342 / 1,299
第311回。マサくんのおばあちゃん
しおりを挟む
うちのすぐ近所に住んでいる、マサくんのおばあちゃん。
私が子供のころからおばあちゃんなので、今でもおばあちゃんだ。
というか、子供のころにおばあちゃんとして認識した人って、なんか、いつまでたっても見た目が変わらないよな。少しずつ、確実に老けているし、亡くなったりすると急に小さくしわくちゃに見えたりもするんだけど。
あの頃の人って頑丈な人も多いんだなって思うのは、マサくんのおばあちゃんは結構大柄で、自分でも
わしゃあデブだもんで
なんていうくらいで、本当に真ん丸のシルエットをしている。
マサくん家は八百屋さんをやっていて、おばあちゃんはいつも店番をしている。
小さなお店だけど実は会社をやっているので、そこは小売り担当って感じ。
小さいころ、よく遊びに行ってマサくんの持ってるゲームをやったりしてたな。
あの頃は駄菓子も売っていたので、色付きの棒ジュースや5円チョコなんかを買ってオヤツにしてた。
ここ数年はお店の前で日向ぼっこをしているのが定位置で、前を通りかかると昔話をしたり、なんだかんだ話し込むことがよくある。肝心のマサくんと暫く会ってないのに、おばあちゃんとはよく話してるなあ私。
今日(2017年12月9日)も近所を散歩してたら定位置にいなかったので、さすがに寒いんでやめたのかな…と思ってた。んで帰り道にまた通りかかったらちゃんと居た。
こう言っちゃなんだかやっぱり顔を見ないと心配にもなるもので、声をかけるとすこぶる元気だった。
安心したついでにバナナとミカンを買ったら福引券をくれたので、昔なつかしいガラガラの福引をやってティッシュとうまい棒をもらってきた。
私も気が付けば三十路になり、いつの間にか、いや、少しずつじわじわと、子供のころおばあちゃん・おじいちゃんだった人たちが居なくなってきて。
私の祖父母も、もう残っているのは一人だけだ。
こないだ十二指腸潰瘍で…なんて言ってたけど、それまで全然元気だったし、これからもそうであってほしい。私がこの街に残した数少ない未練は、このおじいちゃんだったりもする。
昔からの知り合いの人は、私の曽祖父や家業のことも知っているけど、それでも当たり前に普通に接してくれていた。今でもそうだけど、結局は自分も礼儀正しく親切に、いわゆる普通に当たり前に接しているし、それをお互い様にしているだけなのだろう。
幼馴染のおばあちゃん、という関係性が一つ挟まってはいるけど、マサくんのおばあちゃんに対してもそうで。
昔から私は、自分で言うけどお年寄りと話すのが好きだったし、たぶん得意だったんだと思う。
同じ小学校で同年代の友達がひっっっとりも居なくなった時期であっても、その彼らの親御さんや祖父母とは話をしてたぐらいで…。ご子息によろしく伝えることはなかったかもしれないけど、そうやって結局のところ私を孤独にしないでいてくれたから、私はハンパにグレて馬鹿な真似をしないで済んだし、今でも道端で会えば話をしてくれていることがとてもありがたい。
誰々くんのお母さん、おばあちゃん、何々ちゃんのおかあさん、といった具合に、本人とそのご家族を分けて考えられたのは幸いだった。
私は残念ながらメキシコまで行っておきながら今も地元にいる。
せめて横浜や大阪に移り住んでいれば、と思うことも多々あったし、今でも、いっそどこかに越してみようかと思うことがある。
だけどこうして、土着の温かさを感じるのもやっぱり素敵だし、いいところで暮らすことが出来てたんだなって思う。
自分で自分を住みにくくすることはないので、これからも朗らかに生きようと思う。
だけどやっぱり、ある日突然どっかに消えて、そのままってのも悪くないかな…なんてなことも、忘れないようにしようとは思ってるけど。
マサくんのおばあちゃんは、旦那さん、つまり私からすればマサくんのおじいちゃんを早くに亡くしている。私が小学生ぐらいの頃だったと思う。時折、買い物のついでに昔話などをすると、結構前の話でもちゃんと、しっかりと、よく覚えている。
それだけ忘れられない人のことを、思い出すだけの数十年はどれほど長いのだろう。
大きなお世話以外の何物でもないが、うちのおじいちゃんは、おばあちゃんが死んで一年も持たなかったことを考えると…やっぱタフだなって思う。それ以上のことは私にはわからない。
だけど今日もやっぱりマサくんのおばあちゃんは話好きで、親切で、私を子供のころから変わらずに可愛がってくれる、いつものマサくんのおばあちゃんだった。
私はほかの人に、どんな風に記憶されていくんだろう。
それが怖いから、ある日突然失踪しようと思うのかもしれない。
キッドと、それを書いている私の乖離というのか、融合というのか、なんだか距離感が掴めなくなってきている気もする。
こんなアマチュアに毛も生えずに抜ける一方の私ですらこんななのだから、他の人はどうしているんだろうな。
私にとってマサくんのおばあちゃん、なあの人にも、どこのどなたにも積み重ねた長い長い年月があるように。
私も、それを途中で断ち切ってしまうことはしないようにしたい…かな。今は。
このエッセイを続けていくことで、それを一つ乗り越えられるかもしれない。
なんかそんな大それたこと言ってますけど、この人はこのエッセイに20歳を超えてからウンコ漏らした話とか、女の子にこっぴどくフラれた話とか、そんなことばかり書いているからね。
そんなものを積み重ねたくないし、出来れば可愛い女の子と積み重なりたいと、罪、重ねたい、と思ってたりするよ!!!
