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第546回。キッドさんの怪奇短編シリーズ「部屋と人影と私」
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二十二歳の夏。
私は静岡の小さなワンルームアパートの一室にいた。当時付き合っていた女性がこの部屋で一人暮らしをしていて、早い話そこへ転がり込んだのだ。国道一号バイパス丸子(まりこ)インターを降りて市街地に入りちょっと走った静かな住宅地の中にある、ロフト付きの小さな部屋だ。すぐ近所にファミリーマートがあって、料理が苦手な彼女は専らそこのお弁当が主食だった。
だから私が部屋に居るときは食料を持参して何かと作って食べていた。当時はバイトとバンドしかしておらず、セルフサービスのガソリンスタンドのバイトも週に三日くらいしかなかった。バイトの時だけオンボロの日産マーチを飛ばして家に帰り、バンドの練習もして、彼女の部屋に帰ってきていた。そりゃあ、ベースも上手くならないわけだ。一応、彼女の部屋にも持参してはいたのだが、当然というべきかベースより彼女に触れている時間のほうがはるかに長かった。
その彼女というのが少し心の病を抱えた子でもあったのだが、その他に母方が代々巫女さんをやっていた家系だとかで、そのためか彼女もとんでもない霊感体質で、付き合ってるあいだに何度も不思議な現象に出っくわしていた。今からお話するコレもその中のひとつ。
ある晴れた遅い朝。
二人共ぐったりして起きたのは、若さゆえの自業自得というあれではない。騒がしかったのは両隣の部屋だ。もともと夜中になると乱暴にドアを開け閉めして、(おそらく)意味もなくいきなり壁を叩くか蹴飛ばすような音がすることがあった。それは彼女が越してきてすぐに始まっていたらしい。
それにしたってその日は異常だった。今までは散発的でドン! と鳴ったらそれっきりとか。足音やドアの開閉だってそう頻繁ではなかった。
ところがその日の晩。両隣の部屋は同時多発的にガサ入れかカチ込みがあったような騒音で、延々とガッタンバッタンやかましいったらなかった。彼女はすっかり怯えて布団を頭からすっぽりかぶり、私も最初こそ頭に来ていたが、途中からうすら寒いものを感じていた。
クーラーを効かせていたので窓は閉め切っているのだが、それにしたって背筋がゾクゾクとしてたまらなかった。しまいにはクーラーを切ったのだが、そうすると勝手なもので今度は蒸し暑い。恐怖で寒気は感じても、室温は下がらないのだ。
仕方がないので窓を開けようと部屋に一つしかない窓を覆うカーテンへと向かった。玄関からまっすぐ細長い部屋は、あがってすぐ右手に洗面所とユニットバス。そして申し訳程度のコンロと流し台、六畳ほどのフローリング。ロフトはバスルームの上に付けられていて、部屋の隅からハシゴがかかっている。
さて。私はその洋間に敷きっぱなしの布団から立ち上がり、窓を閉めようとカーテンをめくろうとして……彼女の絶叫にさえぎられた。
「だめ! あけちゃだめ!!」
正直に言うと、あまりの騒音で何か心のバランスを損なったのだと思った。自動車に乗ってて後ろから煽られたり、街角で急に大型犬に吠えられたり、私と喧嘩になった時もそうだった。今回も、まあそんなところだろう。私は安易な気持ちでカーテンに手をかけ、左から右へ一気に開け放った。
窓の外に、真っ黒い人影が立っていた。
顔や服装はわからない。影、そのものだった。
私は数秒、その影を見詰めて立ち尽くしていた。
影は微動だにしない。私も動けなかった。真っ黒な輪郭だけがそこにあるのに、なぜか射抜かれるような視線を感じた。
「ひぃ」
彼女の短い悲鳴が聞こえた。私はとっさに後ろを振り向いた。誰かがこの部屋に居る!?
ドン!!!!
!!?
誰かが玄関のドアを叩いた。それも物凄い力で。部屋の空気までもが一瞬ビリッと揺れた。
窓の外を見ないようにカーテンを閉め、エアコンのスイッチを入れて彼女の居る布団に逃げ込んだ。すっかり怯えた彼女をぎゅっと抱きしめると、体が異常に冷たかった。まるで死体だ……これは彼女が異変を察知した時に現れる反応だった。やっぱり何かが起こっているんだ。
どんどんどん!
ばんばんばん!
がたん!
ばたばた! がたーん!
騒音は尚も鳴りやまず、私たちの頭の上を砲弾のように飛び交っている。塹壕の中で息をひそめるようにして、じっと耐えていた。明かりも点けたままだというのに、異様な恐怖にとらわれていた。どれほどの時間が経っただろう。一向に温かくならない彼女の体を抱いて、私はふと布団から顔を上げた。
ばーーん!!
