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三沢コールは鳴りやまない
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あれ!?こないだ似たようなタイトルで記事を書いてたぞ!?
小橋さんがオレンジ、三沢さんがグリーン
東海道線の湘南カラーみてえだな。
で三沢光晴さんだよ。
プロレスの歴史に永遠に刻まれるべき偉大なる男。
リング禍によって若すぎる旅立ちを迎えてしまった、伝説的プロレスラー。
イメージカラーはグリーンで、得意技は左右の鋭いエルボー。一見地味に感じる肘撃ちを、一撃で相手を沈める恐るべきフィニッシャーに昇華させた超一流のプロレスラーでもある。
思うに三沢光晴さんは正体不明のプロレスラーだと思う。
それは見た目やプロフィールのことではなく、今までさんざん三沢さんの試合を見て来たのに、私からすると
この人を例える言葉や当てはめる属性が見つからない
から。
パワーファイターではなく、技術やスピードは高い次元にありつつ、空中技も数多く使い分け、バチボコの殴り合いもするし、小柄で線の細い選手が相手でも後れを取らず、ハンセンやベイダーや高山善廣さんのような超ヘビー級とも渡り合って来た。
テクニシャンと言えばそうだし、けどそれだけじゃない。
たとえば今、名前の出たハンセンやベイダーは超ヘビー級、高山善廣さんはそれにキックや関節技も使えるが基本的にはラフファイトのイメージがある。
川田利明さんは鋭い打撃、小橋さんは猛烈なパワー、田上さんはとにかくダイナミック。
その選手を形容するのに色んなフレーズが当てはめられる。
じゃあ三沢さんは、一体どんなプロレスラーと言えるのだろう?と考えてみるに、
主人公キャラ、いわゆる万能タイプ、なのかもしれない。
これって実は全盛期のジャイアント馬場さんや、アントニオ猪木さんに近くて。
馬場さんは圧倒的な体格に加えてアメリカ仕込みのテクニックとダイナミックさを併せ持つ完全無欠のプロレスラー。
猪木さんはとにかくバランスがよく、そこに武骨なファイトと天性の華を持ったまさに完璧なプロレスラー。
三沢さんは体こそプロレスラーの中で飛びぬけた大きさをしていないが、馬場さんと猪木さんのいいとこ取りだったのかも。
リングネームはド本名で、派手な格好もしない。当然マスクは(途中で脱いで)していないしペイントもない。ただそこにいる
三沢光晴というプロレスラーの凄さ
を、みんながわかっている。
わざわざ派手に飾り立てる必要がなかったのだ。
誰かの本のなかに、プロレスのチャンピオンは
ブレット・アンド・バター
が望ましい、と書かれていたのを思い出す。パンとバター、要するにごくシンプルであることが第一だ、と。パンツとブーツ、あとはごく少なめに。
そういう意味では、派手な装飾やマイクアピールすらあまりしないプロレス四天王は、みんなそれぞれ持ち味の違うパンとバターの組み合わせだったと言える。
器用貧乏で脇役に回りがちな万能タイプ、という属性が当てはまるとすれば、三沢光晴さんは最強最高の万能レスラーだったのだろう。
私が初めて三沢さんの試合をテレビで見たのは、99年1月に大阪府立体育会館で行われた、川田利明さんとの三冠ヘビー級選手権だった。試合終盤、川田さんのパワーボムをウラカンラナで切り返そうとした三沢さんがそのままの姿勢で持ち上げられて、殆ど逆立ちしたような格好でマットに向かって真っ逆さまに突き刺さった、あの衝撃的な映像が今も目に焼き付いている。川田さんの文字通りの最終兵器、三冠パワーボムが飛び出した試合だった。
この試合が切っ掛けで私は全日本プロレスも追い掛けるようになった。
大量離脱直前の全日本マットの中心に居たのは、常に三沢さんだった。誰もが三沢さんを追い掛け、三沢さんを倒すことを目標にし、三沢さんを標的にして来日していた。
正直に言えば、私は小橋建太さんのような筋肉モリモリで華やかな選手や、逆に寡黙でキックをバシバシ放つ川田さんの方が好きだった。
どうしてみんな、あんなに三沢、三沢というのだろうかと、訝しがっていたぐらいだ。
だけどそれはとんでもない勘違いだった。
マニアになりつつある自分に酔ってるがゆえに視野狭窄に気付かないガキにありがちな、根拠無き偏見に満ちた眼差し。
本来の持ち味や魅力を発揮するための「タメ」や「待ち」もっと言えば「負け」ですら、それが次への布石、さらなる魅力につながることに気付かない。
大変に勿体なく、損だなあと思う。
試合を見るたびに、なんでこんな技を喰らって立ってこれるのか。
なんで小橋さんの剛腕ラリアットや、川田さんのデンジャラス顔面キックや、田上さんの大車輪喉輪落とし、ベイダーの投げっぱなしパワーボムやベイダーボムを喰らって、この人は立ち上がることが出来るのか。なおかつ、これらを全部真正面から受け切って、勝利することが出来るのか……不思議であると同時に、単純に私は怖かったんだと思う。その恐るべき体力と精神力によって、私の中に三沢光晴という名前が刻み込まれていった。
あーーコレは決まった!
