ペトリの夢と猫の塔

雨乃さかな

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第1章『始まりの村と魔法の薬』編

第18話 家族/My family

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 気づくと二人は血に飢えた魔獣の群れに完全に取り囲まれてしまっていた。逃げ道もふさがれており、文字通り絶体絶命の状況だ。
「あぁ…、ど、ど、どうしよう…、リアちゃん…」
 森の殺し屋たちに包囲され、ミサの口から恐怖と絶望にまみれた吐息が弱々しく漏れ出る。
 エレリアもかつてない危機的状況に、自身の本能が警鐘を鳴り響かせているのが分かった。
 今までもエレリアたちは危機というものを何度も経験してきた。そして、その度に二人は共に力を合わせ、時に運命をも味方につけながら、なんとかして困難を乗り越えてきた。
 だが、今回ばかりは今までの状況とは訳が違う。
 魔獣が取り囲む光景を前に、いくら頭をひねっても打開策が浮かんでこないのだ。
 浮かんでくるのは、ただ魔獣に食い殺されて終わりを向かえるという最悪な結末だけ。
「本当に、どうしよう…。このままじゃ、私たち…」
「あっ、そうだ!!」
 その時、エレリアの脳内に輝かしい閃きの閃光が走った。それは、この絶望的な状況を打開することができる、数少ない方法の一つだ。
「ミサ、魔法だよ、魔法!!ミサには魔法という名の武器があるじゃん!昨日の時みたいに、シュルフであいつらをやっつけてよ」
「ごめん、それは無理!!」
「え、なんで!?」
 エレリアのひらめきも空しく、ミサの予想外の一言を前にその輝きを失った。
「ここに来るまで、どっかに杖を落としちゃったみたいで。だから、魔法は使えない!!」
「えぇ…」
 ミサの思いがけない告白に、エレリアはまたしても救いようのない絶望の情に襲われた。
 どこかに杖を落としたなんて、その時のエレリアは現実を認めたくなかった。思い当たる節は何個かあるが、今さら分かったところでどうにもならない。
「杖が無いと魔法って使えないの?」
「魔法使いとかだったら無くてもできるかもしれないけど、私、別に魔法使いじゃないもん!!」
「そんな…」
 だがその瞬間もう一つ、エレリアの脳内に危機を脱することのできる素晴らしい解決策が舞い降りてきた。
「ミサ、あの臭いポーションなら…」
「もう全部使っちゃった!!」
 しかしすべて言い終わる前に、その真実をミサの口から告げられてしまった。
 そして、すべての望みを絶ち切られたエレリアの身体に、絶望と失望の感情が肉体の芯までじっくりと染み込んできた。脳は経験したことのない恐怖で凍りついてしまい、吐く息すらも冷たく震えている。
 しかし、二人を取り囲む魔獣の群れは、エレリアの腰に提げたあるものを見つめ、まだじっと様子を伺っていた。襲ってくる気配は今のところ見受けられない。
 なぜ、奴らは襲ってこないのか。もしかすると、よほど用心深い性格なのか。
 すると、その時エレリアは獣たちの視線からあることに気がついた。
「はっ、そうか。これなら…!」
 ただ唯一これらの魔獣を退けることができる、二人に残された最後の希望。
 そう、それは今朝ソウヤから念のためにと手渡された『せいけんえくすかりばあ』だった。恐らく、魔獣はこの剣に警戒しているのだろう。
 そうと分かった瞬間、エレリアは急いで鞘から白鉄の剣を引き抜き、その鋭い刃を奴らに高々と見せつけた。
 エレリアの思惑通り、彼女が刃を見せつけたとたん、一斉に魔獣は剣に怯え、少し守りの体勢をとった。
「リアちゃん、戦えるの!?」
「分かんないけど、やるしかないでしょ!!」
 ミサの懸念を振り切り、エレリアは身体の底から湧き上がる戦意に感情を昂らせ、力強く叫んだ。
 自分たちを取り囲んでいる魔獣は、ざっと見たところ10匹ぐらいだろうか。
 漆黒に塗られた体毛と、殺意を象徴するかの如く生え揃えられた鋭い牙。鋭利に細められた紅い瞳はただじっとエレリアたちの動向を観察しており、筋肉質な肉体はまさに獲物を狩るために特化した殺しの産物と言ってよいだろう。
 これらの特徴から考えて、奴らは今日エレリアたちが追いかけ回されたあの恐怖の魔獣に間違いなかった。
 恐らく、あの時ミサの投げたポーションの匂いを覚えた一匹の魔獣が、エレリアの左足に付いている同じポーションの匂いを頼りに、仲間を引き連れ静かに跡を追ってきたのだろう。
 とんだ誤算だ。まさかこんなことになるなんて、微塵もエレリアは予想してなかった。
「く、来るなら来い…」
 エレリアは腰を低く構え、『えくすかりばあ』の柄を強く握った。心臓は今にもはち切れそうなぐらい大きく鼓動を繰り返しており、全身は恐怖と緊張で凍りついていた。
 しかし、なかなか魔獣たちも攻撃を仕掛けようとしてこなかった。数で言えば圧倒的に奴らのほうが有利なはずなのに、なぜか一向に動こうとしない。
 美しい夕映えに包まれる中、両者の間でしばらく硬直状態が続いた。
 こんな剣一本で、本当に自分はやれるのか。意識は目の前の魔獣たちに集中したまま、ふとエレリアは自分自身に問いかけた。
 まともに剣すら握ったことないのに、こんな大量の相手をやれるわけがない。
 迎える結末はだいたい見えている。
 だが、だからと言って諦める訳にはいかない。 王国にポーションを届けるためにも、そして、生きて帰るためにも、今ここでやれることはただ一つ。ただ、運命に抗うしかない。

