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第1章『始まりの村と魔法の薬』編
第22話 聖歌/Another world
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来たるべくして迎えたその日は、純白の満月が煌々と空高く光り輝く、雲や星は何一つ見当たらない美しい夜だった。暗黒に塗られた空の底はどこまでもどこまでも高く、その尊大な存在感で世界の天井を覆い尽くしていた。
しかし、見惚れるような夜空とは対象的に、地上の世界は深い夜の闇の底に閉ざされていた。人々は闇の統べる恐怖から逃れるように寝静まり、風の音しか聞こえない深閑の世界がそこには広がっていた。
空から燦々と降り注ぐ陽の光を失った世界は、ここまで呆気なく表情を変えてしまう。昼間あれほど賑やかに鳴いていた小鳥の合唱も、鮮やかな花の色も、人々の楽しげに交わす談合も、今、闇に満ちた世界においてはもはやその見る影すらない。ただ、闇の凍てついた冷たさしか、この肌で感じることはできない。
その時、湿った夜風がエレリアの肌を舐めるように吹き付けた。
「ついに、来てしまったか…」
エレリアは震える腕をもう片方の腕で抑えた。
そして、背後からミサとソウヤの声が交互に聞こえてきた。
「ここが…」
「想像してた以上にヤベェとこだな…」
二人の口にした声色から、エレリアは二人が自分と同じく恐怖と不安に震えているのだと悟った。
三人が見つめる固く閉ざされた古びた門の先。
そこには、かつてある男によって滅ぼされたカロポタス村という名の悲劇の廃村が広がっていた。
ここに来るまで、それは長い長い道のりだった。
押し付けがましかった太陽が地平線の向こうへ姿を消し、黄昏の闇が辺りに満ち始めた頃、三人は荷物を持って、遠いカロポタス村を目指し家を出た。
道中、三人ははぐれないようお互い手をつなぎ、一昨日エレリアとミサがデイジアやベニレムタケを採取した『秘密の森』をもっとさらに奥に進み、そしてある海岸に到着した。
カロポタス村は小さな孤島に作られた村だ。故に、村に行くためには海を渡る舟が必要になる。
エレリアたちが森を抜けて辿り着いたその海岸には、孤島と大陸を結ぶための小さな船着き場の残骸が残っていた。しかし、そのほとんどは海から吹き付ける風や魔物たちの襲撃を許しボロボロに朽ち果てており、どの船も草やフジツボに無惨に侵食されていた。最後に機能を果たしたのが数十年前にもなるのだから、仕方のないことだろう。
それでも、エレリアたちはまだかろうじて乗れそうな小舟を埃まみれの小屋の奥からなんとか発見し、それをそのまま海に浮かべた。
そして、荒波に揺られながら三人はカロポタス村のある孤島へ進んで行ったのだった。
島へ上陸し、しばらく雑草の覆い茂った道を歩き続けると、ついに目的の村が姿を見せ始めた。そして、ようやく目にした村を前に、三人は静かに息を飲んだ。
「ここが、カロポタス村…」
その村は、見るからに異様な匂いと空気に満ちていた。
かつて入り口を担っていたであろう門は外部からの訪問を拒むよう固く厳重に太い鎖で閉ざされ、ここ数十年誰の侵入も許していないようだった。おまけに高い外壁が村全体を取り囲んでおり、いかにかつての村人が外部の訪問者を僻み嫌っていたのかが伺える。
「おい、もう一度聞くけどよ、本当に俺たちがここへ足を踏み入れてもいいんだよな…?」
エレリアの背後で、ソウヤが怯えた声をこぼした。
「うん、確かにちょっとここはすごいところだね…」
この場所に行くことを提案した本人も、村から漂う邪悪な冷気に肩を震わせているようだった。
死んだ村。ふとエレリアの脳裏にそんな言葉が浮かんできた。
人と動物と自然が同居した生命力あふれるコックル村とは違う。しかし、確かに「何か」がそこにはいる。このカロポタス村には、そんな不気味な雰囲気が立ち込めていた。
「だけど、私達はみんなのためにポーションを作らないといけない。だから、どんなに怖くても私は絶対にやってみせる!」
朽ち果てた恐怖の廃村を前に、ミサは自身の意気込みと強い決意をその口ではっきりと表明した。その目からは揺るがぬ固い意思を感じる。
「そうだな、ミサの言うとおりだ。こんなとこで立ち止まってたらいけねぇ。もし、何かあったら俺のこの『聖剣エクスカリバー』でぶった切ってやるから、恐れずどーんと行こうぜ!!」
ソウヤはそう言うと、腰に提げていた鞘から例の剣を空高く掲げた。
闇に映えるその白鉄の刃は、空から降り注ぐ月光を受けてさらに神々しく輝いていた。
彼の剣使いにおける技量の是非はさておき、剣自体の性能は目を見張るものがある。それは実際に、一昨日の森で魔獣の大群を一太刀で退けたからこそ分かる。この剣には計り知れないほどの力が秘められている。もし仮に廃村を探索してる最中、突然魔物が現れたとしても、最悪の場合逃げる時間ぐらいは稼げるだろう。
エレリアの持っているランタンの灯がチラチラと揺れている。今、この夜の闇を照らす光源はこのランタンと上空から照らされる微かな月の灯りのみだ。それ故に、無駄な時間を浪費することはあまり得策ではない。できることなら、早く目的の物を手にいれて、早くこの村から立ち去りたいところだ。
「それじゃあ二人とも、村に入る準備はいい?」
ミサがランタンでエレリアとソウヤの顔を照らし、最終確認をとった。
「おう!俺はいつでも準備オーケーだぜ!」
「うん…、私もいいよ」
