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走れ公田寺商店街

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 市営地下鉄公田寺駅南口のロータリー正面の交差点から南北に200メートルほど伸びている商店街のアーケードを、駆け足で真っ直ぐ通り抜けた。このままじゃ遅刻だ。反対側を東西に延びる国道では、既に通勤ラッシュによる渋滞が始まっていた。
 朝の7時半。こんな時間から黒や白の排気ガスがもうもうと吐き出されて、乗用車やトラックが交差点で列をなしている。時おり隙間を縫うように猛スピードで通り抜ける自転車や原付を、恨めしそうに見つめながら。
「たっちゃん! 早よせんと、ガッコに遅れんどお!」
 横断歩道で信号待ちをしていた俺の後ろから、威勢の良いダミ声が飛んできた。
 鮮魚うおマサ の大将、商店街の名物親父だ。
 このオッサンには斉藤昌典というれっきとした名前があるのだが、商店街の人々は昔から大将と呼んでいる。はげ頭に口ひげ。ずんぐりむっくりで恰幅のいい姿に年中がなってるせいですっかりしゃがれた声がトレードマークだ。
「大将おはよう! じゃ信号、青にしてくれ!!」
 俺が生まれる前から大将だから、俺も大将と呼ぶ。
「がーははは! ああ、たっちゃん! コレ食ってけー」
 毎朝早くから気持ちがいいぐらい(そして少し暑苦しいぐらい)機嫌の良い大将が、白いオニギリが二つ乗った小さなお皿を差し出した。それは大将の奥さんが毎朝作っているもので、ホントは大将の朝ごはんだ。けど、俺はちょくちょく朝ごはんを食べ損ねたまま通学するので、しばしばこのオニギリのお世話になっている。
 まだ湯気がはっきりと立ちのぼる、丸っこい三角の可愛らしいオニギリをひとつだけ手に取ると同時に横断歩道の信号が青に変わった。礼を言って駆け出そうとした俺の肩を、大将のグローブのような手がぐいっと引っ掴んだ。
「なっ!?」
 全部言い終わらないうちに、大将はもうひとつ残っていたオニギリを俺の口に押し込んだ。
「もがもがう!」
「がーははは!」
 不明瞭ながら心から礼を述べた俺の背中をまたあのグローブのような手が、ぼん!
と叩いた。今日もいつも通りの朝だった。

 相変わらず学校の授業は退屈で仕方が無かった。勉強なんて小学4年で諦めている。そのうえ今は12月。中学2年の2学期の終盤というわけで……俺にはいまいちピンと来ないが、いわゆる「おジュケン」を控えている子たちには大事な時期らしく。今日も今日とてイヤミな数学教師の授業でも活発に質問が飛んでいた。
 そんな授業の最中も、普段なら人一倍食べる給食も、清掃の時間も。俺はずっと別のことを考えていた。まさに心此処にあらずといった感じだ。実際集中力のほとんどを奪われて、他の事を考える余裕などなかった。不意に胸がかぁっと熱くなって、心臓がはっくんはっくんして苦しくなる。手足がひりひりして力も入らなくて、それなのに頭の奥だけがひどく緊張しているような気分だった。

 ぼんやりしているうちにその日の授業が終わったので、俺はふらつく足取りでよたよたと教室を後にした。目指すは図書室。放課後、部活動が始まるまでの僅か数分がここのところ毎日の学校生活において最も重要な時間になっている。
 といっても、何か本を借りて読むためではなくて、図書委員のマユズミさんに会うためだ。マユズミさんは隣の2組の女子で、なんというか、その、まあ、あれだ。俺はマユズミさんの事が大好きなのだ。クラスも違うし、俺は彼女のように進学塾にも通っていないので、毎日学校でしか顔を合わせない。だから、この時間は俺にとってひどく貴重なものだった。
 そんな事情を知っている同級生で幼馴染でもあるマツ、ミツ、タカの3バカがしきりと飛ばす野次を背中に受けて、俺は特別校舎の階段を駆け上がった。

 我がユートピアたる図書室は特別校舎の最上階、4階の南端にあった。長い廊下を小走りに進んで、えへん、と息を整えたら横開きの扉をすっと開ける。
 が、期待に反して「貸し出し・返却受付」のテーブルの向こうに座っていたのは、小林と言う2年3組の男子生徒だった。仕方が無いので、彼に優しく訪ねてみる。
「オイ、マユズミさんはどぉした?」
 哀れな小林君は目の奥で恋慕と失望がめらめらと燃える大柄な男にカウンター越しにニラミを効かされつつも落ち着いた様子で答えた。
「マユズミさんなら帰ったよ? ボク替わりに当番してるんだ」
 ガックリきた。と同時に、さっきから小林の口の中でモゴモゴしている甘い匂いが気に触った。
「なんだあ。で、眼鏡くん。何食ってる?」
 可愛い眼鏡くんはカウンターの下に隠していた小さな箱を取り出して俺に薦めた。
「チョコレート。君も食べる?」
 男の癖にマイチョコか。この容姿も性格もどこか中性的な小林が眼鏡の奥でくりっとした瞳を傾けてコッチをじっと見てにっこり微笑んでいる。そんな目で俺を見るな。
「ありがとよ。だがオメェーも甘いな!」
 チョコだけに。と言う代わりに俺は箱の中から掴めるだけのチョコレートを掻っ攫うと、二つだけ口に放り込んだ。噛むとぼりぼりと砕けるものがある。アーモンド入りだ。
「じゃあな、眼鏡君! チョコありがとよ!!」
 唖然とする小林を尻目に、俺は廊下を全速力で走った。