 あまりに長い硬直状態によりエレリアの緊張の糸が少し緩んだその瞬間、事態は何の予告もなく突然動き出した。
 そう、群れの中から飛び出した一匹の魔獣が先陣を切りエレリアに向かって牙を見せたのである。
 完全に先手を取られ、エレリアの剣が遅れてその魔獣に反応した。
「しまった!!」
「リアちゃんっ…!!」
 気づくと魔獣はすでにエレリアのすぐ顔の前にまで迫っていた。大きく開けられた奴の口から、血に濡れた牙が見える。

「ダメだっ、間に合わないっ…!!」

 魔獣から先制攻撃を仕掛けられ、エレリアには剣を振り、そして切りつける余裕など残されていなかった。このままでは、剣を降りかざしている隙に殺られてしまう。
 だが、こんなところで負けてなどいられない。
「ふんっ!!」
エレリアは一か八か刃の先端をすばやく魔獣に向け、喰らいにかかる奴の腹を『せいけんえくすかりばあ』でそのまま貫いて見せた。内蔵を突き刺した生柔らかい感覚が剣の柄からエレリアの手に伝わる。
『グルァァァァァ!!』
 飛び付いてきた魔獣の牙はすんでのところでエレリアの鼻先をかすめ、代わりに口から黒い血を吐き散らし、彼女の剣に突き刺さったまま絶命した。
「うわっ!!」
 その際、奴の吐き出した血が意図せずエレリアの顔に吹きかかってしまった。
 図らずも視界を奪われエレリアは急いで目元を乱暴に拭う。
「リアちゃん、危ないっ!!」
 ミサの必死の叫びを耳に入れ、エレリアは霞む視界で辺りをすばやく確認した。
 すると、エレリアのすぐ横からまたしても一匹の黒い影が牙を向けてこちらに襲いかかっていた。
 その魔獣はすでに空中を滑空している最中で、この時点でエレリアに喰らいつく体勢を取っていた。このままだと数秒後には、喰らいつかれてしまう。
 またしても先手を打たれてしまった。
 そして最悪なことに、エレリアの剣には先ほどの魔獣が突き刺さったままだった。これでは、自慢の斬擊を奴に与えることができない。
 しかし、ここで背に腹は代えられない。