その瞬間を待っていたのは、窓の外のあいつだったんだろうか。突然、何者かが窓ガラスを思いっきり叩いた。まるで大きな体で体当たりをしたような音だ。いよいよ我慢がならなくなって、私は勢いを付けて再びカーテンを開けた。
乾いた音を立てて金具がレールを走る音と、騒音がより一層激しくなるのがほぼ同時だった。私は逆上し、叫んだ。
「この野郎! 何のつもりだ!!」
力を込めて窓ガラスをにらみつけると、もうそこに人影はなかった。あれ、と思った瞬間には、騒音も止んでいた。小さなベランダの向かいには、朝を待つ静岡茶の加工工場がしんと眠って佇んでいるだけだ。
窓ガラスに手をかけ、今度はそっと、少しだけ開けてみた。
蒸し暑い空気がよく冷えた部屋の中を一回りして、そのまま床のあたりで溶けていった。彼女の方を振り向くと、小声で何か言っている。
「……ない……」
「えっ?」
「あけな……で」
「え!?」
「開けないで!!」
ばん!
私は布団から顔を上げた彼女のあまりの剣幕に驚いて、窓ガラスから手を離し。その瞬間、ガラス戸が独りでに音を立てて閉った。
彼女は布団の上にぺたんと座って、荒い息をついていた。ざあ、ざあ、と呼気を吐き出すたびに、もともと白かった顔色がどんどん青白くなっていく。
「入ったかも」
「……入ったって、まさか」
「うん、外にいた人たち」
「人、たち?」
「うん。あのね、いっぱい居たの。だけど私がいるから、この部屋に入れなくって…でも今窓ガラス開けたでしょ? だから」
「……大丈夫だよ! ガラスを開けなきゃ入ってこれない幽霊なんて」
「でも」
「いいから、今日は寝よう。大丈夫、ずっと横に居るから」
怖がる彼女をどうにかなだめ、私たちはいつものように大きめの布団に二人で入った。私が転がり込むときにホームセンターで手土産代わり(当時は逆・嫁入り道具なんて言っていたっけ)に持ってきたものだ。
どのぐらい眠ったのだろう。長い時間にも、わずかな間にも感じられた。仰向けで目覚めた私はトイレに行きたくなって、ふと体を起こそうと目を開けた。頭の上まで布団をかぶっていたので、見えるのは白い布だけだ。彼女は隣でスヤスヤ眠っている。少しだけ安心して、私は顔の上から布団をのけた。
周囲から覗き込むようにして私たちを見下ろしている数十人の人影がソコに居た。
あっ! と思った瞬間、人影たちはすーーっと消えていった。
だけど怖いので、もう一度布団をかぶって、朝までトイレを我慢していた。
今度は死ぬほど長く感じた。
あとで彼女がぼそっと白状した。この部屋の両隣は空き部屋なのだった。
二〇〇八年のお盆の事だった。
私は静岡の小さなワンルームアパートの一室にいた。当時付き合っていた女性がこの部屋で一人暮らしをしていて、早い話そこへ転がり込んだのだ。国道一号バイパス丸子(まりこ)インターを降りて市街地に入りちょっと走った静かな住宅地の中にある、ロフト付きの小さな部屋だ。すぐ近所にファミリーマートがあって、料理が苦手な彼女は専らそこのお弁当が主食だった。
だから私が部屋に居るときは食料を持参して何かと作って食べていた。当時はバイトとバンドしかしておらず、セルフサービスのガソリンスタンドのバイトも週に三日くらいしかなかった。バイトの時だけオンボロの日産マーチを飛ばして家に帰り、バンドの練習もして、彼女の部屋に帰ってきていた。そりゃあ、ベースも上手くならないわけだ。一応、彼女の部屋にも持参してはいたのだが、当然というべきかベースより彼女に触れている時間のほうがはるかに長かった。
その彼女というのが少し心の病を抱えた子でもあったのだが、その他に母方が代々巫女さんをやっていた家系だとかで、そのためか彼女もとんでもない霊感体質で、付き合ってるあいだに何度も不思議な現象に出っくわしていた。今からお話するコレもその中のひとつ。
ある晴れた遅い朝。
二人共ぐったりして起きたのは、若さゆえの自業自得というあれではない。騒がしかったのは両隣の部屋だ。もともと夜中になると乱暴にドアを開け閉めして、(おそらく)意味もなくいきなり壁を叩くか蹴飛ばすような音がすることがあった。それは彼女が越してきてすぐに始まっていたらしい。
それにしたってその日は異常だった。今までは散発的でドン! と鳴ったらそれっきりとか。足音やドアの開閉だってそう頻繁ではなかった。
ところがその日の晩。両隣の部屋は同時多発的にガサ入れかカチ込みがあったような騒音で、延々とガッタンバッタンやかましいったらなかった。彼女はすっかり怯えて布団を頭からすっぽりかぶり、私も最初こそ頭に来ていたが、途中からうすら寒いものを感じていた。
クーラーを効かせていたので窓は閉め切っているのだが、それにしたって背筋がゾクゾクとしてたまらなかった。しまいにはクーラーを切ったのだが、そうすると勝手なもので今度は蒸し暑い。恐怖で寒気は感じても、室温は下がらないのだ。
仕方がないので窓を開けようと部屋に一つしかない窓を覆うカーテンへと向かった。玄関からまっすぐ細長い部屋は、あがってすぐ右手に洗面所とユニットバス。そして申し訳程度のコンロと流し台、六畳ほどのフローリング。ロフトはバスルームの上に付けられていて、部屋の隅からハシゴがかかっている。
さて。私はその洋間に敷きっぱなしの布団から立ち上がり、窓を閉めようとカーテンをめくろうとして……彼女の絶叫にさえぎられた。
「だめ! あけちゃだめ!!」
正直に言うと、あまりの騒音で何か心のバランスを損なったのだと思った。自動車に乗ってて後ろから煽られたり、街角で急に大型犬に吠えられたり、私と喧嘩になった時もそうだった。今回も、まあそんなところだろう。私は安易な気持ちでカーテンに手をかけ、左から右へ一気に開け放った。
窓の外に、真っ黒い人影が立っていた。
顔や服装はわからない。影、そのものだった。
私は数秒、その影を見詰めて立ち尽くしていた。
影は微動だにしない。私も動けなかった。真っ黒な輪郭だけがそこにあるのに、なぜか射抜かれるような視線を感じた。
「ひぃ」
彼女の短い悲鳴が聞こえた。私はとっさに後ろを振り向いた。誰かがこの部屋に居る!?
