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肉洞

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 どこかから聞こえてくる妙な音で目が覚めた。地鳴りのような、低い低いサイレンの音の様な……自分で聞いたことはなかったが、戦時中の空襲警報って、あんな音だったのではないかと思う。とにかく気持ちの底からざわざわと不安が押し寄せてくるような音だった。
 僕は温かい布団の中から足を出した。ひんやりした空気が火照った爪先に心地よく、それをまた冷えた布団の表側にあてていると、再びとろりとした濃厚な睡魔がやってきて、やがて他愛もなく寝付いてしまった。
 さらに夜もふけて。
 再び音がした。ベッドをかすかに揺さぶる程の、確かな振動を伴って。うぅぅぅ……と、短いけれど低く、重たい音が。
 寝慣れたベッドの上で、僕はぼんやりとした恐怖におびえていた。薄気味の悪い音と、それを思い出すのに最適な薄暗い部屋。カチコチとかすかな音を立てて動いている時計を見ると、時刻は間もなく真夜中の二時だった。
 あれだけの音と振動にもかかわらず、家族が起きてくる気配がないのが不思議だったが、時間を考えればみんなすっかり寝入っているのかも知れなかった。なんだか目が冴えてしまったことと、またあの音がするかもしれないという思いが脳裏に渦巻いて、僕はとうとう眠れなくなってしまった。

 僕の部屋はコの字型になったこの家の縦棒の部分にあった。横棒に当たる部分が道路と並行になっていて、道路側の横棒は旧家屋だった。一階は元々お店だったのを車庫として、二階は母と伯父が子供のころに使っていた和室を物置として使っている。奥側の横棒は僕の家の生活の中心で、一階には玄関や台所、リビング、そして祖父母の居間と寝室。二階には居間と母の寝室があった。そして二階の物置に入るには、縦棒部分の二階に位置する僕の部屋を通って行かなくてはならなかった。僕の部屋にはドアが二つある……というより、物置に向かう廊下の二か所が四角く膨らんだ空間になっていて、そのうちの一つを僕が私室として使っている。
 うぅぅぅ……と、また音がした。これだ、この音だ。そしてかすかに、塩辛くて妙なにおいが鼻をついた。なんだろう、地面を這うように漂ってきて、肺の中でむわんと鈍く広がるような。湿っぽくて、生々しい、嫌なにおい。でも、なぜか何度も嗅いでしまいたいにおい。
 音とにおいの出所を探ろうと、僕はそっとベッドから降り立った。静まり返った窓からは街灯の灯りが差し込んできて、部屋の中を青白く照らしていた。もう車の走る音もあまり聞こえない。きいん、と脳裏に張り詰めるような音が一定の間隔で鳴り続けて、僕はまだ少し眠たい頭がくらくらした。
 うぅぅぅ……。音だ。そして、その音そのものが呼吸をしているみたいに、すぐ後にあの塩辛くて生臭いにおいがやってきた。それは、僕の家の奥にある物置へ通じるドアから、漏れ出てきたことが分かった。音をよく聞こうと壁や床に耳を近づけたり、べたりとくっつけたりして見ると、物置側のドアの前に立つ僕の足元から絡みつくように、あの塩辛くて生臭いにおいが立ち上って来ていたからだ。

 僕はドアを開けた。少しためらったけれど、やはり気になった。不気味な音よりも、あの塩辛くて生臭いにおいが。それは肺の中から一度頭の脳味噌の奥の方までじんわりと浸み込むと、僕の目玉の裏側や鼻の奥を温かく痺れさせた。そしてその体温を持ったにおいはそのまま僕の身体中を滑り落ちて、骨盤の少し下で止まった。そしてそこが、一番熱くて苦しくなった。なんだろう、このにおいは。