よろしくね!!!!!!!!!!!!
私が子供のころからおばあちゃんなので、今でもおばあちゃんだ。
というか、子供のころにおばあちゃんとして認識した人って、なんか、いつまでたっても見た目が変わらないよな。少しずつ、確実に老けているし、亡くなったりすると急に小さくしわくちゃに見えたりもするんだけど。
あの頃の人って頑丈な人も多いんだなって思うのは、マサくんのおばあちゃんは結構大柄で、自分でも
わしゃあデブだもんで
なんていうくらいで、本当に真ん丸のシルエットをしている。
マサくん家は八百屋さんをやっていて、おばあちゃんはいつも店番をしている。
小さなお店だけど実は会社をやっているので、そこは小売り担当って感じ。
小さいころ、よく遊びに行ってマサくんの持ってるゲームをやったりしてたな。
あの頃は駄菓子も売っていたので、色付きの棒ジュースや5円チョコなんかを買ってオヤツにしてた。
ここ数年はお店の前で日向ぼっこをしているのが定位置で、前を通りかかると昔話をしたり、なんだかんだ話し込むことがよくある。肝心のマサくんと暫く会ってないのに、おばあちゃんとはよく話してるなあ私。
今日(2017年12月9日)も近所を散歩してたら定位置にいなかったので、さすがに寒いんでやめたのかな…と思ってた。んで帰り道にまた通りかかったらちゃんと居た。
こう言っちゃなんだかやっぱり顔を見ないと心配にもなるもので、声をかけるとすこぶる元気だった。
安心したついでにバナナとミカンを買ったら福引券をくれたので、昔なつかしいガラガラの福引をやってティッシュとうまい棒をもらってきた。
私も気が付けば三十路になり、いつの間にか、いや、少しずつじわじわと、子供のころおばあちゃん・おじいちゃんだった人たちが居なくなってきて。
私の祖父母も、もう残っているのは一人だけだ。
こないだ十二指腸潰瘍で…なんて言ってたけど、それまで全然元気だったし、これからもそうであってほしい。私がこの街に残した数少ない未練は、このおじいちゃんだったりもする。
昔からの知り合いの人は、私の曽祖父や家業のことも知っているけど、それでも当たり前に普通に接してくれていた。今でもそうだけど、結局は自分も礼儀正しく親切に、いわゆる普通に当たり前に接しているし、それをお互い様にしているだけなのだろう。
幼馴染のおばあちゃん、という関係性が一つ挟まってはいるけど、マサくんのおばあちゃんに対してもそうで。
昔から私は、自分で言うけどお年寄りと話すのが好きだったし、たぶん得意だったんだと思う。
同じ小学校で同年代の友達がひっっっとりも居なくなった時期であっても、その彼らの親御さんや祖父母とは話をしてたぐらいで…。ご子息によろしく伝えることはなかったかもしれないけど、そうやって結局のところ私を孤独にしないでいてくれたから、私はハンパにグレて馬鹿な真似をしないで済んだし、今でも道端で会えば話をしてくれていることがとてもありがたい。
誰々くんのお母さん、おばあちゃん、何々ちゃんのおかあさん、といった具合に、本人とそのご家族を分けて考えられたのは幸いだった。
私は残念ながらメキシコまで行っておきながら今も地元にいる。
せめて横浜や大阪に移り住んでいれば、と思うことも多々あったし、今でも、いっそどこかに越してみようかと思うことがある。
だけどこうして、土着の温かさを感じるのもやっぱり素敵だし、いいところで暮らすことが出来てたんだなって思う。
自分で自分を住みにくくすることはないので、これからも朗らかに生きようと思う。
だけどやっぱり、ある日突然どっかに消えて、そのままってのも悪くないかな…なんてなことも、忘れないようにしようとは思ってるけど。
マサくんのおばあちゃんは、旦那さん、つまり私からすればマサくんのおじいちゃんを早くに亡くしている。私が小学生ぐらいの頃だったと思う。時折、買い物のついでに昔話などをすると、結構前の話でもちゃんと、しっかりと、よく覚えている。
それだけ忘れられない人のことを、思い出すだけの数十年はどれほど長いのだろう。
大きなお世話以外の何物でもないが、うちのおじいちゃんは、おばあちゃんが死んで一年も持たなかったことを考えると…やっぱタフだなって思う。それ以上のことは私にはわからない。
だけど今日もやっぱりマサくんのおばあちゃんは話好きで、親切で、私を子供のころから変わらずに可愛がってくれる、いつものマサくんのおばあちゃんだった。
私はほかの人に、どんな風に記憶されていくんだろう。
それが怖いから、ある日突然失踪しようと思うのかもしれない。
キッドと、それを書いている私の乖離というのか、融合というのか、なんだか距離感が掴めなくなってきている気もする。
こんなアマチュアに毛も生えずに抜ける一方の私ですらこんななのだから、他の人はどうしているんだろうな。
私にとってマサくんのおばあちゃん、なあの人にも、どこのどなたにも積み重ねた長い長い年月があるように。
私も、それを途中で断ち切ってしまうことはしないようにしたい…かな。今は。
このエッセイを続けていくことで、それを一つ乗り越えられるかもしれない。
なんかそんな大それたこと言ってますけど、この人はこのエッセイに20歳を超えてからウンコ漏らした話とか、女の子にこっぴどくフラれた話とか、そんなことばかり書いているからね。
そんなものを積み重ねたくないし、出来れば可愛い女の子と積み重なりたいと、罪、重ねたい、と思ってたりするよ!!!
