ペトリの夢と猫の塔

雨乃さかな

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第1章『始まりの村と魔法の薬』編

第3話 約束/Promise

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 ここは、どこだ?


 見渡す限りの純白に包まれた世界で、気づけばエレリアは一人、膝を抱えて座っていた。
 どこまでもどこまでも真っ白で、自分以外誰もいない。
 いや、誰もいないと言うより、むしろこの世界で一人だけ取り残されてしまったような気分だ。
 しかし、その疎外感の理由も、このまどろみの世界の正体も、今のエレリアでは到底理解することはできない。


 あれ?体が、動かない…?


 突然見知らぬ世界で目を覚ましたエレリアはとにかく立ち上がろうと決心したのだが、なぜかうまく足を動かすことができなかった。
 それどころか、身体全体が石のように固く、エレリアは腕も足も口も目も自由に動かすことができなかった。それはまるで、エレリアの身体自身が、彼女の命令を拒んでいるかのようだった。


 だ、誰か、助けて…!!


 身体の硬直に耐えきれなくなったエレリアはとっさに助けを口にしようとするが、思えば先ほどから口から声が出ていないことに気づく。
 実際にはエレリア自身、今みたいにはっきりと自分の意思を表明することもできたし、はっきりと自分の声を聞くこともできた。
 しかし今のエレリアの声は、すべて独白めいたような心の声に近いものだった。なので、その声は身体の外に発されることはなく、何度も彼女の頭の中で反響していた。
 つまり、いくら叫ぼうが彼女の声は誰にも届くことはない。


 うぅ、く、苦しい…?


 完全に動かなくなってしまったエレリアの身体。
 するとなぜか次は、彼女の身体はどんどん重たくなっていった。
 その重みは次第に重圧を増していき、まるで何か巨大な物が彼女の上にのしかかったように、無力な少女のエレリアを無情に押し潰していく。
 そんな身体の硬直と重圧に、彼女の心も恐怖と不安の圧迫で押し潰してされていった。
 エレリアはだんだん胸が苦しくなり、呼吸することすらもままならなくなってきていた。
 あまりの苦痛に視界が狭まり、意識が薄れていく。


 「エレリア」


 遠のく意識の中で、ふとエレリアの耳に女性の声が届いた。
 それは、ほぼ瀕死のような状態のエレリアにもはっきり聞くことができた。


 …だ、誰?


 重圧に抗い、出来る限りの力を振り絞ってエレリアは顔を上げてみた。
 すると、誰もいないはずのそこに、なんと白い服の女性がたたずんでいた。
 まばゆい白い光に遮られ、女性の顔までははっきり確認できなかったが、その女性から放たれる光は慈愛に似た温かさに満ちていた。
 そんな女性の崇高なたたずまいに、なぜかエレリアは懐かしい気分になった。


 「エレリア。明日こそは、あなたを…」


 女性は小声で言葉を口からこぼしたが、最後の言葉まではエレリアの耳に届かなかった。
 そして、謎の言葉を残したその女性は、それ以上何も言うことはなく、そのまま姿が薄くなっていく。


 …ま、待って!置いてかないで!


 目の前で消え失せようとする女性に、エレリアは必死に手を伸ばそうとする。
 しかし、こんな大事な場面でも、やはり腕はエレリアの意思に反して少しも動いてくれない。その間にも、目の前の女性はぼんやりと消えていく。
 その時、エレリアはなぜか、また置いてけぼりにされた気持ちになった。あの女性が誰なのか知らないが、なぜかエレリアにとっては彼女が懐かしく感じた。
 だから何なら、このままエレリアも目の前の女性と一緒に消えたかった。早くこの苦しみから解放して欲しかった。


 お願い!!私を一人にしないで!!