と思ってから、まだ延々と試合が続き、しかもそのたびに落下角度とエルボーの重みが増し、最後はタイガードライバー’91やエメラルドフロウジョンという超危険技も飛び出した。体重が重くて持ち上げられないベイダーには鈍器でブン殴るようなエルボーバットを何発もお見舞いした。その威力たるや、あのベイダーが膝から崩れ落ちてグッタリしてしまうほどのものだった。
2メートル近い身長と200キロ近い体重で、しかも鍛えに鍛えた男を粉砕するようなエルボーバット。これが三沢さんの代名詞であり
三沢のエルボー
と言えば稲中卓球部でもネタになるぐらいの認知度を持っていた。
場外乱闘と言えばプロレスの華。
柔道もレスリングも相撲も、決められたフィールドから出たら試合をいったん中断するか、その時点で負けになる。でもプロレスの場合は違う。そこでの戦い方も勝敗に大きくかかわってくる。特にルールで明言されてない限り、そもそもリングから落ちようが降りようが別に構わないのだ。
そんな場外乱闘でも当時の全日マットにおける四天王プロレスは少々勝手が違っていた。
例えば同時期のFMWでは椅子は勿論のこと、テーブルからお客さんの傘から本部席のゴング、放送機材のケーブルをバンバン使っていたし、なんなら観客席に雪崩れ込んだり会場の通路でも暴れていた。
が四天王プロレスは鉄柵に叩きつけたりリングの鉄柱にぶつけたりはするものの、凶器などはほとんど使わなかった。
その代わりにマットの敷いてない床に直接パワーボムで叩きつけたり、エプロンサイドからリング下に向かってブレーンバスターやバックドロップが飛び出したりした。田上さんなんかそっから喉輪落とししてたもんな。あれはあれで恐ろしい世界だ。
三沢さんはというと場外に飛び出すにしてもオリジナリティを発揮していた。
トペ・スイシーダと言って、プロレスでお馴染みの三本のロープの真ん中と一番上のロープの間から場外に向かって矢のように一直線に飛び込む技がある。トペとはルチャ・リブレ用語でまさしく「飛び込む」とか「ぶつかる」とかいう意味で。
スイシーダは自殺だ。スーサイドのスペイン語読みだね。
つまり自爆覚悟で突っ込むぞ!という技なのだが、三沢さんはここでも得意のエルボーをブチかましていた。
トペ・スイシーダの要領でロープの間を潜り抜け、そのまま相手の顔面にエルボーバットをお見舞いすることから、三沢さんのそれはエルボー・スイシーダと呼ばれていた。
普通、そんな風に飛んでるときに姿勢の制御や、まして狙って肘をぶつけに行くなんて芸当は中々出来ないんだけど、中継を見ている限り三沢さんはかなりの正確さで相手にエルボーバットを叩き込んでいたのだ。
当時、全日本プロレスと言えば鎖国と言うぐらい、その門戸は固く閉ざされていた。他団体の選手が全日本プロレスに参戦したり、全日本の選手が他団体に出るだけで画期的だと言われていたぐらいだ。
今じゃ考えられないけど、全日本プロレスのトップはそのぐらい先鋭化し、一種の閉鎖的な次元に居た。しかしそれも頭打ちとなり、行き詰っているようにも思えた。
そんな状況からジャイアント馬場さんが亡くなり、新体制に移行したい三沢さんたち選手と団体のオーナーや旧来の勢力とでぶつかり合った結果、三沢さんは全日本プロレスを飛び出し、自らプロレスリング・ノアを旗揚げ。理想に向かって帆を張った。
その三沢さんが作った箱舟に、多くの選手やスタッフが追従し乗り込んだ。