エレリアは胸の中でうごめく不安と恐怖を抑えながら、ミサに返答の意を伝えた。ここまで来てしまったら、後は神に祈って、意のままに行動するしかない。
しかし、口では「いいよ」と言ったものの、エレリアの胸にはある一つの懸念がずっと引っかかっていた。
それは数時間前、エレリアが石炭を買いに行った際に、家路の途中でダンテから言われたあの一言だった。
『あそこだけには絶対に行くな…』
彼の険しい表情と共に、この言葉が何度も頭の中で響鳴する。
確かに彼の言葉通り、このカロポタス村という場所は、普通の廃村とは何かが違う。人が容易く入ってはいけない。立ち入ってしまうと、確実に何かに出会ってしまうような、そんな不吉な胸騒ぎがする。
やはり彼からの警告をミサたちにも伝えるべきだったか。あるいは、今この場で伝えるか。エレリアは今になっても、ずっと一人で悩んでいた。
しかし、葛藤の末出した結論は、二人には黙っておく、だった。今ここで彼からの伝言をミサとソウヤに語ったところで状況は何も変わらない。むしろ、無理矢理に奮い立たせた勇気の灯火をただ冷ますだけになってしまうだろう。
彼は一体村の何を知っているのか。そして、絶対に足を踏み入れてはならない理由とは何なのか。
その真実がエレリアには分からないまま、三人はついにカロポタス村の中へ入り込んでいくこととなった。
まず三人は村の外壁に沿って歩き、中へ侵入できそうな隙間を探っていった。
分厚い石材でできたその壁には、無数のツタと謎の植物が無情に侵食しており、村の経年を嫌と言うほど感じさせられた。
幸い、壁のある一部分に人一人がやっと入れそうな小さな穴を発見し、エレリアたちはそこから村に足を踏み入れることにした。
壁の穴を順番に抜け、ついに三人は村の土を踏みしめることができた。
そして、ようやく目にしたあまりに不気味で異様な村の様子に三人は言葉を紡ぐことができず、ただ凍りついた吐息をこぼすことしかできなかった。
村の建物は見たところほとんど木造でかろうじて形状を維持しているものもあれば、無惨に朽ち果て崩壊してしまっているものもあった。それらはまさに完全に魂を失った骸だった。
植物はみな枯れ果て、枝にぶら下がっている枯れ葉がまるでエレリアたちを手招きをするように夜風に揺れている。
命の温もりを微塵も感じれない冷え切った死の廃村。本当にこんなところでポーションの材料を見つけることなどできるのだろうか。強引に灯した勇気の灯火も、その想像を遥かに超えた村の異形を前に、すでに風前の灯火となっていた。
「ちょっと、二人とも、しっかり!!」
しばらくエレリアが恐怖に凍りついていると、突然ミサが手を大きく叩き、放心状態にあったエレリアの意識を現実世界に引き戻してくれた。
「おばあちゃんが残してくれた月光草まであと少しなんだから、気を抜かずに頑張っていこうよ!ね?」
すると、彼女の言葉に反応したソウヤが頭をかきながら返答の言葉を口にした。
「おぉ…、わりい、わりい。なんせもう真夜中だからさ、ちょっとボッーとしてただけだ」
ソウヤはそう言って苦し紛れに弁解の言葉を説いたが、去勢の隙間から見え隠れする内心はバレバレだ。きっと彼も村のおぞましい空気に震えていたに違いない。ただ、そんな状況でもいつもと変わらず意地を張り続けていられるその心意気に関しては、彼らしいと言えば彼らしいのだが。
兎にも角にも、ミサの言うように、ここで立ち止まるわけには行かない。
エレリアは勇気を誓った初心の覚悟と熱意を再び胸の中で抱き、ミサとソウヤと共に月光草が生える村の奥地へ進んで行った。
凍える霧が立ち込める廃村の中、エレリアたちは一歩一歩大地を踏みしめるように慎重に歩を進めていた。
崩れ落ちた住居の壁にはところどころ染みついた黒い血のような痕が見受けられ、かつて村で起きた惨劇を想起させていた。
ここで起きた悲劇。村長は、フェイルメアという男が村を滅ぼしたのだと、かつての寄合で語ってくれた。しかし、エレリアはそんな村長の語った話に関して、実は未だに懐疑的な感情を抱いていた。
村長の言い分は、フェイルメアという男が彼の恋人でもあった村長の妹を自らの手で殺し、反感を買った村人から虐殺された、というものだった。そして、彼の憎悪が暴走した魔力と結びつき、結果として彼の魂が魔物として地上に具現化した
名高い賢者の称号を持っていた故に、彼は一夜で村を滅ぼしかけた。しかし、そこで風来の勇者ヴェルダネスが旅の途中でここカロポタス村へたまたま立ち寄り、狂乱に溺れた彼の魂をその手で鎮めた。鎮圧されたフェイルメアの魂はもう二度と蘇ることがないように、どこか森の奥に今も深く封印されているという。
このコックル村に伝わる神話、やはり何度思い返しても、エレリアには不可解に思える箇所が何個かあった。
まず、なぜフェイルメアは恋人を殺したのかということ。もし仮に彼が愛人に裏切られたと仮定したなら辻褄は合うのだが、だとしたら神話はこの事実と共に継承されていくはずだ。しかし、村長の口からはそんな話は飛び出てこなかった。
そして、もう一つの謎。さすらいの旅人のヴェルダネスが魔物になったフェイルメアの暴走を止めたというが、それは果たして本当なのだろうか、ということ。村の危機にどこからともなく救世主が現れて、そして最終的には事を解決するなんて、いくらなんでも都合がよすぎではないか。
気づけばエレリアは腕を組んで、思考の海に意識をどんどん沈ませていた。
すると、突然ミサが話しかけてきた。
「おーい、リアちゃん?」