 しかし、無情にも女性はエレリアの願いを聞き入れることなく、とうとう「人」としての輪郭はほぼ消え、ほとんど「光」になりかけていた。
 それでも、エレリアは動かない手を全身全霊で伸ばし続けようとする。


 お願い、一人にしないで…


 そして女性はとうとう、白い光に溶けて、完全に消えてしまっていた。


 お願い、一人に…












「…!?」
 エレリアは突然目が覚め、飛び起きた。
 心臓は激しく高鳴っており、汗をぐっしょりかいている。
「はぁ、なんだ、夢か…」
 エレリアは急いで辺りを見渡し、自分が今ミサの家の二階のベットにいることを確認すると、胸を撫で下ろして安堵の息を吐いた。
 どうやら、あの不気味な白い世界も光に包まれていた謎の女性も、全部エレリアの見た悪い夢だったようだ。
「嫌な夢だったなぁ…」
 エレリアは身体に異常がないか、両手で全身のあちこちを触ってみた。全身の骨が折られるのではないかというほどの苦痛を夢の中で受けたのだから、現実世界の方の自分も何かダメージを負ったのではないか、とエレリアはそう思った。
 しかし、見たところ目立つような傷や痛みなどはなく、実際に腕も足も自由に動かすことができた。
「なんだったんだ、あれは…」
 改めてエレリアは、夢の中のあの苦痛を思い出した。
 自分を痛めつける、声にならないほどの激痛。
 現実世界の身体は何も覚えてなくとも、エレリアの記憶の中にしっかりあの痛みは刻まれていた。正直言って、二度と経験したくないほどのものだ。
 しかしそんな夢の中の苦痛も、現実世界に帰ってエレリアは、あれはもしかすると自分への何かの戒めだったのではないかと、そんな風に思えてならなかった。
 それは、エレリアにとってあの夢の中の重圧は、自然に身体の上にのっかかってきたというより、誰かが上から押さえつけてくるような不思議な感じのものだった。それも、何か過ちを犯した者への制裁かのような。
 しかし、エレリアには特別悪いことをした心当たりは何もなかった。もしかすると、ミサに拾われる前の記憶の中に何か真実が隠されているのだろうか。
 どちらにせよ、今すぐ答えは見つかりそうもない。
 そして、自分の目の前に現れた謎の女性。
 女神のような尊い雰囲気に包まれていた彼女は、夢の中で何かを口にしていたように思えた。それは、耐えがたい苦しみに悶えていたエレリアでも、はっきり聞くことができた。
 しかし、夢から覚めてしまったエレリアには、あの時彼女が何を口にしていたか、今となってはもう思い出すことはできなくなってしまっていた。
 もう一度、あの人に会えないだろうか。
 エレリアはふとそんなことを思った。
 なぜかあの女性の存在を想像するだけで、エレリアは冷えきった心が温まっていくのを感じることができた。それは、見知らぬ土地で心細いエレリアにとって、いつまでも抱き寄せていたい大切な愛情を感じることができるものだった。
 しかし完全に覚醒し、寝起きの頭が現実に引き戻されていくにつれて、あの女性の温もりどころか、あの夢の存在自体がだんだんと忘れ始めてきていた。
 覚醒直後は嫌なくらいに覚えていたあの苦痛の味も、起きてしばらくするとそれがどんなものだったか、一つも詳細を思い出せなくなってききていた。
 それは、あの女性の存在も同じだった。
 「待って、忘れたくない!」とエレリアは必死に頭を押さえる。なぜ夢の内容を思い出せなくなってきているのかは分からないが、エレリアはとにかく無理矢理にでもあの女性の姿を記憶に焼き付けようとする。
 エレリアにとってその人は、まるで母親のような、温かくて、懐かしくて、愛おしくて、それでいて大切な存在になっていた。だから今あの人のことを忘れてしまえば、もう二度と出会うことはないような気がしてならなかった。
 しかし、すでに夢の詳細の輪郭はほとんど崩壊し、そのまま手の届かない永遠の彼方へ消え去ろうとしていた。
「…!」
 そして我に返った時、エレリアはとうとう完全に夢の内容を少しも思い出すことがてきなくなってしまっていた。
 あの想像を絶する苦痛も、謎の女性も。

