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不死鳥の灯
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3月3日は不死鳥・ハヤブサさんの命日だ。インディープロレス団体FMWのエースにして大看板だったが、試合中の事故によって全身不随となるもリハビリを重ね遂に立ち上がって見せた、まさに不死鳥ハヤブサさん。亡くなられて早5年になるのか。もうそんなになるのか。今でも覚えているのは、高速道路を走ってる最中に着信があって。暫くして目的地について荷解きをして、やれやれ、と覗いたスマホの画面に
ハヤブサさんが亡くなられたよ
と表示されて。一体なんのことだか、さっぱりわからなかった。わかりたくなかったのかもしれない。
何度も書いているけど私は生まれて初めて目の前で生観戦したプロレス団体がFMWで、そりゃもうカッコよかった。冬木弘道さんが。
あの日以来、私は猪木信者ならぬ冬木信者となって、ボス率いるTNRを熱烈に応援することになった。どういうことか。
日本でも国際プロレスでデビューし全日本、SWSからWAR、そこで新日本にも登場し各インディープロレスを荒らしまわった、百戦錬磨の冬木ボスが眼光鋭く睨みつけるその先には、いつもハヤブサさんが居た。どんなにボスが理不尽を働いても、リンチに遭っても、怪我をしても立ち向かってくる不屈の男がハヤブサさんだった。
冬木ボスは流石昭和のレスラーだけあって分厚く上背もあって、もじゃもじゃの頭も相まって物凄く強大に見えたし、実際強かった。ちょっとやそっとじゃ崩れない牙城でありつつも、卑怯卑劣理不尽なアノ手コノ手でハヤブサさんやリッキー・フジ選手を苦しめた。黒田の哲っちゃんも散々やられたし田中将斗選手に至っては
いっぺんでも負けたら引退
という、今どきの横綱でも不可能な無理難題(杉作J太郎さんが入場テーマ集CDのライナーノーツで実際そう書いていた)を押し付けられていた。で、いよいよ真っ向勝負をしなくちゃならなくなると、これがベラボウに強い。
ハヤブサさんの思い出を振り返ると、そこで猛威を振るっているのは必ず冬木さんだった。FMWではね。他の団体、試合については、私以外にも数多いるであろう同士の方にお任せするとして。
強大な悪のボス・冬木弘道に立ち向かう満身創痍のエース・不死鳥ハヤブサ。
そこだけ切り取って考えるとサイコーのドラマだった。けど、正直言えば当時の団体の敷いた路線、いわゆる
プロレスの見せ方
については賛否両論というか、今もってあれを大っぴらに肯定しづらいくらい散々な言われ方をしていたし、私もちょっと…こう、正面切って認めづらい部分はあった。ドッグフードや飲茶をブチまけられるのは、ちょっと、ねえ……。
そんなエンタメ路線のFMWだったが、首都圏や大都市以外では昔ながらのプロレス団体として巡業をしており、私の地元・豊橋市にやってきた時にはフツーに地方の良いプロレス興行を見せてくれた。当時のパンフレットや写真が今でも残っている。当日のポスターもある。写真は見つからなかったけどパンフレットは見つかった。
対戦カードに当時JWP女子プロレスだったコマンド・ボリショイさんと春山香代子さんのシングルマッチが入ってたり、怨霊選手が中川浩二(GOEMON)さんとの因縁からFMWに憑りついて居たり、歴史を感じるラインナップ。
そしてこの日のメインは勿論ハヤブサさんが登場する6人タッグマッチ。熱狂的なファンがリングサイドに陣取り、物見遊山の人々が後ろの方に座っている。そして当時中学生だった私はおじいちゃんがら譲り受けたミノルタのカメラを構えて場外乱闘を追いかけまわしていた。特別リングサイド7000円の席はおばあちゃんに頼み込んで半分だけ出してもらった。そのおかげで浮いたお金で入場テーマ集のCDとパンフレットを買ったのだ。本当はTシャツも欲しかったが、CDとパンフレットを買ったらスッテンテンだった。しばらく先の小遣いにも事欠く有様だったが後悔するどころか、念願のテーマ曲CDを聞きながらそれから毎日筋トレをすることになった。