よろしくね!!!!!!!!!!!!
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説
研究室~ゲーム、漫画のぬるいモトネタ研究~
三塚 章
エッセイ・ノンフィクション
自分が好きなゲームや漫画のもととなった神話などを、自分なりに調べてみるページ。
信憑性のある説より面白い説をとっているし、まあ素人がシュミでやっているので、話半分で聞いてください。くれぐれも、このページをもとに大学の論文など書かないよう。(笑)怒られても責任はとれません。
帰って来た!B型の、B型による、B型に困っている人の為の説明書!
メカ
エッセイ・ノンフィクション
呼ばれてないけど帰ってきました。第二弾!
今回は、いろんな童話や出来事にB型を当てはめたりしながら
面白可笑しく、B型を説明できればなぁ・・・なんて思ってます!
是非是非、よろしくお願いします!
女子高校生は不良(バカ)が悶絶するまで肝臓を殴るのをやめない
未定
青春
師の勧めで、堰聖学園高等学校に入学した『小桜 さや』だったが、そこは非常識なとんでも学校だった。
理念というよりは偏見による校風があり『男子はアスリート、女子はアイドル』という男女を独断で区別するイカれた学校。
何故、差別でなく区別なのか? それは男も女も等しく平等に蔑視されているからに他ならない。
さやの不幸は、二つある。一つはプロアスリート志望の女子高生だったこと。もう一つはお勘違いした不良達がとにかく集まる学校だったこと、
出会う男子の生徒の9割が不良と呼ばれるバカであり、話しは通じず喧嘩好きでとにかくイキってくる。
女子生徒は、勝ちぬいた『修羅』に与えられる『褒美』か何かと勘違いしているのが気に入らない。
さやはそんなイキりバカの肝臓を迷わずパンチし、悶絶させ地面に這いつくばらせるのだった。
しかし、この学校のバカ達の間には、裏校則と呼ばれる、バカにだけ通じるバカげたルールが存在していた。
それが『番長』の称号である。
この学校で、喧嘩が一番強い奴は『番長』と呼ばれバカ達から恐れられるのだ。
ある時、さやは暫定的に『番長』となっている男を倒してしまう。
その瞬間、さやは『番長』となってしまい、数多のバカにその座を狙われるのだった。
『青春を謳歌する筈だったあたしの高校生活が……
師匠っ! あたしを騙したのねっ!』
双葉病院小児病棟
moa
キャラ文芸
ここは双葉病院小児病棟。
病気と闘う子供たち、その病気を治すお医者さんたちの物語。
この双葉病院小児病棟には重い病気から身近な病気、たくさんの幅広い病気の子供たちが入院してきます。
すぐに治って退院していく子もいればそうでない子もいる。
メンタル面のケアも大事になってくる。
当病院は親の付き添いありでの入院は禁止とされています。
親がいると子供たちは甘えてしまうため、あえて離して治療するという方針。
【集中して治療をして早く治す】
それがこの病院のモットーです。
※この物語はフィクションです。
実際の病院、治療とは異なることもあると思いますが暖かい目で見ていただけると幸いです。
一人っ子の人生
長谷川 ゆう
エッセイ・ノンフィクション
兄弟、姉弟がいるとよく
「一人っ子は、いいね。服も新品だし、親から甘やかされて」と言われます。
中には、そんな一人っ子もいるかもしれません。
でも、私の親は、子供の優秀さや親の言うことを聞く正確さを求め
私の交遊関係、どんな気持ちでいるのかなんて無関心な親でした
私の友人の名前すら知らない
逆に、親は自分の事をよく話す
「私は、親にとって何なの?」と聞いた時、親は「私達の子供だよ」と言って終わり
人が帰る場所は、家ではなく人だとよく言われる言葉、私には、その場所はありませんでした
buroguのセカイ
桃青
現代文学
ブログを始めた平凡なOL。だからと言って、特に変化もなく、普通の日々は過ぎると思われたが、ブログを通じて、ある男性と知り合った。恋のような、現代社会と向き合うような、恋愛ものではなく、毎日についてちょっと考える話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる