意識を過去に巡らせた瞬間、次々にこの地で過ごした日々の思い出が蘇ってきたのだ。
 ミサとソウヤとの出会い、寄合での激しい口論、二人で歩いた夜道、ミサの叱責、ソウヤと共に出かけた早朝の浜辺、食卓に並ぶ朝食、突然のマルロスの訪問、魔獣との遭遇、涙の打ち明け、風呂場での怪現象、ダンテからの警告、真夜中の廃村探検、広場での見送り、そして、忌まわしき男メノーの襲来に、燃え盛る村の光景。
 何もかも、すべて鮮明にこの脳は覚えてくれていた。
 そしてその時、少女は自分の名を思い出した。
「私は、エレリア……」
 そうだ、自分はエレリアだ。忘れてなんかいなかった。
 確かに自分はこの村で生きていた。この世界でたった一人のエレリアとして、悩んで、傷ついて、笑って、戦って、このコックル村で生きてきたのだ。
 そしてあの時、初めてこの小さな部屋で目覚めた時と、今のこの状況と違うことが、たった一つだけあった。
 そう、それは、エレリアのすぐそばにミサがいてくれたことだった。

 小さなイスに座ったままミサは、エレリアのいるベッドに頭だけを乗せてすやすやと眠りに落ちていた。静かに寝息を立てる彼女の身体の所々には赤く滲んだ包帯が巻かれており、その時エレリアはあのメノーが起こした狂気の惨劇を思い出してしまった。
 あの後、村はどうなってしまったのだろうか。
 強制的に意識が閉ざされそうになる直前、包まれた聖域の中から無惨に火の海と化した村の光景がエレリアの頭の中をよぎる。だが、少なくともこの小さな部屋は以前と何ら変わりはなかった。相変わらずの平穏な静寂に満ちている。

『ソレでは、ペトラサン。また、近いうちにどこかでお会いしマスよ。ホッホッホッホッ……』

 帰り際、あの男が放った不穏な笑い声がやけに鮮明に脳内で反響する。
 そして、その度にエレリアは怒りで震えてしまった。
 あいつが来なければ、あのまま村長が真犯人だと村民に知らしめ、そのまま何事もなく王国に向かう予定だったのに。あいつのせいで、すべて狂ってしまった。あいつのせいで、ダンテは……、死んでしまった。
 何より、奴はエレリアのことを何度も『ペトラ』と呼んでいた。
「……ペトラ」
 試しにエレリアは一度つぶやいてみた。
 だが、この名に何の心当たりもない。記憶を失っているから当然だ。
 ペトラとは一体どういう意味なのだ。記憶を失う前のエレリアの本当の名前なのか。
 では、なぜ彼はエレリアの真の名を知っているのだ。
 何もかもが、謎で不可解のままだ。だからこそ、エレリアはもどかしい気分になった。
「う、う~ん……」
 その時、エレリアが何気なく自身の足を布団の中で動かすと、その小さな衝撃で眠っていたミサを図らずも起こしてしまった。
 ミサはゆっくり身体を起こすと、寝ぼけ眼をこすりながら、小さなあくびを一つ吐いた。
 そして、エレリアがそんなミサの様子を眺めていると、不意に彼女と目が合ってしまった。
「……」
 対して、ミサも寝起きの眼差しでじっとこちらを見つめてくる。
 気まずい。向こうから何か会話を投げかけてほしいところだが、ミサはなぜか黙ったまま一向に口を開こうとしない。
 早く何か言ってほしい。
 重苦しい空気に耐えきれず、仕方なくエレリアが話しかけようとした、まさにその時だった。
「ミサ……」
「リアちゃんっ!!??」
 すると、何を思ったのかミサはいきなり目に涙を浮かべて、そのまま脇目も振らずエレリアに飛びついた。
「ちょっと、ミサ……!?」
「リアちゃんだよね!? あぁ、生きてて良かったあああ!!!」
 そして、困惑するエレリアに構うことなく、なんとミサはそのまま泣き始めてしまった。エレリアの胸元にしがみつき、時おり嗚咽を漏らしながら盛大に泣きわめく。
「ミサ……」
 そうだった。聖域の中で意識を失う寸前、誰よりも早く駆け寄り、必死にエレリアを呼び止めてくれたのは他の誰でもなく、ミサだったのだ。この胸の中で泣いている彼女こそ、エレリアのことを最優先に駆けつけてくれたのだった。
 ミサにはまた心配をかけてさせてしまった。そして、借りを作ってしまった。
 しかし、エレリアは何よりも先に、
「ありがとう、ミサ……」
 と、彼女と同じく涙まじりの声色でそう呟いたのだった。

