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第755回。おじいちゃんとトラックと
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うちのおじいちゃんは、長年トラックの運転手をやっていた。
母方の祖父はオートバイショップ経営を経て工業高校で先生をやっていて、トラックの運転手だったのはもう片方のおじいちゃん。
暗くなるしメンドクサイので普段はあまり説明しないんだけど、私と私のお父ちゃんというのは血が繋がってないのね。キッドさんが小6ぐらいんときかな、気が付いたら我が家に居付いてたのがのちにお父ちゃんと認める男、輝さんこと佐藤輝之さんだった。
で、このトラックの運転手をやってたおじいちゃんというのは、その輝さんとは全然別の家庭の人
キッドさんが残念ながらこの世に生を受けてしまった原因が母親以外にもう一人いるんだがそいつのことは都合よくオミット&スポイルして生きているので、時々こういう面倒な文章と説明が必要になる
キッドさん、佐野さん
輝さんは佐藤さん
トラック運転手のおじいちゃんは森さんだ
で、森さんこと私のおじいちゃん。
大型トラックの運転手をしつつ空いた時間は伊藤ハムでリフトマンとして勤めてた働き者で、私が産まれた時も48歳と現役バリバリ。
なので、昔はよくトラックに乗せてもらっていた。30年ぐらい前の話だ
高校教師(ポリスの歌じゃないぞ)だった祖父(こっちは佐野さん)も趣味がカメラと旅行で教師になる前はオートバイショップをやってた。
方やトラック運転手のおじいちゃんは道路と運転のプロ。
私が遠出したり用もないのに道路地図を買って読むのが好きなのは完全にこの二人のおじいちゃんの影響だ。
あれは寒い冬の夜だった。当時おじいちゃんが乗ってた銀色のブルーバードで営業所の古い建物についた。
鉄筋コンクリートの頑丈な建物で、四角いシルエットが無骨そのもの。
打刻して休憩所に入るとおじいちゃんと同じ青い作業着のおじさんが沢山いて
おおー森さんの孫かあ
でけえなあ
ボウズ名前は?
なんかジュース飲むか?
ラーメンもあるぞ
と次々に声をかけてくれたり食べ物や飲み物を勧めてくれた。
自分で言うのもナンだけど、私は子供のころからよく人様に食べ物をもらう。
特にお年寄りやおっちゃん、おばちゃんは肥満児に食べ物を差し出すのが大好きらしく、四六時中お腹を空かせている私にとっては有難い限りだった。
トラックの営業所は交通量の多い国道からちょっと奥に入ったところ、赤と黄色の一つ目の点滅信号がある交差点の角にあった。茶色のレンガや茶色と黒とコゲ茶のタイルが張られた一階が休憩所で、確か二階に事務所、三階が倉庫か何かになってた建物と、裏手に荷物の積み降ろしをするターミナル。そして軽油タンクと給油所。
休憩所には石油ストーブが置かれていて、こげ茶色の長椅子が幾つか、古いブラウン管テレビ(平成一けた台の話だからな)、壁際にはジュースの自販機がずらっと並んでて、その左右の両端がスナック菓子とカップラーメンの自販機だった。私はその時カップラーメンの自販機なんてものを初めて見てテンションが上がってしまい、運転手の皆さんが勧めるままにカップラーメンをご馳走になってしまった。マルちゃんだったか日清だったか…コーヒーとタバコとストーブに使う灯油の匂いが染み付いた部屋の中で太った子供がふーふー言ってラーメン食ってる図。実にほのぼのする。
私がそんな風に武骨なオッサン方のマスコットになっている間におじいちゃんは支度を済ませ、いよいよトラックに乗り込むときがやって来た。
夜の国道は昼間と全然違っていて、信号機も点滅してしまって青信号というのが無かった。この時におじいちゃんが「信号が死んでる」と言ってたのを聞いて、私も長いことそういう表現をしていた。
今もそうかもしれないけど、あの頃は夜11時から明け方ぐらいまで、信号機って点滅してたんだよね。
んで、その信号機も死んだように眠る夜の街を走っているのはトラックばかりだった。
愛知県は何処を走ってもトラックが多い。愛知県全体のうち平野部のほとんどが自動車の部品工場や関連会社で、もはや県ごと、地域ごと、巨大な自動車工場を形成していると思えばいい。港もあるし。
その大動脈である国道から高速道路に乗る。あとは単調な道のりだが、おじいちゃんが色々と昔話をしてくれたり、トイレに寄ったサービスエリアでジュースやお菓子を買ってくれた。
真夜中のサービスエリア。それも今ほど小綺麗じゃなく、なんだったらまだ日本道路公団だった頃のこれも武骨と言うか質素と言うか小汚いというか、昭和の忘れ物みたいな場所はなんとも不思議な魅力に満ちていた。
そこいらじゅうでうなりを上げているトラックのエンジン、排気ガスの匂いで目や鼻がちょっとヒリヒリしてツンと来る。
眠たくなったら運転席の後ろのベッドにもぐりこんで寝てしまう。エアコンが効いているのでタオルケットでも全然平気だった。
目が覚めると大阪についていて、おじいちゃんは積み込みが終わって何処かに行ってしまっていた。するとそこの営業所のおばちゃんがやってきて、山ほどミカンをもらったのを今でも覚えている。
やっぱり肥満児には食い物だ。
ミカンを食べてたらおじいちゃんが帰ってきた。そして同じ道のりを辿って豊橋に帰ってきた。
おじいちゃんはその数年後に定年退職してしまったし、その営業所もその後なくなってしまった。