 ドアを開けると、僕の部屋と同じような間取りの空間がもう一つあって、そこは祖父の書斎兼作業場になっていた。大きな図面を書く台だとか、難しい本がずらっと並んだ棚が置いてあって、僕はこの部屋にいるときの祖父の横顔を見るのが好きだった。
 その書斎の突き当たりにある引き戸が、物置にしている旧家屋の入り口だった。
 ここまで来ると、においがかなりきつくなってきていた。そして少し、蒸し暑いような気もした。書斎の空気全体が少し湿っぽく、蒸れているような。そして引き戸の取っ手に指先をひっかけてみると、うぅぅ……と音がして、ふひゅっ、というごく小さな音とともに、あのにおいが引き戸の向こうから吐き出された。息をしている…体温がある…。まるでこの引き戸の向こうの空間が生き物に変わり、闇の中で眠っているかのようだった。

 がらららら、という音を予想していた。それは普段から耳慣れた、物置に入る引き戸が滑る音だった。
 にゅちゃちゃ、という音が聞こえてきた。それは普段聞いたこともない、粘膜と粘膜がこすれ合うような音だった。僕は驚いて引き戸から手を離し、二歩後ずさった。そして右手のすぐそばに、蛍光灯の点滅器があることに気が付いた。一瞬の躊躇いは、嫌な予感。だけどそれ以上に、僕の苦しい好奇心が指先を動かした。どくん、と大きく心臓が高鳴った。
 ぱっちん、と乾いた音がして、蛍光灯が真昼のように白い灯りを放った。書斎は隅々まで照らされて、引き戸の向こう側でぶるぶると震えるピンクと橙色と濃いベージュを混ぜ合わせたような、まだらな肉粘膜を煌々と照らしだした。
これは、いったい──

 僕は呆然としたまま立ち尽くしていた。何年も慣れ親しんだ物置があるはずの空間が、まるで巨大な生き物の内臓へと続く肉の洞窟になってしまったようだった。
 引き戸を開けてすぐ左側へと直角に曲がる間取りはいつもと同じだったが、それ以外は全てが狂ってしまっていた。
 ひくひくと蠢く壁、床、そして天井に、青緑色の管が縦横無尽に張り巡らされ、特に太くて長いものはどくどくと脈打っている。赤い半透明の管もそこかしこに通っていて、これは太さが一定で常に何かしらの液体で満たされているようだった。
 うぅぅぅ……と音がして、肉の洞窟の奥から、あのにおいがする風が吹いてきた。生きている。この洞窟は生きているんだ。僕は裸足のままだったがそっと歩き出して……肉でできた床に右足を乗せた。にちっ、と音がして、足の裏と肉洞窟の表面を覆う粘膜が触れ合った。温かい。そして、足元を力強く流れる液体の動きが感じられる。
 次に左足を踏み出し、壁に左手をそっとつく。壁からも、脈打つ鼓動と洞窟内を駆け巡る液体の感触が伝わってくる。そして洞窟の入り口に足を踏み入れただけなのにもかかわらず、もう出入り口の引き戸が見えなくなっていた。僕は肉洞窟の中に閉じ込められてしまったのだろうか……。強い不安を感じるも、しかし鼻から胸の中、肺細胞の一つ一つ、そして股関節のほんの少し下を埋め尽くす息苦しいまでの興奮と好奇心が収まらず、僕はさらに足を進めた。
 歩くたびに、にちゃ、ぬちゅ、ぬりゅ、ねりゃ、と音がして、足の裏に粘液がこびりついて糸を引いているのがわかった。そして足元を見ていた僕の視界が、黒い霧に包まれるように段々とぼんやりしてきていた。引き戸を見失ったことで、蛍光灯の明かりが届かなくなったのだろうと思った。このまま肉の洞窟の暗闇に飲まれるのは、まだ少し怖かった。焦って辺りを見渡すと、数歩先に青白く光るものを見つけた。点滅器だろうか。僕は期待と焦りで足を速めた。
にっちゃ、にっちゃ、にちゅっ! そして足を滑らせた。