「…はっ。な、何?」
急いで我に返り声のする方へ顔を向けると、そこには不思議そうにこちらを見つめているミサがいた。
「どうしちゃったの?そんな難しそうな顔しちゃって」
「えっ、難しい顔なんてしてないけど」
ミサは首を傾けて、エレリアの思案を見透かすようにまじまじと視線を向けていた。
どうやらエレリアは村長が語ってくれた神話に対する考察に夢中になってしまっていたようだった。ミサは難しい顔をしていると語っていたが、自分ではそんな自覚はなかった。
するとその様子を見たソウヤがおもむろに唇の端を歪め、怪しげに目を鋭く細めた。
「ふふーん…、さてはおまえ、怖いんだろ?」
いきなり彼の口から飛び出た疑いの言葉にエレリアは完全に意表を突かれ、思わず気を取り乱してしまった。
「何ふざけたこと言ってんの!?別に、こ、怖くなんかないよ…!!」
エレリアは必死になって否定の言葉を吐いた。自分が小心者だなんて、それはエレリア自身のプライドが許さない。
だがそれでも彼は疑いの眼差しでこちらを見つめていた。
こうなってしまっては、事実をはぐらかすことは難しくなってくる。なのでエレリアはややこしくならないように、正直に彼に事の真実を話した。
「ただ、ちょっと考えごとしてただけ…」
「じゃあ何考えてたんだよ」
「え、それは…」
素早い彼の切り返しに、エレリアはまたしても言葉を濁してしまった。
なぜ、彼はここまで自分に執着してくるのか。
何よりもまずこの状況自体、どうでもいいと言えばどうでもいい。
怖がっているか否かなんて、子供でもあるまいし、深く言及することではないだろう。
しかし、彼の蔑むような視線を見ると、なんとしても嘘の事実を晴らしたかった。
だが、何と言えばいいのか。
カロポタス村にまつわる神話について考えていたと真実を話したところで、余計に状況をややこしくするだけだし、かえって雰囲気を更に悪化させてしまう。あるいは、そんなこと考えてたのかよ、とバカにされるか、どっちかだ。
そうしてエレリアが考えあぐねていると、
「はぁ。ま、いいや」
と、なんとソウヤは呆れたように話題を自ら終わらせたのだった。
意外すぎる彼の判断にエレリアは思わず口を挟みたい衝動に駆られたが、しつこく追求はされなかったので、ひとまず安堵の表情をこぼした。
「それにしてもよ、せっかく三人でいっしょに来たって言うのによ、なんだよこの静けさ。逆に幽霊を歓迎してるようなもんだろ」
そう言うと、ソウヤは呆れたように笑い声をもらした。
「だってしょうがないじゃん、夜は静かにしないと…」
「夜は静かにしないと…って、おまえはマジメか!?ここはカロポタス村なんだぞ。誰もいねぇんだから、そんなこと気にしてどうする!!」
神妙な面持ちのミサに対して、ソウヤはすかさずツッコミの手を入れた。
そんな彼の反応にミサはぎこちなく微笑みをこぼしながらも、また不安そうな表情を顔に戻し口を開いた。
「でも、正直言っておしゃべりできるようなテンションじゃないよ。だって、ここ、思ってた以上に怖いとこなんだもん…」
「ま、まぁ確かに、それもそうだな…」
彼女の口した正論すぎる発言に、さすがのソウヤも言い返すことができず、共感の意を込めて力なくうなずいた。
それもこれも、この村に来てエレリアが感じていたことは先程ミサがすべて代弁してくれた。
かつてここに人や動物が生活を営んでいたとは想像し難いほど、今のこの村には濃密な死の匂いと絶望の気配が嫌と言うほど充満している。こんな状況で楽しく談合を交わせ気にはとてもなれない。今の自分において、この押し寄せる恐怖と不安に心が潰されないように均衡を保っておくのが精一杯の振る舞いだ。
「だったらな、こういう時はな、大きな声で歌を歌えばいいんだ」
すると、ソウヤがいきなり何かを思いついたように人差し指を立てて、そのまま、ある提案を口にした。
「歌を歌う?例えば、どんなの?」
「どんなの、って、うーんとそうだなぁ」
ミサが問いかけを口にすると、ソウヤはしばし考える素振りを見せた後、
「じゃあ、こんなのはどうだ?」
と言い、大きく喉を数回鳴らし、深く深呼吸をした。
彼の所作の真意が分からず、エレリアとミサが互いに顔を見合わせて首をかしげると、ソウヤは二人の困惑をよそに、いきなり大声で歌を歌い始めた。
聞き慣れないメロディとリズム、そしてその彼の歌声。これが彼の故郷の歌なのだろうか。
少しも躊躇することなく、呆然とするエレリアとミサを尻目に彼の歌声は次第に熱を帯びていく。
そして、ソウヤ自らの熱唱により、凍てついた闇に満ちた地がほんの一瞬だけ温かな空気で彩られていくのをエレリアは感じ取ることができた。
これが音楽の力なのだろうか。
しかし、彼が満足げに歌い終わると同時に、辺りは冷たい空気に再び包まれた。ただ、その余韻だけが耳の奥で深く反響していく。
「えっと…、何だったの?その歌…?」
突然熱い生歌を披露してくれた彼に、ミサは少々困惑の表情を見せていた。
「今のが俺がよく聞いてた歌だよ…ていうか、そうだよな。おまえらは知らないよな、俺の聞いてた曲なんて」
そう言うとソウヤはふと眉根を寄せて、
「そういや、今ちょっと気になったんだけど、こっちにはどんな音楽があるんだ?」
と、ミサに疑問を問いかけた。
「ちなみに俺の住んでたとこにはな、おまえらの知らないようなスゲえ音楽がいっぱいあったんだぜ」
「へぇ、音楽か。こっちに来てからはそんなの一回も考えたことなかったな。子供の頃はよく街のパレードとかで耳にはしてたけど…」