「こんのぉっ!!」

 エレリアは闘争本能に駆られるまま、獣の屍が突き刺さった剣を強引に飛びかかる相手にそのまま勢い良く叩きつけた。
 これで、刃の斬撃は喰らわせられなかったものの、刺さった同士の死体をうまく用いてなんとか打撃を奴に喰らわせることはできたはずだ。
『ギャウン!!』
 彼女の想像を絶する怪力を前に、打撃を喰らわされた魔獣はただ呆気ない悲痛の叫びをその喉から漏らすことしかできない。
 そしてエレリアは飛びかかってきた魔獣をそのまま力まかせに遥か彼方へ吹き飛ばしてやった。
 昨日初めて剣を握った時はとても重く感じたのだが、今この時だけはまるで傘を振り回しているかの如く剣がとても軽く感じられる。燃え上がる闘争心に全身の血がたぎり、重い剣を軽いと錯覚しているのだろうか。
 真実は不明だが、今はそんな細かなことは気にしてられない。
 エレリアは先の獣を吹き飛ばした後、急いで剣に突き刺さった魔獣の死体を引き抜いた。大きく開いた傷口からは腸が飛び出し、真っ黒な血煙が体外へ盛大に吹き出している。
 白目を向き、誰にも見せるはずのない臓器を残酷に体外へぶちまけている哀れな獣の亡骸。
 常時なら一目しただけでも嫌悪感に吐き気を覚えてしまうような極めて醜悪な光景も、熱く湧き上がる戦意に意識を焼き尽くされた状態をもってすれば何の慈しみも同情も感じなかった。そこにあるのはただの肉片。ただの魂の抜けた動物の肉体だけだ。
 エレリアは本能を戦いの炎でたぎらせたまま、次の魔獣の行動に備えた。
 行ける。
 二匹の魔獣を打ち倒したという事実が、エレリアに過度な自信を与えていた。
 身体は燃え盛る闘志で次第にその温度を上げていき、それは今にも全身の血液が蒸発してしまいそうなほど。その気になればこの世界すらいとも簡単に滅ぼせるかもしれない。
 しかし、熱くなっている体とは対照的に、頭の中はどこまでも静かに研ぎ澄まされていた。獣の動向はおろか、風に揺れた遠くの木葉すら見逃さないぐらい意識は平常の感覚を遥かに越えていた。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 すると突然、ミサが恐怖に掻き立てられた渾身の悲鳴を森の奥まで轟かせた。
 その刹那、取り囲んでいた魔獣が一斉にエレリアたちに向かって飛びかかっていた。先ほどのように一匹ずつでない。全員で、だ。
 きっと単体では勝ち目がないと悟ったのだろう。ついに奴らは集団で襲いかかってきたのだった。

 どうする、私。

 突如、光景が緩やかに流れる不可思議な一瞬の間、エレリアは窮地の選択を迫られた。

 四方から敵がそろって自分に向かって跳びついている。
 これから一匹一匹、丁寧に相手をしている時間や隙はもちろん無い。
 だが、相手は集団。こちらは、自分だけ。
 だったら、この剣の力を信じてまとめて片付けるのみ。

 エレリアは強く覚悟を決め、剣の柄を強く握った。
「ミサ、しゃがんでっ!!!」
「…っ!!」
 エレリアに促されるまま、ミサは慌てて頭を抱えて、勢い良く膝を折った。
「これでも、喰らえぇぇぇぇぇ!!!!」
 そして、喉が張り裂けるぐらいの絶叫と共にエレリアは大きく身を翻し、渾身の回転切りを見舞った。
 彼女の振り切った『せいけんえくすかりばあ』から柔らかな光が生み出される。そして、それは急速に光の衝撃波として現実に具現化し、エレリアの殺意を宿したまま、彼女を中心とした同心円上に空を切り裂いていった。