 んべたん! と湿っぽい音を立てて仰向けに尻もちをついた。背中から尻に渡って粘液がしみ込んで、皮膚に不快な感触が走る。起き上がろうにも、手が滑って上手く立てない。尻の二つの小山の下で蠢く管が不意に、どくり、と大きく脈打った。中を走る液体の流れが速くなり、しゅっしゅっという音が奥の方から聞こえてくる。これは、やはりこの肉洞窟の呼吸音なのだろうか。僕は床を強く打ったので、この肉洞窟は痛みを感じたのかもしれない。痛み? そうだ、こうなったら……やむを得ない。

 ぐにっ。僕はやわらかい床に力を込めて、右手と左手の指先を強くめり込ませた。いくつかの爪が表面の粘膜に突き刺さり、その一枚向こう側の薄桃色の肉を少し抉った。肉洞窟は一瞬、ぎゅうう、と苦しそうな音を鳴らして収縮し、床と壁と天井が僕に向かって迫ってきたが、すぐに元に戻って荒い息をついていた。そして気が付いた。この肉洞窟、何か刺激を与えると、そこらじゅうの粘液の量が増えるのだ。最初に足を乗せてからすっ転ぶまで、その量は少しずつだが増えていた。それは末端から歩き出したからだと思ったのだが、転んで、そして爪を立てた後からは、この皮膚の様な壁床天井からどんどん粘液が出てきているのだと気が付いた。
 僕はどうにか立ち上がり、青白くぼんやり光る点滅器らしき突起物に指先をひっかけた。そしてやはり電燈の点滅器のように飛び出した小さくて短い棒を下に引っ張ると、思いがけずコキン! と乾いた硬い音がして、周囲がぼわっと明るくなった。それと同時に、やはり肉洞窟がぐぎゅううう……と苦しそうな音を立てて激しく収縮し、壁床天井の粘膜からどろどろした液体を漏らしながら震えだした。今度はしばらく続いた。なんだろう、光に弱いのだろうか……それにしては蛍光灯などとは比べるべくもない、赤黒くてどうにもはっきりしない光なのだけれど。
 ころん、と、何かが右足の爪先に当たって転がる感触がした。明るくなった肉洞窟は管の収縮や粘膜のひくつき、そしてこの肉洞窟そのものの律動を鮮明にし、さらに醜悪さを増していた。その赤っぽい床の上に、ひときわ白いものが落ちていた。長さ3センチ、太さは小指ほどの物体で、持ち上げてみるとひどく軽い。そしてふと点滅器のあった場所を見ると、そこにあった突起物が無くなっている事に気が付いた。いや、完全になくなったのではない。点滅器の台座部分からほんの少し、一センチにも満たない長さで何かが飛び出している……そしてそれは、無残にも途中でへし折れている。僕は自分が持っている白い物体と点滅器を交互に見た。見覚えのある形だ。そう、指だ。人間の指の骨だ。大きさからして小指だろうか。
 どうして小指の骨が壁から飛び出し、点滅器のスイッチになっているのか。そしてそれは何度も点けたり消したりを繰り返すのではなく、一度折れたらそれっきりなのだった。台座に残った骨を上下に揺すって見てもびくともしなかった。僕が暗闇で下げたと思った指先は、ただ僕の指の圧力に負けて無残にへし折れただけだったのだ。折れた……そうだ、あの長く続いた肉洞窟の苦しげな収縮はその激痛によるものだったのか。

 赤黒い灯りが点いたことで肉洞窟はもう少し先の方まで見渡せるようになった。数メートル先まで伸びた肉洞窟はそこで途切れている。本来なら廊下に沿って右手に八畳の和室が二つ並んでいて、部屋の中には使わなくなった家具や衣類、そのほかにも様々な物が放り込まれているはずだった。やはりここは、僕の家の旧家屋の物置なのだろうか。だとしたら、この辺りから一つ目の和室があるはずだったが、そこには周囲と変わらない粘膜の壁が、ひくひくと小刻みに、物欲しそうにも見えるように震えているだけだった。
 