ミサが懐かしそうに過去を回想していると、突然ソウヤが手をポンと叩いて目を輝かせた。
「おっ、そうだ!おまえもさ、なんか一曲歌ってくれよ。こっちにはどんな音楽があるのか、なんか知りたくなってきた!」
「えぇ…、歌う…!?そんなの、なんか恥ずかしいよ」
「いいじゃねぇか、ここには俺たち三人しかいないから恥ずかしがる必要はないんだぜ?何なら、エレリアも歌ってみろよ…、って言いたいとこだけど、おまえは何にも覚えていないから歌うなんて無理なんだろ?」
ソウヤに指摘されると、エレリアは慌てて肯定の意を込めて首を縦に振った。
「ほら、俺も歌ったんだからさ、いいじゃねえか。知ってるやつでいいんだぜ?」
「えぇー…」
どうにかして歌わせようとするソウヤに対して、ミサはずっと頬を赤く染めたままで、あまり乗り気ではなさそうだ。
「そういえば、ミサの歌声ってどんなのなんだろ…」
ソウヤとミサの談合の最中、誰にも聞こえない程の音量で、エレリアは静かに心の声を口にした。これまで生活を共にしてきた中で、彼女が歌を歌っている様子など当然一回も目にしたことがなかった。ただ、鼻唄は何度か耳にしたことはあったが。
故に、エレリアは彼女の歌声に対して興味が湧いてきていた。ミサはソウヤの頼みにあまり前向きではないが、できることなら彼女の歌う姿を見てみたい。
すると、エレリアとソウヤの願いが彼女に通じたのか、ミサは静かにため息をつくと呆れたような笑顔をこぼし、そして呟いた。
「…それじゃあ、私が小さい時にお母さんがよく私に歌ってくれてた故郷の唄でも久しぶりに歌ってみようかな」
恥ずかしげに放たれたミサの呟きに誰よりもいち早く反応を示したのはやはりソウヤだった。
「おっ、ついに歌う気になったか!」
「先に言っとくけど、下手でも笑わないでよね!!」
「おうおう、大丈夫だって!歌に上手い下手は関係ねぇから。そこに魂がこもってれば何だっていいんだ。そうだよな?エレリア」
「う、うん…」
いきなりソウヤから共感を求められ、エレリアはまたもや慌てて首を縦に振った。
こんな恐ろしい真夜中の廃村で私たちは一体何をやっているんだ、とエレリアは思わず呆れて笑ってしまいたくなったが、実際ソウヤがさきほど歌ってくれたことで、村に漂う寒くておぞましい空気が一変したのは紛れもない事実だ。この際、緊張の糸が少しでも緩んで精神的負担が減るのならなんだってよかった。
「んじゃ、聞かせてくれ!」
ソウヤがミサに促しの言葉を口にする。
すると、ミサは静かに目を閉じ、数秒後、彼女は意を決してゆっくりと歌い始めた。
「これは…」
手を握り、まるで祈るかの如くミサの口から放たれる歌声。それは、母親から抱きしめられた時に感じるような温かく美しい慈愛に満たされており、エレリアの鼓膜を撫でるように優しく揺らした。
村に漂う冷たい夜の静寂が彼女の歌声によってほのかに温められていく。熱情に駆られ熱く魂を込めて歌い上げたソウヤとはまた違う温もりを、彼女の歌声には秘められていた気がした。
「なんだ?この感じ…?」
ミサの歌声が素晴らしいのはもちろんのこと、エレリアはその歌自体に何か不思議な耳触りを感じていた。
心がもぞもぞと疼くような感じ。
自分以外誰にも触れることができないはずの心の奥に、なぜか彼女の歌が意思を持って、ずたずたと容易く入り込んでくる。拒絶しようにも、気づけば胸の奥には感じたことのない謎の熱い感覚に満たされていた。
「はぁ、はぁ…」
彼女の歌を聞けば聞くほど、なぜか息が苦しくなってくる。もうやめて、と思わず口にしてしまいたくなるぐらい、エレリアの身体は彼女の口から奏でられる「歌」によって蝕め始めていた。
彼女は一体何の歌を口ずさんでいるというのか。歌詞を聞き取ろうにも、それは明らかにエレリアには聞き慣れない言語だった。恐らく彼女の故郷の言葉なのだろう。だから、何と歌っているのか、そしてどういう意味がこの歌に込められているのか、彼女の言葉を理解できないエレリアにそれを知る術は無かった。
彼女の歌声は心地よいはずなのに、ずっと聞いていたいはずなのに、その反面、身体と心が不可思議な倦怠感と共にどんどん重く熱くなっていく。
歌詞が聞き取れずとも、明確に分かっていることは、ミサの歌とエレリアの身体の相性が合っていないということだ。
最後まで歌い切ると意を決したミサはエレリアの異変に気づく様子もなく、その熱意と覚悟を歌声に乗せて、どんどん声色の温度を上げていく。
そして、それに呼応するようにエレリアの身体は聖なる業火で焼かれるように熱くなってくる。もう、声すらも絞り出すことができず、苦痛に視界が霞んでいくのが分かる。
その間に、ミサは最後まで歌を歌い切った。ソウヤがわざとらしく称賛の拍手をミサに送る。
「えへへ、ありがと…」
ミサは恥ずかしそうにはにかんだ笑顔を見せると、ふいに幼少期の頃を懐かしむように視線を夜空に向けた。
「あのね、この歌はね、私が小さい時にお母さんがよく私に歌ってくれてた思い出の歌なんだ。この歌を歌えば怖いことがあっても必ず私を守ってくれる。そう、お母さんはいつも私に言ってくれてた」
「そうか、そうか、なるほどな。さしずめ、『お守りの唄』ってところか」
ミサの口からこぼれた過去の回想に、ソウヤが納得げに首を縦に振っている。
そして、この時二人はある違和感に気がついた。
先からエレリアの声がしない。
「って、リアちゃん、大丈夫!?」
「おい!どうしたんだよ!?」
不思議に思ったミサが振り返ると、そこには、地面に倒れ込んでいるエレリアの姿があった。