『グルルルァァァァァァ!!??』

 唐突に繰り出された攻撃を綺麗に空中で避けきれることもできず、魔獣たちはエレリアの放った閃光の暴威を前に、次々にその姿を肉きれへと変えて見せた。
 光の刃に切り裂かれた獣たちの血煙が宙を華麗に彩る。
 その威力はすざましく、屈強な肉体を誇っている獣の胴体を綺麗に真っ二つに切り分けてしまうほど強力なものだった。これは致命傷どころではない。触れるだけで命ごとあの世へ肉体を刈られてしまう。
 そして、剣を振ったと同時にエレリアも苦しそうに大地に手をついた。今の強力な一撃と引き換えに、膨大な体力と魔力を使ってしまったのだろうか。視界はゆらゆらと明滅し、なぜだか意識が安定しない。
 その時、一匹の魔獣が咆哮を轟かせた。
「…!?」
 まだ生き残りがいたのだ。
 先の攻撃で群のほとんどをまとめて倒すことができたのだが、それでもまだ残りの数匹が殺意の視線と共にこちらに牙を向けていた。
 そしてこの時、エレリアは焦りを覚えた。
 先ほど激しく体力を消耗してしまい、もう一回剣を振れるかどうかも定かではない。そんな状況にも関わらず、自分はあと生き残った数匹の魔獣を相手にしなければならないのだ。
 激しく燃え盛っていた戦意の炎はすでに風前の灯火となり、絶望と焦燥の冷気が身体を凍てつかせる。あの時の自信はどこかへ消え去ってしまったようだ。

『ガゥゥゥゥゥゥ…!!』

 仲間があれだけ殺戮されたにも関わらず、その魔獣は少しも怯えることなくエレリアを敵意の視線でにらみ付けていた。
「うぅ…」
 魔獣の諦めの悪さに、エレリアは呆れ果ててしまっていた。
 もう早く負けを認めて、降参してくれればいいのに。エレリアの頭の中に弱音の一言が浮かび上がる。
 仲間があれだけ殺され、そして圧倒的なエレリアの力を前にしても、なぜこの生物たちは逃げようとせず、むしろ立ち向かって来るのか。エレリアには魔獣たちのその底知れぬ闘志を理解できなかった。
 これが野生の性なのか。
 あるいはこここまでが、エレリアの体力を消耗させるための戦略だったのか。だとしたら、エレリアはまんまと奴らの罠にハマったことになってしまう。
 どちらにせよ、状況は振り出しに戻ってしまった。

 だが、ついにこの戦いも終わりを迎える時が来た。

 仕掛けてきたのは、またしても魔獣の側。
 うずくまるエレリアを視界の中心に捉え、走りに特化したその四肢で一気に互いの距離を縮める。
「リアちゃん…!!しっかりして!!」
 苦しそうに浅い呼吸を繰り返すエレリアの背中に、急いで駆け寄ったミサが慌てて体力を回復する小さな魔法を注いだ。
 その間も、こちらへ疾走する黒い影はその足を止めることなく、地面を縫っていくように加速していく。
 このままだど、ミサもろとも自分も殺られてしまう。そして王国にポーションを届けることもできず、たくさんの人の期待が、幸せが、喜びが、そこで断ち切られてしまう。
 そんなことあってはならない。
 こんなところで、無惨に負けてなどいられない。
「うわああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 ミサの治癒のおかげで再び身体に闘志の炎が再燃し、エレリアは剣を強く握り、そして立ち上がった。
「邪魔するなぁぁぁぁぁああ!!」
 湧き上がる怒りと荒れ狂った感情と共にエレリアは全身全霊の力を両腕に込めた。そして、飛びかかる魔獣を力任せに思いっきり叩き切った。
 剣の凄まじい衝撃波が森全体に広がり、木々が一斉に大きくざわめき立てる。
 そして、エレリアの凄まじい威力で斬りつけられた魔獣は一瞬のうちに吹き飛ばされ、近くに生えていたカシの木に激しく叩きつけられた。森の奥まで響きわたる壮絶な衝撃音とともに、獣が打ち付けられたカシの木からは大量の葉っぱが地面に降り注いだ。
「あわわ…」
 ミサは始終エレリアの常軌を逸した怪力に、腰を抜かすことしかできなかった。あまりの驚愕に、二の句も告げない。
 生き残った魔獣たちもさすがにエレリアのとてつもない力に恐れを感じ、逃げるようにその場を去っていった。

