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忘れるということ
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神奈川県足柄上郡(あしがらかみぐん)山北町(やまきたまち)で一昨日行われた、大野山フェスティバル。そこで出会ったアルプホルンの方たちが、会場のテントの横で演奏の準備をしていた。
厚木市七沢で行われる森の祭り、その会場の一つ、森のアトリエ会場でも演奏することは一昨日聞いて知っていた。
「また、会いたいですね」と言われ、「きっと、行きます」と約束もした。
会うことにはためらいがあった。
Qちゃんがあの日のことを覚えていないのは確実だからだ。
それでも、ここは魅力がある。約束もある。
来ないわけにはいかない。
「来ていただけたんですね。またお会いできて嬉しいです」
主宰者であろう男性だった。私は近づく男性を、早まる鼓動を感じながら、漫然と待った。
こちらからお礼に伺うべきなのに、と言う間もなく
「おばあちゃん、一昨日は楽しかったね。花笠道中、歌ってくれて嬉しかったよ」と彼。
Qちゃんは困ったような顔をして私を見た。私は恨めしい顔をしていたに違いない。Qちゃんの顔は曇った。
一昨日出かけた大野山フェスティバル。
目的は2つあった。大野山フェスティバル。絶景の富士山。
約2時間かけて到着した大野山。雨模様だったので富士山は見えず、フェスティバルの開催もどうかと思ったが、無事行われていた。勇気ある開催だ。
雨はほんの少し降っていた。
車椅子を降ろし、Qちゃんをそれに載せ、フェスティバルが開催されている大野山頂上を目指して押し捲(まく)る。雨は急に強くなった。
頂上に近づくにつれて雨は小止みになったが、あたりは白く煙った。まるで濃霧の中だ。
それでも予定通りスイスの民族衣装に身を包んだ方々のアルプホルンの演奏が始まった。アコーディオン、コントラバス、カウベルなども演奏に加わる。
一曲目は「アルプスの少女ハイジ」。続けて、スイスの民族音楽が数曲続いた。
屋根のある休憩所に避難した私とQちゃんはそれを見ることが出来る位置に動いた。
こんな雨の中、中止することもなく演奏するこの人たちは並みの方ではない。
演奏が終わると、演奏者の方々は我々のいる休憩所に避難してきた。そして、私たちの隣に座った。
超高齢のQちゃんに興味を持ったのだろう、アルプホルンの団体の主宰者と思われる中年の男性に声をかけられた。
「おばあさん、一緒に演奏しましょう」
Qちゃんは、この親切に応えられるだろうか。
音楽は好きなので何とかなる、と思ったが、親切を受けるのに負担も感じた。
演奏が始まって暫くすると、Qちゃんは首を前後に軽く動かしリズムを取り始めた。それはすぐに演奏者に伝わった。
二曲目の前に、Qちゃんは木製スプーンのような打楽器を持たされた。
「こうやってたたくのよ。いい音でしょ」
Qちゃんが叩いている。リズムも取れている。そのこともすぐに演奏者に伝わった。実に双方が楽しそうだ。私の不安は消え、ただ嬉しかった。
演奏は三曲、時間にして10分以上はあったと思う。
Qちゃんはお礼に美空ひばりの花笠道中を歌った。歌が終わる。そして拍手が起こる。私は周囲を見、深くお辞儀した。
「すみません。覚えていないんですよ。あんなによくしていただいたのに……。申し訳なくて」と私は言った。
「そうですか。でも、いいじゃないですか。その場を楽しんでいただけましたから。私たちはそれで満足です」
「それにしても、まだ2日しか経っていないのに」私はまだこだわった。
「おばあさんを責めているのですか。それは止めましょう。忘れるのも大事な権利です。他人がとやかく言うべきではありません」
「そう言っていただくと、有難いんですが……」と私。
Qちゃんはただいつものように、にこにこしている。
「おばあさん、私たちの演奏聞いてくれますか。スイスのきっとおばあさんもよく知っている曲だと思いますよ」
Qちゃんは頷く。意味が分からなくても大体頷く。Qちゃんの処世術だ。
「一緒に会場に行きましょう」
男性は車いすを押そうとした。
「歩けますから。Qちゃん歩くよ」と私は少し声を荒げて声高に言った。Qちゃんが拒否をしないように。
「歩きますよう。いつもうるさいねえ。ねえ」
最後の「ねえ」は男性に同意を求める「ねえ」だ。
男性は笑った。