【次回予告】
ミサの歌を聞き、まるで浄化されるように苦しみだしたエレリア。彼女は一体、何を歌っていたのか。そして、ついに明かされる悲劇の真相と村長の秘密。
しかし、見惚れるような夜空とは対象的に、地上の世界は深い夜の闇の底に閉ざされていた。人々は闇の統べる恐怖から逃れるように寝静まり、風の音しか聞こえない深閑の世界がそこには広がっていた。
空から燦々と降り注ぐ陽の光を失った世界は、ここまで呆気なく表情を変えてしまう。昼間あれほど賑やかに鳴いていた小鳥の合唱も、鮮やかな花の色も、人々の楽しげに交わす談合も、今、闇に満ちた世界においてはもはやその見る影すらない。ただ、闇の凍てついた冷たさしか、この肌で感じることはできない。
その時、湿った夜風がエレリアの肌を舐めるように吹き付けた。
「ついに、来てしまったか…」
エレリアは震える腕をもう片方の腕で抑えた。
そして、背後からミサとソウヤの声が交互に聞こえてきた。
「ここが…」
「想像してた以上にヤベェとこだな…」
二人の口にした声色から、エレリアは二人が自分と同じく恐怖と不安に震えているのだと悟った。
三人が見つめる固く閉ざされた古びた門の先。
そこには、かつてある男によって滅ぼされたカロポタス村という名の悲劇の廃村が広がっていた。
ここに来るまで、それは長い長い道のりだった。
押し付けがましかった太陽が地平線の向こうへ姿を消し、黄昏の闇が辺りに満ち始めた頃、三人は荷物を持って、遠いカロポタス村を目指し家を出た。
道中、三人ははぐれないようお互い手をつなぎ、一昨日エレリアとミサがデイジアやベニレムタケを採取した『秘密の森』をもっとさらに奥に進み、そしてある海岸に到着した。
カロポタス村は小さな孤島に作られた村だ。故に、村に行くためには海を渡る舟が必要になる。
エレリアたちが森を抜けて辿り着いたその海岸には、孤島と大陸を結ぶための小さな船着き場の残骸が残っていた。しかし、そのほとんどは海から吹き付ける風や魔物たちの襲撃を許しボロボロに朽ち果てており、どの船も草やフジツボに無惨に侵食されていた。最後に機能を果たしたのが数十年前にもなるのだから、仕方のないことだろう。
それでも、エレリアたちはまだかろうじて乗れそうな小舟を埃まみれの小屋の奥からなんとか発見し、それをそのまま海に浮かべた。
そして、荒波に揺られながら三人はカロポタス村のある孤島へ進んで行ったのだった。
島へ上陸し、しばらく雑草の覆い茂った道を歩き続けると、ついに目的の村が姿を見せ始めた。そして、ようやく目にした村を前に、三人は静かに息を飲んだ。
「ここが、カロポタス村…」
その村は、見るからに異様な匂いと空気に満ちていた。
かつて入り口を担っていたであろう門は外部からの訪問を拒むよう固く厳重に太い鎖で閉ざされ、ここ数十年誰の侵入も許していないようだった。おまけに高い外壁が村全体を取り囲んでおり、いかにかつての村人が外部の訪問者を僻み嫌っていたのかが伺える。
「おい、もう一度聞くけどよ、本当に俺たちがここへ足を踏み入れてもいいんだよな…?」
エレリアの背後で、ソウヤが怯えた声をこぼした。
「うん、確かにちょっとここはすごいところだね…」
この場所に行くことを提案した本人も、村から漂う邪悪な冷気に肩を震わせているようだった。
死んだ村。ふとエレリアの脳裏にそんな言葉が浮かんできた。
人と動物と自然が同居した生命力あふれるコックル村とは違う。しかし、確かに「何か」がそこにはいる。このカロポタス村には、そんな不気味な雰囲気が立ち込めていた。
「だけど、私達はみんなのためにポーションを作らないといけない。だから、どんなに怖くても私は絶対にやってみせる!」
朽ち果てた恐怖の廃村を前に、ミサは自身の意気込みと強い決意をその口ではっきりと表明した。その目からは揺るがぬ固い意思を感じる。
「そうだな、ミサの言うとおりだ。こんなとこで立ち止まってたらいけねぇ。もし、何かあったら俺のこの『聖剣エクスカリバー』でぶった切ってやるから、恐れずどーんと行こうぜ!!」
ソウヤはそう言うと、腰に提げていた鞘から例の剣を空高く掲げた。
闇に映えるその白鉄の刃は、空から降り注ぐ月光を受けてさらに神々しく輝いていた。
彼の剣使いにおける技量の是非はさておき、剣自体の性能は目を見張るものがある。それは実際に、一昨日の森で魔獣の大群を一太刀で退けたからこそ分かる。この剣には計り知れないほどの力が秘められている。もし仮に廃村を探索してる最中、突然魔物が現れたとしても、最悪の場合逃げる時間ぐらいは稼げるだろう。
エレリアの持っているランタンの灯がチラチラと揺れている。今、この夜の闇を照らす光源はこのランタンと上空から照らされる微かな月の灯りのみだ。それ故に、無駄な時間を浪費することはあまり得策ではない。できることなら、早く目的の物を手にいれて、早くこの村から立ち去りたいところだ。
「それじゃあ二人とも、村に入る準備はいい?」
ミサがランタンでエレリアとソウヤの顔を照らし、最終確認をとった。
「おう!俺はいつでも準備オーケーだぜ!」
「うん…、私もいいよ」
エレリアは胸の中でうごめく不安と恐怖を抑えながら、ミサに返答の意を伝えた。ここまで来てしまったら、後は神に祈って、意のままに行動するしかない。
しかし、口では「いいよ」と言ったものの、エレリアの胸にはある一つの懸念がずっと引っかかっていた。
それは数時間前、エレリアが石炭を買いに行った際に、家路の途中でダンテから言われたあの一言だった。