「はぁ、はぁ、はぁ…」
 手にしていた剣を地面に落とし、戦闘を終えたエレリアはよろよろと崩れ落ちるようにバランスを崩した。気づくと剣の刃はその神々しい輝きを失い、いつもの冷たい白鉄の刃に戻っていた。
「リアちゃん!?」
 倒れかかるエレリアの身体に対して、慌ててミサは彼女の身体を受け止めた。
「大丈夫!?」
「う、うん…。なんとか」
 エレリアは苦しそうに表情を歪ませながらも、ミサにきごちない微笑みを返した。あれほど身軽だった身体も、緊張感と戦意を失った今はただの重い疲労しか残っていない。激情で燃え盛るほど熱くなっていた血も、今ではすでに冷えてしまっている。
「リアちゃんって、すっごく強いんだね。私ビックリしちゃったよ」
「ま、まあね…」
 エレリアはミサの輝かしい視線に照れ笑いをこぼした。
 しかし、このことについてはエレリア自身も驚きを隠せなかった。
 まさか、あの凶悪な魔獣の郡れを本当に自分が退けてしまうとは。今になっても現実を信じることができない。
 ただ、辺りを見回すと、改めてその自分の強さに気づかされる。
 散乱する無数の獣の死体。それらは確かに二人を襲ったあの魔獣たちのものだった。そして、そのすべてはすでに息絶えており、再び襲ってくる気配は少しも感じられなかった。
 中には見ていられないほど損傷が激しいものも存在し、本当に自分が彼らを殺したのかと自身の目を疑ってしまいたくなる。
「こんなに強かったら、私なんだかとっても心強い気持ちだよ。ありがとう」
 むせ返るほどの血の臭いが充満する森の中、ミサが笑みをこぼした。
 その微笑からは、ミサのエレリアを頼る絶対的な信頼を読み取ることができたのだが、その時のエレリアは彼女の言葉に対して純粋に笑うことができなかった。
 彼女のその柔らかな微笑みが、エレリアの心に引っ掛かったのだ。
 心の奥に渦巻く、負の心情。それはエレリアが今日までずっと一人で抱え込んでいた葛藤そのものだった。
 今なら、自分とミサ以外誰もいない。
「ねぇ、ミサ。突然なんだけど私の話、聞いてくれる?」
 エレリアはミサの目を覗き込み、か細い声でそう呟いた。こうして真面目な話を二人きりでするのは少し照れくさくはあったのだが、なぜか今ならその心の悩みを彼女に気負うことなく話せる気がしたのだ。
「うん、いいよ」
 エレリアはミサが優しくうなずいたと同時に、心から湧き上がる心情を思い思いに言葉として口から吐き出した。
「私ね、さっき戦ってる最中にふと思ったの…」
 エレリアの真剣な表情に、ミサも口角を引き締め耳を彼女に傾ける。
「ふと思った、って何を思ったの?」
「いや、すごくどうでもいいことではあるんだけど…」
 エレリアは気恥ずかしさについ乾いた笑いを漏らしてしまったが、すぐに意を決して、その心情の真意を口にした。