 本当に何一つ思い出せなくなっていた。
 さっきまで夢を見ていたことは自覚しているのだが、今となってはその肝心な内容がまったく思い出せない。
 そして、エレリアは懸命に夢の内容を思い出そうとするが、またしても記憶にフィルターがかかったようにそれが彼女の想起の邪魔をして、うまく思い出すことができない。
 エレリアは頭を抱えて、そのままベットの上で考えていた。
「…もう、どうなってるんだ?私の頭は…」
 記憶喪失というわけの分からない現象を前に、エレリアはため息を吐いた。
 どうして、ここまですぐに記憶が消えてしまうのか、自分の身に起きていることにも関わらず、エレリアにはまったく原因が分からなかった。
 さらにエレリアにとって一番つらくて怖かったことは、何も思い出せないことよりも、さっきまで確かに存在していたはずの記憶が目の前で失われていくことだった。
 目の前で記憶が失われていくのは、あっという間のことだった。
 いずれ同じように、ミサとソウヤとの記憶もすべて消えていってしまうのかもしれない。
 しかし今は、そんな姿の見えない恐怖と絶望に、エレリアはただ身を縮めておびえることしかできなかった。

 しばらく放心状態になったまま、エレリアは窓の外に映る景色を何気なく眺めていた。
 村はすでに夕焼けに包まれており、赤く焼けた空では黒いカラスが1日の終わりを告げるように儚げに鳴いていた。遠くの巨大な岩山は橙色の光を受けて、相も変わらず堂々としたふるまいでたたずんでいる。
「もう、夕方か…」
 地平線に傾いた夕陽の光が、小さな部屋をオレンジ色に満たしていた。
 どうやらエレリアは朝から夕方まで寝ていたらしかった。
 最後に覚えている記憶は、ミサから頼まれた洗濯物を干して、隣の倉庫らしき部屋を確認。そして、やることがなくなり、この部屋のベッドで横になったところまでだ。
 先ほどの夢と同じように、また記憶がリセットされていたらどうしようか、とエレリアの心中に少し不安の情が浮かんだが、ミサとソウヤの会話も含めて今日の朝の出来事はしっかり覚えていた。
 あの夢の内容を忘れてしまっても、大切な人たちのことを覚えているだけで、エレリアはとても安心した気分になった。彼らとの記憶まで忘れてしまえば、それこそエレリアはまた一人ぼっちになってしまうだろう。
 そしてエレリアが胸を撫で下ろしたのと同時に、今度は空腹状態の彼女の胃が何か食べ物をよこせと言わんばかりに無作法に腹時計を鳴らした。
 一瞬面食らったエレリアは、すぐに部屋に誰もいないことを確認した。小さな醜態をさらしてしまい誰かに嘲笑されることをエレリアは少し危惧したが、幸い部屋には誰もいなかった。
「朝はスープだけで、昼は何も食べてないしなぁ…」
 そんなことを口にしながら、空腹を確認するようにお腹をさすった。
 その時『お腹と背中がくっつきそう』という言葉がエレリアの頭によぎった。ほぼ1日中寝てたとは言え、朝のスープだけではさすがに胃は我慢ならなかったようだ。
「私の夜ごはんって、作ってくれてるのかな」
 時間帯は夕飯時。
 誰もいない場合、エレリアは自分で自分の夜ごはんを作るしかないと考えたが、どこかへ出掛けたソウヤやミサも、さすがにもう家へ帰ってきてるだろう。
「よし、行ってみよう」
 と、エレリアは一階へ下りる決心した。
 そしてそのまま立ち上がろうと何気なく目線を下ろした時、エレリアは何か違和感を感じた。
 するとなんと、自分の膝の上に緑色の小さな毛布がかかっていた。眠る前にこのような毛布はなかったはずだ。
 軽く毛布を手に取り、エレリアは少し考えた。
「ひょっとして、…ミサ?」
 考えられる可能性を巡らせ、それがミサの仕業ではないかと結論づけた。
 ソウヤの可能性もあるが、今朝の彼の様子と人となりから想像するに、まず「それはないな」とエレリアは首を振った。
 少々おせっかい気味なミサが、エレリアが寝ている間に身体を冷やさないようにと毛布をかけてくれたのだろう。
 そんなミサの小さな親切に、エレリアはいつかの温もりを心の中に広がっていくのを感じた。
 そう、忘却の向こう側へ消え去ったあの夢の人に似た温もりを。