ノアは旧来のプロレス、特に三沢さんたちが活躍した全日本プロレスのよく言えば堅実な、または地味で垢抜けないイメージを悉く覆すように先進的な演出で団体のイメージを打ち出した。
例えばポスターにしても選手の顔と名前がデカデカと載った如何にもプロレス!なポスターから、もっと洗練されたデザインのものになっていた。
ただこれは分かりにくかったのか、後年のモノはやっぱり昔ながらのデザインに戻っているものもあった。
ポスターと言えば、実はノア旗揚げ直後に我が地元・豊橋で試合があり、私のバイトしていたガソリンスタンドに営業車が給油に来てくれたことがあった。
プロレスリング・ノア、と書かれた車を見つけた私は即、いらっしゃいませえー!と駆け寄り、給油の注文を受け、窓を拭きつつ
「あ、あのーボク小橋さんのファンです、ノア応援してます!!……良かったらポスターとか、あのー、その、もらえませんかネ…?」
とモジモジしながらお願いすると
「じゃあ、お店にも貼ってくれるなら、いいですよ!」
とポスターを2枚頂き、勿論そのうちの1枚をお店のいいところに貼らせてもらい、残りの1枚は今でも我が家に貼ってある。写真があるのでTwitterで見てちょうだいよ。
そして三沢さんと言えば忘れもしない、プロレスリング・ノア2002年4月7日有明コロシアム大会。
敬愛する冬木弘道ボスの応援のために豊橋市からはるばる駆けつけた私は小遣いをはたいて買ったリングサイド席に陣取った。交通費とチケット代で素寒貧になってしまい、グッズなどが買えなかったのが残念だ。
この有明コロシアム大会、まあー盛り上がった。熱狂的なノアファンのお姉さま方が、新日本プロレス側のセコンドを務めていたエル・サムライさんに向かって此処じゃ書けないような罵詈雑言を浴びせ、セミファイナルのワイルドⅡと中西学さん、吉江豊選手の試合なんか熱狂の嵐だった。この時は欠場中だった小橋さんも、リングに上がって挨拶をした。
あの日の興奮が忘れられないのと同じぐらい、あの日の冬木さんと三沢さんの邂逅は思い出深い。
ともに若手時代を全日本プロレスで過ごし、仲の良かった二人がそれぞれの道を歩んだ末に向かえた大一番。
試合は冬木さんが「らしさ」を全開にして攻めたてるも、三沢さんは全てを受け止めたうえで得意のエルボーバットでボスを粉砕。
東京まで来て良かった。見てよかった。ボスの敗戦は残念だったが、素直にそう思えるくらい素晴らしい試合だった。
が、感傷に浸る間もなく、このすぐ後で冬木さんは癌のため引退を発表。
結果的に、私が最後にボスの試合を見た日になってしまった。
三沢さんはプロレスラー・冬木弘道を、理不尽大王として介錯してくれたも同然だったのだ。
三沢さんはその後も冬木さんの引退試合の開催のために奔走し、ボスはイメージカラーの黄色い紙テープに包まれて華やかに送り出された。
一介の冬木信者の私だけど、あの時ほど三沢光晴という男の素晴らしさ、粋なところを感じたことはなかった。きっと他にも一杯あるし私が三沢さんについて多くを知らないだけだろうけど、私の中ではコレが一番だ。
やがてノアは歴史を重ね、多少苦戦を強いられている時期もあった。
二度目の豊橋大会には私も足を運んだ。
小橋さんも三沢さんも出てくれてたし、東海地方ということでご当地レスラーでもある斎藤彰俊さんや青柳館長も元気に暴れていた。
この日、斎藤彰俊さんのファンでもある私は斎藤さんのTシャツを買い、パンフレットにも斎藤彰俊さんのサインを頂いた。斎藤さんは超・笑顔でサインに応じてくれて、Tシャツを買ったと物販の袋を見せると
ありがとうございます!!