「こいつらにも家族っているのかなぁ、って思っちゃって」

 周囲の魔物の死体を眺めながら語られたエレリアの発言を耳にし、ミサは少し不可解そうな表情を浮かべた。
 一瞬の間だけ、沈黙の時間が生まれる。
「家族?」
「うん。家族」
 ミサの問いかけに、エレリアは強く肯定の意を示した。
 しかし、その時ミサはエレリアの発言の真意が何なのかよく分かっていなかった。ここへ来て、なぜ急に家族の話をしだすのか。
 そして、しばらく思考した後ミサはふと何かを悟ったようにエレリアの瞳をまっすぐ見つめた。
 そして、いきなり核心に触れないように、慎重に言葉を紡いだ。
「もしかして、リアちゃん。さっきこの子たちの命を奪ったことに対して後悔してるの?」
「あっ、いや。別にそういうわけじゃない。そりゃあ、少しはやりすぎちゃったなとは思ってるけど…」
 どうやらミサが誤った解釈をしてしまったようだったので、エレリアは急いで首を横に振った。事実、彼女の言ったように魔物たちを無慈悲に殺めてしまったことに関しては、少しはエレリアも罪悪感の念を抱いている。
 しかし、あれは仕方のないことだったのだ。逆にあの時やらなければ、こっちがやられていたかもしれない。
 エレリアはミサによく分かるように、心情の真実の部分を赤裸々に語り始めた。
「なんかね戦ってる時、突然こいつらの事がうらやましいって思っちゃって…」
「う、うらやましい!?」
 エレリアの口から飛び出した言葉に、思わずミサが驚愕の声を上げた。
「なんで、うらやましいって思うの?」
「だって、こいつらにも家族はいるわけでしょ?」
 ミサのリアクションに少しも動じることなく、エレリアは周囲の獣の亡骸に視線を送りながら口を開いた。
「まぁ、そりゃ…。家族って呼べるのかどうかは分かんないけど」
「実は、最近ずっと考えてたんだ。この世界のどこかにいる、私の家族のこと」
「リアちゃんの家族?」
「そう。だけど私は昔のことを思い出せないから、私の家族がどこにいて、そしてどんなものなのかさっぱり分からない…」
 話はどんどんエレリアの心情の中心部に進んでいき、エレリアも胸を押さえるようにして言葉を吐き出していく。
「だから時々ね、とっても怖くなるんだ。もう私の家族には二度と会えないんじゃないかって」
 すると、エレリアが弱音に似た告白を口にした瞬間、ミサがエレリアの発言をかき消すように急に叫び出した。
「そんなことないよ!ずっと会いたいって思っていれば、絶対思いは通じるよ!」
 それはミサのエレリアに対する励ましの言葉だった。
 しかし、ミサの全力の激励も当人の心には少しも響いていないようだった。
「ミサの言うとおり、私もそう思ってた。そして、もう一度会いたいってずっと願ってた。だけどね、時が経つにつれて、だんだん気づいてきたんだ。もう、本当にお母さんとお父さんには会えないんじゃないかって」
 言葉を紡ぐ自身の声が、一瞬だけ震えた涙声に変わったのがその時のエレリアには分かった。
 感情がこみ上げ、ちょっとでも気を緩めてしまえば、すぐに涙があふれだしてしまいそうな状態。
 しかし、友人の前でそんな醜態をさらすわけにはいかないとエレリアは強く自分に言い聞かし、できるだけ平静を保つよう努力した。
「お父さんとお母さんに会えないなんて、なんでそんなこと…」
「いくら思い出そうとしても、全然思い出すことができない…。それどころか、考えれば考えるほど、分からなくなってくるの。私は、一体どうやってこれからを生きていけばいいのか…」
 エレリアは苦しみながらも、必死に心の内をすべて吐き出してくれた。