メインイベントはハヤブサさんの勝利で幕を閉じ、ゴングが鳴り響くや否や熱狂的なファンの皆さんがリングを取り囲むと一斉にキャンバスをバンバン叩く。近くで見ると意外と黒ずんでたり湿ったりする、その生々しい
リング
という聖域に触れて、目の前には体育館の白い明かりに照らされたハヤブサさんの雄姿。神々しいまでに筋肉質で傷だらけで汗が光るその体に触れたくて仕方がない。そんな狂った連中だけがいつまでもリングを取り囲んで離れようとしなかった。
ハヤブサさんは、そんな狂った連中のために何度も何度もリングを回って手を差し伸べてくれた。その狂った連中のなかに中学生だった私も居た。大袈裟なことを言うと、当時色々と家庭や学校生活に問題のあった中学生の私には、それは救いの手でもあった。ゴッツゴツしてバンテージでグルグル巻きになった、血と汗のしみ込んだ硬い指先と手のひらだけが救いだった時期があった。
不死鳥ハヤブサ。「ハヤブサは不死鳥」だと、信じて疑わなかった。あの人たちを無邪気に追いかけていれば、幸せの絶頂で居られた。
だけど、そんな幸せな時代はその後すぐに、呆気なく終わりを迎えてしまう。
私が見に行った最後のFMWは2001年10月12日金曜日。
(なんでこんな細かく書けるかって?いま目の前に当日のポスターが貼ってあるから)
ハヤブサさんの事故が起きたのは同年10月22日。僅か10日後の出来事だった。週刊誌でそのことを知った私は(当時まだネットの速報とかそんなもんを見ることは出来なかった。パソコンもケータイも持ってなかったし)、それでも何処かで
ハヤブサさんのことだから、戻ってくるに違いない
と思っていた。そう思ってなければやってられないぐらいの状況だというのは、その後ひしひしと伝わって来た。だけど、誰よりもカムバックを諦めていなかったのはきっとハヤブサさん本人だったはずだ。
その後に出版された自伝も買ったし、公式ブログでFMW入門当時の話とか書いてくれたのも嬉しかった。
でも、ハヤブサさんは、もういない。
急にどこか遠くへ飛び立ってしまった。
私は本当に本当に、プロレスで少年期を救われたと思うし、プロレスで色んな知見が広まった。椎名誠さんの小説に出会ったのも、洋楽やら映画のサントラを聞くようになったのも、部活の柔道を頑張れたのも、全部プロレスだった。そしてそのプロレスの世界には巨大な悪の親玉と、不死鳥が居た。
今でも、明かりが消えて真っ暗になった豊橋市総合体育館サブアリーナにパイプ椅子をひとつポツンと置いて。そこに中学生だった私がひとりポツンと座って、ハヤブサさんの帰りを待っている。あの時ハヤブサさんは、
「必ずまた帰ってくるから、みんな、待っててくれよ!」
と絶叫し、Fight with Dream Ⅱが鳴り響くなか何度も固い握手を交わしたから。
よくいう
心の中で生き続ける
というのは、こういう事なのかもしれないな
何かにへこたれて、疲れてしまうたびに、プロレスのことを思い出して頑張ろうと思うんだけど、またすぐ疲れてしまう。それは年々ペースを速めていて、いつか生きられなくなる日が来るんじゃないか、それが10年後なのか明日なのか、あと2時間ぐらいして急に来るのかわからないけど、もう自分で自分が怖くて信じられなくて、どうにもならなくなってしまった時も。結局こうして生き延びて、今またハヤブサさんや冬木ボスのことを思い出している。彼らが心の中で生き続けている間は、きっと私の心も死なないのだろう。
そうだ、ハヤブサさんは、あの日も最後にこう言ったんだ。
お楽しみは、これからだ!