とガッチリ握手してくれた。ダークエージェントの名刺もくれた。明るい死神もあったもんだ。
私は斎藤さんのイカついカッコよさと、あの延髄を蹴り込むスイクル・デスという技が大好きなのだ。
ちなみに三沢さんの自伝や、蝶野正洋さんとの共著・胎動なども持っていたけれど、三沢さんを見つけることが出来ずに断念した。
そしてこれが、私が生涯最後に見る三沢さんの試合になってしまった。
そんなことは露とも思っていなかった。でも、ある日、部屋でゲームをしてたら、普段プロレスを見ない母が血相を変えてやってきて
アンタの好きな三沢さんが病院に運ばれたよ!
と言う。なんでそんなことを母が?と思ったら事態は深刻で、なんとテレビにニュース速報としてテロップが出たというのだ。
悪い意味でプロレスラーのケガや欠場、病院送りに慣れてしまっていた私は、正直に言えばハヤブサさんの時も楽観視していたし、冬木さんも生きて帰ってくると思ってた。
そして三沢さんも……。
まさか、そのまま帰らぬ人となるなんて。
よりによって対戦相手は、私の大好きな斎藤さんだった。
どうしたらいいのか、何を考えていたのか、全然おぼえていない。
ノア、どうなるんだろう。
みんな、どうするんだろう……。
斎藤さんは、その次の試合前に号泣して三沢さんの遺影に頭を下げ、絶叫していたという。その写真を私も週刊誌で見た。斎藤さんに罪はなく、また斎藤さんを責めることなど微塵も思わなかったが、世の中には
自分には水に堕ちた犬を気の済むまで叩く権利がある
とでもいうような、異次元の常識で生きてる奴が居るもので。そんな奴等に怒りや憐憫を覚えるものの、どうしようもない虚脱感で暫くいっぱいだった。
空っぽが詰まった胸の中にこだまする、在りし日の三沢コール。
有明コロシアムで、地元の小さな体育館で、そしてテレビの中の武道館や大阪府立体育会館で。
三沢さんはいつも、割れんばかりの三沢コールで迎えられていた。
誰もが三沢さんを待っていた。
三沢さんならやってくれる。三沢さんの試合は凄い。
ファンはみんな、三沢さんの事を誇りにしていたんだと思う。
あのピアノのイントロがみんなの合図だった。
そしてスパルタンXのリズムに合わせて、あらん限りの声で叫ぶ三沢コールは極上の体験だった。
川田さんとの最後の三冠戦も好きだけど、私の中での三沢さんのベストバウトは
99年11月の、小橋建太さんとの三冠ヘビー級選手権
それとノア旗揚げ後に、三沢さんが花道からタイガースープレックスを繰り出したGHCヘビー級選手権。これも対戦相手は小橋さんだった。
川田さんとのシバキ合いも凄かったし、小橋さんとの凌ぎあいも凄まじかった。
小橋さんはプロレスの生き字引だとこないだ書いたけど、三沢さんは不幸ではあるものの、もはや神話になってしまった。
だからやっぱり、それを語り継いで欲しいし、それと同じように、今も生きている四天王OBには、実りある余生を送って欲しい。そして時々でいいから、三沢さんや、あの頃の思い出を聞かせて欲しい。
自分も三十路を半ばまで過ごしてみると、願うのは健康や平和ばかりだ。
挑戦や試練もいいけど、もっと穏やかに暮らしてもらえるならば、そっちの方が私はうれしい。
感謝してもしきれないぐらい、あの頃のあなた方には迷える真っ暗な海を彷徨っているとき、星座のように導いてもらってたから。
90年代のマット界で、ひと際大きく、眩しく輝いていた星たち。オレンジ、黄色、赤。
そして宇宙に煌めくエメラルド。
それが三沢さん、あなただった。
三沢コールは、今でもファンの心の中に響いて鳴りやまない。そう願ってやまない。
小橋さんがオレンジ、三沢さんがグリーン
東海道線の湘南カラーみてえだな。
で三沢光晴さんだよ。
プロレスの歴史に永遠に刻まれるべき偉大なる男。
リング禍によって若すぎる旅立ちを迎えてしまった、伝説的プロレスラー。
イメージカラーはグリーンで、得意技は左右の鋭いエルボー。一見地味に感じる肘撃ちを、一撃で相手を沈める恐るべきフィニッシャーに昇華させた超一流のプロレスラーでもある。
思うに三沢光晴さんは正体不明のプロレスラーだと思う。
それは見た目やプロフィールのことではなく、今までさんざん三沢さんの試合を見て来たのに、私からすると
