上 下
1,043 / 1,299

第952回。唐揚げデスマッチ危機一髪!

しおりを挟む
 私キッドこと佐野君は、高校卒業後にメキシコに渡りプロレスラー養成学校・闘龍門メキシコに入門しました。
 2005年5月のことでした。自分たち新人は練習生、と呼ばれまずは基礎体力トレーニングとマット運動などを教えていただき、さらに先輩といっしょにチャンコ番など寮の掃除、炊事洗濯などを覚えます。
 お料理に関しては家でもよくやっていたので、ちゃんこ鍋くらいは作れるだろうと思っていたら一番最初に作ったのが大失敗。めちゃくちゃ時間がかかったうえに野菜も生煮えで、申し訳ないやら勿体ないやら恥ずかしいやら。これを教訓に料理や掃除も頑張りました。

 ひと月ほど経ったら練習生同士で組んでチャンコ番をするようになりました。私と組んでいたのは新潟県から来たヒロカワさんと言う人で、年は私より5つ上の23歳。
 実家が焼肉屋さんで入門前は色んな飲食店で働いていたということで料理が得意な人でした。実際にヒロカワさんの作る食事は好評で、何を作ってもとても美味しかったです。

 よくヒロカワさんと二人でバスに乗ってメガマートまで買い出しに行って、バス停から寮まで両手にひとつずつ食料品がギッチリ入った重たいビニール袋をぶら下げてひーこら歩いて来たのを思い出します。
 メガマートのバス停には屋根もベンチもあるし、ヒロカワさんと二人でメガマートで買ったひとつ3ペソ(当時の日本円で約30円くらい)のマンサナリフト(リンゴ味の炭酸ジュース)を飲み、ぎらつく日差しと大通りのビルにかかっているルイス・ミゲルの看板をぼんやり見上げながらとりとめのない話をしていました。

 寮の献立は週ごとに決められており、普通の味噌、醤油、しお味のちゃんこ鍋に加えてボルシチ風、コンソメ、ちりちゃんこ(ポン酢をつけて食べる)などがありました。またおかずも色々でタコスを作ったりハンバーグを焼いたり。
 何しろ娯楽のない寮生活の事、ご飯の時間は貴重な楽しみでもありました。

 特にみんなが好きだったのはやっぱり唐揚げ。
 メキシコは食料品に関しては物価が安くて、鶏肉も近所にあるメルカード(昔ながらの市場)のお肉屋さんに行ってキロ単位で買ってバンバン揚げていました。何しろ私のタッグパートナーは元料理人のヒロカワさん。唐揚げだろうとハンバーグだろうとロールキャベツだろうとお任せ。ヒロカワさんの日はみんな安心してご飯を待っていました。佐野君はそれ以外の、こまごました仕事をしていました。料理のお手伝いから果物を絞ってジュースを作ったり使った食器を洗ったり食堂やリビングの掃除をしたり。

 ある日、例によってその日のメニューが唐揚げに決まり食材を買いに行った佐野君とヒロカワさん。鶏肉数キロ、味付けの香辛料、自分たちの飲むジュース、その他の食材などを両手いっぱいに持って帰宅。さっそく晩ご飯の支度にとりかかります。
(あっ……!)
 ここで佐野君がとんでもないことに気が付きました。

 小麦粉が、ない。

 唐揚げを作るのに小麦粉がなくちゃあどうしようもない。寮に在庫は……と思ったら小さな袋に半分だけ。これじゃあとてもじゃないけど足りっこない。
 どうしよう……!
 唐揚げが作れない。みんなが楽しみにしているのに。お腹を空かせたプロレスラーと練習生仲間、合わせて15人も居るというのに……そこで「今日は唐揚げありません」なんて言ったらとてもじゃないが助からない。
 もうダメだ、簀巻きにされてアカプルコの海に沈められてしまう。
 思えば短い人生であった。

 いや勝手に死んでる場合じゃない、とりあえずまだバレてない、早いとこ何とかするっきゃない!
 というわけですぐ隣で中華鍋やら包丁とまな板やらを準備しているヒロカワさんに半泣きで縋り付く佐野君。
「びろがわざあん、どうじよう……小麦粉ないんでずう」
 なにーっ、と驚いた後しばし思案したヒロカワさんはニッコリ笑ってこう言った。
「大丈夫、佐野君。コレだけあれば十分だよ、任せとけって」
 ヒロカワさん、恐怖のあまり気でも狂ったんだろうか……そう思う私を尻目に、ヒロカワさんは上機嫌でクッキング開始。

 手際よく細かく切った鶏肉をほんの僅かばかりの小麦粉につけてバンバン揚げていく。台所からふわふわ漂って苦良い匂いにつられてみんなが集まってきた。やばい、どうしよう、もう駄目だ……!
 そして先輩の一人が遂に気付いてしまった。
「ヒロカワさん、今日の唐揚げはコロモが薄いですね」
 思えば短い人生であった。
 終わった。せめて見苦しくなく死のう。さらばメヒコの青い空よ、マスクをかぶったアミーゴたちよ、天国マットで冬木弘道ボスに会ったら……

「あ、コレはですね、中華料理の素揚げといいまして。これなら小麦粉も節約できるしボク得意なんでやってみたんですよ!」

 よどみなく答えるヒロカワさん。感心する寮の皆さん。さすがヒロカワさんだ、しかも味付けは相変わらずの絶品。
 一命をとりとめた佐野君は何度もお礼を言って、その後必死になってヒロカワさんの分まで寮の掃除をしましたとさ。

あの素揚げ、命の味がしたなあ。色んな意味で。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

生意気な女の子久しぶりのお仕置き

恩知らずなわんこ
現代文学
久しくお仕置きを受けていなかった女の子彩花はすっかり調子に乗っていた。そんな彩花はある事から久しぶりに厳しいお仕置きを受けてしまう。

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

13歳女子は男友達のためヌードモデルになる

矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

処理中です...