 さらにその先はというと僕の一メートルほど先の右側の壁が、通路側にせり出してきている。本来の物置であれば、ここは二つの和室を繋ぐ廊下になっていて、右側からせり出した肉塊の辺りには祖父の大きな本棚があった。こちらにもやはり難しい本、英語でもなさそうな外国語で書かれた分厚い本がいくつも並び、中にはひどくグロテスクな写真が載っているものも多かった。僕は時折物置に忍び込み、この本棚に収められている奇怪な写真を見るのが好きだった。
 そうだ。この肉洞窟も写真で見た肉や薄膜や粘液にそっくりだ。僕は段々とぼんやりしてくる頭の中で、それを思い出していた。銀色に光る器具で押し広げられ、皮膚や骨や薄桃色の膜で覆われた様々な内臓と思しき肉と粘膜と脳味噌と管。するとこのせり出した肉塊には、何か手がかりがあるかもしれない。不可思議な肉洞窟、その出現と理の。

 僕は滑る足元をもどかしく感じながら、肉塊の前までやってきた。高さ、幅ともに二メートル近くある巨大なものだ。てっぺんの部分が天井付近の肉壁と癒着しており、全体も薄桃色の分厚い肉と濃いベージュの薄膜に覆われている。しかしよく見ると、正面の真ん中寄りやや高めの位置に太い管がいくつも走り、そのうち最も中央付近にある青と緑で左右対称に生えた太い管が取っ手のようにL形になって飛び出している。ちょうど子供の腕ぐらいの長さだ。僕は少しためらったが手を伸ばしてみた。手前に向かってL字に伸びた管は丸く、僕の手のひらから指先ですっぽりと包みこめる程度の太さだった。L字の先端は直径5センチほどの丸みを帯びた三角錐型になっており、頂点の部分に一センチほどの亀裂が入っている。右側の緑色の管の先っぽは濃い紫色。左側の青色の管の先っぽは、より赤黒い濃い紫色だった。
 にちゅるっ、と音がして、僕の指先が管の表面で少し滑った。巨大な肉塊は低くゆっくりと脈打っていた。どくん、と巨体を鈍く震わせるたびに、周囲に濃密なにおいが満ちてゆく。塩辛くて生臭い、あのにおいだ。段々慣れっこになっていたが、この肉洞窟の中には臭気で充満しているはずだった。だが今では、もう全く嫌ではなくなっていた。むしろこのにおいが心地よく、何度も何度も鼻の奥に染み付かせるように深い呼吸を繰り返した。そしてどうやら、においの元凶はこの巨大な肉塊だということもわかった。
 僕はこの巨大な肉塊に圧倒されつつも、再びL形の管をそれぞれ両手で握って引っ張ると、正面の肉粘膜がほんの少し、みちっと音を立てて浮き上がった。どうやら本棚の扉と同じく、観音開きらしい。そしてその浮き上がったわずかな隙間から漏れ出てきた臭気は、今まで嗅いでいたものを数倍に濃縮したような強いにおいだった。鼻の奥を突き破り、肺の細胞一つ一つを蹂躙し尽くし、脳味噌にしみ込んで延髄が痺れ……いよいよ下腹部の膨張は限界に達しようとしていた。今にも溢れそうな好奇心と恐れが、僕の意識を何処かへ閉じ込めてしまいそうだ。そう、例えばこんな、粘膜と管に囲まれた巨大な肉塊の奥底に。

 僕は先端の亀裂から粘液のたらたら垂れる二本の管を左右それぞれの手指でしっかりと握りしめた。管の中には何かの液体が流れていて、生温かい。じっと握っているとどくり、どくりと脈打っている。ぎゅっと強く握ると思いのほか弾力があって、めり込んだ指先を僅かに押し返してくる。僕は尚もぎゅうっと握りしめて粘液の滑りを殺すと、手前に素早く引いた。
 にゅちゅるっ、と音がして、またしても指先が滑った。僕は少し苛ついて、今度は右側の取っ手を両手で掴んで引っ張った。にち、と音がして滑りそうだったので、もう一度握り直して引っ張る、滑る、引っ張る、滑る……そのうちに握り直すのが億劫になり、両手で取っ手の棒の部分を上下に行ったり来たりするような形になった。強く握り、素早く上下させていると、肉塊からしゅうしゅうしゅうしゅう、と荒い息の様な生温かい空気が漏れてきた。僕は左手を離して左側の管を握り、両手で両方の管を同時にしごいた。