「おわっ、エレリア!! 無事だったのか!?」
 誰もいない一階の食卓で一人暇を持て余していたソウヤは、階段を下りてきたエレリアの姿を目に入れるや否や、一瞬の驚愕の後、ミサと同じく歓喜の叫び声を放った。
 そんなソウヤに、エレリアは照れくさそうに少しうなずいた。隣には、泣き止んで目を赤くしたミサもいる。
「そうか、そうか……、んじゃあ、ひとまずは安心だな。昨日、おまえが気絶してそれから全然起きねぇからさ、マジで死んだんじゃねぇかってみんな大騒ぎだったんだからな。浜辺で打ち上げられてた時もそうだったけど、ほんと勘弁してくれよ」
 この時、エレリアはようやく事の事情を理解することができた。
 どうやら、自分は一晩中眠り続けていたことになっているらしい。それも、死んだように。先ほどミサが過剰に喜んでいたわけも、これで分かった。
「ねぇ、村は……、みんなはどうなったの?」
 次にエレリアはメノーによって焼き払われた村があの後どうなったのか二人に尋ねた。
 しかし、ソウヤとミサは神妙な面構えで顔を見合わすだけで、きまりが悪そうに口を開こうとしない。
 食卓に漂う冷たい空気の流れを肌で感じる。
 まさか、説明することをためらってしまうほど村は悲惨な状態になっているというのか。
 すると、ソウヤが沈黙を破った。
「……ここで言ったところであれだし、実際に見てみるか?」
 そして、彼の問いかけにエレリアはどんな最悪な未来をも受け入れる覚悟を決めて、力強く首を縦に振った。