 エレリアは部屋のドアを開けて、薄暗い廊下へ出た。
 一階へ続く階段の向こう側からは食卓の明かりが漏れ、漂う夕飯の匂いが二階にいるエレリアの鼻腔へ流れ込んでくる。
 今日の晩ごはんは肉を使った料理だろうか。
 階段を一段一段下りる度、香ばしい焼いた肉の匂いは濃くなっていき、空っぽのエレリアの胃を刺激した。
 エレリアは期待に高鳴る腹を手で押さえ、そのまま一階の食卓へ姿を現した。
 すると、そこには朝と変わらず談笑し合っているソウヤとミサの二人がいた。
 テーブルにはすでに夕飯が並んでおり、どれもエレリアの舌をうならせるようなものばかりで、推測通りの肉料理だった。
 すると、下りてきたエレリアを目に入れ、ちょうど食事をしていたソウヤが口を開いた。
「おう、やっと起きたのか。おまえは本当によく寝るやつだな」
 出会って開口一番に冷やかされ、エレリアは不満気に口をとがらせた。他にかける言葉はないのか、とエレリアは喉まできた声を外には出さずに、そのまみ飲み込んだ。
「あっ、リアちゃん起きてたんだ」
 すると、台所のシンクに向かっていたミサもエレリアの姿を視界に入れた。
 キッチンには調理途中の食材が並んでおり、大きな鍋で煮ていることから、ミサはまだ何か料理を作っているようだった。
「なかなか起きて来ないから、心配してたんだよ」
 台所の水道の水を止め、半分笑いながらミサは呆れ顔でエレリアに歩み寄る。
「…なんか、ごめん」
 そして、条件反射的に小声でエレリアは謝ってしまった。何の謝罪かはエレリア自身もよく分からなかったのだが。
「まぁ、そんなことよりリアちゃん、ちょっといい?」
 エレリアの謝罪を受け流し、ミサは濡れた手をエプロンで拭きながら話しかけた。
 突然のミサの意図が分からず、エレリアは首をかしげる。
「実は今日の夜にね、村の教会で寄合が行われるの」
「『よりあい』?」
 聞き慣れない言葉に、エレリアはまた首をかしげた。
 そんなエレリアを見て、ミサが説明するために分かりやすい言葉を選び、口を開いた。
「えっと『寄合』っていうのはね…、まぁ簡単に言うと村の人たちの話し合いかな。決まった時期になると、村のみんなで集まって色々と話し合いをするの」
 ミサの説明に、エレリアは理解を得たようにうなずく。
「ほとんどは、それぞれの仕事の報告だとか村の今後のことを決める場所なんだけど…」
 最後に言葉を途切らせ、ミサは少し顔を伏せた後、
「そこでね、今夜リアちゃんに私と一緒にその寄合についてきてほしいの」
 と口にした。
 ミサはそのまままっすぐエレリアを見つめる。
 エレリアはそんなミサの懇願に、少し顔を曇らせてしまった。心に何か違和感が引っ掛かったからだ。
「でも、ミサ…」
 声色を暗くして不安気に、エレリアはミサの顔を見つめる。
 ミサはエレリアの呟いた言葉の真意をつかめず、思わず眉を上げた。
「私がそんな大事な所に行っていいのかな。私が行くと、余計ミサに迷惑がかかるんじゃ…」
 不安感を胸にエレリアは視線を泳がせた。
 そんなエレリアの姿を見たミサが、エレリアが発言を言い終える前に急いで口を開いた。
「いやいや、リアちゃんは何も心配することなんかないよ!逆に言うとこれはね、あなたのためでもあるの」
「私のため?」
 誤解を訂正するように早口でしゃべるミサ。
 そこには強引な説得じみた虚言など一切なく、本当に真実を話しているようだ。
 なので、エレリアはミサの言葉を素直に耳に傾けることにした。
「そう。実は今日、私が村長さんにリアちゃんが目を覚ましたことを話したの。そしたら村長さんと、リアちゃんのために急いで緊急の寄合を開こう! ってことになって」
 迫真の村長の演技付きで、ミサは今日あった事の成り行きをゼロから説明してくれた。
「だからリアちゃんには、ぜひこの寄合に出てほしいの」
「そういうことだったんだ…」
 ミサの説明を聞いて、ようやくエレリアは自分がいらぬ心配を抱いていたことに気づいた。今回の寄合はどうやら、わざわざ自分のために行われるものらしい。
 しかしだからと言って、エレリアの胸の内から不安の感情が消えることはない。
「でも、別に怖がる必要はないよ。だって村のみんなはまだ、リアちゃんのことをあまり知らないでしょ?だから今夜集まって、みんなにあなたのことを知ってもらうだけのことだから」
 エレリアの思惑を見透かしたように、ミサが笑顔で呟いた。それもエレリアの抱いている不安を取り払うような明るい声で。
「そうだよね…」
 ミサから励ましの言葉を投げられ、エレリアは仕方なくうなずいた。
 考えてみると、ここでこの寄合に参加しなければ、村人との交流の機会はとうぶん訪れないだろう。そうすると、今後の生活も狭苦しいものになってしまうかもしれない。
 それに村人にとっても、よそものであるエレリアについての人物像や経歴など何か情報を探りたいところでもあるだろう。外部からの訪問に敏感な村人の性格を考えると当然のことのように思えた。
「じゃあ、そういうことでいい?場所は村の教会。始まるまでもう少し時間があるから、いったん夜ごはんを食べて、それから一緒に行きましょ」
 そうして一方的に話を締めくくりミサは、エレリアに今後の行動について説明した。
 きっとミサはエレリアを少しでも安心させるために一所懸命に気遣ってくれているのだろう。それは彼女の話し方や様子から、なんとなくだがエレリアに伝わってきた。
 しかしそれでも、エレリアの胸の中に漂う不安という名の黒い感情は消え去ってくれなかった。
 なにより、村人が自分を受け入れてくれるか。
 その事が、エレリアの一番の懸念材料だった。
「お、おい、ミサ!台所!!」
 エレリアが頭の中で悩みにふけっていると突然、食事をしていたソウヤが台所の方へ指を指して、急に大声をあげた。その顔はなぜか焦りの表情に満ちている。
 ソウヤが叫び出したや否や、反射的にミサとエレリアも台所の方へ視線を向けた。
 最初エレリアは何が起こったのか分からなかったが、いち早く事態に気づいたミサが血相を変えた後、
「あっ!しまった!!」
 と短い悲鳴をあげて、急いで現場へ駆け出した。
 ミサの駆ける進行方向の先を見ると、真っ白な湯気を立ち昇らせて鍋から白いスープが暴れるようにこぼれ出していた。どうやら、加熱のしすぎで鍋の中のスープが沸騰してしまったようだった。
 すんでの所でミサが滑り込み、急いで火を消して、なんとか鍋の暴走を止めた。
「はぁ、危なかった…」
 大事になる前に事態を食い止め、ミサは安堵のため息を吐き、よろよろと床へ座り込んだ。
「おいおい、しっかりしろよな。火事にでもなっちゃったらどうするんだよ」
 ほっと胸を撫で下ろすミサの後ろで、ステーキを口に運ぶソウヤが呆れるように言葉を吐いた。
 そんな尊大な態度をとるソウヤに、エレリアは呆れて眉を下げた。
「ごめんごめん…。話に夢中になっちゃってて」
 乾いた笑いを漏らして、隠すことなくミサは己の非を認めた。
 その時エレリアは心の内で、こうして何気ない日常を忘れずに過ごして行けたらいいな、と誰かに願うわけでもなく無意識に呟いていた。
 