あの時に食べた真夜中のカップラーメン、美味しかったな。
忘れじのカップラーメンや夜中のサービスエリアの思い出話
母方の祖父はオートバイショップ経営を経て工業高校で先生をやっていて、トラックの運転手だったのはもう片方のおじいちゃん。
暗くなるしメンドクサイので普段はあまり説明しないんだけど、私と私のお父ちゃんというのは血が繋がってないのね。キッドさんが小6ぐらいんときかな、気が付いたら我が家に居付いてたのがのちにお父ちゃんと認める男、輝さんこと佐藤輝之さんだった。
で、このトラックの運転手をやってたおじいちゃんというのは、その輝さんとは全然別の家庭の人
キッドさんが残念ながらこの世に生を受けてしまった原因が母親以外にもう一人いるんだがそいつのことは都合よくオミット&スポイルして生きているので、時々こういう面倒な文章と説明が必要になる
キッドさん、佐野さん
輝さんは佐藤さん
トラック運転手のおじいちゃんは森さんだ
で、森さんこと私のおじいちゃん。
大型トラックの運転手をしつつ空いた時間は伊藤ハムでリフトマンとして勤めてた働き者で、私が産まれた時も48歳と現役バリバリ。
なので、昔はよくトラックに乗せてもらっていた。30年ぐらい前の話だ
高校教師(ポリスの歌じゃないぞ)だった祖父(こっちは佐野さん)も趣味がカメラと旅行で教師になる前はオートバイショップをやってた。
方やトラック運転手のおじいちゃんは道路と運転のプロ。
私が遠出したり用もないのに道路地図を買って読むのが好きなのは完全にこの二人のおじいちゃんの影響だ。
あれは寒い冬の夜だった。当時おじいちゃんが乗ってた銀色のブルーバードで営業所の古い建物についた。
鉄筋コンクリートの頑丈な建物で、四角いシルエットが無骨そのもの。
打刻して休憩所に入るとおじいちゃんと同じ青い作業着のおじさんが沢山いて
おおー森さんの孫かあ
でけえなあ
ボウズ名前は?
なんかジュース飲むか?
ラーメンもあるぞ
と次々に声をかけてくれたり食べ物や飲み物を勧めてくれた。
自分で言うのもナンだけど、私は子供のころからよく人様に食べ物をもらう。
特にお年寄りやおっちゃん、おばちゃんは肥満児に食べ物を差し出すのが大好きらしく、四六時中お腹を空かせている私にとっては有難い限りだった。
トラックの営業所は交通量の多い国道からちょっと奥に入ったところ、赤と黄色の一つ目の点滅信号がある交差点の角にあった。茶色のレンガや茶色と黒とコゲ茶のタイルが張られた一階が休憩所で、確か二階に事務所、三階が倉庫か何かになってた建物と、裏手に荷物の積み降ろしをするターミナル。そして軽油タンクと給油所。
休憩所には石油ストーブが置かれていて、こげ茶色の長椅子が幾つか、古いブラウン管テレビ(平成一けた台の話だからな)、壁際にはジュースの自販機がずらっと並んでて、その左右の両端がスナック菓子とカップラーメンの自販機だった。私はその時カップラーメンの自販機なんてものを初めて見てテンションが上がってしまい、運転手の皆さんが勧めるままにカップラーメンをご馳走になってしまった。マルちゃんだったか日清だったか…コーヒーとタバコとストーブに使う灯油の匂いが染み付いた部屋の中で太った子供がふーふー言ってラーメン食ってる図。実にほのぼのする。
私がそんな風に武骨なオッサン方のマスコットになっている間におじいちゃんは支度を済ませ、いよいよトラックに乗り込むときがやって来た。
夜の国道は昼間と全然違っていて、信号機も点滅してしまって青信号というのが無かった。この時におじいちゃんが「信号が死んでる」と言ってたのを聞いて、私も長いことそういう表現をしていた。
今もそうかもしれないけど、あの頃は夜11時から明け方ぐらいまで、信号機って点滅してたんだよね。
んで、その信号機も死んだように眠る夜の街を走っているのはトラックばかりだった。
愛知県は何処を走ってもトラックが多い。愛知県全体のうち平野部のほとんどが自動車の部品工場や関連会社で、もはや県ごと、地域ごと、巨大な自動車工場を形成していると思えばいい。港もあるし。
その大動脈である国道から高速道路に乗る。あとは単調な道のりだが、おじいちゃんが色々と昔話をしてくれたり、トイレに寄ったサービスエリアでジュースやお菓子を買ってくれた。
真夜中のサービスエリア。それも今ほど小綺麗じゃなく、なんだったらまだ日本道路公団だった頃のこれも武骨と言うか質素と言うか小汚いというか、昭和の忘れ物みたいな場所はなんとも不思議な魅力に満ちていた。
そこいらじゅうでうなりを上げているトラックのエンジン、排気ガスの匂いで目や鼻がちょっとヒリヒリしてツンと来る。
眠たくなったら運転席の後ろのベッドにもぐりこんで寝てしまう。エアコンが効いているのでタオルケットでも全然平気だった。
目が覚めると大阪についていて、おじいちゃんは積み込みが終わって何処かに行ってしまっていた。するとそこの営業所のおばちゃんがやってきて、山ほどミカンをもらったのを今でも覚えている。
やっぱり肥満児には食い物だ。
ミカンを食べてたらおじいちゃんが帰ってきた。そして同じ道のりを辿って豊橋に帰ってきた。
おじいちゃんはその数年後に定年退職してしまったし、その営業所もその後なくなってしまった。
あの時に食べた真夜中のカップラーメン、美味しかったな。
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