 どのぐらいの時間が経っただろう。気が付くと僕は中腰になって意識を集中して、ひたすら両手を上下させていた。周囲には塩辛く生温かいにおいと同時に、青臭いツンとしたにおいが漂い始めていた。肉塊の息遣いもますます荒くなり、それは僕がずっと感じていた何者かの呼吸なのだったと、何故か確信していた。

 L字にそそり立つ取っ手の硬さが増して、内部からさらに大小さまざまな管が浮き出てきた。どくり、どくりと脈打つ管の中を流れる液体も温度を増して、肉塊全体から放たれる体温が上がってきているのがわかった。同時に肉洞全体の粘膜が赤く腫れてきて、内部を湿らせる粘液の量も激増していた。ちゃっ、ちゃっ、ちゃっ、という、僕が取っ手をしごく音と、肉塊の荒い吐息、そして肉洞窟全体が身もだえするように収縮するぎゅう、ぎゅうという苦しげな音。僕は両手のスピードを上げて、もっと速く強く取っ手をしごいた。しゅう、しゅうと肉塊が息を吐きだし、床からにじんだ粘液に僕の爪先が浸っている。取っ手はとうとうこれ以上硬くならないと言わんばかりに硬直し、先端の三角錐もはちきれそうだ。亀裂からとろとろと透明な粘液が垂れてきて、僕の指先に絡みついて流れてゆく。その粘液でまたしても摩擦が減り、ぼわんと熱を持った右手と左手の速度が増す。
 ぶるぶるぶるぶる、うぅぅぅ……と、肉塊が震え、低いうめき声のような音を鳴らした。そしてL字型の怒張が大きく脈打ち、取っ手に浮き上がった一番太い管の中を、熱く濃厚な液体がぎゅるぎゅると登ってくるのが僕の手のひらに伝わってきた。そして
 びくっ
 と、両方の怒張が大きく震え、先端の亀裂から白くどろっとした粘液が噴き出してきた。それは僕の髪の毛や顔、肩や胸にも飛び散って、すぐさま強烈な青臭いにおいを放った。粘液は少しも収まらず、尚も亀裂からびゅるびゅると醜悪な音をたてて溢れ、飛び散っている。僕は驚きと嫌悪感でいっぱいになり、思わず取っ手を握りしめたまま肉塊に向かって押し込んだ。にゅるにゅると素早く滑った両手の指先が限界まで膨れ上がった三角錐の笠に当たる部分に引っ掛かり、生温かな液体が僕の指先と傘の間で溢れて跳ねた。そしてそのうちの一滴が、僕の口の中に入って、下の上で唾液に溶けた。
 ひどく苦くて、塩辛い液体。生ぬるくて、粘り気の強いものだった。全身の毛が逆立つのがわかった。張りつめた下腹部に力が入るとひどく痛んだが、それでも両手で怒張を握りしめる力は緩めなかった。ぐぐぐぐっ、と力を込めて二つの怒張を肉塊に向かって押し込むと、弾性が働いてこちらに押し返してくる。僕は歯を食いしばってそれをさらに押し戻そうとした。そしてその時、くるぶしまで沈んだ足が摩擦を失い、僕の全身がずるりと前のめりに滑った。一瞬だったが、二つの怒張に向かって凄まじい圧力がかかった。
 ぼきり。鈍い音。ぶちり。嫌な音。
 あっ、と思った時には、目の前に濃い白濁色の粘液と、黄色っぽい粘液、そして真っ赤な粘液とか混じり合って飛び散っていた。L字型に屹立していた怒張はそれぞれ、右側が直角に曲がったその付け根から、左側は先端の三角錐が千切れており、まるで苦し紛れに暴れているようにじたばたと跳ねまわるそれらは、傷口からぶるぶるびゅくびゅくと様々な液体を止めどなく吹き出し続けている。同時に、ぐううううぎゅうううううううう、と肉洞全体が重厚なうめき声をあげ、激しく収縮した。壁や天井からも粘液がぼたぼたと零れ出し、これまでのにおいに加えて猛烈な鉄錆のにおいが混じるようになった。
 僕は肉塊と暴れまわる二つの管を呆然と見た。そしてもはやL字型を保つことも出来ず、ただひたすら粘液を垂れ流すそれのすぐ奥に、一筋の黒い線が生まれた。あっ、という間に黒い線は三十センチほどに伸び、さらに上下に十センチ伸びた。ちょうど僕の顔の高さにまっすぐ伸びた黒線は、やがて肉塊を左右に押し広げていった。