 エレリアたちはそのまま王国に向かう準備を整えて、二度目の別れを我が家に告げた。
 ソウヤが先陣を切って玄関の扉を開ける。
「……っ!?」
 そして、家先から飛び込んできた村の光景をエレリアは目にし、同時に息を呑んだ。
 それは、いつもの見慣れた平穏な風景、ではなく、実際に目に飛び込んできたのは想像を絶するものだった。
 焼け野原になった田園、いたる所から天に登る黒い煙、宙を舞う灰、かすかに香る木々が焼けた臭い、人々の絶望に染まった表情。
 これが、あのコックル村だなんて信じたくないほど、愛すべき故郷はメノーの手によって壊滅的なダメージを負っていた。
「そんな……」
 思わずエレリアは膝から崩れ落ちてしまった。
 これがあの男が行った所業の結果だというのか。あまりにひどすぎる。
 その時、不意にエレリアは地面が少しだけ湿っていることに気づいた。よく目を凝らすと、黒くなってしまった村の大地に小さな水たまりができている。
 村人たちの消火活動によるものなのだろうか。しかし、人々の手であれほどの大火を消したとは考え難い。
 では、どうやってあの大規模な火災は鎮まったというのか。
 ここで、ふとエレリアは一つの違和感を覚え、もう一度、村の景色を眺めてみた。確かに村は焼き尽くされてしまったようだが、この我が家みたく建造物は以前と変わらず黒焦げになりながらも構造を維持したままほとんどもとの形で現存している。それは、ほとんどの村の建物がそうだった。
「……雨?」
 すると、エレリアは鼻孔に流れ込んでくる、ほのかな雨上がりの匂いを感じ取った。
「おぉ、よく分かったな」
 するとソウヤが隣に並び、天を見上げると静かに口を開いた。
「おまえが気を失った後、いきなり空から雨が降ってきて、地上の炎を全部消したんだ」
「えっ、そうなの?」
 雨が降ってきて村の大火事をすべて消火したとは、なんて都合の良い話なのだろう。
「でもね、リアちゃん」
「ん?」
 だが、話はそこで終わらなかった。
「あの雨は、実はリアちゃんが降らせたんじゃないかって思ってるの」
「えぇ、私が降らせたって……?」
 どことなく恥ずかしそうにミサが打ち明けた言葉に、エレリアは彼女の発言の真意がよく分からなかった
 一体どういうことなのか。
「あの時ね、眠っているリアちゃんの周りを取り巻いていた光が突然虹色に輝いたの」
「虹色に……!?」
「そう。そしたらね、突然空から不思議な色をした雫が降ってきて、そのまま村の火を全部消しちゃったんだ」
「もし、あの雨が無かったら今頃このコックル村は詰んでたかもな」
 二人の語る事実に、エレリアは驚きを隠しきれなかった。
 まさか自分が雨を降らせ火を消したなんて、そんな自覚は微塵もない。しかし、雨を降らすためにあの聖域が強制的に自分を眠らせたと考えれば、少し辻褄が合う気もする。
 『聖域』という超常的な自己防衛機能もそうなのだが、この身体には底知れぬ不思議な存在能力が秘められているらしい。あの時メノーが語っていたように、自分はミサとソウヤのような普通の人間ではないことはエレリアも薄々とは感じていた。
 この自身の失われた記憶がすべて明かされた時、果たしてどんな未来が待ち受けているのだろう。
 地上で起きた惨劇などつゆ知らず優雅に流れる雲を見上げて、エレリアは思慮深く胸を抑えて、ミサたちと共に歩き出した。

 スカースレット王国へ特性ポーションを届けるため、村の道を歩いていく。だが、エレリアとミサとソウヤの三人の間に、昨日のような輝かしい期待や胸躍る熱い高揚感は無かった。ただ、重苦しい空気だけが渦巻き、とても気軽に口を開くことができるような状況ではなかった。
「……」
 歩けど歩けど、何かか焼けた焦げくさい臭いが周囲に満ちおり、呼吸する度に鋭く鼻を刺してきた。焼き払われた田畑からは未だに漆黒の煙が立ち登っており、聖なる雨によって鎮められたメノーの呪いが未だ大地から染み出しているようにも見えた。
 見るも無惨に滅ぼされてしまったコックル村の後始末に追われる人々。だが、彼らの目に希望という名の灯火は灯っておらず、みな悲しみと失望に塗れていた。中には力なく肩を落とし、廃人同然となっている者もいた。
 果たして村は元通りになるのだろうか。いや、この状況ではもう、少なくとも以前のような活気と賑わいは取り戻せないかもしれない。
 所在なく歩くエレリアを、横切る村人たちが冷たい眼差しで鋭く睨みつける。おまえがここへやってきたせいで、この村は死んでしまった。口からは語られずとも、突きつけられる視線から確かにそう言っているようにも聞こえた。
 もう、この村にはいられそうにない。もちろん簡単に認めなくはないが、図らずもエレリアは心の隅でそう思ってしまった。
 村の広場が近づいてくる。昨日はここで村長が喜ばしそうに駆け寄ってきてくれたが、そんな彼は今はもういない。
 そういえば、あの後、村長はどうなってしまっのだろうか。
 すると、昨日の悲劇の舞台にもなった村の小さな広場に二つの人影があった。何か話しているようにも見える。
 そして、歩いていくうちに、それが村の教会の神父エルマーと村長邸の使用人クレアであることが分かった。
「あぁっ、ミサさんたち!!」
 こちらが声をかける前に、いち早くエレリアたちの存在に気づいたエルマーがとっさに声を上げた。