「ほんとに、元気なおばあさんですね」と言って、男性はQちゃんの手をとった。
私は無人の車いすを押していく。
「忘れることも権利」。私の大切な箴言(しんげん)。
厚木市七沢で行われる森の祭り、その会場の一つ、森のアトリエ会場でも演奏することは一昨日聞いて知っていた。
「また、会いたいですね」と言われ、「きっと、行きます」と約束もした。
会うことにはためらいがあった。
Qちゃんがあの日のことを覚えていないのは確実だからだ。
それでも、ここは魅力がある。約束もある。
来ないわけにはいかない。
「来ていただけたんですね。またお会いできて嬉しいです」
主宰者であろう男性だった。私は近づく男性を、早まる鼓動を感じながら、漫然と待った。
こちらからお礼に伺うべきなのに、と言う間もなく
「おばあちゃん、一昨日は楽しかったね。花笠道中、歌ってくれて嬉しかったよ」と彼。
Qちゃんは困ったような顔をして私を見た。私は恨めしい顔をしていたに違いない。Qちゃんの顔は曇った。
一昨日出かけた大野山フェスティバル。
目的は2つあった。大野山フェスティバル。絶景の富士山。
約2時間かけて到着した大野山。雨模様だったので富士山は見えず、フェスティバルの開催もどうかと思ったが、無事行われていた。勇気ある開催だ。
雨はほんの少し降っていた。
車椅子を降ろし、Qちゃんをそれに載せ、フェスティバルが開催されている大野山頂上を目指して押し捲(まく)る。雨は急に強くなった。
頂上に近づくにつれて雨は小止みになったが、あたりは白く煙った。まるで濃霧の中だ。
それでも予定通りスイスの民族衣装に身を包んだ方々のアルプホルンの演奏が始まった。アコーディオン、コントラバス、カウベルなども演奏に加わる。
一曲目は「アルプスの少女ハイジ」。続けて、スイスの民族音楽が数曲続いた。
屋根のある休憩所に避難した私とQちゃんはそれを見ることが出来る位置に動いた。
こんな雨の中、中止することもなく演奏するこの人たちは並みの方ではない。
演奏が終わると、演奏者の方々は我々のいる休憩所に避難してきた。そして、私たちの隣に座った。
超高齢のQちゃんに興味を持ったのだろう、アルプホルンの団体の主宰者と思われる中年の男性に声をかけられた。
「おばあさん、一緒に演奏しましょう」
Qちゃんは、この親切に応えられるだろうか。
音楽は好きなので何とかなる、と思ったが、親切を受けるのに負担も感じた。
演奏が始まって暫くすると、Qちゃんは首を前後に軽く動かしリズムを取り始めた。それはすぐに演奏者に伝わった。
二曲目の前に、Qちゃんは木製スプーンのような打楽器を持たされた。
「こうやってたたくのよ。いい音でしょ」
Qちゃんが叩いている。リズムも取れている。そのこともすぐに演奏者に伝わった。実に双方が楽しそうだ。私の不安は消え、ただ嬉しかった。
演奏は三曲、時間にして10分以上はあったと思う。
Qちゃんはお礼に美空ひばりの花笠道中を歌った。歌が終わる。そして拍手が起こる。私は周囲を見、深くお辞儀した。
「すみません。覚えていないんですよ。あんなによくしていただいたのに……。申し訳なくて」と私は言った。
「そうですか。でも、いいじゃないですか。その場を楽しんでいただけましたから。私たちはそれで満足です」
「それにしても、まだ2日しか経っていないのに」私はまだこだわった。
「おばあさんを責めているのですか。それは止めましょう。忘れるのも大事な権利です。他人がとやかく言うべきではありません」
「そう言っていただくと、有難いんですが……」と私。
Qちゃんはただいつものように、にこにこしている。
「おばあさん、私たちの演奏聞いてくれますか。スイスのきっとおばあさんもよく知っている曲だと思いますよ」
Qちゃんは頷く。意味が分からなくても大体頷く。Qちゃんの処世術だ。
「一緒に会場に行きましょう」
男性は車いすを押そうとした。
「歩けますから。Qちゃん歩くよ」と私は少し声を荒げて声高に言った。Qちゃんが拒否をしないように。
「歩きますよう。いつもうるさいねえ。ねえ」
最後の「ねえ」は男性に同意を求める「ねえ」だ。
男性は笑った。
「ほんとに、元気なおばあさんですね」と言って、男性はQちゃんの手をとった。
私は無人の車いすを押していく。
「忘れることも権利」。私の大切な箴言(しんげん)。
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