この人を例える言葉や当てはめる属性が見つからない
から。
パワーファイターではなく、技術やスピードは高い次元にありつつ、空中技も数多く使い分け、バチボコの殴り合いもするし、小柄で線の細い選手が相手でも後れを取らず、ハンセンやベイダーや高山善廣さんのような超ヘビー級とも渡り合って来た。
テクニシャンと言えばそうだし、けどそれだけじゃない。
たとえば今、名前の出たハンセンやベイダーは超ヘビー級、高山善廣さんはそれにキックや関節技も使えるが基本的にはラフファイトのイメージがある。
川田利明さんは鋭い打撃、小橋さんは猛烈なパワー、田上さんはとにかくダイナミック。
その選手を形容するのに色んなフレーズが当てはめられる。
じゃあ三沢さんは、一体どんなプロレスラーと言えるのだろう?と考えてみるに、
主人公キャラ、いわゆる万能タイプ、なのかもしれない。
これって実は全盛期のジャイアント馬場さんや、アントニオ猪木さんに近くて。
馬場さんは圧倒的な体格に加えてアメリカ仕込みのテクニックとダイナミックさを併せ持つ完全無欠のプロレスラー。
猪木さんはとにかくバランスがよく、そこに武骨なファイトと天性の華を持ったまさに完璧なプロレスラー。
三沢さんは体こそプロレスラーの中で飛びぬけた大きさをしていないが、馬場さんと猪木さんのいいとこ取りだったのかも。
リングネームはド本名で、派手な格好もしない。当然マスクは(途中で脱いで)していないしペイントもない。ただそこにいる
三沢光晴というプロレスラーの凄さ
を、みんながわかっている。
わざわざ派手に飾り立てる必要がなかったのだ。
誰かの本のなかに、プロレスのチャンピオンは
ブレット・アンド・バター
が望ましい、と書かれていたのを思い出す。パンとバター、要するにごくシンプルであることが第一だ、と。パンツとブーツ、あとはごく少なめに。
そういう意味では、派手な装飾やマイクアピールすらあまりしないプロレス四天王は、みんなそれぞれ持ち味の違うパンとバターの組み合わせだったと言える。
器用貧乏で脇役に回りがちな万能タイプ、という属性が当てはまるとすれば、三沢光晴さんは最強最高の万能レスラーだったのだろう。
私が初めて三沢さんの試合をテレビで見たのは、99年1月に大阪府立体育会館で行われた、川田利明さんとの三冠ヘビー級選手権だった。試合終盤、川田さんのパワーボムをウラカンラナで切り返そうとした三沢さんがそのままの姿勢で持ち上げられて、殆ど逆立ちしたような格好でマットに向かって真っ逆さまに突き刺さった、あの衝撃的な映像が今も目に焼き付いている。川田さんの文字通りの最終兵器、三冠パワーボムが飛び出した試合だった。
この試合が切っ掛けで私は全日本プロレスも追い掛けるようになった。
大量離脱直前の全日本マットの中心に居たのは、常に三沢さんだった。誰もが三沢さんを追い掛け、三沢さんを倒すことを目標にし、三沢さんを標的にして来日していた。
正直に言えば、私は小橋建太さんのような筋肉モリモリで華やかな選手や、逆に寡黙でキックをバシバシ放つ川田さんの方が好きだった。
どうしてみんな、あんなに三沢、三沢というのだろうかと、訝しがっていたぐらいだ。
だけどそれはとんでもない勘違いだった。
マニアになりつつある自分に酔ってるがゆえに視野狭窄に気付かないガキにありがちな、根拠無き偏見に満ちた眼差し。
本来の持ち味や魅力を発揮するための「タメ」や「待ち」もっと言えば「負け」ですら、それが次への布石、さらなる魅力につながることに気付かない。
大変に勿体なく、損だなあと思う。
試合を見るたびに、なんでこんな技を喰らって立ってこれるのか。
なんで小橋さんの剛腕ラリアットや、川田さんのデンジャラス顔面キックや、田上さんの大車輪喉輪落とし、ベイダーの投げっぱなしパワーボムやベイダーボムを喰らって、この人は立ち上がることが出来るのか。なおかつ、これらを全部真正面から受け切って、勝利することが出来るのか……不思議であると同時に、単純に私は怖かったんだと思う。その恐るべき体力と精神力によって、私の中に三沢光晴という名前が刻み込まれていった。
あーーコレは決まった!