「見ての通り、村はこのような状況で……。どうやら、神の力を以てしても、あの男の愚かな暴虐を鎮めることはできなったようですね……」
 黒い煤塵が無惨に吹き荒れる村を見渡して、エルマーが神父らしい視点から言葉を吐いた。
 ただ、そんな彼の言葉に誰も返す言葉が見つからなかった。何度目か分からない沈黙の空気が広場を冷たく包み込む。
「……」
 あまりの重圧に耐えきれなくなったエレリアはこの気詰まりな雰囲気を打開するためにも、一つ気になっていたことをエルマーとクレアの二人に尋ねた。
「あ、あの……、村長さんはどこにいるんですか?」
 しかし、二人は表情を曇らせるばかりでなかなか答えようとしてくれない。まさかあの後メノーに殺されてしまったのか、そんな縁起でもないことまでこの一瞬の間でエレリアは考えてしまった。
「ご主人様の所在は……、残念ながら誰も存じ上げておりません……」
「えっ、それって……」
 しぶしぶ口を開いたクレアの言葉に、エレリアは自身の胸の内に不穏な感情が注がれるのを感じた。
 彼の居場所を誰も知らないとはどうなっているのだ。
「村長さんのことについては、すべてクレアさんの言うとおりだ。もちろん、僕たちもあの後必死に村長さんの行方を探したんだけど、全然見つからなくてね。少なくとも、彼はこの村にはもういないんじゃないかな。いや、いないというより……」
「いられない、……ですね」
 エルマーに代わって最後の言葉はミサが口にした。
 コックル村の村長ウィリアム。彼こそが、彼の妹ニーナを殺した真犯人で、昨日この広場でエレリアはその村長の犯した罪を鮮やかに暴き出し、彼もその罪を自ら認めた。そして、彼があの時カロポタス村で起きた真実を語ろうとした瞬間、どこからともなくメノーが現れ、コックル村を滅ぼしかけた。
「ただ、私は信じています。ご主人様がこの村に帰ってこられることを……」
 すると、クレアが自身の胸に手を添えて、そっと口を開いた。それは、村長のもとに仕える使用人としての誠意のこもった嘘偽りのない言葉だった。
「あぁ、そうだね。彼は生きている、それは僕も確かに感じてるよ。エレリアさんが身を犠牲にしてまで守った命だ。自ら望んで死を選ぶようなバカなことは彼はしないはずだ。恐らく、今頃はカロポタスにあるニーナさんの墓で頭を下げてるんじゃないかな」
 神父という立場だからこそ分かる勘なのだろうか。エルマーはカロポタス村のある方角を思慮深く眺めて、静かにそう語った。
 村長は確かに自身の妹を殺した罪人だが、それは村のために心身を捧げてきたからこそ起きてしまった結果でもある。もちろん、彼がやったことは到底許されることではない。だからこそ、彼は再び彼女に謝りを伝えに行っているのかもしれない。
「エレリア様、一つお聞きしてもよろしいですか?」
「え? あっ、うん、いいけど……」
 エレリアもエルマーと共に、もうここにはいない村長に思いを馳せていると、めずらしくクレアの方から言葉を投げかけられた。
「なぜ、あの時ご主人さまを守られたのですか?」
 それは、あの時メノーによって殺されそうになっている村長をエレリアがかばった時の質問だった。
「えぇ……、なんでって言われても……」
 しかし、この時エレリアはとっさに返す言葉が見つからず、思わず口ごもってしまった。
 自分自身でさえも、なぜあの時彼を助けたのか分からない。気づいたらそこに立っていた。それだけだ。
 クレアが純粋な眼差しで、静かにこちらの返答を心待ちにしている。
「……。なんでか知らないけど、身体が勝手に動いたんだ。きっと、ダンテのやつがメノーに殺される瞬間を見たせいだからかな。もう、目の前で人が死ぬのを見たくなかったからかも」
 彼女の期待に答えるためにも、エレリアは少しもごまかすことなくその胸の内にある心情をさらけ出した。
 ダンテ。村の腕利きのいい剣士としてメノーに勇ましく戦いを挑んだはいいものの、奴の人智を超えた圧倒的な力を前に成すすべもなく散っていた無様な男。
 彼のことは心底大嫌いだったが、彼の協力のおかげで村長の隠された罪を村人たちに知らしめることができたのだ。もっと遡ると、カロポタス村で死の際に追い詰められたエレリアたちをすんでのところで助け出してくれたのも彼だった。確か、あの村には行くなとわざわざ忠告してくれたこともあった。
 今まで一度も考えたことなかったが、彼が死んでこの世からいなくなったからこそ、いかに彼の存在が偉大であったか分かるような気がしてきた。