って。私には、まだまだお楽しみが残っていると、今日また少し元気を出して、これをしたためた次第です。
ハヤブサさんが亡くなられたよ
と表示されて。一体なんのことだか、さっぱりわからなかった。わかりたくなかったのかもしれない。
何度も書いているけど私は生まれて初めて目の前で生観戦したプロレス団体がFMWで、そりゃもうカッコよかった。冬木弘道さんが。
あの日以来、私は猪木信者ならぬ冬木信者となって、ボス率いるTNRを熱烈に応援することになった。どういうことか。
日本でも国際プロレスでデビューし全日本、SWSからWAR、そこで新日本にも登場し各インディープロレスを荒らしまわった、百戦錬磨の冬木ボスが眼光鋭く睨みつけるその先には、いつもハヤブサさんが居た。どんなにボスが理不尽を働いても、リンチに遭っても、怪我をしても立ち向かってくる不屈の男がハヤブサさんだった。
冬木ボスは流石昭和のレスラーだけあって分厚く上背もあって、もじゃもじゃの頭も相まって物凄く強大に見えたし、実際強かった。ちょっとやそっとじゃ崩れない牙城でありつつも、卑怯卑劣理不尽なアノ手コノ手でハヤブサさんやリッキー・フジ選手を苦しめた。黒田の哲っちゃんも散々やられたし田中将斗選手に至っては
いっぺんでも負けたら引退
という、今どきの横綱でも不可能な無理難題(杉作J太郎さんが入場テーマ集CDのライナーノーツで実際そう書いていた)を押し付けられていた。で、いよいよ真っ向勝負をしなくちゃならなくなると、これがベラボウに強い。
ハヤブサさんの思い出を振り返ると、そこで猛威を振るっているのは必ず冬木さんだった。FMWではね。他の団体、試合については、私以外にも数多いるであろう同士の方にお任せするとして。
強大な悪のボス・冬木弘道に立ち向かう満身創痍のエース・不死鳥ハヤブサ。
そこだけ切り取って考えるとサイコーのドラマだった。けど、正直言えば当時の団体の敷いた路線、いわゆる
プロレスの見せ方
については賛否両論というか、今もってあれを大っぴらに肯定しづらいくらい散々な言われ方をしていたし、私もちょっと…こう、正面切って認めづらい部分はあった。ドッグフードや飲茶をブチまけられるのは、ちょっと、ねえ……。
そんなエンタメ路線のFMWだったが、首都圏や大都市以外では昔ながらのプロレス団体として巡業をしており、私の地元・豊橋市にやってきた時にはフツーに地方の良いプロレス興行を見せてくれた。当時のパンフレットや写真が今でも残っている。当日のポスターもある。写真は見つからなかったけどパンフレットは見つかった。
対戦カードに当時JWP女子プロレスだったコマンド・ボリショイさんと春山香代子さんのシングルマッチが入ってたり、怨霊選手が中川浩二(GOEMON)さんとの因縁からFMWに憑りついて居たり、歴史を感じるラインナップ。
そしてこの日のメインは勿論ハヤブサさんが登場する6人タッグマッチ。熱狂的なファンがリングサイドに陣取り、物見遊山の人々が後ろの方に座っている。そして当時中学生だった私はおじいちゃんがら譲り受けたミノルタのカメラを構えて場外乱闘を追いかけまわしていた。特別リングサイド7000円の席はおばあちゃんに頼み込んで半分だけ出してもらった。そのおかげで浮いたお金で入場テーマ集のCDとパンフレットを買ったのだ。本当はTシャツも欲しかったが、CDとパンフレットを買ったらスッテンテンだった。しばらく先の小遣いにも事欠く有様だったが後悔するどころか、念願のテーマ曲CDを聞きながらそれから毎日筋トレをすることになった。
メインイベントはハヤブサさんの勝利で幕を閉じ、ゴングが鳴り響くや否や熱狂的なファンの皆さんがリングを取り囲むと一斉にキャンバスをバンバン叩く。近くで見ると意外と黒ずんでたり湿ったりする、その生々しい