 ミサと共に軽く夕飯を取り、あっという間に出発の時はやって来た。
「それじゃあ、行ってくるね」
 一人で留守をするソウヤにミサは声を投げた。
「おぅ、気ぃつけていくんだぞ!」
 ソウヤが中から食事をしながら、二人に返答した。
 外はすでに薄暗く、さきほど夢から目覚めた時の橙色に包まれていた西の空は薄紫色に変わり、東の空から夜が近づいて来ていた。
 気温は昼間より少し低くなっていたが、肌寒い風が周囲の小麦畑の匂いを運び、ちょうどよい涼しさで心地がよかった。
「時間には少し余裕もあるし、散歩がてらゆっくり行こう。リアちゃんはこの村のことあまり知らないだろうから、私が色々説明してあげるね」
「…ありがとう」
 ミサの親切な発言に、エレリアは照れくさいながらも不器用に感謝の意を伝えた。
 思ってみれば自分はこの村で目が覚めてからまだ数時間しか経っていない。それにも関わらず、こうして包み隠さずに信頼できる人物に出会えることができたのだ。
 エレリアはミサに感謝を言うと共に、ここまで自分を導いてくれた運命というものにも心の隅で感謝を伝えた。「記憶喪失」という過酷な条件で自分を野に放った運命も、少しばかりは優しさも持ち合わせているというのが分かった。
 少しの間そんなことをエレリアが思っている傍ら、ふとミサを見ると彼女は何やら企んだ微笑を浮かべてエレリアを見つめていた。
「な、何…ミサ?そんな顔して…」
 子供がいたずらをしようとする時のようなミサの怪しい笑みに、エレリアは彼女の謀りが図れず困惑の意を漏らした。
 何をするのかと思うや否や、ミサは軽やかにエレリアに近づき、そして一方的に手を取ってきた。
「一緒に手繋いで行こ?こうして歩くとリアちゃんも楽しいでしょ?」
 ミサは一方的にそう言い終えると、エレリアの手を引いていきなり歩き始めた。
「ちょ、ちょっと…!」
 ミサに無理矢理にリードされ、エレリアも慌てて彼女と歩調を合わせた。
 今二人は手を繋いで横に並んで歩いている。
 そんな予想外の状況に、エレリアは思わず頬を赤く染め視線を地面に落とした。繋がれたエレリアの手を通して、ミサの温もりが伝わってくる。
 エレリアにとって相手が自分の親や異性ならまだしも、同い年の「友達」という名分の相手と並んで手を繋ぐ行為は少し抵抗があった。
 そして何より、「よそもの」という区分である自分にここまで親密に接しているミサに対する村人からの視線がどうなのか、エレリアの中ではそれが一番気がかりだった。
「…ねぇ、ミサ。こんなことして大丈夫?私は…」
「大丈夫、大丈夫!リアちゃんは何も考えないで、私に付いてくればいいの!」
 エレリアの懸念をよそに、ミサは動じぬ視線でまっすぐ前を見つめたまま、明るい声色で語りかけるだけだった。