「……おい。誰が俺を殺したって言うんだ、バカ野郎……」

「えっ?」
 するとその時、背後から聞き馴染みのある声が聞こえてきた。男としての威厳に溢れたその声は、地獄の底を引きずって歩くかの如く低く唸り、聞き覚えのある懐かしさと共にエレリアの鼓膜を震わせた。
「まさか……」
 妙な心当たりと期待と恐怖を胸に、エレリアは恐る恐る振り返った。
「……エレリア。今の言葉、しっかり覚えたからな。この身体が元に戻ったら、徹底的にシバいてやる」
 そう、そこには全身を包帯に包んだ屈強な男が両脇に杖を挟んで立っていたのだ。そして、彼こそエレリアがずっと死んだと思い込んでいたダンテという男そのものだった。
「ダ、ダンテ……。な、な、なんで、ここに……?」
「あれ? エレリアさんはご存知なかったのですか?」
 しかし、エレリア以外、誰も彼がここにいることに何の疑問も違和感も抱いていないようだった。困惑の限りを尽くしているのはエレリアのたった一人だけ。
「あんなフザけた男に軽々と殺される俺じゃねぇ。この復讐の炎が消えない限り、俺は地獄の底から何度でも蘇るッ……!!」
「おぉ、おやっさん、カッケェ!!」
 力強くそう言い放ったダンテに、ソウヤがキラキラと目を輝かせる。
 この通り、全身を包帯巻きにされるほどの重傷を負いながらも、彼は生きていた。あの強力な一撃を喰らってもなお死なずに生きながらえるとは、なんと頑丈で、そして、なんと生への執着が強い男なのだろう。
 だが、見て分かるように痛ましい姿に身を包んだ彼は、当分戦うことはおろか、歩くことすら困難そうだった。逆に声をかけられなければ、その見た目から彼がダンテだと判断することすらも難しい。ただ、命があるだけでも喜ぶべきなのだろう。
「いいか、おまえら。この村のことは一回忘れろ」
 すると、ダンテが包帯に包まれた隙間から唇をうっとうしそうに動かして、エレリアたちに村のことを忘れろなどと突飛なことをいきなり告げてきた。彼の発言の真意が分からず困惑する三人。
 そして、続けざまに彼は再び語り出した。
「今はスカースレットにポーションを届けに行くことだけに集中するんだ。この後のことは、俺たちでなんとかする」
 それは、彼なりのはからいの言葉だった。そして同時に、無駄な心配をせず、心置きなく王国救済に尽力してくれという優しさでもあった。
「そうですね、ダンテさんの言う通りです。この状況だとミサさんの作ったポーションで王様を救うことが先決ですから、むしろ今は一刻の猶予も許されていないでしょう」
「スカースレット王からご使命を直々に司っていらっしゃるのならば、お早く王国に向かってください。そして、今後の村の行く末に関しては私たちにお任せください」
「ダンテさん……、エルマーさん……、それにクレアちゃん……」
 ダンテに続き、エルマーとクレアからも予想外の言葉を受け、彼らのあまりの気の利いた心遣いに思わずミサは感涙しそうになっていた。
「よっしゃあ! なら、ここはおやっさんたちのお言葉に甘えて、いっちょ王国でかましてきてやるか!!」
 すると、ソウヤは自分自身を鼓舞する意味合いも含めて、胸の奥に溜まっていた重く淀んだ感情を捨て去り、そのまま力一杯に叫んだ。
「うん、そうだよね! いつまでもくよくよしててもしょうがないもんね!」
 ソウヤに続き、ミサも持ち前の笑顔と明るさをその顔に取り戻し、確かな意気込みと覚悟を自身の拳に込めて強く握り締めた。
「皆さん、ありがとうございます! 皆さんのお気持ちもしっかり背負って、私たち絶対に王様を救い出してきたいと思います!」
 清々しく高らかに言い切ったミサの宣言に、エルマーたちも誇らしげな表情をこぼし、同時に温かい眼差しで見つめる。
「神は必ず私たちのことを見守ってくれているはずです。どうかご無事で……」
「私も、ミサ様方の王国でのご活躍を心から祈っております。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
 相変わらず仏頂面を守り抜くダンテの隣で、エルマーとクレアがそれぞれの口でエレリアたちに送別の言葉を送った。
 いよいよだ。いよいよ、スカースレットに旅立つ時が来た。
 村長の行方が気がかりではあるが、ここはダンテたちの言った通りエレリアも心を入れ替えて、王を救済することだけに意識を向けた。すべては、与えられた使命を果たすため。
「よしっ! それじゃあ、行くとすっか。スカースレット王国に!!」
 そして、ソウヤの言い放った合図によって三人はダンテたちに別れを告げ、再び王国に向かって歩き出した。