 しかし、この時ミサはエレリアに何と言葉を返していいのか分からずにいた。友人が目の前で苦しんでいるというのに、どうやって声をかけてあげればいいか分からなかった。ただ、黙ることしかできなかった。
「もちろん、ミサとソウヤと一緒に過ごす毎日はとっても楽しいんだよ。何なら、こんな日常がいつまでもずっと続いてほしいくらい。だけど…、だからこそ、私は私の居場所が分からなくなる。本当に、私はずっとここにいていいのかって不安になってしまうんだ」
 今まで滞っていた複雑な心情を根元に、次々に言葉が喉の奥から湧き上がってくる。
 止まらない。止めることができない。
「今の暮らしはとっても楽しい。だけど、実際は私には帰るべき場所がある。私を待ってくれている人がいる、家族がある…」
 気がつけばエレリアは目から一筋の涙を流してしまっていた。
 泣かないと必死にこらえていたが、一度涙が流れてしまうと、せき止めていた蓋が崩壊したように滂沱の涙が瞳の奥からこみ上げてきた。
「う、うぅ…」
 言葉を詰まらせ、嗚咽を漏らしている。
 そんなエレリアが泣きじゃくる姿を見て、ミサはただ無意味な吐息を漏らすことしかできなかった。
「リアちゃん…」
 まさかエレリアがここまで己の境遇に苦しんでいるいるなんて、これまでのミサは少しもそんなことを思っていなかった。毎日の生活の中で楽しそうにしているエレリアの姿を思い起こすと、なおさら痛感させられる。
 悩みなんて一つもないと思っていた。しかし、それはミサの思い込みに過ぎなかった。エレリアにはエレリアなりの苦しみがあった。葛藤があった。
 だが、考えてみればそれは当然のことだと、ミサはこの時遅れて気づくことができた。
 理由もわからないまま、それも記憶を失った状態で運命に見放され、村に無理矢理住まわされているのだ。そんな状態で、悩みが無いわけがない。
「私は…、私は、これから一体どうすれば…」
 エレリアは熱くなる感情に胸がいっぱいになり、もう言葉を吐くことすらままならなくなっていた。熱を帯びた涙は枯れるということを知らず、瞳の奥から次々に溢れ出してくる。
 この時のエレリアは、まるで自分だけがこの世界からただ一人置き去りにされているような感覚に沈んでいた。
 この世界のどこに行こうが、記憶を取り戻さない限り自分は生きていくことができない。いつまでも、忘却の彼方に存在する家族を求めてしまう。
 だとしたら、自分は死んでいるのと同じだ。そこらに転がっている魔獣の死体と何ら変わらない。
 この苦悶の果てに答えは見つかるのか。いや、もし答えが存在すると言うのなら、もうとっくに見つけてしまっているだろう。
 エレリアは完全に心の闇に飲まれてしまっていた。現実を素直に受け止めるほど、その闇は次第に肥大していき、自身の心情を喰い荒らしていく。
 もう、自分はこの世界に存在することはできないのか。
「…」
 するとその時、隣でミサが何かを決したように眉を引き締めた。
 そして、エレリアに力強くこう告げた。
「リアちゃん」
 ふと耳元で声が聞こえ、エレリアは顔を覆っていた両手をゆっくり開けた。
「顔上げて、こっちを見て」
 涙でかすむ視界の向こう。そこには、こちらを鋭い眼差しで見つめるミサの姿があった。その視線はただまっすぐこちらを射ぬいている。
 そこから何の不純な感情も読み取れない。ただ、ひたすらにまっすぐ。世界中の誰でもない、エレリアのためだけを思った純愛の念が視線を通して伝わってくる。
「リアちゃん。あなたがそこまであなたの家族のことを思い出せなくて、そして、それでとても悲しむようだったら…」
 ミサが静かに、それでいてどこまでも熱い感情を乗せて、ゆっくり語り出した。
 そして、少し間を置いた後、ついに心に留めていたその言葉を、口から現実のものとした。