と思ってから、まだ延々と試合が続き、しかもそのたびに落下角度とエルボーの重みが増し、最後はタイガードライバー’91やエメラルドフロウジョンという超危険技も飛び出した。体重が重くて持ち上げられないベイダーには鈍器でブン殴るようなエルボーバットを何発もお見舞いした。その威力たるや、あのベイダーが膝から崩れ落ちてグッタリしてしまうほどのものだった。
2メートル近い身長と200キロ近い体重で、しかも鍛えに鍛えた男を粉砕するようなエルボーバット。これが三沢さんの代名詞であり
三沢のエルボー
と言えば稲中卓球部でもネタになるぐらいの認知度を持っていた。
場外乱闘と言えばプロレスの華。
柔道もレスリングも相撲も、決められたフィールドから出たら試合をいったん中断するか、その時点で負けになる。でもプロレスの場合は違う。そこでの戦い方も勝敗に大きくかかわってくる。特にルールで明言されてない限り、そもそもリングから落ちようが降りようが別に構わないのだ。
そんな場外乱闘でも当時の全日マットにおける四天王プロレスは少々勝手が違っていた。
例えば同時期のFMWでは椅子は勿論のこと、テーブルからお客さんの傘から本部席のゴング、放送機材のケーブルをバンバン使っていたし、なんなら観客席に雪崩れ込んだり会場の通路でも暴れていた。
が四天王プロレスは鉄柵に叩きつけたりリングの鉄柱にぶつけたりはするものの、凶器などはほとんど使わなかった。
その代わりにマットの敷いてない床に直接パワーボムで叩きつけたり、エプロンサイドからリング下に向かってブレーンバスターやバックドロップが飛び出したりした。田上さんなんかそっから喉輪落とししてたもんな。あれはあれで恐ろしい世界だ。
三沢さんはというと場外に飛び出すにしてもオリジナリティを発揮していた。
トペ・スイシーダと言って、プロレスでお馴染みの三本のロープの真ん中と一番上のロープの間から場外に向かって矢のように一直線に飛び込む技がある。トペとはルチャ・リブレ用語でまさしく「飛び込む」とか「ぶつかる」とかいう意味で。
スイシーダは自殺だ。スーサイドのスペイン語読みだね。
つまり自爆覚悟で突っ込むぞ!という技なのだが、三沢さんはここでも得意のエルボーをブチかましていた。
トペ・スイシーダの要領でロープの間を潜り抜け、そのまま相手の顔面にエルボーバットをお見舞いすることから、三沢さんのそれはエルボー・スイシーダと呼ばれていた。
普通、そんな風に飛んでるときに姿勢の制御や、まして狙って肘をぶつけに行くなんて芸当は中々出来ないんだけど、中継を見ている限り三沢さんはかなりの正確さで相手にエルボーバットを叩き込んでいたのだ。
当時、全日本プロレスと言えば鎖国と言うぐらい、その門戸は固く閉ざされていた。他団体の選手が全日本プロレスに参戦したり、全日本の選手が他団体に出るだけで画期的だと言われていたぐらいだ。
今じゃ考えられないけど、全日本プロレスのトップはそのぐらい先鋭化し、一種の閉鎖的な次元に居た。しかしそれも頭打ちとなり、行き詰っているようにも思えた。
そんな状況からジャイアント馬場さんが亡くなり、新体制に移行したい三沢さんたち選手と団体のオーナーや旧来の勢力とでぶつかり合った結果、三沢さんは全日本プロレスを飛び出し、自らプロレスリング・ノアを旗揚げ。理想に向かって帆を張った。
その三沢さんが作った箱舟に、多くの選手やスタッフが追従し乗り込んだ。