 最後にもう一度、エレリアは後ろを振り返った。
 無邪気に手を振り返すエルマー、最後まで使用人としての誠意を忘れず律儀に頭を下げるクレア、そして、既にこちらに背を向けどこかへ歩き去ろうとしているダンテ。
 歩を進める度に、少しずつ故郷が遠ざかっていき、なんとも言えない寂寥感が胸の内を切なく染めていく。
 コックル村。この場所こそ、自分が生きていく上でのすべての世界だと思い込んでいたが、なんと今自分は見知らぬ土地に旅立とうとしている。
 新たな地には、どんな人がいて、どんなことが待ち受けているのだろう。
 そう考えるだけで、エレリアの胸は期待と不安、そして、希望と緊張で張り裂けてしまいそうだった。
「あぁっ、見て見て! 白ネコちゃん!!」
 すると、歓喜に包まれた声で、ミサが行く手に向かっていきなり指を指した。彼女の指し示す先を見ると、そこには彼女の言ったように、一匹の白ネコがまるで初めからエレリアたちを待ち構えていたかの如く佇んでいた。
「みぁ、みぁ」
「このネコちゃん、あの時、森で出会ったネコちゃんじゃない?」
「確かに言われてみれば……」
 それはまさしく、いつぞや森で出会ったあの青い瞳の猫に間違いなかった。その証拠に、その白猫は少しも拒絶感を示すことなく、むしろエレリアたちに積極的に好意を寄せていた。
「じゃあ、このニャンコも一緒に連れて行くか!」
「そうだね! やった!!」
 ソウヤの提案に、ミサが両手を上げて子供のようにはしゃぐ。

 こうして、エレリアたちは特性ポーションと白ネコ一匹を携え、スカースレット王国に続く小道を歩いて行ったのだった。




第1章『始まりの村と魔法の薬』完

第2章『孤独な魔法使いと悪夢の王国』に続く
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