『あそこだけには絶対に行くな…』
彼の険しい表情と共に、この言葉が何度も頭の中で響鳴する。
確かに彼の言葉通り、このカロポタス村という場所は、普通の廃村とは何かが違う。人が容易く入ってはいけない。立ち入ってしまうと、確実に何かに出会ってしまうような、そんな不吉な胸騒ぎがする。
やはり彼からの警告をミサたちにも伝えるべきだったか。あるいは、今この場で伝えるか。エレリアは今になっても、ずっと一人で悩んでいた。
しかし、葛藤の末出した結論は、二人には黙っておく、だった。今ここで彼からの伝言をミサとソウヤに語ったところで状況は何も変わらない。むしろ、無理矢理に奮い立たせた勇気の灯火をただ冷ますだけになってしまうだろう。
彼は一体村の何を知っているのか。そして、絶対に足を踏み入れてはならない理由とは何なのか。
その真実がエレリアには分からないまま、三人はついにカロポタス村の中へ入り込んでいくこととなった。
まず三人は村の外壁に沿って歩き、中へ侵入できそうな隙間を探っていった。
分厚い石材でできたその壁には、無数のツタと謎の植物が無情に侵食しており、村の経年を嫌と言うほど感じさせられた。
幸い、壁のある一部分に人一人がやっと入れそうな小さな穴を発見し、エレリアたちはそこから村に足を踏み入れることにした。
壁の穴を順番に抜け、ついに三人は村の土を踏みしめることができた。
そして、ようやく目にしたあまりに不気味で異様な村の様子に三人は言葉を紡ぐことができず、ただ凍りついた吐息をこぼすことしかできなかった。
村の建物は見たところほとんど木造でかろうじて形状を維持しているものもあれば、無惨に朽ち果て崩壊してしまっているものもあった。それらはまさに完全に魂を失った骸だった。
植物はみな枯れ果て、枝にぶら下がっている枯れ葉がまるでエレリアたちを手招きをするように夜風に揺れている。
命の温もりを微塵も感じれない冷え切った死の廃村。本当にこんなところでポーションの材料を見つけることなどできるのだろうか。強引に灯した勇気の灯火も、その想像を遥かに超えた村の異形を前に、すでに風前の灯火となっていた。
「ちょっと、二人とも、しっかり!!」
しばらくエレリアが恐怖に凍りついていると、突然ミサが手を大きく叩き、放心状態にあったエレリアの意識を現実世界に引き戻してくれた。
「おばあちゃんが残してくれた月光草まであと少しなんだから、気を抜かずに頑張っていこうよ!ね?」
すると、彼女の言葉に反応したソウヤが頭をかきながら返答の言葉を口にした。
「おぉ…、わりい、わりい。なんせもう真夜中だからさ、ちょっとボッーとしてただけだ」
ソウヤはそう言って苦し紛れに弁解の言葉を説いたが、去勢の隙間から見え隠れする内心はバレバレだ。きっと彼も村のおぞましい空気に震えていたに違いない。ただ、そんな状況でもいつもと変わらず意地を張り続けていられるその心意気に関しては、彼らしいと言えば彼らしいのだが。
兎にも角にも、ミサの言うように、ここで立ち止まるわけには行かない。
エレリアは勇気を誓った初心の覚悟と熱意を再び胸の中で抱き、ミサとソウヤと共に月光草が生える村の奥地へ進んで行った。
凍える霧が立ち込める廃村の中、エレリアたちは一歩一歩大地を踏みしめるように慎重に歩を進めていた。
崩れ落ちた住居の壁にはところどころ染みついた黒い血のような痕が見受けられ、かつて村で起きた惨劇を想起させていた。
ここで起きた悲劇。村長は、フェイルメアという男が村を滅ぼしたのだと、かつての寄合で語ってくれた。しかし、エレリアはそんな村長の語った話に関して、実は未だに懐疑的な感情を抱いていた。
村長の言い分は、フェイルメアという男が彼の恋人でもあった村長の妹を自らの手で殺し、反感を買った村人から虐殺された、というものだった。そして、彼の憎悪が暴走した魔力と結びつき、結果として彼の魂が魔物として地上に具現化した
名高い賢者の称号を持っていた故に、彼は一夜で村を滅ぼしかけた。しかし、そこで風来の勇者ヴェルダネスが旅の途中でここカロポタス村へたまたま立ち寄り、狂乱に溺れた彼の魂をその手で鎮めた。鎮圧されたフェイルメアの魂はもう二度と蘇ることがないように、どこか森の奥に今も深く封印されているという。
このコックル村に伝わる神話、やはり何度思い返しても、エレリアには不可解に思える箇所が何個かあった。
まず、なぜフェイルメアは恋人を殺したのかということ。もし仮に彼が愛人に裏切られたと仮定したなら辻褄は合うのだが、だとしたら神話はこの事実と共に継承されていくはずだ。しかし、村長の口からはそんな話は飛び出てこなかった。
そして、もう一つの謎。さすらいの旅人のヴェルダネスが魔物になったフェイルメアの暴走を止めたというが、それは果たして本当なのだろうか、ということ。村の危機にどこからともなく救世主が現れて、そして最終的には事を解決するなんて、いくらなんでも都合がよすぎではないか。
気づけばエレリアは腕を組んで、思考の海に意識をどんどん沈ませていた。
すると、突然ミサが話しかけてきた。
「おーい、リアちゃん?」
「…はっ。な、何?」
急いで我に返り声のする方へ顔を向けると、そこには不思議そうにこちらを見つめているミサがいた。
「どうしちゃったの?そんな難しそうな顔しちゃって」
「えっ、難しい顔なんてしてないけど」
ミサは首を傾けて、エレリアの思案を見透かすようにまじまじと視線を向けていた。