ノアは旧来のプロレス、特に三沢さんたちが活躍した全日本プロレスのよく言えば堅実な、または地味で垢抜けないイメージを悉く覆すように先進的な演出で団体のイメージを打ち出した。
例えばポスターにしても選手の顔と名前がデカデカと載った如何にもプロレス!なポスターから、もっと洗練されたデザインのものになっていた。
ただこれは分かりにくかったのか、後年のモノはやっぱり昔ながらのデザインに戻っているものもあった。
ポスターと言えば、実はノア旗揚げ直後に我が地元・豊橋で試合があり、私のバイトしていたガソリンスタンドに営業車が給油に来てくれたことがあった。
プロレスリング・ノア、と書かれた車を見つけた私は即、いらっしゃいませえー!と駆け寄り、給油の注文を受け、窓を拭きつつ
「あ、あのーボク小橋さんのファンです、ノア応援してます!!……良かったらポスターとか、あのー、その、もらえませんかネ…?」
とモジモジしながらお願いすると
「じゃあ、お店にも貼ってくれるなら、いいですよ!」
とポスターを2枚頂き、勿論そのうちの1枚をお店のいいところに貼らせてもらい、残りの1枚は今でも我が家に貼ってある。写真があるのでTwitterで見てちょうだいよ。
そして三沢さんと言えば忘れもしない、プロレスリング・ノア2002年4月7日有明コロシアム大会。
敬愛する冬木弘道ボスの応援のために豊橋市からはるばる駆けつけた私は小遣いをはたいて買ったリングサイド席に陣取った。交通費とチケット代で素寒貧になってしまい、グッズなどが買えなかったのが残念だ。
この有明コロシアム大会、まあー盛り上がった。熱狂的なノアファンのお姉さま方が、新日本プロレス側のセコンドを務めていたエル・サムライさんに向かって此処じゃ書けないような罵詈雑言を浴びせ、セミファイナルのワイルドⅡと中西学さん、吉江豊選手の試合なんか熱狂の嵐だった。この時は欠場中だった小橋さんも、リングに上がって挨拶をした。
あの日の興奮が忘れられないのと同じぐらい、あの日の冬木さんと三沢さんの邂逅は思い出深い。
ともに若手時代を全日本プロレスで過ごし、仲の良かった二人がそれぞれの道を歩んだ末に向かえた大一番。
試合は冬木さんが「らしさ」を全開にして攻めたてるも、三沢さんは全てを受け止めたうえで得意のエルボーバットでボスを粉砕。
東京まで来て良かった。見てよかった。ボスの敗戦は残念だったが、素直にそう思えるくらい素晴らしい試合だった。
が、感傷に浸る間もなく、このすぐ後で冬木さんは癌のため引退を発表。
結果的に、私が最後にボスの試合を見た日になってしまった。
三沢さんはプロレスラー・冬木弘道を、理不尽大王として介錯してくれたも同然だったのだ。
三沢さんはその後も冬木さんの引退試合の開催のために奔走し、ボスはイメージカラーの黄色い紙テープに包まれて華やかに送り出された。
一介の冬木信者の私だけど、あの時ほど三沢光晴という男の素晴らしさ、粋なところを感じたことはなかった。きっと他にも一杯あるし私が三沢さんについて多くを知らないだけだろうけど、私の中ではコレが一番だ。
やがてノアは歴史を重ね、多少苦戦を強いられている時期もあった。
二度目の豊橋大会には私も足を運んだ。
小橋さんも三沢さんも出てくれてたし、東海地方ということでご当地レスラーでもある斎藤彰俊さんや青柳館長も元気に暴れていた。
この日、斎藤彰俊さんのファンでもある私は斎藤さんのTシャツを買い、パンフレットにも斎藤彰俊さんのサインを頂いた。斎藤さんは超・笑顔でサインに応じてくれて、Tシャツを買ったと物販の袋を見せると
ありがとうございます!!