 そのままの勢いで校舎を飛び出すと、またしてもマツ、ミツ、タカの3人組に出くわした。
「どうした、マユズミさんに嫌われたのか?」
「そんなに走って、いまさらダイエットのつもりか?」
「まだ諦めてなかったのか?」
 素朴な疑問であり愛ある罵声を背中で受けながら、俺は正門に向かって走り出した。そんな俺を見てタカが叫ぶ。
「おーい、練習は!?」
 俺の答えは明瞭だ。
「風邪引いた!」
 後ろで弾けるように笑い出した3人組には振り向きもせず、俺はさらに走った。

 学校を出て、商店街へ向かう。マユズミさんの家も公田寺商店街の中にあって、いつもいい匂いのする小さな洒落た雑貨屋さんだ。
 もしかしたら追いつけるかもしれない。けど、仮に追いついたとして…何を話すんだろう。そんな事をふと考えてしまうと、なんだか自分がひどく馬鹿げたことをしているような気がして、急に恥ずかしくなってきた。
「たーーっちゃん、また柔道さぼったな! おかあちゃんに言っちゃるど!!」
 大将だ。この恥ずかしい時に……朝はあんなに頼もしかっただみ声が、今は気恥ずかしさを倍増させるように突き刺さった。
 俺は曖昧に笑いながら角っこの うおマサ を通り過ぎて商店街へ折れる。すると、50メートルほど前を見覚えのある華奢なシルエットが歩いていた。あれはスナック・ドンの前だ。ってことは、もうすぐマユズミさんの家に着いてしまう!
 妙な焦りか。はたまた一目惚れの成せる業か。気がつくと俺は猛ダッシュでマユズミさんに追いついた。
「ま、マユズミさぁん!」
 少し驚いたように振り返ったマユズミさんは、やっぱり美人だった。色白で、背中までまっすぐ伸びた黒い髪の毛が午後の光の中でつやつやしている。クリッとした二重まぶたの目と、少し丸っこい鼻筋。それに薄紅色の少し厚い唇。幼く見えるけれど気の強そうな顔立ちが素晴らしいと、俺はいつも思うのだ。
「浅井君?」
 少しハスキーな、低音が効いていて気の強いしっかり者な性格を現すような落ち着いた声で俺の苗字を呼んだ。
「いや、えと、あの、そこで見かけたからつい、あの」
 俺は思わずそんな出鱈目を言った。
「部活はいいの?」
「え? あっ、いいんだ。うん。別に」
 マユズミさんは少し怒ったような顔で
「県大会、2回戦で負けちゃったんでしょ、練習しなきゃ!」
 と俺を諭した。
「あっ、あの、そ、そうだね。そりゃあそうだ」
「じゃあ、今から戻って練習する! ほらほらっ!」
「あ、うん、わかったよ!」
 上手くあしらわれてしまったような気もしたが、マユズミさんが俺の県大会での成績を知っていてくれたことが嬉しかった。舞い上がってしまった俺は、それだけで俄然やる気が出てきたのを感じた。今から道場に取って返して、顧問の組長、もとい梅原先生のカミナリを喰らって、散々しごかれるだろう。でも、マユズミさんに言われたのだから、そうするべきなのだろう。
「……ねえ」
 思い出したように、マユズミさんがまっすぐ俺を見て聞いた。
「どうしてサボってこんな所に?」
「えっ、あ、さっき図書室行ったら居なくて。そんで帰ったって聞いたから」
 さっきの嘘をもう忘れて、本当の事をポロっと言ってしまったがもう遅い。
「あたしが?」
「うん」
「何か用? あたしに」
「いや、それが、その……俺、1日1回マユズミさんを見ないと、干からびちゃうんだ! だからその、あ、アキナさんが好きだからっ」
 ガヤガヤと歩く人たちが、一瞬だけ静まり返った。やっちまった。こんなところで。
 マユズミさんの澄み切った瞳が俺をすっと見た。
「ありがと」
「あ、あの、うん」
「じゃあ、あたし塾があるから。またね」
 俺が返事をする間もなく、マユズミさんはスタスタと自宅へ歩いていってしまった。
「あらアキナ、お帰り。もう塾行くの?」
 店先で彼女のお母さんが出迎えるのを、俺は呆然と見ていた。マユズミさんはお母さんと少し言葉を交わすと、あっさり店の中に入ってしまった。そのとき、不意に振り返ったマユズミさんが、一瞬だけこちらを振り返って、かすかに微笑んでくれたような気がした。

 ぬるり
 はっと我に帰ると、左手にひどい違和感が走った。はっと我に帰って左手を顔の前にかざしてみる。ドロドロにとけたチョコレートが、中のアーモンドをむき出しにして甘い匂いを放っていた。俺は商店街の雑踏の中で、しばらく溶けたチョコレートを見つめていた。
 顔を上げて、汚れた左手もそのままに何時になく晴れやかな気分で走り出した。部活に行かなきゃ。この後の事を考えると相当しんどいのは目に見えていたけれど、それでも良かった。俺は言うだけ言ったのだ。きっと後悔はしない。
 彼女の去り際の笑顔が、脳裏でいつまでも眩しく輝いていた。
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