どうやらエレリアは村長が語ってくれた神話に対する考察に夢中になってしまっていたようだった。ミサは難しい顔をしていると語っていたが、自分ではそんな自覚はなかった。
するとその様子を見たソウヤがおもむろに唇の端を歪め、怪しげに目を鋭く細めた。
「ふふーん…、さてはおまえ、怖いんだろ?」
いきなり彼の口から飛び出た疑いの言葉にエレリアは完全に意表を突かれ、思わず気を取り乱してしまった。
「何ふざけたこと言ってんの!?別に、こ、怖くなんかないよ…!!」
エレリアは必死になって否定の言葉を吐いた。自分が小心者だなんて、それはエレリア自身のプライドが許さない。
だがそれでも彼は疑いの眼差しでこちらを見つめていた。
こうなってしまっては、事実をはぐらかすことは難しくなってくる。なのでエレリアはややこしくならないように、正直に彼に事の真実を話した。
「ただ、ちょっと考えごとしてただけ…」
「じゃあ何考えてたんだよ」
「え、それは…」
素早い彼の切り返しに、エレリアはまたしても言葉を濁してしまった。
なぜ、彼はここまで自分に執着してくるのか。
何よりもまずこの状況自体、どうでもいいと言えばどうでもいい。
怖がっているか否かなんて、子供でもあるまいし、深く言及することではないだろう。
しかし、彼の蔑むような視線を見ると、なんとしても嘘の事実を晴らしたかった。
だが、何と言えばいいのか。
カロポタス村にまつわる神話について考えていたと真実を話したところで、余計に状況をややこしくするだけだし、かえって雰囲気を更に悪化させてしまう。あるいは、そんなこと考えてたのかよ、とバカにされるか、どっちかだ。
そうしてエレリアが考えあぐねていると、
「はぁ。ま、いいや」
と、なんとソウヤは呆れたように話題を自ら終わらせたのだった。
意外すぎる彼の判断にエレリアは思わず口を挟みたい衝動に駆られたが、しつこく追求はされなかったので、ひとまず安堵の表情をこぼした。
「それにしてもよ、せっかく三人でいっしょに来たって言うのによ、なんだよこの静けさ。逆に幽霊を歓迎してるようなもんだろ」
そう言うと、ソウヤは呆れたように笑い声をもらした。
「だってしょうがないじゃん、夜は静かにしないと…」
「夜は静かにしないと…って、おまえはマジメか!?ここはカロポタス村なんだぞ。誰もいねぇんだから、そんなこと気にしてどうする!!」
神妙な面持ちのミサに対して、ソウヤはすかさずツッコミの手を入れた。
そんな彼の反応にミサはぎこちなく微笑みをこぼしながらも、また不安そうな表情を顔に戻し口を開いた。
「でも、正直言っておしゃべりできるようなテンションじゃないよ。だって、ここ、思ってた以上に怖いとこなんだもん…」
「ま、まぁ確かに、それもそうだな…」
彼女の口した正論すぎる発言に、さすがのソウヤも言い返すことができず、共感の意を込めて力なくうなずいた。
それもこれも、この村に来てエレリアが感じていたことは先程ミサがすべて代弁してくれた。
かつてここに人や動物が生活を営んでいたとは想像し難いほど、今のこの村には濃密な死の匂いと絶望の気配が嫌と言うほど充満している。こんな状況で楽しく談合を交わせ気にはとてもなれない。今の自分において、この押し寄せる恐怖と不安に心が潰されないように均衡を保っておくのが精一杯の振る舞いだ。
「だったらな、こういう時はな、大きな声で歌を歌えばいいんだ」
すると、ソウヤがいきなり何かを思いついたように人差し指を立てて、そのまま、ある提案を口にした。
「歌を歌う?例えば、どんなの?」
「どんなの、って、うーんとそうだなぁ」
ミサが問いかけを口にすると、ソウヤはしばし考える素振りを見せた後、
「じゃあ、こんなのはどうだ?」
と言い、大きく喉を数回鳴らし、深く深呼吸をした。
彼の所作の真意が分からず、エレリアとミサが互いに顔を見合わせて首をかしげると、ソウヤは二人の困惑をよそに、いきなり大声で歌を歌い始めた。
聞き慣れないメロディとリズム、そしてその彼の歌声。これが彼の故郷の歌なのだろうか。
少しも躊躇することなく、呆然とするエレリアとミサを尻目に彼の歌声は次第に熱を帯びていく。
そして、ソウヤ自らの熱唱により、凍てついた闇に満ちた地がほんの一瞬だけ温かな空気で彩られていくのをエレリアは感じ取ることができた。
これが音楽の力なのだろうか。
しかし、彼が満足げに歌い終わると同時に、辺りは冷たい空気に再び包まれた。ただ、その余韻だけが耳の奥で深く反響していく。
「えっと…、何だったの?その歌…?」
突然熱い生歌を披露してくれた彼に、ミサは少々困惑の表情を見せていた。
「今のが俺がよく聞いてた歌だよ…ていうか、そうだよな。おまえらは知らないよな、俺の聞いてた曲なんて」
そう言うとソウヤはふと眉根を寄せて、
「そういや、今ちょっと気になったんだけど、こっちにはどんな音楽があるんだ?」
と、ミサに疑問を問いかけた。
「ちなみに俺の住んでたとこにはな、おまえらの知らないようなスゲえ音楽がいっぱいあったんだぜ」
「へぇ、音楽か。こっちに来てからはそんなの一回も考えたことなかったな。子供の頃はよく街のパレードとかで耳にはしてたけど…」
ミサが懐かしそうに過去を回想していると、突然ソウヤが手をポンと叩いて目を輝かせた。
「おっ、そうだ!おまえもさ、なんか一曲歌ってくれよ。こっちにはどんな音楽があるのか、なんか知りたくなってきた!」
「えぇ…、歌う…!?そんなの、なんか恥ずかしいよ」