ドン!!!!
!!?
誰かが玄関のドアを叩いた。それも物凄い力で。部屋の空気までもが一瞬ビリッと揺れた。
窓の外を見ないようにカーテンを閉め、エアコンのスイッチを入れて彼女の居る布団に逃げ込んだ。すっかり怯えた彼女をぎゅっと抱きしめると、体が異常に冷たかった。まるで死体だ……これは彼女が異変を察知した時に現れる反応だった。やっぱり何かが起こっているんだ。
どんどんどん!
ばんばんばん!
がたん!
ばたばた! がたーん!
騒音は尚も鳴りやまず、私たちの頭の上を砲弾のように飛び交っている。塹壕の中で息をひそめるようにして、じっと耐えていた。明かりも点けたままだというのに、異様な恐怖にとらわれていた。どれほどの時間が経っただろう。一向に温かくならない彼女の体を抱いて、私はふと布団から顔を上げた。
ばーーん!!
その瞬間を待っていたのは、窓の外のあいつだったんだろうか。突然、何者かが窓ガラスを思いっきり叩いた。まるで大きな体で体当たりをしたような音だ。いよいよ我慢がならなくなって、私は勢いを付けて再びカーテンを開けた。
乾いた音を立てて金具がレールを走る音と、騒音がより一層激しくなるのがほぼ同時だった。私は逆上し、叫んだ。
「この野郎! 何のつもりだ!!」
力を込めて窓ガラスをにらみつけると、もうそこに人影はなかった。あれ、と思った瞬間には、騒音も止んでいた。小さなベランダの向かいには、朝を待つ静岡茶の加工工場がしんと眠って佇んでいるだけだ。
窓ガラスに手をかけ、今度はそっと、少しだけ開けてみた。
蒸し暑い空気がよく冷えた部屋の中を一回りして、そのまま床のあたりで溶けていった。彼女の方を振り向くと、小声で何か言っている。
「……ない……」
「えっ?」
「あけな……で」
「え!?」
「開けないで!!」
ばん!
私は布団から顔を上げた彼女のあまりの剣幕に驚いて、窓ガラスから手を離し。その瞬間、ガラス戸が独りでに音を立てて閉った。
彼女は布団の上にぺたんと座って、荒い息をついていた。ざあ、ざあ、と呼気を吐き出すたびに、もともと白かった顔色がどんどん青白くなっていく。
「入ったかも」
「……入ったって、まさか」
「うん、外にいた人たち」
「人、たち?」
「うん。あのね、いっぱい居たの。だけど私がいるから、この部屋に入れなくって…でも今窓ガラス開けたでしょ? だから」
「……大丈夫だよ! ガラスを開けなきゃ入ってこれない幽霊なんて」
「でも」
「いいから、今日は寝よう。大丈夫、ずっと横に居るから」
怖がる彼女をどうにかなだめ、私たちはいつものように大きめの布団に二人で入った。私が転がり込むときにホームセンターで手土産代わり(当時は逆・嫁入り道具なんて言っていたっけ)に持ってきたものだ。
どのぐらい眠ったのだろう。長い時間にも、わずかな間にも感じられた。仰向けで目覚めた私はトイレに行きたくなって、ふと体を起こそうと目を開けた。頭の上まで布団をかぶっていたので、見えるのは白い布だけだ。彼女は隣でスヤスヤ眠っている。少しだけ安心して、私は顔の上から布団をのけた。
周囲から覗き込むようにして私たちを見下ろしている数十人の人影がソコに居た。
あっ! と思った瞬間、人影たちはすーーっと消えていった。
だけど怖いので、もう一度布団をかぶって、朝までトイレを我慢していた。
今度は死ぬほど長く感じた。
あとで彼女がぼそっと白状した。この部屋の両隣は空き部屋なのだった。
二〇〇八年のお盆の事だった。
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