 開くんだ…。線は長方形の枠の形になり、やがて二枚の板状になってゆっくりとこちらに向かって開いた。そして肉塊と板の隙間が広がるにつれて、中から漏れだす臭気も強くなった。しゅうううう、と一際強い呼気を漏らした肉塊が、ついに二枚の板を完全に開ききった。御開帳を果たしたそこにあったものを直視してしまった僕は、脳髄の痺れと、下腹部に張り詰めた痛みを同時に感じた。

 肉塊の内部は空洞になっていて、その内壁は全てが鮮やかな薄桃色をしていた。表面には赤や青の細い管が縦横に走っており、うっすらとした粘液がてらてらと光っている。そして僕の目の高さの真正面に鎮座しているものは、まるで醜悪なオブジェのような、異次元に住む生き物の臓物を剥き出しにしたような形をしていた。それは一メートルほどの大きさで、肉塊内部の面積のほとんどを占めていた。一番上には二十センチほどの真っ赤に膨らんだ肉の集合体が、電球によく似た形でぴこっと飛び出してひくひく小刻みに震えている。そして、そこから二枚の大きな襞がそれぞれ左右に垂れ下がるようにして広がっている。襞は上部と内側に行くほど鮮やかな桃色をしていたが、外側から下に向かうにつれて黒ずんだ灰色に変色していた。黒ずんだ部分は薄物色の部分から伝わるぷるぷるした柔らかな印象とは正反対の石壁を思わせるしわしわの形状だった。二枚の襞に守られるように、一番下の部分には僕の頭ぐらいの穴がぽっかりと口を開けていた。肉の穴からは白っぽく固まったゼリー状の液体が漏れ出ており、それが強い刺激臭を放っている。
 ぷん、と鼻をうつにおいが、僕の頭を完全に壊してしまった。そして一瞬目の前が真っ白になって、僕は排尿とは全く違う感触を覚えた。気が付くと僕は衣服をすべて失っており、完全に裸になっていた。そして自分の下腹部のさっきへし折ってしまったものとよく似た肌色と濃い桃色の物体から濃白色の粘っこい液体が止めどなく吹き出すところを見た。びゅるびゅる、どくどく、僕の体の中に隠れていた醜悪かつ強烈なにおいを放つ粘液が、手加減無用と言わんばかりの勢いで吹き出し続けている。一体どこにこれほどの量が入っていたんだろう。両手で自分を握りしめて抑えても、白い粘液は一向に止まらなかった。無理に真下を向けて零してみると、ひどく痛んだ。
 五分ほど経っただろうか。それとも、五秒ほどであろうか。時間の間隔がぼやけるほど頭がぼうっとしてきたとき、僕の粘液は漸く勢いを失い、やがて最後の一滴が先端から石清水のしずくのようにポタリ、と肉床へ零れ落ちて止まった。ああ、と思ったその次に心の中に押し寄せてきたのはとてつもない罪悪感と倦怠感だった。そして、何故か目の前の肉塊内部に鎮座する、薄桃色の臓物が心底憎たらしく感じられた。
 粘液まみれになった手元足元から、青臭くてツンとしたにおいが立ち上ってくる。そしてそれは、さっきまで僕が一対の怒張から散々絞り出したあの粘液にそっくりだった。見た目も、粘り気も、においも。
 不意に、肩の後ろから背中にかけてカッと熱くなった。そして怒りによる強引な力が両肩から指先に向かって一瞬で漲った。僕は自分自身から両手を離し、この醜悪な臓物にぽかりと開いた肉口に向かって思い切り突っ込んだ。ぐずぼずぶ! と嫌な音と生温かくてひどく臭い空気を漏らしながら、その口が僕の両手を肘の当たりまで呑み込んでしまった。
 肉洞全体が再び激しく打ち震え、壁床天井からの粘液が滝のように降ってきた。後から粘膜や粘液のぬるりとした感触が前腕に伝わってきて、僕はますますこの臓物への憎しみを募らせた。
(壊してしまいたい!)