「いいじゃねぇか、ここには俺たち三人しかいないから恥ずかしがる必要はないんだぜ?何なら、エレリアも歌ってみろよ…、って言いたいとこだけど、おまえは何にも覚えていないから歌うなんて無理なんだろ?」
ソウヤに指摘されると、エレリアは慌てて肯定の意を込めて首を縦に振った。
「ほら、俺も歌ったんだからさ、いいじゃねえか。知ってるやつでいいんだぜ?」
「えぇー…」
どうにかして歌わせようとするソウヤに対して、ミサはずっと頬を赤く染めたままで、あまり乗り気ではなさそうだ。
「そういえば、ミサの歌声ってどんなのなんだろ…」
ソウヤとミサの談合の最中、誰にも聞こえない程の音量で、エレリアは静かに心の声を口にした。これまで生活を共にしてきた中で、彼女が歌を歌っている様子など当然一回も目にしたことがなかった。ただ、鼻唄は何度か耳にしたことはあったが。
故に、エレリアは彼女の歌声に対して興味が湧いてきていた。ミサはソウヤの頼みにあまり前向きではないが、できることなら彼女の歌う姿を見てみたい。
すると、エレリアとソウヤの願いが彼女に通じたのか、ミサは静かにため息をつくと呆れたような笑顔をこぼし、そして呟いた。
「…それじゃあ、私が小さい時にお母さんがよく私に歌ってくれてた故郷の唄でも久しぶりに歌ってみようかな」
恥ずかしげに放たれたミサの呟きに誰よりもいち早く反応を示したのはやはりソウヤだった。
「おっ、ついに歌う気になったか!」
「先に言っとくけど、下手でも笑わないでよね!!」
「おうおう、大丈夫だって!歌に上手い下手は関係ねぇから。そこに魂がこもってれば何だっていいんだ。そうだよな?エレリア」
「う、うん…」
いきなりソウヤから共感を求められ、エレリアはまたもや慌てて首を縦に振った。
こんな恐ろしい真夜中の廃村で私たちは一体何をやっているんだ、とエレリアは思わず呆れて笑ってしまいたくなったが、実際ソウヤがさきほど歌ってくれたことで、村に漂う寒くておぞましい空気が一変したのは紛れもない事実だ。この際、緊張の糸が少しでも緩んで精神的負担が減るのならなんだってよかった。
「んじゃ、聞かせてくれ!」
ソウヤがミサに促しの言葉を口にする。
すると、ミサは静かに目を閉じ、数秒後、彼女は意を決してゆっくりと歌い始めた。
「これは…」
手を握り、まるで祈るかの如くミサの口から放たれる歌声。それは、母親から抱きしめられた時に感じるような温かく美しい慈愛に満たされており、エレリアの鼓膜を撫でるように優しく揺らした。
村に漂う冷たい夜の静寂が彼女の歌声によってほのかに温められていく。熱情に駆られ熱く魂を込めて歌い上げたソウヤとはまた違う温もりを、彼女の歌声には秘められていた気がした。
「なんだ?この感じ…?」
ミサの歌声が素晴らしいのはもちろんのこと、エレリアはその歌自体に何か不思議な耳触りを感じていた。
心がもぞもぞと疼くような感じ。
自分以外誰にも触れることができないはずの心の奥に、なぜか彼女の歌が意思を持って、ずたずたと容易く入り込んでくる。拒絶しようにも、気づけば胸の奥には感じたことのない謎の熱い感覚に満たされていた。
「はぁ、はぁ…」
彼女の歌を聞けば聞くほど、なぜか息が苦しくなってくる。もうやめて、と思わず口にしてしまいたくなるぐらい、エレリアの身体は彼女の口から奏でられる「歌」によって蝕め始めていた。
彼女は一体何の歌を口ずさんでいるというのか。歌詞を聞き取ろうにも、それは明らかにエレリアには聞き慣れない言語だった。恐らく彼女の故郷の言葉なのだろう。だから、何と歌っているのか、そしてどういう意味がこの歌に込められているのか、彼女の言葉を理解できないエレリアにそれを知る術は無かった。
彼女の歌声は心地よいはずなのに、ずっと聞いていたいはずなのに、その反面、身体と心が不可思議な倦怠感と共にどんどん重く熱くなっていく。
歌詞が聞き取れずとも、明確に分かっていることは、ミサの歌とエレリアの身体の相性が合っていないということだ。
最後まで歌い切ると意を決したミサはエレリアの異変に気づく様子もなく、その熱意と覚悟を歌声に乗せて、どんどん声色の温度を上げていく。
そして、それに呼応するようにエレリアの身体は聖なる業火で焼かれるように熱くなってくる。もう、声すらも絞り出すことができず、苦痛に視界が霞んでいくのが分かる。
その間に、ミサは最後まで歌を歌い切った。ソウヤがわざとらしく称賛の拍手をミサに送る。
「えへへ、ありがと…」
ミサは恥ずかしそうにはにかんだ笑顔を見せると、ふいに幼少期の頃を懐かしむように視線を夜空に向けた。
「あのね、この歌はね、私が小さい時にお母さんがよく私に歌ってくれてた思い出の歌なんだ。この歌を歌えば怖いことがあっても必ず私を守ってくれる。そう、お母さんはいつも私に言ってくれてた」
「そうか、そうか、なるほどな。さしずめ、『お守りの唄』ってところか」
ミサの口からこぼれた過去の回想に、ソウヤが納得げに首を縦に振っている。
そして、この時二人はある違和感に気がついた。
先からエレリアの声がしない。
「って、リアちゃん、大丈夫!?」
「おい!どうしたんだよ!?」
不思議に思ったミサが振り返ると、そこには、地面に倒れ込んでいるエレリアの姿があった。
【次回予告】
ミサの歌を聞き、まるで浄化されるように苦しみだしたエレリア。彼女は一体、何を歌っていたのか。そして、ついに明かされる悲劇の真相と村長の秘密。
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