とガッチリ握手してくれた。ダークエージェントの名刺もくれた。明るい死神もあったもんだ。
私は斎藤さんのイカついカッコよさと、あの延髄を蹴り込むスイクル・デスという技が大好きなのだ。
ちなみに三沢さんの自伝や、蝶野正洋さんとの共著・胎動なども持っていたけれど、三沢さんを見つけることが出来ずに断念した。
そしてこれが、私が生涯最後に見る三沢さんの試合になってしまった。
そんなことは露とも思っていなかった。でも、ある日、部屋でゲームをしてたら、普段プロレスを見ない母が血相を変えてやってきて
アンタの好きな三沢さんが病院に運ばれたよ!
と言う。なんでそんなことを母が?と思ったら事態は深刻で、なんとテレビにニュース速報としてテロップが出たというのだ。
悪い意味でプロレスラーのケガや欠場、病院送りに慣れてしまっていた私は、正直に言えばハヤブサさんの時も楽観視していたし、冬木さんも生きて帰ってくると思ってた。
そして三沢さんも……。
まさか、そのまま帰らぬ人となるなんて。
よりによって対戦相手は、私の大好きな斎藤さんだった。
どうしたらいいのか、何を考えていたのか、全然おぼえていない。
ノア、どうなるんだろう。
みんな、どうするんだろう……。
斎藤さんは、その次の試合前に号泣して三沢さんの遺影に頭を下げ、絶叫していたという。その写真を私も週刊誌で見た。斎藤さんに罪はなく、また斎藤さんを責めることなど微塵も思わなかったが、世の中には
自分には水に堕ちた犬を気の済むまで叩く権利がある
とでもいうような、異次元の常識で生きてる奴が居るもので。そんな奴等に怒りや憐憫を覚えるものの、どうしようもない虚脱感で暫くいっぱいだった。
空っぽが詰まった胸の中にこだまする、在りし日の三沢コール。
有明コロシアムで、地元の小さな体育館で、そしてテレビの中の武道館や大阪府立体育会館で。
三沢さんはいつも、割れんばかりの三沢コールで迎えられていた。
誰もが三沢さんを待っていた。
三沢さんならやってくれる。三沢さんの試合は凄い。
ファンはみんな、三沢さんの事を誇りにしていたんだと思う。
あのピアノのイントロがみんなの合図だった。
そしてスパルタンXのリズムに合わせて、あらん限りの声で叫ぶ三沢コールは極上の体験だった。
川田さんとの最後の三冠戦も好きだけど、私の中での三沢さんのベストバウトは
99年11月の、小橋建太さんとの三冠ヘビー級選手権
それとノア旗揚げ後に、三沢さんが花道からタイガースープレックスを繰り出したGHCヘビー級選手権。これも対戦相手は小橋さんだった。
川田さんとのシバキ合いも凄かったし、小橋さんとの凌ぎあいも凄まじかった。
小橋さんはプロレスの生き字引だとこないだ書いたけど、三沢さんは不幸ではあるものの、もはや神話になってしまった。
だからやっぱり、それを語り継いで欲しいし、それと同じように、今も生きている四天王OBには、実りある余生を送って欲しい。そして時々でいいから、三沢さんや、あの頃の思い出を聞かせて欲しい。
自分も三十路を半ばまで過ごしてみると、願うのは健康や平和ばかりだ。
挑戦や試練もいいけど、もっと穏やかに暮らしてもらえるならば、そっちの方が私はうれしい。
感謝してもしきれないぐらい、あの頃のあなた方には迷える真っ暗な海を彷徨っているとき、星座のように導いてもらってたから。
90年代のマット界で、ひと際大きく、眩しく輝いていた星たち。オレンジ、黄色、赤。
そして宇宙に煌めくエメラルド。
それが三沢さん、あなただった。
三沢コールは、今でもファンの心の中に響いて鳴りやまない。そう願ってやまない。
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※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
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矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
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