リング
という聖域に触れて、目の前には体育館の白い明かりに照らされたハヤブサさんの雄姿。神々しいまでに筋肉質で傷だらけで汗が光るその体に触れたくて仕方がない。そんな狂った連中だけがいつまでもリングを取り囲んで離れようとしなかった。
ハヤブサさんは、そんな狂った連中のために何度も何度もリングを回って手を差し伸べてくれた。その狂った連中のなかに中学生だった私も居た。大袈裟なことを言うと、当時色々と家庭や学校生活に問題のあった中学生の私には、それは救いの手でもあった。ゴッツゴツしてバンテージでグルグル巻きになった、血と汗のしみ込んだ硬い指先と手のひらだけが救いだった時期があった。
不死鳥ハヤブサ。「ハヤブサは不死鳥」だと、信じて疑わなかった。あの人たちを無邪気に追いかけていれば、幸せの絶頂で居られた。
だけど、そんな幸せな時代はその後すぐに、呆気なく終わりを迎えてしまう。
私が見に行った最後のFMWは2001年10月12日金曜日。
(なんでこんな細かく書けるかって?いま目の前に当日のポスターが貼ってあるから)
ハヤブサさんの事故が起きたのは同年10月22日。僅か10日後の出来事だった。週刊誌でそのことを知った私は(当時まだネットの速報とかそんなもんを見ることは出来なかった。パソコンもケータイも持ってなかったし)、それでも何処かで
ハヤブサさんのことだから、戻ってくるに違いない
と思っていた。そう思ってなければやってられないぐらいの状況だというのは、その後ひしひしと伝わって来た。だけど、誰よりもカムバックを諦めていなかったのはきっとハヤブサさん本人だったはずだ。
その後に出版された自伝も買ったし、公式ブログでFMW入門当時の話とか書いてくれたのも嬉しかった。
でも、ハヤブサさんは、もういない。
急にどこか遠くへ飛び立ってしまった。
私は本当に本当に、プロレスで少年期を救われたと思うし、プロレスで色んな知見が広まった。椎名誠さんの小説に出会ったのも、洋楽やら映画のサントラを聞くようになったのも、部活の柔道を頑張れたのも、全部プロレスだった。そしてそのプロレスの世界には巨大な悪の親玉と、不死鳥が居た。
今でも、明かりが消えて真っ暗になった豊橋市総合体育館サブアリーナにパイプ椅子をひとつポツンと置いて。そこに中学生だった私がひとりポツンと座って、ハヤブサさんの帰りを待っている。あの時ハヤブサさんは、
「必ずまた帰ってくるから、みんな、待っててくれよ!」
と絶叫し、Fight with Dream Ⅱが鳴り響くなか何度も固い握手を交わしたから。
よくいう
心の中で生き続ける
というのは、こういう事なのかもしれないな
何かにへこたれて、疲れてしまうたびに、プロレスのことを思い出して頑張ろうと思うんだけど、またすぐ疲れてしまう。それは年々ペースを速めていて、いつか生きられなくなる日が来るんじゃないか、それが10年後なのか明日なのか、あと2時間ぐらいして急に来るのかわからないけど、もう自分で自分が怖くて信じられなくて、どうにもならなくなってしまった時も。結局こうして生き延びて、今またハヤブサさんや冬木ボスのことを思い出している。彼らが心の中で生き続けている間は、きっと私の心も死なないのだろう。
そうだ、ハヤブサさんは、あの日も最後にこう言ったんだ。
お楽しみは、これからだ!
って。私には、まだまだお楽しみが残っていると、今日また少し元気を出して、これをしたためた次第です。
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