「私があなたの家族になってあげる」

 これが、ミサの見つけたエレリアの苦悶に対するただ唯一の答えだった。
「えっ…?」
 突然の告白に、エレリアは動揺を隠せない。
 家族になってあげる。
 この一言が、何の真意も持たないままエレリアの脳内を反復する。
 ミサはどういったつもりで、今の発言を口にしたのだろうか。
「確かに今までは、あなたと私は『友達』っていう関係だったかもしれない。それは私がお願いしたことだから、私がよく分かってる。だけど、今日でそれも終わり。今日から私たちは家族。血は繋がってないけど、私たちは家族になるんだよ」
 優しく、力強く語られるミサの提案。
 エレリアはすでに泣くことすら忘れ、ただミサの真剣な視線に呆然としていた。色んな感情が頭の中で混濁し、うまく気持ちの整理をつけることができない。
 そして続けて、ミサは口を開いた。
「あなたは、この世界のどこかにいるあなたの家族のことを思って、それで悩んでいるんでしょ?でも、もう帰ることができそうにない…」
 エレリアの動揺を差し置いて、ミサは愛をはらんだ微笑みのままゆっくり語っていく。
 そして、すっと一息つき、優しく微笑んだ。
「だったら、ここからあなたの新しい人生をゼロから始めればいいんだよ。今までの自分も何かも捨てて、新しいエレリアとして生まれ変わるの。そうすれば、モヤモヤした気持ちもスッキリするでしょ?」
 この言葉を聞いた瞬間、エレリアの心の中で何かが溶ける音がした。
「…!?」
 次第に胸が熱くなってくる。
 いや、もはや熱いと言う言葉では形容できないほどの不思議な感覚。
 だが、確かにそこには愛という名の不変の慈しみが染み込んでいた。
「それでも、もしあなたがお父さんとお母さんをどうしても忘れられないと言うのなら、このポーション作りが終わって、スカースレットの王様を救った後に一緒に世界中を探してみようよ。それまで、私たちは家族。世界で一つだけのあなただけの居場所になるの」
 エレリアの冷たい心の奥底に、ミサの語った愛の温もりが優しく注がれる。その慈愛はゆっくりとエレリアの心を温かく暖かく満たしていき、そして、それは彼女の瞳から再び涙としてこぼれ落ちた。
「うっうぅ…、ミ、ミサ…」
 記憶を失ってから始めて、エレリアは自分という存在を認めることができた気がした。今までエレリアはなんで生きているのか、その理由が分からなかった。日々の生活の中で、自分という存在を見出だせずに生き続けていた。
 だが、この時ミサという人物が確かに自身を肯定してくれた。生きる意味を、場所を、共に自分に授けてくれた。
 そして、ミサは冷えきったエレリアの白い手を握り、聖母のような微笑と共にこう口にした。

「だからリアちゃん、もう泣かないで」

 この言葉が鼓膜を揺らした瞬間、エレリアの目からは再び熱い涙がこぼれ出していた。
 泣かないでと彼女に言われたのに、溢れ出る涙をこらえることができない。
 だが、それでもエレリアは赤くなった瞳を両手で押さえながら、震える喉で言葉を絞り出した。
「ありがとう…。ありがとう、ミサ…!」
 そして、ミサを思いっきり抱き締めた。
 彼女の愛を、温もりを、優しさを、慈しみを、全身で感じた。
 自分は一人じゃない。もう過去に頼ることなく、自分で生きて行ける。
「ふふふ…」
 いたいけに抱きつくエレリアをミサもそっと抱擁し、まるで我が娘のように優しく撫で付けた。
 そして、抱き締めていたエレリアの身体を解放し、そっと呟いた。
「じゃあ帰ろっか、私たちのおうちに」

 黄昏が包みこむ夕闇の森の中、二人の少女が手を繋いで静かにその帰路を歩いて行った。
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