 そのまま二人は涼しい風が吹き抜ける村の道を歩いて行った。
 そして少し歩き続けると、目の前にだんだん家からも確認できたあの大きな湖が見えて来た。
 よく見ると木の柵が湖の周りを囲っており、今来た道はそのまま湖に沿って二手に分かれている。
「これはね『コックル湖』って言う名前の湖で、なんでもこの村ができる前からここにあったんだって」
「コックル湖…」
 ふいにミサが口を開き、目の前に広がる湖について説明を始めた。
 そのまま話を聞きながら、改めてエレリアは目の前の湖を見回してみる。
 本当に巨大な湖で、それは向こう岸が霞んで見えないくらいの大きさだ。隅には小さな紫色の花も咲いている。
 ここで魚が釣れるかどうかは定かではないが、少なくともこの湖が村人の生活において無くてはならない存在であるということは安易に予想がついた。
「祭りの時期になるとね、ここに光る花をたくさん浮かべるの。それがね、とっても幻想的でキレイなんだ。まるで夢の世界を訪れたよう…」
「そうなんだ。その祭、私も見てみたい…」
 ミサの仰々しい例えに、エレリアも興味が湧き思わず感嘆の意を漏らした。
「もし見たいんだったら、いつかリアちゃんも連れて行ってあげるよ」
 ミサは風に吹かれた髪をなびかせながら、そっと空気に気持ちを溶かすように言葉を吐いた。
 エレリアも口の端を緩めて応じ、夕闇に沈む湖を眺めたまま、しばらく風にあたっていた。
 