 その時、確かにそう思った。このまま両手を奥の奥まで突っ込んで、この肉塊ごと中から八つ裂きにしてやろうか。それとも、この口に両手をかけて真っ二つにしてやろうか。僕の頭の中で薄桃色の肉や粘膜がぐちゃぐちゃに引き千切られ、その肉片と粘液の雨の中でひたすらこの肉洞窟を破壊する自分の姿が延々と浮かび上がってくる。心臓が空回りしそうなほど高鳴り、僕は目をカッと見開いて、両手をさらに奥へと突き入れた。
 にゅるにゅるにゅると肉穴内部を滑った僕の指先が、やがてむにっとした手触りの物体に柔らかく押し戻された。両手でよく触ろうとさらに突き入れると、僕の鼻先が大きな襞の付け根にある、赤い肉電球に触れた。途端に、内臓も肉塊も肉洞窟までもがびくんびくんと大きく、激しく揺れ動いた。きゅうううううう、という今まで聞いたことのないカン高い音がして、肉洞全体も大きく収縮した。僕の頭が肉塊の天井にぐっとめり込んで顔中に粘液が垂れてくる。そして僕自身も一瞬で再び固く苦しく膨らみ、白濁液を撒き散らし始めた。
 壁から、天井から、手先から流れてくる粘液と、僕自身から勢いよく放出された白濁液で、僕の裸体は溶けた蝋を垂らされたようにどろどろになっていた。海の生き物が干からびたまま腐ったようなにおいをむんむんと発散していることもわかった。僕は構わずにもう一度、顔を横に向けて身体をぐいと前に押し込んだ。右を向いた顔の左側が肉電球とその上にかぶさる傘のような小さな襞に押し付けられ、粘液でにゅるりと滑った。三度肉洞全体がぎゅるぎゅると唸りを上げて収縮し、天井からぼたぼたと粘液が垂れ流された。僕の顔の目の前には、大きな襞の片方がひくひく蠢いている。両手の先に何かを掴めそうで掴めないもどかしさが指先から脊髄まで潮が満ちるように募って来ていた。ああもう、急激に苛立った僕は、目の前の襞の灰色に変色していびつにめくれ上がった部分に思いっきり歯を立てて喰い付いた。
 灰色の部分はその石くれのような外見とは裏腹に非常に柔らかく、かなりの弾力があった。僕の上下の歯がぐにぃっと喰い込むと、口中に甘いようなしょっぱいような、妙な味が広がった。襞の表面も粘液で覆われており、歯の力を緩めずにさらに噛み続けているとやがて生温かな鉄の味が混じってきた。
 僕が襞に喰い付くと肉洞窟が悲鳴のような音を立てて揺れ動いた。陰鬱な地震に見舞われたような背骨の奥まで響き渡る地鳴りとともに、壁床天井の肉表面が真っ赤に晴れ上がった。じゅくじゅくと膨れ上がった肉表面のそこかしこで粘膜が破れ、透明の粘液とは違う黄色っぽい液体が漏れ出している。その黄色い傷の痛みがさらなる収縮を促し、そしてまた肉表面に傷跡が増えてゆく。
 僕は漸く襞から顔を離すと、再び両手の指先に力を込めた。ずっとそこに触れていた柔らかい何かの形が、触覚越しに伝わってくる。ドーム状の半球型で、何か細い溝のようなものがある。度々指先が引っ掛かるのは、おそらくそれだろう。半球型になった部分の下にも、丸っこくて耳たぶぐらいの硬さの物体がくっついているようだ。さらにその近くからは何本もの管が伸びており、内部でこの物体や肉塊は繋がっているらしい。僕は、まずこの何本かの管を両手で掴めるだけ束ねて掴み、力の限り引っ張った。
 ぶちゅっ。
 ぶちぶちびちびちちぃぃぃ……。
 鈍く、湿った音が何度も響いてきた。握った場所で管が何本か千切れたのがわかる。そのまま強く引っ張ると千切れたところから粘液がずるずると流れ出してきて、手のひらとの摩擦でくちゃくちゃと生温かい音を立てた。構わずにもう一度強く引くと、直径二センチほどの白い管が見えた。さらに力を入れて引っ張ると肉穴からずるずると白い管がもつれ合いながら滑り出してきた。ずちゅ、ずちゅちゅっと湿りきった音をたてて、まるで箸でつまんだ麺のように一束の管を引き出してゆく。こんなものが何処にどう収まっていたのか、二メートルほどの長さの管を全て引きずり出すと、そのさらに奥から今度は真っ赤な管が姿を現した。それは分厚く平べったい形をしていて、自転車のチェーンに似ていた。その平べったい管もずるずると引っ張ってゆく最中にも、肉洞には異変が起こっていた。肉穴からは白くどろどろした粘液が次々に溢れだして強い刺激臭を放ち、真っ赤な肉電球は限界まで膨れ上がっていた。僕は手を止めて、改めてこの異形の空間をしげしげと見た。濃密な臭気と湿度、流れ出る粘液、蠢く肉壁、脈打つ管。これらの不気味な動きは、僕が痛みを与えることで激しさを増してきていた。しかし、決して僕を排除したり、捕獲しようとしたりはしなかった。むしろ無防備を極め、僕の暴力を待ち望んでいるかのように。そうだ、きっとそうだ。ふふふふ、ふふ、と僕は声を漏らして微笑み、再び手を伸ばした。肉穴の奥に、まだ半球状の「何か」が残っている。きっとそれが、こいつの最後の性感帯に違いない。こいつは、それをぐちゃぐちゃにいじり倒して、破壊してほしいのだ。
 ふふふ、ふ、ふふふふ。僕はほくそ笑みながら両手をゆっくりと肉穴に差し込み、再び奥にある皺の寄った物体を手探りで優しく撫でた。表面は粘膜に覆われておりぬるりとしたが、物体そのものは非常に柔らかいようだ。だからこそ、それが崩れないように包むための粘膜なのだろう。僕はその粘膜に爪を立てて、ぐっと力を入れて押し込んだ。
 ぶちゅっ、と低い音が肉穴から漏れ出てきて、途端に粘膜の内側から液汁がしみだしてくるのがわかった。そして、これが終わりの始まりだった。
突然、ぐぎゅーーーーーーーーーー、という悲鳴のような音を立て、肉洞窟は急速に温度と色を失っていった。そこかしこからあふれ出る粘液が次第に薄まり、止まってゆく。天井から垂れていた粘液には粘り気が失せて、ぽた、ぽたと滴になって床にこぼれた。
 薄桃色をしていた肉塊内部も徐々に温度を失い、鮮やかだった色合いが薄暗く変化していった。内部に広がっていた2枚の大きな襞は萎れ、真っ赤な肉電球も艶やかな張りを失い、空気の抜けた風船のようにだらしなく垂れ下がった。
 僕はにわかに焦りだした。とうとう、取り返しのつかないことをしたのだと気が付いたのだ。僕が今握っている管の、その先には何があるのだろう。さっきまでの興奮状態が少し醒めて、わずかに芽生えた恐怖や不安。どんどん動かなくなり、乾いてゆく肉洞。それでも僕は、まだ十分に湿潤する臓物の内部に突っ込んだ手で半球状の物体をしっかりと掴み、ゆっくりと手前に引っ張ってみた。ずるり、と手ごたえを感じる。まる沸騰したような熱さを持っていたのが、肉洞窟の衰退に伴って外側から冷えているようだ。手のひらに触れた部分からも、じっとりと冷たい感触がする。
 ゆっくりと、肉穴から両腕、そして両手を引き抜いた。そして僕がその手に抱えていたものを、じっと見た。肉洞が死にかけているせいで明かりまで弱くなってきている。
 そこにあったものは、スイカほどの大きさをした脳味噌だった。乳白色でとぐろを巻いた大脳と、その下の濃緑色の小脳。僕が引き千切った管は、この肉洞を支配する脳から伸びた神経だったのだ。そして僕が爪を立てて突き破った粘膜は、この脳味噌を保護するためのものだった。僕は驚きのあまり、両手を大きく跳ね上げてしまった。
「あっ!」
 と思った時には遅かった。脳味噌は肉洞窟の床に激突し、辛うじて張り付いていた粘膜が破れた。乳白と濃緑の脳味噌は一部を残してぐずぐずに崩れてしまった。僕はそれをスローモーションのようにゆっくりと見ていた。そして崩れ散った脳味噌は肉洞の床に吸い込まれるように溶けてしまい、跡形もなくなってしまった。ふと顔を上げると、薄桃色の肉壁と粘膜を湛えていた観音開きの肉塊はどす黒く枯れ果てていた。臓物も、同様に全体が灰色になってしまっている。そっと指先を伸ばして右側の襞を突いてみると、触れた部分から縦横にひび割れ、灰になって崩れて去ってしまった。肉天井から照らされていた赤黒い灯りがみるみる失われてゆく。そしてとうとう、僕は自分の手のひらも見えないぐらいの真っ暗闇に取り残されてしまった。
 肉洞は滅んだ。粘液に溶けた欲望も、不満を積み重ねた肉壁も、焦燥を包む粘膜も、すべては闇の奥底に葬られた。そして僕は、それらすべてを一身に浴び尽くし、間もなく目を覚ます。
 覚醒だ。身も蓋もない、現実の裏側に隠された事実。隠されているのは真実ではなく、誰にも見せられない、知られたくない事実だけだ。僕の心と身体でどろどろに溶けた欲望こそが、やがて僕自身を飲み込む肉洞なのだ。その為に生きている。覚醒だ──
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