 コックル湖を後にしたミサたちは再び、村人達の集う教会へ歩を進めた。
 気づけば周囲は夜の空気に包まれつつあり、さきほどまで田んぼや畑で作業をしていた村人たちの姿はもうほとんど見かけなくなっていた。
 代わりに周囲の民家を見回すと、その無数の窓には明かりが灯っており、温かな夕食の匂いが辺りにたちこめているのがエレリアには分かった。
 どれも夕飯の献立は違うのでおのずと漂う香りも家によって異なっているものの、確かにそこにはそれぞれの愛が混ざっていた。
 家族と過ごす時間。
 ふとエレリアの頭の中にその言葉が浮かんできた。
 今のエレリアにとっては忘却の彼方へ消え去ってしまった、今の自分とは無関係のはずの時間。
 しかし、なぜかエレリアにはその時間がはらんでいる温かさや愛情という胸に染みる気持ちが、わずかながらも理解することができた。
 そう、自分の家族の顔も思い出すことができないのに、なぜか家族と過ごす家庭の空気がエレリアには身体を通して実際に共感することができた。
 頭は記憶を失ってしまったが、身体がまだ覚えている。
 エレリアが感じたのは、まさにそんな不可思議な感覚だった。
 身体が記憶を覚えている。
 それならば、まだエレリアには失った過去の記憶を取り戻す希望があった。
 実際に自分にはふるさとがあって、家族がいて、確かにこの世界に存在していたと思わせるようなおぼろげな感慨に触れることができたのだ。
 家族とは何なのか。
 そして、自分は誰なのか。
 今はまだエレリアにとってそれがどんなものなのか明確には分からないが、いつかそれがはっきり分かる時が来るのかもしれない。

 すると、ふいにミサが口を開いた。
「あのね、リアちゃん。私はね、きっとこの世界には、まだまだ私の知らない楽しい場所がたくさんあると思ってるの…」
 目指していた教会が徐々に姿を見せ始めていた時の、道中における最後のミサの言葉だった。
 黄昏が包み込む闇でミサの顔ははっきり見えないが、その代わりに繋いだ手を通してミサの意思が伝わってきた気がした。
 二人でいてもこうして手を繋いでおけば、何があってもお互い離れることはない。
 この時初めて、エレリアはミサが自分の手を取ってきた理由が理解できた気がした。
 ミサは自分が不安にならないためにこうしてくれているんだ。
 そう思うと、ミサの思いやりにエレリアは胸に何か迫るものを感じた。
 続けてミサは話を続ける。
「だから、リアちゃん。もしいつか一緒に旅をすることができたら…」
 ミサは話の最後に間を置き、そして
「その時は、一緒に行こうね」
 と優しく呟いた。
 ミサがこの時託した言葉の本当の真意は、正直エレリアには分からなかった。
 何気なく自分に言い寄ったものだったのか、それとも前から言えなかった心中を今タイミングを狙って言い放ったものだったのか。
 しかしどちらにせよ、エレリアはこれは友人の「頼み」なんかではなく、「約束」なのだと悟った。
 そして、さきほど彼女の言った言葉は、世界の誰にでもなく、たった一人の自分だけに向かって吐き出されたものだと悟った。
 ミサから言葉をかけられ、エレリアは繋いだ手をぎゅっと強く握り直す。
 そしてエレリアも、他の誰でもない、たった一人の友人に向かって、
「うん」
 と夕闇を隔てたミサの瞳を見つめて、力強く呟いた。
 これがエレリアの、そしてミサとの友達としての最初の約束となった。


 長い道のりを経て、ついに二人は目的地の教会へたどり着いた。
 村の中でも一段と目を引く装飾がほどこされているその建物は、その名にふさわしい存在感に満ちていた。
 ミサとエレリアは教会の扉の前まで足を運ぶ。
 扉を開き教会の中へ入る前に、一度立ち止まったミサが小さな声でエレリアに言葉をかけた。
「じゃあ、行くよ。絶対みんなと仲良くなれるから、安心して」
「…分かった」
 ミサは最後の最後まで、エレリアに気を利かしてくれた。
 どんなに短い言葉でもミサが放つ言葉一つ一つには、エレリアにとってとても心強くて信頼できるものであった。
 エレリアは揺るがぬ視線でミサを見つめ返し、返答の意味も込めてうなずいた。
 そして、エレリアの意を受け取ったミサは観音開きの重々しい扉をゆっくり開き、二人は教会の中へ足を踏み入れた。
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